第九章 二十五秒の証人
1
地下へ降りるエレベーターの中で、真壁修司は一度も時計を見なかった。
隣に野村亮介。
二人とも警察手帳を置いてきた。
拳銃もない。
携帯電話だけ。
それも電源を切っている。
地下二階。
扉が開いた。
冷たい空気。
蛍光灯。
コンクリート。
遠くから車のエンジン音。
真壁は歩き出した。
B-12。
B-13。
B-14。
野村が小さな声で言った。
「緊張しますね」
「そうか」
「しないんですか」
「してる」
「見えません」
「刑事だからな」
「今は警察官として来るなって言われてます」
真壁は少し笑った。
「じゃあ、ただのおっさんだ」
「それはそれで怖いです」
B-15。
B-16。
そして。
B-17。
柱の前に男が立っていた。
白いシャツ。
黒いズボン。
痩せた体。
写真と同じ。
高瀬浩二。
三日前、
京都のホテルで死亡したはずの男。
高瀬は真壁を見ると、
「遅かったですね」
と言った。
真壁は立ち止まった。
「死人に時間を言われたくない」
高瀬が笑った。
声。
聞き覚えがある。
高瀬が残した音声。
間違いない。
少なくとも、
声は同じだった。
野村が周囲を見る。
「秋月先生は?」
高瀬が奥を指差す。
柱の陰から、
もう一人の男が出てきた。
六十代。
眼鏡。
白髪。
野村の呼吸が止まる。
「先生……」
秋月浩平。
死亡記録上、
二〇二二年七月九日に心筋梗塞で死亡。
野村が一歩近づいた。
「本当に……先生なんですか」
秋月は静かに答えた。
「久しぶりだな、野村君」
野村の顔が歪んだ。
「何で」
秋月は答えない。
「何で生きてるんですか」
「それを説明するために来た」
「だったら最初から――」
野村の声が大きくなる。
「最初から言ってくださいよ!」
地下駐車場に声が響いた。
秋月は黙って受け止めた。
「僕は葬式にも行ったんですよ」
「知っている」
「先生の研究室も片付けた」
「知っている」
「警察を受けたのだって」
野村の声が震えた。
「先生が言ったからですよ」
秋月が目を伏せた。
「すまなかった」
野村が近づく。
真壁が肩を掴んだ。
「野村」
「でも」
「今は聞け」
野村は拳を握った。
そして下がった。
真壁は高瀬を見る。
「三人目は?」
高瀬の表情が変わった。
「やはり気づいていましたか」
「写真に写ってた」
「まだ来ていません」
「誰だ」
高瀬は答えなかった。
「来ればわかります」
「その言い方は嫌いだ」
「知っています」
「俺のことをよく知ってるらしいな」
「四年間見ていましたから」
真壁の目が細くなる。
「観測者として?」
高瀬は首を振った。
「途中までは」
「途中からは?」
「逃亡者です」
2
五人ではなかった。
今は四人。
真壁。
野村。
高瀬。
秋月。
葛城はいない。
「葛城は?」
真壁が訊いた。
高瀬が答える。
「来ます」
「呼んだのか」
「はい」
「全員集めて何をする」
高瀬は天井を見た。
「四年前の続きを」
真壁も見上げる。
防犯カメラ。
その横。
四年前の記憶にある黒い箱はない。
「箱は?」
高瀬の顔が変わった。
「思い出したんですね」
「一発目の直後、ここで見た」
「はい」
「何だった」
「同期装置です」
「黒いバンドと同じ?」
「同じ系統です」
「何を同期した」
高瀬は少し考えた。
「時計です」
野村が訊いた。
「機械の?」
「最初はそうでした」
「最初は?」
秋月が口を開いた。
「目的は、機械の時刻を合わせることだった」
真壁が秋月を見る。
「途中から違った?」
「人間の時間を合わせようとした」
「意味がわからない」
秋月は柱に手を触れた。
「人間は時計がなくても、出来事の順序を覚えている」
「一発目、二発目みたいに?」
「そうだ」
「それを変える?」
「正確には」
秋月が言った。
