東野圭吾を模倣し、元首相暗殺事件を題材にしたオリジナル小説『二発目の空白』第十一章

目次

第十一章 死者の戸籍

1 母親が死んだ日

「母は、二〇一〇年に死にました」

野村亮介は、もう一度そう言った。

地下駐車場の照明は戻っていた。

閉じていたシャッターも、いつの間にか開いている。

八人。

三十二台。

観測は終了したらしい。

だが誰も、その場を動かなかった。

真壁修司は野村を見ていた。

「間違いないか」

「はい」

「葬儀には出たのか」

「出ました」

「遺体を見たか」

野村は答えようとして、口を閉じた。

「どうした」

「棺は……」

「閉じられていた?」

「はい」

真壁は何も言わなかった。

また同じだった。

葛城慎一。

高瀬浩二。

秋月浩平。

そして相沢美紀。

死亡記録はある。

葬儀もある。

しかし本人の死を確認した人間が、はっきりしない。

「当時、お前はいくつだ」

「九歳です」

「母親の顔は覚えてるか」

「当然です」

「写真は」

「あります」

「見せてくれ」

野村は携帯電話を取り出した。

電源を入れる。

古い写真の保存フォルダ。

小学生の野村。

その隣に女性。

長い髪。

優しい目。

三十代。

真壁は画面を見る。

先ほどモニターに映った女性と似ている。

だが同一人物かどうかは判断できない。

「母親の名前は」

「野村美紀です」

「旧姓は相沢?」

「そう聞いています」

「父親は」

「健在です」

「どこにいる」

「埼玉です」

「連絡できるか」

野村は頷いた。

しかし電話をかけようとはしなかった。

「どうした」

「父とは、あまり話していません」

「理由は」

「母が死んでから、関係が悪くなりました」

真壁は待った。

野村が続ける。

「父は母のことを話したがらなかった」

「なぜ」

「わかりません」

「訊かなかったのか」

「何度も」

「答えは」

野村は唇を噛んだ。

「忘れろ、と」

真壁の目が細くなった。

「忘れろ?」

「はい」

「何を」

「母親のことです」

真壁は地下駐車場の奥を見る。

神谷直人。

相沢美紀。

野村亮介。

三人の名前が、ようやく一本の線になろうとしていた。

しかし、その線には重大な欠落がある。

二〇一八年に失踪した相沢美紀は、当時三十八歳だった。

二〇一〇年に死亡した野村の母親も、年齢から考えれば同世代だ。

同じ名前。

同じ顔。

違う死亡年。

真壁は言った。

「野村」

「はい」

「まだ母親が生きていると決めるな」

「……」

「死んでいるとも決めるな」

野村が顔を上げた。

「じゃあ何を信じればいいんです」

真壁は答えた。

「今、確かめられることだけだ」

2 八人目の証人

「相沢美紀について知っていることを話せ」

真壁は振り返った。

秋月。

高瀬。

葛城。

大庭。

河瀬。

水島。

六人がいた。

全員が、何らかの形で観測計画に関与している。

「順番に聞く」

真壁が言った。

「まず秋月先生」

秋月は頷いた。

「私が相沢美紀さんと初めて会ったのは二〇一七年です」

「どこで」

「京都の研究所」

「彼女も研究者だった?」

「違う」

「では」

「被験者の家族です」

野村が顔を上げる。

「家族?」

「はい」

秋月は野村を見る。

「あなたの母親として、研究に協力していた」

「僕の母は二〇一〇年に死んでいます」

「それが事実なら、二〇一七年に会った女性は別人です」

真壁が割って入った。

「本人確認は?」

秋月は黙った。

「戸籍を見たか」

「いいえ」

「運転免許証は」

「見ていません」

「何で確認した」

「研究機構から提出された書類です」

真壁は小さく息を吐いた。

また書類。

「高瀬」

「はい」

「お前は?」

「二〇一八年に会いました」

「どこで」

「京都のホテルです」

「本人だと確認したか」

「映像記録で」

「それは本人確認じゃない」

高瀬は黙った。

「大庭」

