第二十章 江戸帰還
江戸へ戻る道は、暮色の中に沈み始めていた。
新之介は背の風呂敷を強く結び直した。
中には鷹見静山の記録がある。
酒井丹波守を越え、老中首座へ届くかもしれぬ証である。
だが、その重みは紙の重みではなかった。
玄斎が残って稼いだ時間。
矢代が最期に残した言葉。
村垣が死の間際に差し出した書状。
父・忠左衛門の悔い。
すべてがそこに詰まっている。
「急ぐぞ」
忠左衛門が言った。
傷のある身で、声だけは揺るがなかった。
真崎半九郎が先導し、源太郎が後ろを警戒する。
山道は細く、馬を飛ばすには危うい。
それでも一行は足を止めなかった。
夜に入れば、敵は必ず追ってくる。
牧野主税がこのまま引くはずがない。
やがて、背後の林で鳥が一斉に飛び立った。
源太郎が振り返る。
「来ました」
木々の間に、松明の灯が見えた。
一つではない。
十。
いや、それ以上。
新之介は刀に手をかける。
だが忠左衛門が首を振った。
「斬り合うな。江戸へ届けることが先だ」
「はい」
新之介は走り出した。
足元の石が滑る。
息が切れる。
だが止まれない。
背後では追手の声が近づいてくる。
源太郎が振り返り、道端の枯れ木を蹴り倒した。
細い道が塞がれる。
「少しは稼げます」
「よし」
真崎が言った。
「この先に渡し場があります。そこから川筋を使えば、江戸へ早く戻れます」
「船頭は」
「父の知己がいます」
新之介は頷いた。
鷹見塾の縁が、また一つ命をつなぐ。
◇
渡し場に着いた時、空には細い月が出ていた。
川面は黒く、流れは速い。
小屋から老人が顔を出す。
真崎が駆け寄った。
「伊助殿!」
船頭の伊助は一行を見るなり、何も聞かずに舟を出した。
「乗りなせえ」
「追手が来ます」
「なら、なおさら早く乗りなせえ」
新之介たちは舟へ飛び乗った。
最後に源太郎が乗り込む。
その直後、山道から追手が現れた。
矢が飛ぶ。
舟の縁に刺さった。
伊助は竿を突く。
舟は岸を離れ、黒い流れへ滑り出した。
「伏せろ!」
新之介が叫ぶ。
矢が川面を叩く。
だが距離は少しずつ開いていく。
追手は岸辺で悔しげに叫んでいた。
伊助は笑った。
「侍様は水の上じゃ役に立たねえ」
「助かります」
「礼は江戸へ戻ってからでいい」
舟は夜の川を下った。
両岸の木々が流れる影のように過ぎていく。
新之介は風呂敷を抱えたまま、ふと玄斎を思った。
あの老人なら、今ごろどうしているだろう。
生きているのか。
倒れたのか。
考えれば胸が乱れる。
だが、今は考えてはならぬ。
忠左衛門が静かに言った。
「玄斎殿は生きている」
「なぜそう思われます」
「死ぬ気の者は、あのように笑わぬ」
新之介は川面を見た。
その言葉を信じたかった。
◇
江戸へ入ったのは、夜半近くであった。
舟は神田川筋へ入り、人気の少ない船着き場へ着いた。
そこには戸田備前守の使いが待っていた。
「榊原様。こちらへ」
「戸田様は」
「まだご存命です。ただ、毒の回りが早いと」
新之介の胸が締めつけられる。
評定は明朝。
それまでに証を届け、戸田を動かさねばならない。
だが城へ入るには時刻が悪い。
夜半の登城は容易ではない。
使いは声を潜めた。
「戸田様は、江戸城ではなく上屋敷へ来るようにと」
「上屋敷?」
「はい。城内はすでに敵の目があります」
忠左衛門が頷いた。
「賢明だ」
一行は戸田家上屋敷へ向かった。
夜の江戸は静かだった。
だが、その静けさの中に無数の目が潜んでいるように感じられた。
角を曲がるたび、新之介は背後を確かめた。
源太郎も同じだった。
「尾けられていますか」
「まだ分からぬ」
「分からぬ時ほどいるものです」
その言葉が終わらぬうちに、前方の路地から人影が出た。
三人。
後ろにも二人。
新之介は立ち止まった。
「父上を」
「承知!」
源太郎が忠左衛門を庇う。
真崎が風呂敷を受け取ろうとした。
新之介は首を振る。
「これは私が持つ」
前方の男が言った。
「証を渡せ」
「断る」
「ならば死ね」
短いやり取りだった。
刃が抜かれる。
新之介も刀を抜いた。
夜の路地に、金属音が響いた。
一人目の斬り込みを受け、押し返す。
二人目は脇から来た。
真崎が受けた。
剣は思ったより鋭い。