「出来事と出来事の間に、別の記憶を挿入する」
野村が眉を寄せる。
「記憶を直接操作するんですか」
「そんな技術はない」
秋月は即座に否定した。
「薬物でも催眠でもない」
真壁が訊く。
「じゃあどうする」
「記録だ」
また。
記録。
「人は後から映像を見る」
秋月が言う。
「ニュース、防犯カメラ、写真、報告書」
「それで?」
「自分の記憶と記録が食い違った場合、多くの人間は記録を優先する」
「だから俺は地上にいたと思わされた」
「そうだ」
「でも」
真壁は言った。
「俺には地下にいた記憶が完全には消えてなかった」
「消す必要はなかった」
「なぜ」
「自分で疑わせればいい」
秋月は答えた。
「記憶を消すより簡単だ」
真壁は黙った。
その通りだった。
四年間、
地下駐車場の断片は何度か夢に出ていた。
だが真壁は、
夢だと思っていた。
公式記録と違うから。
勤務記録。
会議音声。
証拠記録。
すべてが、
真壁に言っていた。
お前はそこにいなかった。
だから、
自分で自分を否定した。
3
「一つ確認する」
真壁が言った。
「銃撃そのものに、あんたたちは関与していない?」
秋月の表情が硬くなった。
「ない」
高瀬も答える。
「ありません」
「事前に知っていた?」
「知りません」
「二発という情報は?」
高瀬が言った。
「事件とは別の観測用メッセージでした」
真壁の眉が動く。
「偶然、実際の出来事と重なった?」
「そうです」
「出来すぎてる」
「だから」
秋月が言った。
「我々も恐ろしくなった」
「どういうことだ」
「観測計画では、二つの刺激を与える予定だった」
「刺激?」
「音だ」
野村が訊く。
「何の音です」
「駐車場で鳴らす予定だった」
真壁は理解した。
「俺に聞かせるため?」
「そうだ」
「二回?」
「二回」
「間隔は」
秋月が答える。
「約二十五秒」
真壁が止まった。
「二十五?」
二十五フレーム。
秋月は首を振った。
「フレームとは無関係だ。少なくとも最初は」
「どういう意味」
「数字が後から再利用された」
真壁は嫌な顔をした。
「17も832も?」
高瀬が頷く。
「管理者は同じ数字を何度も使った」
「なぜ」
「人間が数字に意味を見つけるか試すためです」
真壁は思わず笑った。
「つまり」
「ああ」
「俺たちはまんまと引っかかった?」
高瀬は答えない。
野村が言った。
「8分32秒も」
「意味がある場合と、ない場合がある」
「事件番号も?」
「後から付けた」
「八人と三十二台は?」
「それは本当です」
「じゃあ、どれが本物なんです」
高瀬が野村を見る。
「それを判断させるのが実験だった」
野村は唇を噛んだ。
真壁は腹が立つより、
妙に納得していた。
人間は繰り返される数字を見ると、
関係を探す。
17。
25。
832。
その数字自体が暗号なのではない。
暗号だと思わせることが目的。
「じゃあ二十五フレームも」
「目印であると同時に」
高瀬が言った。
「餌でした」
「誰への」
「真壁さんです」
真壁は高瀬を睨んだ。
「俺?」
「あなたがそこに意味を見つけるかどうか」
「高瀬さん」
野村が言った。
「あなた、味方なんですか」
高瀬は答えなかった。
「今まで僕たちを助けてるように見えた。でも、まだ観測してるんじゃないですか」
沈黙。
「答えてください」
高瀬は野村を見る。
「その疑いは正しい」
「じゃあ」
「私自身にも、わからなくなることがある」
「何が」
「助けているのか」
一呼吸。
「観測を続けているのか」
野村は何も言えなかった。
4
足音がした。
全員が振り向く。
葛城慎一。
一人。
「全員いるな」
真壁が言った。
「お前が最後じゃない」
「知ってる」
「三人目は誰だ」
葛城は高瀬を見る。
「まだ言ってないのか」
高瀬。
「本人から名乗ってもらいます」
葛城が苦笑した。