「私は二〇一八年十一月に会いました」

「失踪事件のころ?」

「はい」

「何をした」

「神谷直人さんに会うよう指示しました」

真壁の表情が変わる。

「誰から」

「管理者です」

「その管理者の本名は」

「知りません」

「河瀬」

女性は負傷した肩を押さえながら答えた。

「私は彼女を知っています」

「いつから」

「二〇一六年です」

「何者だ」

「観測計画の最初の出資者です」

沈黙。

野村が顔を上げた。

「母が?」

河瀬は首を振った。

「母親だったかどうかは知りません」

「では」

「相沢美紀と名乗る女性が、研究費を出していました」

真壁は河瀬を見る。

「金額は」

「当初は数千万円です」

「出所は」

「法人名義でした」

「法人名」

河瀬が答えた。

「白鷺文化研究財団」

秋月が驚いた顔をした。

「その名前は……」

「知ってるのか」

「はい」

秋月は言った。

「私の研究室へ最初に資金を提供した団体です」

真壁は全員を見回した。

「つまり相沢美紀は、ただの被験者じゃない」

誰も答えない。

「研究の出資者であり、被験者の家族であり、失踪者でもある」

大庭が言った。

「そうなります」

「そして死者だ」

沈黙。

真壁は続けた。

「都合がよすぎる」

河瀬が顔を上げた。

「どういう意味です」

「一人の女に、役割が多すぎる」

真壁は野村を見る。

「俺たちは最初から間違ってるのかもしれない」

「何を」

「相沢美紀という名前を、一人の人間だと思っていることだ」

3 同じ名前の女

奈良県警本部へ戻ったのは、午後八時を過ぎていた。

真壁は岸田へ状況を報告した。

地下駐車場で起きた発砲。

河瀬の負傷。

観測装置。

そして、関係者たちの証言。

岸田は最後まで黙って聞いた。

「信じられんな」

「俺もです」

「全員の身柄は」

「任意同行を求めました」

「応じたか」

「秋月と高瀬は応じました。大庭と水島は弁護士を要求しています」

「河瀬は病院か」

「はい」

「葛城は」

真壁は答えなかった。

岸田が眉を寄せる。

「また消えたのか」

「はい」

「お前の昔の相棒は、よほど逃げるのが好きらしい」

「俺もそう思います」

岸田は机を叩いた。

「だが、今度は逃がすな」

真壁は頷いた。

その後、野村と二人で資料室へ向かった。

相沢美紀。

同姓同名。

二〇一〇年死亡。

二〇二〇年死亡。

現在も生存している可能性。

「戸籍を確認します」

野村が言った。

「正式な手続きを踏め」

「はい」

「死亡届だけじゃない」

「出生から?」

「ああ」

「婚姻、離婚、転籍も」

「全部だ」

数時間後。

関係機関から照会可能な資料が集まり始めた。

野村美紀。

旧姓・相沢。

一九七一年生まれ。

二〇一〇年死亡。

死亡届の提出者。

野村の父親。

野村俊明。

死亡原因。

病死。

死亡場所。

埼玉県内の病院。

真壁は次を見る。

相沢美紀。

一九八〇年生まれ。

二〇二〇年死亡。

死亡原因。

交通事故。

死亡場所。

京都府内。

「違う人間だ」

野村が呟いた。

真壁は頷いた。

年齢が九歳違う。

生年月日も違う。

出生地も違う。

「同姓同名だったんですね」

野村の声には安堵があった。

しかし真壁は画面を見ていた。

「待て」

「何です」

「二〇二〇年に死んだ相沢美紀の出生記録を見ろ」

野村が確認する。

「あります」

「親は」

「父親が相沢孝雄。母親が相沢久子」

「出生届を出した病院は」

「京都市内です」

「二〇一〇年に死んだお前の母親は」

「埼玉の病院で生まれています」

「完全に別人か」

「はい」

真壁は考えた。

これで謎が一つ解けた。

同じ名前の別人。

だが、それだけではない。

二人の顔が似ている理由。

野村の母親と、モニターの女性が似ていた理由。

「写真を並べろ」

野村が二枚を表示する。

一枚。

野村美紀。

一枚。

相沢美紀。

年齢は違う。

髪型も違う。

