上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第六十八章

目次

第六十八章 殺した名

 大手門の前で、誰も動かなかった。

 川辺主馬の言葉だけが残っていた。

「宗一は、二十年前に私が殺した」

 新之介は川辺を見た。

「誰を殺したのです」

「今、申した」

「御影宗一を?」

「そうだ」

「顔を見ましたか」

 川辺の眉が動く。

「見た」

「死んだ後も」

「……」

「遺体の顔を確認したのですか」

「火事だった」

「なら」

「焼けていた」

「誰が宗一だと決めた」

 川辺は答えない。

「名を」

「何」

「その時、遺体を見た者の名を申してください」

「私だ」

「そなただけ?」

「……もう一人いた」

「誰」

「沢渡玄隆」

 水野が息を吐いた。

「また沢渡か」

 玄斎の顔が険しくなる。

「沢渡が宗一だと申したのか」

「ああ」

「そなたは」

「信じた」

「なぜ」

「顔が焼けていた」

「それでは確認になっておらぬ!」

 川辺が突然怒鳴った。

「分かっている!」

 門前が静まる。

「分かっているから、二十年黙っていた!」

 川辺の声は、先ほどまでの「国主」としてのものではなかった。

 ただの男の声だった。

「私が刺した」

 新之介は動かない。

「誰を」

「宗一だと思った男を」

「思った」

「ああ」

「名を聞いたのですか」

「聞かなかった」

「なぜ」

「時間がなかった!」

「またそれか」

 玄斎が吐き捨てる。

「時間がない者ほど、他人の命を使う」

「黙れ!」

「黙らぬ!」

 玄斎が杖を突いた。

「そなたは人を殺した!」

「なら、せめて誰を殺したか覚えておけ!」

 川辺の顔が歪む。

「覚えている!」

「では名を!」

「知らぬ!」

 初めて。

 川辺主馬は、自分からそう言った。

「知らない」

 ◇

 江戸城の奥から、足音が近づいてきた。

 兵たちが左右へ分かれる。

 その中央。

 三人目の徳川家慶が歩いてくる。

 将軍の装束。

 顔。

 背丈。

 歩き方。

 再起館の甲とも、大手門の乙とも同じに見える。

 だが、その男は途中で止まった。

「もうよい」

 自分の頬へ手をかける。

 家慶乙が叫ぶ。

「待て!」

 男は構わない。

 耳の際。

 顎。

 額。

 薄い皮を少しずつ外す。

 顔が崩れていく。

 下から現れたのは、四十ほどの男だった。

 右頬から耳へ古い火傷。

 左目の下に小さな黒子。

 そして右耳の下。

 焼印。

 千代が語っていた、御影旧工房の印。

 宗太郎の息子にあったという印。

 男は家慶の顔型を地面へ置いた。

「御影宗一」

 自ら名乗る。

 川辺が一歩下がった。

「違う」

「二十年ぶりだな、川辺」

「違う!」

「何が」

「宗一は死んだ!」

「そなたが殺したからか」

「ああ!」

「なら」

 宗一は自分の胸を開いた。

 左胸の下。

 古い傷。

「この傷を覚えているか」

 川辺の顔から血の気が引く。

「……」

「そなたの刃だ」

「そんな」

「浅かった」

「私は確かに」

「二度目を刺す前に火が回った」

 川辺の唇が震える。

「沢渡が」

「死んだと申したか」

「ああ」

「そして別の遺体を見せた」

「……」

「顔は焼けていた」

「着物は私のものだった」

「そうだろう」

 川辺が言葉を失う。

 新之介は宗一へ問う。

「では、死んだ男は誰です」

 宗一の顔から感情が消えた。

「知らない」

「そなたも」

「ああ」

「その者へ着物を着せたのは」

「私ではない」

「沢渡?」

「おそらく」

「おそらくで決めない」

「分かっている」

 宗一は川辺を見る。

「だから私は、二十年探している」

「自分の代わりに死んだ男の名を」

 ◇

「なぜ生きていると父へ知らせなかった」

 玄斎が問う。

「宗太郎殿は、そなたを死んだと思っている」

「知らせれば、父も狙われた」

「今まで何人がそれを言った」

「分かっている」

「分かっておらぬ!」

 玄斎が怒鳴った。

「守るために黙る!」

「守るために死んだことにする!」

「守るために名を捨てる!」