「趣味が悪い」
「あなたに言われたくありません」
真壁は三人を見る。
葛城。
高瀬。
秋月。
全員、
死んだことになっていた。
「聞かせてもらおうか」
真壁が言った。
「三人とも、どうやって死んだ」
葛城が答える。
「俺は事故を利用された」
「知ってる」
高瀬。
「私はホテルで死んだことにされた」
「どうやって」
「死亡したのは別人です」
「誰だ」
「身元不明者」
「本当に死んだ人間を使った?」
高瀬は目を伏せた。
「はい」
真壁の声が低くなる。
「最低だな」
「否定しません」
「秋月は」
秋月が答える。
「私は死亡診断書そのものが偽造された」
「遺体は」
「ありません」
野村が訊いた。
「葬儀は?」
「棺は閉じられていた」
野村は顔を歪める。
「家族は」
「私は独身だ。近親者も少ない」
「だからって」
「わかっている」
秋月は野村を見る。
「許してもらおうとは思っていない」
「何でそこまでして消えたんです」
秋月はしばらく黙った。
「怖かった」
その答えは、
あまりに普通だった。
野村も黙る。
「研究者として告発する勇気がなかった」
秋月が言う。
「警察へ行っても、どこまで記録が操作されているかわからなかった」
「だから死んだことにした」
「そうだ」
「僕を残して?」
秋月は目を伏せた。
「それが一番後悔している」
真壁が割って入る。
「感傷はあとだ」
野村が真壁を見る。
「今聞かないと」
「生きてる」
真壁は秋月を指した。
「あとでいくらでも聞ける」
秋月が小さく笑った。
「刑事だな」
「今日は警察官として来るなと言われた」
「無理だったようだ」
「二十年以上やってるからな」
そのとき。
高瀬が時計を見る。
「来ます」
「誰が」
高瀬は答えない。
遠くから、
靴音。
一歩。
また一歩。
柱の向こう。
男が現れた。
5
真壁はその男を見て、
何も感じなかった。
知らない顔だった。
六十歳前後。
中肉中背。
眼鏡なし。
短い髪。
黒いジャケット。
ごく普通。
それが逆に不気味だった。
男は五人の前で立ち止まった。
「真壁修司さん」
「そうだ」
「野村亮介さん」
野村は答えない。
「葛城慎一さん」
葛城が睨む。
「高瀬浩二さん」
高瀬は目を伏せる。
「秋月浩平先生」
秋月が言った。
「久しぶりですね」
男は笑った。
「四年ぶりです」
真壁が訊いた。
「水島か」
「違います」
「管理者?」
「違います」
「観測者?」
男は首を振った。
「では誰だ」
男は答えた。
「被験者です」
全員が黙った。
「何?」
「私が最初です」
秋月の表情が硬くなる。
「あなたが……」
男が頷いた。
「八人のうちの一人」
8と32。
最初の実験。
八人。
三十二台。
秋月が言った。
「あなたは七人目だった」
「そうです」
「名前は」
男が答えた。
「大庭孝一」
秋月が首を振る。
「違う」
「今はその名前です」
「当時は」
「佐伯修一」
高瀬が息を呑む。
真壁が訊いた。
「知ってるのか」
高瀬が男を見る。
「最初の実験で……」
秋月が続けた。
「唯一、記憶を失った人です」
真壁は眉を寄せる。
「さっき聞いた話と違う」
秋月が言った。
「七人は加工された記録に引っ張られた」
「一人は秋月先生だった」
野村が言う。
「違う」
秋月が首を振った。
「私を含めた七人が、程度の差はあっても影響を受けた」
「じゃあこの人は」
「影響を受けなかったのではない」
秋月は大庭を見る。
「自分の元の記憶と、後から見せられた記録。その両方を信用できなくなった」
大庭が笑った。
「正確です」
真壁が訊いた。
「どうなった」
大庭自身が答える。
「私は、何も選べなくなった」
「何を」
「自分の過去を」
静かな声だった。
「鞄を拾ったのが誰だったのか。私は何を見たのか。どこに立っていたのか」
大庭は自分の手を見る。