しかし顔の輪郭。

目。

鼻。

口元。

「似ていますね」

野村が言った。

「親戚かもしれない」

真壁が答える。

「親戚?」

「調べよう」

野村は家族関係を追った。

相沢孝雄。

相沢久子。

その子ども。

相沢美紀。

そして、もう一人。

長女。

相沢真紀。

一九七一年生まれ。

野村が息を止めた。

「真紀……」

真壁も画面を見る。

相沢真紀。

一九七一年生まれ。

二〇〇〇年に婚姻。

婚姻後の氏。

野村。

名前。

野村真紀。

野村が首を振った。

「違う」

「何が」

「母の名前は美紀です」

真壁は黙った。

野村は資料を見つめた。

「戸籍では真紀?」

「そうなってる」

「でも僕は」

野村の声が震えた。

「母を美紀と呼んでいました」

真壁は静かに言った。

「お前の母親は、相沢真紀だった可能性がある」

「じゃあ」

「相沢美紀は」

野村が顔を上げる。

真壁は答えた。

「お前の叔母だ」

4 母親ではない女

野村は椅子に座り込んだ。

「叔母……」

「知ってたか」

「いいえ」

「父親から聞いたことは」

「ありません」

「親戚付き合いは」

「ほとんどありませんでした」

真壁は資料を見る。

相沢真紀。

相沢美紀。

九歳違いの姉妹。

姉は二〇一〇年死亡。

妹は二〇二〇年死亡。

少なくとも公的記録上は。

「写真をもう一度見せてくれ」

野村は子どものころの写真を出した。

母親。

優しい目。

長い髪。

真壁は画像を拡大する。

「これは何年」

「二〇〇八年です」

「場所は」

「家です」

「撮ったのは」

「父だと思います」

真壁は写真の端を見る。

壁。

カレンダー。

子どもの絵。

そして女性の胸元。

小さなペンダント。

円形。

「このペンダント」

「母がいつもしていました」

「今は」

「父が持っていると思います」

真壁はもう一枚を見る。

二〇一八年の相沢美紀。

研究機構の写真。

同じようなペンダント。

「似てるな」

野村が言った。

「姉妹だからでしょうか」

「そうかもしれん」

だが真壁は別のことを考えていた。

姉妹。

同じ名前に似た顔。

記録を混乱させるには、これほど都合のいい組み合わせはない。

だが偶然なのか。

それとも最初から利用されたのか。

「野村」

「はい」

「お前の父親に会おう」

野村は頷いた。

しかし顔色は悪い。

「父は話してくれるでしょうか」

「話してもらう」

「拒否したら」

真壁は言った。

「拒否した理由を調べる」

野村が少し笑った。

「刑事ですね」

「そうだ」

「今日は警察官として来るなって言われたのに」

「もう終わった」

真壁は資料を閉じた。

「今度は刑事として行く」

5 埼玉の家

翌朝。

埼玉県内の住宅街。

古い一戸建て。

庭には柿の木があった。

野村は門の前で立ち止まった。

「ここです」

真壁は家を見る。

二階建て。

白い外壁。

雨戸。

玄関脇の植木鉢。

普通の家だった。

「久しぶりか」

「三年ぶりです」

「電話は」

「年に一度くらい」

真壁はインターホンを押した。

しばらくして、

男の声。

『はい』

「奈良県警の真壁と申します」

沈黙。

『何のご用ですか』

「野村亮介さんと一緒です」

長い沈黙。

そして。

『亮介?』

「父さん」

野村が言った。

『お前……』

数秒後。

玄関が開いた。

六十代の男。

痩せた体。

白髪。

野村俊明。

男は息子を見た。

そして真壁を見る。

「警察の方?」

「はい」

「何かあったんですか」

真壁は答えた。

「奥様についてお話を伺いたい」

男の顔から血の気が引いた。

「妻は死にました」

「存じています」

「十六年前です」

「はい」

「今さら何を」

真壁は言った。

「相沢美紀さんをご存じですか」

男の手が震えた。

それだけで十分だった。

知っている。

「中へ」

男は小さな声で言った。