「そのたびに残された者が何をした!」

 宗一は黙って聞く。

「父へ会え」

 玄斎が言った。

「生きていると申せ」

「……」

「怖いのか」

「ああ」

 玄斎の杖が止まる。

「父に会うのが?」

「二十年だ」

「だからだ」

「何を申せばよいか分からぬ」

「それをそのまま申せ!」

 宗一は、少し笑った。

「あなたが黒川玄斎か」

「そうだ」

「父が申していた」

「何と」

「一番面倒な弟子だと」

「親子で腹が立つ!」

 ◇

 新之介は宗一へ向いた。

「江戸城で影武者になった理由を」

「生きるためだ」

「それだけですか」

「最初は」

「後は」

「見るため」

「何を」

「将軍という役目を」

 宗一は家慶乙を見る。

「影は、本人のすぐ近くで本人を見る」

「食事」

「病」

「怒り」

「迷い」

「そして周囲が、本人へ何を言わせたいか」

「御影と似ていた?」

「同じだった」

 家慶乙の顔が硬くなる。

「将軍を御影と同じと言うか」

「人ではなく役へ話しかける者が増えると、同じになる」

「どういう意味だ」

「家慶公が何を考えているかではない」

「将軍なら、こう言うはずだ」

「将軍なら、こう決めるはずだ」

「その言葉が増える」

 新之介が呟く。

「本人より、役目の声が大きくなる」

「そうだ」

「それで影武者を続けた」

「ああ」

「何年」

「十四年」

 水野が驚く。

「十四年も?」

「表へ出た回数は少ない」

「誰の管理で」

 宗一は川辺を見る。

「途中から、この男だ」

 川辺は否定しない。

「そなたは宗一だと知っていたのか」

 新之介が問う。

「知らなかった」

「本当に」

「影武者へ来た時、名はなかった」

「顔も違った」

「沢渡が整えた後に会った」

「また沢渡」

 水野が低く言う。

「そなたは」

 新之介が宗一へ戻る。

「川辺の近くにいながら、名乗らなかった」

「ああ」

「復讐のため?」

「最初の数年は」

「その後」

「川辺だけを殺しても何も終わらないと知った」

 川辺が宗一を見る。

「ならなぜ今日まで」

「そなたを見ていた」

「何を」

「御影と影武者の両方を知った男が、最後に何を作るか」

「国主だ」

「そうだ」

「必要だった」

 川辺が声を強める。

「将軍も御影も、偽れる!」

「なら何を信じる!」

「血か!」

「名か!」

「声か!」

「顔か!」

「どれも駄目だった!」

「だから決断だけを残す!」

 宗一が首を振る。

「それは最後に一番危ないものを残しただけだ」

「何」

「誰が決断する」

「役を持つ者だ!」

「だからその役が人を食う!」

 ◇

 黒衣の兵たちは動かなかった。

 川辺の側にいる者。

 阿部を見る者。

 家慶乙を見る者。

 宗一を見る者。

 すでに一つの隊ではない。

 その中の若い侍が、突然刀へ手をかけた。

「国主様!」

「何だ」

「これ以上は!」

「待て」

 川辺が止める。

 だが別の兵も刀を抜く。

「将軍を騙った者を捕えます!」

「誰を!」

 神谷が叫ぶ。

「宗一です!」

「なぜ」

「影武者が勝手に正体を!」

「それは罪か」

「御城法では!」

「今、その御城法を誰が命じている!」

 兵が答えられない。

 別の者が家慶乙へ向く。

「上様!」

「御命を!」

 乙は口を開きかけた。

 新之介が叫ぶ。

「命じるな!」

 乙が振り返る。

「何」

「今、そなたが『斬れ』と言えば」

「影武者でも将軍でも、血が流れる!」

「ではどうする」

「誰も刀を抜くな!」

「聞くと思うか」

「分からない!」

 新之介は兵たちへ向いた。

「そなたたち!」

「今、誰のために刀を抜いた!」

「幕府のため!」

「幕府とは誰だ!」

「上様!」

「どの上様だ!」

 兵たちが止まる。

「川辺殿の国主か!」

「家慶殿か!」

「宗一殿が名乗った影武者か!」

「どの名へ命を預ける!」

 一人の侍が刀を下げた。

 だがもう一人は下げない。

「それでも命令がなければ兵は動けぬ!」

「動かなくてよい時もある!」

「敵が来たら!」

「その時は動け!」

「今、誰が敵だ!」

 男は答えられない。

「人を斬る前に」

 新之介は言った。