「実験が終わったあとも、日常生活で同じことが起きた」
「記憶障害?」
「医学的には異常なし」
「じゃあ」
「写真を見ないと昨日の自分を信じられない」
真壁は黙った。
「レシートがないと店へ行ったことを信じられない」
「……」
「メールが残っていないと、人と話したことを信じられない」
大庭は真壁を見る。
「私は記録なしでは生きられなくなった」
秋月が言った。
「だから実験を中止した」
大庭が首を振る。
「違います」
「何が」
「あなたは中止しなかった」
秋月の顔が変わった。
「何を言ってる」
「私を観察し続けた」
「していない」
「記録があります」
「その記録が偽物だ」
「では」
大庭が静かに訊いた。
「あなたの記憶が正しい証拠は?」
秋月は答えられなかった。
真壁は理解した。
これだ。
この構図。
記録と記憶。
どちらを選んでも罠になる。
「やめろ」
真壁が言った。
二人が見る。
「四年前から同じことやってる」
大庭が微笑む。
「あなたはやはり違いますね」
「何が」
「第三の選択をする」
「お前も観測側だろ」
大庭は答えなかった。
「被験者というのも嘘か」
「嘘ではありません」
「全部じゃない」
真壁が近づく。
「お前は最初の被験者だった。そのあと観測側へ回った」
沈黙。
高瀬が顔を上げた。
秋月も大庭を見る。
真壁は続ける。
「被害者が実験者になった」
大庭はしばらく真壁を見た。
そして。
「正解です」
と言った。
6
野村が訊いた。
「管理者はあなた?」
「違います」
「水島?」
「それも役割です」
「じゃあ誰なんです」
大庭が言った。
「管理者は存在しません」
真壁の目が細くなる。
「どういう意味だ」
「最初はいました」
「誰」
「秋月先生」
野村が秋月を見る。
秋月が首を振った。
「違う」
大庭。
「研究責任者という意味では、あなたです」
「管理者とは違う」
「その通り」
大庭が続ける。
「研究が拡大すると、複数の人間が管理業務を分担した」
「水島は」
「身分管理」
「高瀬は」
「映像管理」
「山根」
「観測」
「お前は」
「被験者管理」
「じゃあ全体を動かす人間は」
「いない」
真壁は黙った。
「そんな馬鹿な」
葛城が言った。
「誰かが指示してる」
「システムです」
大庭が答える。
「何?」
「最初に秋月先生たちが作った実験手順がある」
「それが?」
「対象がAを選べば次にBを提示する。BならC。反応しなければD」
真壁は二十二番目を思い出した。
A。
B。
第三の選択。
「自動化されてる?」
野村が訊いた。
「かなりの部分が」
「じゃあ俺たちは」
真壁が言った。
「存在しない犯人を追っていた?」
大庭は少し考えた。
「半分は」
「半分?」
「システムを利用している人間がいます」
「誰だ」
「それを突き止めるために、今日集まってもらった」
真壁は笑った。
「また俺たちを使うのか」
「はい」
「堂々と言うな」
「隠す意味がありません」
「俺が断ったら」
「それもデータになります」
真壁が大庭へ近づく。
「その言い方をやめろ」
「なぜ」
「人間を数字で見るな」
大庭は真壁を見つめた。
「それを言うために来たんですか」
「違う」
「では?」
真壁が答える。
「終わらせるためだ」
大庭の笑みが消えた。
7
「二発目の空白とは何だ」
真壁が訊いた。
誰も答えない。
「ここまで引っ張ったんだ」
真壁は高瀬を見る。
「答えろ」
高瀬が秋月を見る。
秋月が頷いた。
高瀬はポケットから小さな端末を出した。
古いスマートフォン。
「これが原本です」
「何の」
「二〇二二年七月八日」
高瀬が言う。
「この地下駐車場の映像」
真壁の呼吸が変わる。
「改変前?」
「はい」
「017より前?」
「017とは別系統です」
「見せろ」
高瀬が画面を開く。
映像。