「入ってください」

6 父親の嘘

居間には古い仏壇があった。

写真。

女性。

野村が母親と呼んでいた人。

真壁は遺影を見る。

「奥様のお名前は」

「真紀です」

野村が父親を見る。

「父さん」

「……」

「どうして美紀だって」

父親は俯いた。

「お前が小さいころ」

「何」

「母さんの名前を、よく間違えた」

「間違えた?」

「真紀と美紀を」

野村は黙った。

「妹の美紀がよく遊びに来ていたからな」

「叔母さん?」

「ああ」

「僕、覚えてない」

父親は苦しそうに笑った。

「小さかったから」

「でも僕は、母さんを美紀って」

「そのたびに訂正した」

「……」

「だが母さんが死んでから、お前は美紀という名前しか口にしなくなった」

真壁が訊いた。

「訂正しなかったんですか」

父親は首を振った。

「できませんでした」

「なぜ」

「亮介が泣くんです」

野村の表情が変わる。

「母さんは美紀だって」

父親が言った。

「そう言って泣く」

「……」

「真紀は死んだ。美紀は生きてる。だから母さんは死んでないって」

真壁は黙った。

子どもが母親の死を受け入れられず、似た顔の叔母を母親と思い込む。

ありえない話ではない。

だが。

「美紀さんはどうしたんです」

真壁が訊いた。

父親は顔を上げた。

「いなくなりました」

「いつ」

「二〇一〇年」

「奥様が亡くなったあと?」

「はい」

「連絡は」

「ありません」

「二〇一八年に京都で失踪した記録があります」

父親が息を止めた。

「知っていましたか」

「……」

「二〇二〇年には死亡届もあります」

父親の目に涙が浮かんだ。

「知っています」

野村が身を乗り出した。

「父さん」

「……」

「叔母さんは本当に死んだの?」

父親は答えなかった。

「父さん!」

男はゆっくり首を振った。

「わからない」

真壁の目が細くなる。

「どういう意味です」

父親は仏壇を見る。

「二〇二〇年に電話がありました」

「誰から」

「美紀です」

野村が息を呑んだ。

「本人?」

「はい」

「何と言われました」

父親は答えた。

「もう私を探さないで、と」

真壁が訊いた。

「それだけですか」

「いいえ」

「ほかには」

父親は目を閉じた。

「亮介を警察官にしないで、と」

居間が静まり返った。

7 叔母からの手紙

「なぜ警察官にするなと?」

真壁が訊いた。

父親は首を振った。

「理由は言いませんでした」

「その後は」

「電話が切れました」

「番号は」

「非通知です」

「手紙は」

父親の表情が変わった。

真壁は見逃さなかった。

「ありますね」

男は黙って立ち上がった。

仏壇の引き出し。

封筒。

黄ばんだ紙。

「これです」

真壁は手袋をして受け取った。

差出人なし。

消印。

京都。

二〇二二年七月七日。

事件前日。

真壁の呼吸が変わった。

「開けても?」

父親は頷いた。

中。

便箋一枚。

手書き。

《俊明さんへ》

《亮介が警察官になろうとしていると聞きました。》

《どうか止めてください。》

《あの子は、私たちが思っている以上に多くのことを覚えています。》

《ただし、本人はそれを思い出してはいけません。》

《もし亮介が奈良へ行くことになったら、真壁修司という刑事に会わせてください。》

真壁の手が止まった。

また自分の名前。

《真壁さんなら、最後に正しい選択をしてくれるはずです。》

その下。

《ただし、あの人に二つの選択肢を与えてはいけません。》

真壁は便箋を見つめた。

二〇二二年七月七日。

まだ事件は起きていない。

それなのに、

相沢美紀は真壁の名前を知っていた。

野村が訊いた。

「叔母さんは、どうして真壁さんを」

真壁は答えなかった。

便箋の裏を見る。

一行。

《第三の選択は、記録を残さないことです。》

真壁は眉を寄せた。

「記録を残さない?」

これまで自分が考えていた第三の選択とは違う。