「せめて、その問いに答えろ」

 刀が。

 一振り。

 また一振り。

 ゆっくり下がる。

 川辺がその光景を見ていた。

「それで軍になるか」

「なりません」

「国を守れぬ」

「今は国を守るために、味方同士で斬り合わないことが先です」

「甘い」

「そうかもしれない」

「異国は待たぬ」

「海は水野様たちが見ている」

「火事は火消しが」

「米は町と役所が」

「全部を一人が持つ必要はない」

「だから遅れる!」

「遅れることと、一人へ全部渡すことは別です!」

 ◇

 阿部が川辺へ近づいた。

「川辺主馬」

「何です」

「徳川家の政を停止すると申したな」

「ああ」

「撤回せよ」

「断る」

「では捕える」

 黒衣の兵が動く。

 水野側も身構える。

 また緊張。

「待ってください」

 新之介が阿部を止める。

「なぜ」

「今、捕える理由を」

「謀反だ!」

「具体的に」

「徳川家の政務を停止し、国主を僭称!」

「それは記録する」

「十分だ!」

「ほかに」

「高札、影武者操作、御城内の兵権掌握!」

「誰かを殺した」

 川辺自身が言った。

 全員が彼を見る。

「二十年前」

「宗一だと思った男を刺した」

「その罪もある」

 阿部が言う。

「なら」

 川辺は両手を前へ出した。

「縄を」

 黒衣の兵がざわめく。

「川辺様!」

「国主様!」

「その呼び方をやめろ」

 川辺が初めて強い声で言った。

「私は川辺主馬だ」

 新之介は彼を見る。

「生まれた名ですか」

 川辺が苦く笑う。

「まだ聞くか」

「はい」

「……川辺主馬だ」

「戸籍も?」

「ああ」

「なら」

「それで記せ」

 清太郎が筆を動かす。

「川辺主馬」

「御小納戸頭取」

「影武者管理」

「御影系統へ関与」

「国主を自称」

「二十年前、宗一と思われた人物を刺傷」

「死亡確認は沢渡玄隆の証言のみ」

 川辺が目を閉じる。

「前と後ろを、全部書くのだな」

「はい」

「醜いな」

「人は、だいたいそうです」

 玄斎が言った。

「そなたも含めてな」

 川辺は小さく笑った。

「そうか」

 ◇

 縄をかける者を一つの陣営から出さない。

 町方。

 阿部側。

 海防掛。

 三本。

「重いな」

 川辺が言う。

 千代と同じ言葉。

「逃げにくくてよいでしょう」

 新之介が返す。

「榊原」

「何です」

「私は間違っていたと思うか」

 新之介はすぐ答えなかった。

「全部が?」

「ああ」

「いいえ」

 川辺が目を開く。

「何」

「将軍も御影も偽れると気づいたこと」

「それ自体は間違いではない」

「なら」

「だから一人の国主を作る」

「そこが違う」

「何が」

「迷いを消すために、人を消し始めた」

「私は」

「宗一だと思った男を、名も聞かず刺した」

 川辺の顔が固まる。

「国主が必要だと思った時」

「そなたの中では、もうその男が始まっていたのでは」

 川辺は答えなかった。

 ◇

「御記録所が燃えている!」

 城内から突然叫び。

 全員が振り返る。

 煙。

 江戸城の奥。

 薄い黒煙が上がり始めている。

「続帳!」

 長兵衛が叫ぶ。

「影武者記録も!」

 阿部が命じる。

「火消しを!」

 新之介がすぐ止めた。

「誰が中にいる!」

「何」

「記録より人が先です!」

「御記録所には役人が十数名!」

「先に出せ!」

 宗一が走り出す。

「私が道を知っている!」

「待て!」

 川辺が叫ぶ。

「何だ」

「裏口は閉じてある!」

「誰の命で」

「私だ!」

「なぜ!」

「記録を持ち出されぬため!」

 宗一が川辺へ詰め寄る。

「人がいるのにか!」

「火が出るとは思わなかった!」

「鍵は!」

「腰だ!」

 川辺の帯から鍵束。

 新之介が取ろうとする。

「待て」

「何です!」

「その鍵は三つある」

「誰が持つ」

「私」

「川辺配下の番頭」

「もう一つは」

 川辺が顔を曇らせる。

「沢渡」

 水野が怒鳴った。

「やはり生きているのか!」

「生死は知らぬ!」

「だが鍵を」

「十五年前に渡した」

「回収していない?」

「……ああ」

「なぜ!」

「御影系統の非常鍵だった!」

 玄斎が杖を振り上げた。