地下駐車場。
B-17。
時刻。
11:30:48。
真壁。
葛城。
女。
三人。
本物。
真壁は自分を見る。
間違いない。
女。
葛城佳代と名乗った人物。
顔が映っている。
四十代くらい。
高瀬が言った。
「彼女は研究スタッフです」
「名前」
「河瀬由美」
「今どこに」
「行方不明」
映像。
11:31:02。
遠くで音。
一発目。
映像の真壁が天井を見る。
黒い箱。
赤ランプ。
女が言う。
『始まりましたね』
記憶と同じ。
葛城が女へ近づく。
真壁が拳銃を抜く。
葛城が止める。
『俺に向けろ』
真壁が葛城へ銃口を向ける。
あの写真。
そして。
時刻。
11:31:17。
ここからだった。
高瀬が一時停止する。
「何だ」
真壁が訊く。
「これから二十五秒です」
「二十五フレームじゃない?」
「はい」
「二十五秒」
「本当に消されたのは」
高瀬が言った。
「こちらです」
再生。
11:31:17。
女――河瀬由美が、
突然カメラを見る。
そして言った。
『中止してください』
真壁の眉が動く。
葛城も映像の中で驚いている。
河瀬。
『実験を中止してください』
誰に言っている。
天井の黒い箱。
その向こうにいる誰か。
河瀬。
『これは予定と違います』
高瀬が映像を止める。
「予定と違う?」
真壁が訊く。
「実際の事件が起きたからです」
秋月が答えた。
「我々が予定していた二つの音より先に、現実の銃声が響いた」
真壁は理解した。
観測実験。
二つの音を使う予定だった。
だが偶然、
地上で現実の事件が起きた。
最初の音。
実験と現実が重なった。
「続けろ」
映像。
河瀬。
『現実の事件が起きています』
『このデータは使えません』
『中止してください』
そして。
黒い箱から音声。
男の声。
『続行します』
全員が画面を見る。
真壁が言った。
「この声……」
聞いたことがある。
これまで電話で話してきた、
水島と名乗る男。
河瀬。
『駄目です』
男。
『観測を続行します』
『人が撃たれています』
『実験とは無関係です』
秋月が目を閉じる。
映像の河瀬が叫ぶ。
『だから利用するなと言ってるんです!』
そして。
11:31:29。
二発目。
地下まで響く。
河瀬が振り返る。
真壁も。
葛城も。
その瞬間。
黒い箱の赤ランプが消える。
時刻。
11:31:42。
二十五秒。
映像終了。
誰も言葉を発しなかった。
これが空白。
事件の謎ではない。
犯行の謎でもない。
実験者たちが、
実際の事件を「観測材料として利用する」と決めた二十五秒。
「だから消した」
真壁が言った。
高瀬が頷く。
「はい」
「誰が」
「私です」
真壁が高瀬を見る。
「お前?」
「管理者から命令されました」
「二十五秒を?」
「はい」
「その代わりに二十五フレームを入れた?」
高瀬は首を振った。
「それは後です」
「誰が」
「わかりません」
真壁は画面を見る。
一つの核心には届いた。
だがまだ終わっていない。
「河瀬はどこだ」
「わかりません」
「水島の本名は」
「わかりません」
「管理者がいないという話は」
大庭が言った。
「今の映像では男が続行を命じている」
「そうだ」
「ならそいつが管理者だろ」
大庭は首を振る。
「問題はそこです」
「何が」
「この映像の声」
大庭が言った。
「水島ではありません」
真壁は眉を寄せた。
「何?」
「声は加工されています」
「元の声は」
「高瀬さんが復元しました」
真壁が高瀬を見る。
高瀬の顔が青ざめている。
「聞かせろ」
高瀬は動かない。
「ここまで来て隠すな」
「真壁さん」
「何だ」
「これを聞けば」
「聞けば?」
「あなたは、また自分を疑うことになります」
真壁は少し笑った。
「もう慣れた」
高瀬は端末を操作した。
音声。
ノイズ。
河瀬。
『実験を中止してください』