Aでもない。

Bでもない。

判断を保留する。

そう思っていた。

だが相沢美紀は、

記録そのものを残すなと言っている。

「何を意味してる」

真壁が呟いた。

野村の父親が言った。

「まだあります」

「何が」

「美紀から預かったものです」

男は再び仏壇へ手を伸ばした。

小さな木箱。

鍵。

中には古いカセットテープ。

そして一枚の写真。

写真には、

幼い野村。

母親の真紀。

叔母の美紀。

三人が写っていた。

野村は写真を見て動けなくなった。

「これ……」

真壁が訊いた。

「覚えてるか」

「はい」

「いつ」

「小学校に入る前です」

野村は写真を指した。

「この日、遊園地へ行きました」

「誰と」

「母と」

「どっちの」

野村の指が止まった。

写真には二人の女性。

どちらも笑っている。

野村は長い時間、写真を見つめた。

「わからない」

小さな声だった。

「どっちを母さんだと思ってたのか、わからない」

真壁は写真を受け取った。

裏。

日付。

二〇〇七年五月五日。

その下に、

子どもの字。

《おかあさんとみきちゃん》

真壁は写真を野村へ返した。

「野村」

「はい」

「これは証拠だ」

野村が顔を上げる。

「お前が二人を別々の人間として知っていた証拠だ」

野村は写真を見た。

そして小さく頷いた。

「そうですね」

真壁はカセットテープを見る。

ラベル。

《亮介へ》

文字。

女性の筆跡。

「これを聞こう」

野村は頷いた。

8 声だけの母親

古いラジカセは、押し入れの奥に残っていた。

父親が持ってきた。

テープを入れる。

再生。

ノイズ。

そして、

女性の声。

『亮介へ』

野村の顔が変わった。

『この声を聞いているころ、あなたはもう大人になっていると思います』

野村が口元を押さえた。

母親。

真紀の声だった。

『お母さんは、あなたに謝らなければならないことがあります』

真壁は黙って聞いた。

『あなたが小さいころ、お母さんは何度も嘘をつきました』

ノイズ。

『美紀ちゃんは、お母さんの妹です』

『でも、あなたは美紀ちゃんのこともお母さんと呼んでいました』

『最初は冗談だと思っていました』

『けれど、ある日から違ってきました』

野村は動かない。

『あなたは、私と美紀ちゃんを区別できなくなったのです』

真壁の眉が動いた。

『顔が似ているからではありません』

『あなたが見せられた写真が、そうさせたのです』

真壁はラジカセを見る。

『家族写真の中で、私と美紀ちゃんの顔が入れ替わっていました』

『誰がそんなことをしたのか、わかりませんでした』

『最初は悪戯だと思いました』

『でも』

声が震える。

『あなたが、自分の母親を間違えるようになったとき、怖くなりました』

野村が息を呑んだ。

二〇〇七年。

まだ幼い子ども。

写真の入れ替え。

記憶への影響。

観測実験は、

二〇一八年より前から存在していた。

真壁は目を閉じた。

また起点が遡る。

『美紀ちゃんは、誰かに頼まれていたと言いました』

『子どもの記憶に、写真がどれほど影響するか調べる研究だと』

『私は怒りました』

『美紀ちゃんも泣きました』

『こんなことになるとは思わなかった、と』

長い沈黙。

『そして私たちは、研究をやめさせようとしました』

真壁の背筋が冷たくなる。

『でも、そのころにはもう遅かったのです』

ノイズ。

『研究をしていた人たちは、私たちの家族のことを何でも知っていました』

『どこへ行ったか』

『誰と会ったか』

『何を話したか』

『何を買ったか』

『全部』

野村の父親が顔を覆った。

『私は病気になりました』

『本当に病気でした』

『でも、病気になってからも、あの人たちは私たちを見ていました』

声が弱くなる。

『亮介』

『あなたに一つだけお願いがあります』

間。

『写真を見て、お母さんを思い出そうとしないでください』

野村の頬を涙が伝った。

『お母さんの顔を忘れてもいい』