「そなたらの『非常』は、いつも後で災いになる!」

「今は殴るな!」

「殴りたいだけだ!」

 ◇

 御記録所へ走る。

 宗一。

 新之介。

 水野。

 神谷。

 兵数名。

 玄斎も来ようとする。

「先生は残って!」

「なぜ!」

「膝人です!」

「火事に膝は」

「関係あります!」

「置いていくな!」

「今回は置きます!」

「新之介!」

 背後で玄斎の怒声。

 だが新之介は振り返らない。

 廊下。

 曲がる。

 煙が濃くなる。

 人が逃げてくる。

「中に何人!」

「七人!」

「十数名では」

「先に出ました!」

「残りは」

「奥の書庫!」

「鍵が!」

 宗一が鍵を入れる。

 回す。

 開かない。

「違う」

「どれだ!」

 川辺の鍵束には十本近い。

「一つずつ」

 水野が苛立つ。

「時間が!」

 新之介が扉へ耳をつける。

「中!」

「聞こえるか!」

 返事。

 咳。

「います!」

「何人!」

「四人!」

「窓は」

「ありません!」

「宗一殿!」

「この鍵だ!」

 二本目。

 違う。

 三本目。

 かち。

「開いた!」

 扉。

 煙。

「人を先に!」

 中へ。

 書役。

 一人。

 二人。

 三人。

 奥で倒れている若者。

 新之介が肩へ担ごうとする。

 傷んだ肩に激痛。

「ぐっ」

 水野が支える。

「傷人は」

「今は申すな!」

「私が持つ!」

 二人で運ぶ。

 宗一は帳面へ手を伸ばしかけ。

 止めた。

 人を先に出す。

 全員。

 四人。

「残りは!」

「いない!」

「確認!」

 神谷と兵がもう一度中を見る。

「誰もいない!」

 そこで初めて。

 宗一が書架へ向かう。

 だが。

 続帳を置いた棚が、燃えていた。

「長兵衛の続帳!」

「水を!」

 火は広くない。

 意図的に一棚だけ燃えている。

 水野が言う。

「火事ではない」

「何」

「焼く場所を選んでいる」

 宗一が燃えた棚の隣を見る。

「影武者記録は」

「ない」

「持ち出された?」

「ああ」

「誰が」

 棚の床。

 灰の上。

 濡れた足跡。

 一人。

 裸足。

「沢渡」

 宗一が呟く。

「なぜそう思う」

「奴は城内で草履を脱ぐ」

「音を消すため」

 水野が新之介を見る。

「追うか」

 新之介は燃える棚を見る。

「人は全員出た」

「はい」

「なら」

「追う」

 ◇

 足跡は奥の廊下へ続く。

 そして。

 御座所近くの古い薬部屋。

 扉が半分開いている。

 中。

 薬棚。

 寝台。

 水。

 そして一人の男が座っていた。

 濡れた髪。

 痩せた頬。

 右腕に新しい傷。

「沢渡玄隆」

 水野が刀へ手をかける。

 男は笑った。

「久しぶりだな」

「生きていたか」

「残念か」

「少しな」

 沢渡の足元。

 影武者記録の束。

 続帳の最後の頁の写し。

「燃やしたのは」

「私だ」

「なぜ」

「多すぎる」

「何が」

「顔が」

「名が」

「声が」

「迷いが」

 新之介は沢渡を見る。

「そなたは迷いを病と言った」

「ああ」

「今も」

「今もだ」

「だから焼いた」

「治療だ」

 水野が吐き捨てる。

「また人を患者扱いか」

「国は病んでいる」

「誰が医者だ」

「私だ」

「勝手に決めるな!」

 沢渡が笑う。

「では榊原」

「そなたならどうする」

「また私へ選ばせるのですか」

「違う」

「今度は簡単だ」

 沢渡は記録束へ手を置く。

「影武者七人の本名」

「御影全系統」

「将軍家の秘密」

「続帳に書かれた未来の罪人」

「全部ここにある」

「そして」

 沢渡は反対の手で、小さな火種を見せた。

「私を捕えるか」

「記録を取るか」

 新之介は呆れた顔をした。

「まだそんな問いを」

「何」

「水野様」

「何だ」

「沢渡殿を」

「捕える」

「神谷殿」

「記録を」

「取る」

「私は」

「火を消す」

 沢渡の笑みが消えた。

「三つに分けるか」

「はい」

「人は一人しかいないぞ」

「こちらは一人ではありません」

 水野が踏み込む。

 沢渡が立つ。

 逃げようとする。