男。
『続行します』
加工解除。
もう一度。
『続行します』
真壁の顔から表情が消えた。
野村が真壁を見る。
葛城も。
その声は、
真壁修司の声だった。
8
「偽物だ」
野村が最初に言った。
高瀬は答えない。
「合成ですよね」
「解析上は」
「何です」
「真壁さん本人の声です」
野村が首を振る。
「ありえない」
真壁は黙っている。
映像の中。
真壁本人は地下駐車場にいる。
同じ時刻。
黒い箱の向こうから、
真壁の声。
同時に二人。
「録音だ」
真壁が言った。
高瀬が顔を上げる。
「俺の声を事前に録音した」
「その可能性があります」
「いつ」
「それを調べました」
「結果は」
高瀬は別のファイルを開いた。
音声一覧。
日付。
二〇二二年七月七日。
事件前日。
京都。
23:14。
また。
十一時十四分。
再生。
真壁の声。
『続行します』
次。
『実験とは無関係です』
次。
『観測を続行します』
一文ずつ。
バラバラ。
真壁は覚えていない。
「どこで録った」
高瀬。
「ホテルです」
二十五枚の写真。
替え玉。
京都。
すべてが戻ってくる。
「俺はいたのか」
「はい」
野村が真壁を見る。
「でも写真の真壁さんは替え玉だって」
高瀬が答える。
「写真に写っているのは替え玉です」
「じゃあ本人は」
「隣の部屋にいました」
真壁は目を閉じる。
記憶。
ホテル。
椅子。
マイク。
男の声。
『この文章を読んでください』
真壁。
『何に使う』
『音声認識試験です』
真壁は目を開けた。
「読んだ」
高瀬が頷く。
「はい」
「俺自身が」
「はい」
「何も知らずに」
「はい」
真壁は笑った。
乾いた笑い。
「なるほど」
野村が言う。
「何がです」
「これがやり方だ」
真壁は画面を見る。
「大きな嘘は作らない」
本物の真壁の声。
本物の映像。
本物の時刻。
一つ一つは本物。
ただ、
組み合わせだけが嘘。
「偽物を作ってるんじゃない」
真壁が言った。
「本物を間違った場所に置いてる」
高瀬が頷く。
「それが観測計画の基本です」
真壁はようやく、
敵の方法を完全に理解した。
そして同時に、
もう一つ気づいた。
「待て」
全員が見る。
「だったら二十本目も同じだ」
安倍元首相と思われる声。
真壁の声。
地下駐車場の背景音。
別々の本物を組み合わせた。
「そうです」
高瀬が言った。
「会話そのものの一部は実在します。しかし一続きの会話ではありません」
「十九本目の映像も?」
「一部は」
「俺が安倍さんと話したことは?」
高瀬は首を振った。
「確認できません」
真壁は息を吐いた。
四年間、
自分が元首相と話したと思っていた記憶。
それすら、
映像から作られた可能性がある。
「じゃあ」
野村が言った。
「本当に起きたことは、どこまでなんです」
誰も答えられなかった。
そのとき。
大庭が言った。
「だから三人目を呼んだんです」
真壁が見る。
「お前が三人目じゃないのか」
大庭は首を振った。
「私は四人目です」
「何?」
高瀬が時計を見る。
「来ました」
遠く。
足音。
今度は、
ハイヒール。
真壁の表情が変わる。
柱の向こうから、
女性が現れた。
五十歳前後。
髪を後ろで束ねている。
真壁は知っていた。
四年前。
地下駐車場。
紙袋。
《始まりましたね》
河瀬由美。
女はB-17の前で立ち止まった。
「お久しぶりです、真壁さん」
真壁は何も言わない。
「葛城さんも」
葛城が睨む。
「野村さんとは初めましてですね」
野村は女を見る。
秋月が言った。
「由美さん」
河瀬は秋月へ軽く頭を下げた。
そして。
高瀬を見る。
「全員そろいましたか」
高瀬が答える。
「いいえ」
河瀬の表情が変わる。
「一人足りません」
真壁が訊いた。
「誰だ」
高瀬は答えない。
河瀬も。
代わりに、