『声を忘れてもいい』

『でも』

女性は言った。

『一緒にいた時間まで、なかったことにしないでください』

テープが止まった。

誰も動かなかった。

真壁は初めて、

この事件の本当の被害者を見た気がした。

記録を操作された刑事でもない。

偽の死亡記録を作られた研究者でもない。

幼い子どもと、

その母親だった。

9 最初の観測者

「父さん」

野村が言った。

「知ってたの?」

父親は頷いた。

「全部じゃない」

「でも」

「お母さんが怖がっていたことは知っていた」

「どうして警察に言わなかった」

父親は顔を上げた。

「言った」

真壁の目が細くなる。

「いつ」

「二〇〇八年です」

「どこの警察署へ」

「埼玉県内です」

「担当者は」

「名前を覚えています」

父親は言った。

「神谷さんという人でした」

真壁は動きを止めた。

「神谷直人?」

「はい」

野村が真壁を見る。

神谷。

二〇一八年の重要参考人。

観測実験の提案者。

そして最初の被害者とされた男。

「警察官だったんですか」

真壁が訊いた。

父親は首を振った。

「いいえ」

「では」

「警察署で紹介された相談員です」

「相談員?」

「外部の専門家だと言っていました」

真壁は椅子へ座った。

「神谷は何と言った」

父親は答えた。

「写真を見せてください、と」

「それから」

「家族の写真を全部持っていきました」

「返ってきた?」

「一部だけ」

「その後」

「問題は解決したと言われました」

「誰に」

「神谷さんです」

真壁は黙った。

神谷は最初の被害者ではない。

少なくとも、

最初にこの研究へ関わった人間ではない。

二〇〇八年。

二〇一八年。

二〇二二年。

同じ方法。

同じ問い。

同じ人間。

「神谷は何者なんだ」

真壁が呟いた。

野村の父親が言った。

「もう一つあります」

「何です」

「神谷さんが最後に来たとき」

「いつ」

「二〇一〇年です」

母親が亡くなった年。

「何と言いました」

父親は真壁を見る。

「この研究を終わらせるには、正しい人間に記録を渡す必要がある、と」

「正しい人間?」

「はい」

「誰です」

「まだ決まっていないと言っていました」

「その後は」

「ただ一つ、条件があると」

「条件?」

父親はゆっくり答えた。

「記録を信じすぎない人間であること」

真壁は目を閉じた。

神谷は最初から、

自分の研究を終わらせる人間を探していたのか。

それとも、

次の観測者を探していたのか。

どちらとも取れる。

また二択。

真壁は目を開けた。

「野村」

「はい」

「俺たちは、まだ神谷の物語の中にいる」

「……」

「だから今度は、神谷が知らないことを調べる」

「何を」

真壁は古い写真を見る。

「この研究を最初に始めた人間だ」

野村の父親が小さな声で言った。

「それなら」

二人が振り向く。

「知っているかもしれません」

真壁は身を乗り出した。

「誰です」

父親は仏壇の上に置かれた写真を指した。

母親。

野村真紀。

「妻です」

沈黙。

「どういう意味です」

父親は答えた。

「研究を始めたのは、美紀じゃありません」

野村が息を止める。

「真紀です」

真壁は遺影を見る。

二〇一〇年に死亡した女性。

野村の母親。

その人が、

すべての始まりだった。

「妻は大学で心理学を研究していました」

父親が言った。

「子どもの記憶についてです」

真壁の目が細くなる。

「どこの大学」

「京都です」

「指導教授は」

父親は答えた。

「秋月浩平先生です」

野村が立ち上がった。

「先生が……母さんを知ってた?」

父親は頷いた。

「ずっと昔から」

真壁は携帯電話を取り出した。

秋月へ電話。

呼び出し音。

一回。

二回。

三回。

出ない。

もう一度。

出ない。

真壁は岸田へ電話した。

「秋月教授は今どこです」

『取調室だ』

「本当ですか」