鷹見塾の末流という言葉は偽りではなかった。
源太郎は忠左衛門を背に、後方の二人を止めている。
敵は強い。
だが急ぎすぎていた。
証を奪う焦りが刃に出ている。
新之介は相手の呼吸を読んだ。
勝とうとする者は死ぬ。
玄斎の声が耳に蘇る。
新之介は無理に斬らず、相手の足を崩した。
倒れたところを柄頭で打つ。
一人。
次。
そこへ屋根の上から影が落ちた。
新之介は反応が遅れた。
短刀が風呂敷を狙う。
その刃を、一本の木刀が弾いた。
「先生!」
玄斎だった。
煤と血に汚れている。
だが立っている。
木刀を握る手も揺らいでいない。
「遅いぞ、新之介」
「それはこちらの台詞です」
「口が達者になったな」
玄斎は笑い、屋根から降りた男を一撃で沈めた。
その姿を見た追手たちは動揺した。
隙は一瞬でよい。
新之介と真崎が同時に踏み込み、残る敵を制した。
源太郎が縄を打つ。
「今度は逃がしません」
玄斎は肩で息をしていた。
新之介は駆け寄る。
「ご無事で」
「無事ではない。痛い」
「珍しく正直ですね」
「年寄りを走らせるからだ」
忠左衛門が深く頭を下げた。
「玄斎殿、かたじけない」
「礼は後で結構。今は戸田様だ」
新之介は頷いた。
再会を喜ぶ暇はなかった。
◇
戸田家上屋敷では、灯が落とされていた。
表向きは静かな夜である。
だが奥では、戸田備前守が寝所に身を起こしていた。
顔色は土のように悪い。
それでも目は生きていた。
「来たか」
「証を持参しました」
新之介は風呂敷を解いた。
鷹見静山の記録。
幕府財政の覚え書き。
札差制度への批判。
老中首座へ繋がる金の流れ。
戸田は一枚ずつ目を通した。
途中で咳き込み、血の混じった痰を吐いた。
「戸田様」
「騒ぐな。まだ読める」
その声に、誰も止められなかった。
すべてを読み終えた戸田は、長く目を閉じた。
「鷹見静山……惜しい男を失った」
忠左衛門が畳に手をつく。
「我らが逃げたためです」
「違う」
戸田は首を振った。
「逃げた者だけが悪いのではない。逃げねば生きられぬ仕組みを作った者も悪い」
新之介はその言葉を胸に刻んだ。
戸田は続けた。
「明朝の評定で、これを出す」
「老中首座を相手に」
「そうだ」
「勝てますか」
戸田はかすかに笑った。
「勝つのではない」
「では」
「逃げ道を塞ぐ」
その目には、病人とは思えぬ光があった。
「証人、帳面、鷹見の記録、酒井の書状。すべてを一度に出す。相手に否定する暇を与えぬ」
「しかし、評定の場そのものが敵に押さえられていれば」
「だからそなたが要る」
戸田は新之介を見た。
「榊原新之介。そなたには、評定の場で証を読み上げてもらう」
新之介は息を呑んだ。
「私が?」
「そうだ」
「身分が足りませぬ」
「足りぬ」
「ならば」
「だからよい」
戸田は言った。
「高い身分の者が読めば、政争になる。低い身分の者が読めば、証の声になる」
忠左衛門が静かに頷いた。
「新之介、受けよ」
新之介は深く頭を下げた。
「承知しました」
◇
夜明け前。
新之介は戸田家の庭に出た。
空はまだ暗い。
だが東の端だけがわずかに白い。
玄斎が隣へ来た。
「怖いか」
「怖いです」
「よい」
「よいのですか」
「怖くない者は、守るものの重さを知らぬ」
玄斎は木刀を杖のように立てた。
「明日は刀では斬れぬ」
「はい」
「言葉で斬ることになる」
「言葉で」
「言葉は刀より深く斬る。だが、己も傷つく」
新之介は黙って頷いた。
玄斎は空を見た。
「よくここまで来た」
「先生のおかげです」
「違う」
「では」
「死んだ者たちのおかげだ」
新之介は目を閉じた。
矢代。
頼母。
村垣。
そして名も知らぬ者たち。
すべての死が、ここまで自分を運んできた。
その重みから逃げてはならない。
やがて朝の鐘が鳴った。
評定の日が来た。
新之介は刀を差し直し、鷹見の記録を抱えた。
江戸城へ向かう道は、静かに明けていた。
今日、刀影の下に隠されていた闇が、白日の前に引き出される。
そうなるか。
あるいは、闇がすべてを呑むか。
その答えは、評定の間にあった。
(第二十一章へ続く)

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