秋月が言った。
「この実験を最初に提案した人間です」
「水島?」
「違います」
「じゃあ誰だ」
秋月は真壁を見た。
「あなたも会っています」
「いつ」
「二〇二二年七月七日」
「京都?」
「はい」
「名前は」
秋月が答えようとした。
その瞬間。
地下駐車場の照明が消えた。
暗闇。
野村の声。
「真壁さん!」
「動くな!」
非常灯。
赤。
誰かが走る。
真壁は音を聞く。
右。
足音。
左。
別の足音。
そして。
一発。
乾いた音。
銃声。
真壁は床へ伏せた。
「全員伏せろ!」
数秒。
照明が戻る。
真壁は立ち上がった。
野村。
無事。
葛城。
無事。
秋月。
無事。
高瀬。
無事。
大庭。
無事。
河瀬。
いない。
「河瀬!」
柱の向こう。
倒れている。
真壁が走る。
河瀬の肩から血。
意識あり。
「誰に撃たれた」
河瀬が真壁の腕を掴む。
「逃げて……」
「誰だ」
「来た……」
「誰が」
河瀬の目が、
真壁の後ろを見る。
真壁が振り返る。
駐車場の入口。
男が一人立っていた。
スーツ。
六十代。
左手首。
黒いバンド。
男はゆっくり歩いてくる。
高瀬の顔から血の気が引いた。
秋月が後ずさる。
大庭は動けない。
葛城が呟いた。
「お前……」
男はB-17の前で立ち止まった。
真壁を見る。
「四年ぶりですね」
真壁はその声を知っている。
加工される前の声ではない。
もっと古い。
記憶の底。
事件前日。
京都のホテル。
『この文章を読んでください』
あの声。
真壁が訊いた。
「名前は」
男は微笑んだ。
「名前が必要ですか」
「必要だ」
「では」
男は答えた。
「水島圭介、としておきましょう」
高瀬が叫ぶ。
「その名前を使うな!」
男は高瀬を見る。
「まだ名前に意味があると思っているんですか」
真壁が一歩前へ出る。
「お前が管理者か」
男は首を振った。
「いいえ」
「じゃあ何だ」
男は真壁を見る。
「私は」
一呼吸。
「第二観測対象です」
真壁は眉を寄せた。
「第二?」
野村が言う。
「僕が第二観測対象じゃ」
男が野村を見る。
「あなたは二代目の第二観測対象です」
「何?」
男は笑った。
「最初の第二観測対象は私です」
真壁が訊いた。
「第一は誰だ」
男の視線が、
ゆっくり真壁へ移る。
「あなたですよ」
地下駐車場が静まり返った。
真壁は動かなかった。
「俺が?」
「はい」
「四年前から?」
男は首を振る。
「もっと前です」
「いつから」
男が答えた。
「二〇一八年」
真壁は言葉を失った。
七月八日ではない。
二〇二二年でもない。
観測は、
事件より四年前から始まっていた。
「なぜ俺だ」
男は答えなかった。
代わりに、
黒いバンドを操作した。
地下駐車場のモニターが点灯する。
映像。
日付。
二〇一八年十一月二十七日。
場所。
奈良県警。
若い真壁修司。
取調室。
向かいに座る男。
真壁はその顔を見た。
そして、
息を止めた。
知っている。
四年前の事件とは、
まったく関係ないと思っていた男。
二〇一八年。
真壁が担当した失踪事件。
その重要参考人。
三日間の事情聴取のあと、
証拠不十分で釈放。
そして翌日、
姿を消した人物。
名前。
神谷直人。
男――水島が言った。
「すべては、この人から始まりました」
真壁はモニターを見る。
取調室の神谷が、
四年前の白いシャツの男と同じように、
カメラを見た。
そして。
唇が動く。
《まだだ》
真壁の背筋に、
冷たいものが走った。
二発目の空白は、
二〇二二年七月八日に始まったのではなかった。
四年前の事件は、
始まりではない。
途中だった。
そして真壁は、
八年間、
同じ人間たちに観測され続けていた。
(第十章に続く)

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