 神谷が記録束へ。

 新之介は火種へ濡れ布を投げる。

 一瞬。

 沢渡が懐へ手を入れた。

 新之介の身体が動く。

 刀はない。

 木の薬箱を蹴る。

 沢渡の腕へ当たる。

 落ちたもの。

 短銃ではない。

 小さな鈴。

 ちりん。

 静かな音。

「何だ」

 水野が沢渡の腕を捻り上げる。

 沢渡は抵抗しながら笑った。

「遅い」

「何が」

「その鈴が鳴れば」

 宗一の顔が変わる。

「何だ」

「御座所の下が開く」

「何のために!」

 沢渡は答えた。

「最後の家慶を出すためだ」

 新之介が凍りつく。

「まだいるのか」

「七人いたのだろう」

「生存三人では」

「記録が正しければな」

 床下。

 ごとり。

 重い音。

 宗一が御座所の方へ走る。

「地下だ!」

 ◇

 御座所。

 畳が一枚持ち上がっていた。

 下から階段。

 暗闇。

 そして。

 ゆっくり人影が上がってくる。

 徳川家慶の顔。

 また。

 新之介は、もう驚かなかった。

「名を」

 階段を上がった男は、新之介を見る。

 そして家慶の顔をしたまま、首を振った。

「家慶ではない」

「では」

「影武者でもない」

「名を申してください」

 男は少し迷った。

 初めて、将軍の顔が迷った。

「……藤吉」

 新之介が息を呑む。

「何」

「藤吉だ」

 西徳寺で傷を負い。

 鐘を鳴らし。

 何度も新之介たちへ証言をしてきた老人。

 だが目の前の男は、もっと若い。

「藤吉殿は西徳寺に」

「それは父だ」

「では」

「私は藤吉の息子」

「名は」

「同じだ」

「親子で?」

「父が名をくれた」

「なぜ影武者に」

 男は答えた。

「父が十五年前」

「御影から逃がした子どもの一人だったからだ」

 宗一が息を呑む。

「弁財丸の」

「違う」

「では」

「弁財丸へ乗せられる前に、名簿から消された子どもだ」

 未来の名簿。

 運ぶ予定だった人間。

 その一人。

「父は私を守るため」

「将軍の影へ入れた」

 新之介は何も言えなかった。

 人を売る名簿から逃れるため。

 最も巨大な役目の中へ隠す。

「誰が知っている」

「川辺」

「沢渡」

「そして」

 男は宗一を見る。

「御影宗一」

 宗一が顔を強張らせた。

「私は知らぬ」

「なら」

 藤吉の息子は静かに言った。

「そなたも、本物の宗一ではない」

 宗一の顔が凍る。

 水野が新之介を見る。

「またか」

 新之介は目を閉じた。

 一度。

 そして開く。

「よいです」

「何が」

「今は、宗一殿が本物かどうかは後です」

 全員が新之介を見る。

「先に」

 新之介は藤吉の息子へ向いた。

「そなたが十五年前、何をされたか」

「誰に何をされたか」

「そこから聞きます」

「名の前に行いを」

「はい」

 藤吉の息子は、長い間黙っていた。

 やがて。

 将軍の顔のまま。

 静かに答えた。

「十五年前」

「私たちは四十七人ではなかった」

 新之介の表情が変わる。

「何人いた」

「最初は」

 一呼吸。

「六十三人だ」

 弁財丸。

 四十七。

 三十一。

 二十四。

 二十三。

 これまで、減っていく数字だと思っていた。

 だが。

 その前に。

 さらに十六人がいた。

「四十七という数は」

 新之介が問う。

「船へ乗せられた者だけだ」

「残る十六人は」

 藤吉の息子は答えた。

「消された」

「殺されたのか」

「違う」

「では」

「別の役目へ入れられた」

「何の」

 将軍の顔をした男は。

 自分の頬へ手をかけた。

「影武者」

「御影」

「僧」

「商人」

「町方」

「そして」

 顔型をゆっくり剥がしながら。

「榊原家だ」

 新之介の呼吸が止まった。

「何」

 男の本当の顔が現れる。

 見覚えはない。

 だが。

 彼は新之介をまっすぐ見て言った。

「榊原新之介」

「そなたの家にも」

「十五年前に一人、入れられている」

 江戸城の鐘が。

 遠くで一度だけ鳴った。

「その者は、今も生きている」

(第六十九章へ続く)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次