『今確認する』

数秒。

岸田の声が変わった。

『真壁』

「はい」

『秋月がいない』

真壁は目を閉じた。

「逃げた?」

『違う』

「何が」

『取調室にはいた』

「……」

『ただ、今は誰もいない』

真壁の眉が動く。

「防犯映像は」

『ある』

「見せてください」

数分後。

映像が届いた。

奈良県警。

取調室。

秋月浩平。

椅子に座っている。

午後九時十四分。

扉が開く。

女性が入ってくる。

顔は見えない。

秋月が立ち上がる。

そして、

女性に頭を下げた。

真壁は画面を見る。

女性が何かを言う。

音声なし。

秋月が頷く。

二人が出ていく。

映像終了。

野村が言った。

「誰です?」

真壁は答えなかった。

女性の後ろ姿。

歩き方。

肩の形。

髪。

どこかで見た。

だが思い出せない。

そのとき、

野村の父親が画面を覗き込んだ。

そして、

小さく叫んだ。

「真紀……」

真壁が振り向く。

「何?」

父親は画面を指した。

「妻です」

野村が首を振る。

「そんなはずない」

「でも」

「母さんは死んでる!」

父親は震える声で言った。

「この歩き方……」

真壁は映像を止めた。

顔は見えない。

本人確認はできない。

だが。

秋月が頭を下げた理由。

野村真紀が研究を始めたという話。

二〇一〇年の死亡。

閉じられた棺。

すべてが一つの可能性を示していた。

真壁は言った。

「まだ決めるな」

野村が見る。

「死んだ人間が生きていると決めるな」

「……」

「生きている人間が死んだとも決めるな」

真壁は画面を見る。

「まず、あの女性を探す」

その瞬間。

野村の携帯電話が震えた。

非通知。

メッセージ。

《お母さんに会いたいですか?》

野村は画面を見つめた。

次。

《会いたければ、真壁修司を連れて来てください。》

住所。

京都市内。

古い研究所。

日時。

明日。

午前十一時三十一分。

そして最後。

《今度は二人とも、記録を持たずに来てください。》

真壁は小さく笑った。

「また条件か」

野村が訊いた。

「行きますか」

真壁は答えた。

「行く」

「罠かもしれません」

「だろうな」

「でも」

「今度は違う」

「何が」

真壁は遺影を見る。

野村真紀。

そして野村亮介。

「相手が見せたいものを見に行くんじゃない」

「じゃあ」

「相手が隠したいものを探しに行く」

真壁は携帯電話を閉じた。

京都。

午前十一時三十一分。

また同じ時刻。

だが、

もう数字に意味は与えない。

意味があるのは、

そこに誰がいるかだ。

そして、

誰がいないか。

真壁はようやく理解し始めていた。

この物語で本当に消されたのは、

二発の間の時間ではない。

一人の母親が、

息子と過ごした時間だった。

その時間を取り戻すことができるのか。

記録ではなく、

記憶でもなく、

目の前の現実として。

真壁は翌日の京都行きを決めた。

だが、その夜。

奈良県警の資料室で、

誰にも開かれたことのない古い封筒が発見された。

二〇一〇年。

差出人。

野村真紀。

宛先。

真壁修司。

封筒の表には、

一行だけ書かれていた。

《私が死んだことになったら、この手紙を開けてください。》

そして裏面。

小さな文字。

《ただし、亮介が二十五歳になるまでは、絶対に開けないでください。》

野村亮介。

現在、二十五歳。

八年前からではない。

十六年前からでもない。

誰かは、

この日が来ることを待っていた。

真壁は封筒を見つめた。

中には、

一枚の紙。

そして、

古い写真が入っていた。

写真には、

二〇一〇年の野村真紀。

その隣に、

若い真壁修司。

二人は並んで笑っていた。

真壁には、

その写真を撮った記憶が、

まったくなかった。

(第十二章に続く)

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