上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第二十一章

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第二十一章 証の声

 江戸城の朝は、静かであった。

 堀の水は薄い光を受け、石垣は青く沈んでいる。

 登城する武士たちの足音だけが、整然と響いていた。

 榊原新之介は、戸田備前守の駕籠の脇を歩いていた。

 懐には、鷹見静山の記録。

 背には、死んだ者たちの声。

 刀より重いものを抱えている気がした。

 門をくぐると、城内の空気はさらに硬くなった。

 誰もが何かを知っている。

 だが誰も口にしない。

 それが、幕府という巨大な屋敷の息遣いであった。

 評定の間には、すでに重職たちが座していた。

 老中首座・堀田伊予守。

 酒井丹波守の処分を決めるという名目で開かれた臨時評定である。

 だが新之介は知っていた。

 今日裁かれるのは、酒井一人ではない。

 幕府の中に巣食った「逃げ」の仕組みそのものだった。

 戸田備前守は病身を押して座した。

 顔色は悪い。

 それでも目だけは鋭かった。

「始めよう」

 堀田伊予守が低く言った。

 その声には、人を従わせる重みがある。

 酒井丹波守は下座に控えていた。

 縄こそ打たれていないが、もはや自由の身ではない。

 堀田は静かに告げた。

「酒井丹波守の件、すでに証は多い。だが、幕府の威信を考えれば、これ以上事を広げるべきではない」

 部屋の空気が動いた。

 やはりそう来た。

 酒井を切って終わらせるつもりである。

 戸田が口を開いた。

「広げるのではない。元を断つのです」

「元とは何か」

「借財を隠し、不正を黙認し、口封じに人を殺す仕組みです」

 堀田の目が細くなった。

「言葉が過ぎるな、戸田殿」

「毒で倒れた身ゆえ、多少はお許しを」

 戸田は微かに笑った。

 その笑みには命を惜しまぬ者の強さがあった。

 堀田は新之介へ目を向けた。

「その若侍は何者だ」

「榊原新之介。証を持つ者です」

「身分は」

「旗本榊原忠左衛門が嫡男」

「評定の場で発言する身分ではない」

 その一言で、場は閉じられかけた。

 だが戸田は退かなかった。

「身分が証を持つのではありません。証を持つ者が語るのです」

 沈黙。

 やがて堀田は言った。

「申してみよ」

 新之介は畳に手をつき、深く一礼した。

 そして、鷹見静山の記録を開いた。

「これは二十年前、鷹見静山が残した幕府財政の覚え書きにございます」

 声は震えていなかった。

 不思議なほど落ち着いていた。

「ここには、旗本・御家人の借財がいずれ役目を売らせること、札差への過度な依存が米と金の流れを歪めること、そして不正を隠すために別の不正が積み重なることが記されております」

 新之介は一枚ずつ証を並べた。

 大黒屋の裏帳簿。

 水野監物への金の流れ。

 大久保家への送金。

 浪人衆への支払い。

 酒井丹波守の花押。

 村垣平八郎の書状。

 そして、堀田伊予守の用人へ渡った金の記録。

 その名が出た瞬間、評定の間は凍りついた。

 堀田の顔から表情が消えた。

「榊原」

「はい」

「それが何を意味するか、分かって申しているのか」

「分かっております」

「老中首座を疑うと申すか」

「疑いではありません」

 新之介は静かに答えた。

「帳面に名があり、証人がいます。ゆえに、確かめねばなりません」

 父の言葉が胸にあった。

 疑うことと、決めつけることは違う。

 堀田はしばらく黙った。

 次に酒井を見た。

「酒井殿」

 酒井丹波守は、ゆっくり口を開いた。

「堀田様の命を受けたことはございません」

 堀田は安堵したように見えた。

 だが酒井は続けた。

「ただし、堀田様が望まれる流れを、私が忖度いたしました」

 場がざわめいた。

 堀田の目が鋭くなる。

「酒井」

「私は幕府を守るためと信じておりました。ですが、守ったものは幕府ではなく、我らの面目でした」

 酒井は頭を下げた。

「その罪は、私にございます」

 堀田は沈黙した。

 完全な自白ではない。

 だが、逃げ道を狭めるには十分だった。

 戸田が言った。

「堀田殿。ならば、そなたの用人をこの場へ」

「必要ない」

「必要あります」

 戸田は咳き込んだ。

 血が手拭いに滲む。

 それでも声を絞った。

「ここで止めれば、また誰かが死ぬ」

 その言葉に、新之介は胸を打たれた。

 評定の場は刀のない戦場であった。

 ここでは一言が刃となり、一つの沈黙が盾となる。

 堀田はやがて目を閉じた。

「用人を呼べ」

 命が下った。

 ◇

 堀田の用人・相良外記が引き出された時、顔はすでに青ざめていた。

 大黒屋の裏帳簿に名があり、佐吉の証言もある。

 相良はしばらく否定した。

 だが、村垣の書状に自分の筆跡があると示されると、ついに膝をついた。

「私は……堀田様のために」

 堀田の顔が険しくなる。

「誰が命じた」

「命は受けておりませぬ。ただ、酒井様より……」

 責を押しつけ合う声が、評定の間に虚しく響いた。

 誰もが幕府のため、家のため、主のためと言う。

 だがその言葉の下で、誰も自分の罪を引き受けようとしない。

 新之介はそれを見て、矢代の怒りを少しだけ理解した。

 だが、怒りだけでは足りない。

 正すには、手続きが要る。

 証が要る。

 生きて恥を受ける覚悟が要る。

 戸田は最後に言った。

「酒井丹波守、水野監物、大黒屋宗兵衛、相良外記。すべて正式に詮議へ回す。大久保主膳、榊原頼母の件も隠さず扱う」

 堀田は苦い顔をした。

「幕府の傷を晒すことになる」

「傷を隠した結果が、今日です」

 戸田の声は弱まっていた。

「この先、借財整理は緩やかに進める。だが止めぬ。札差の利も改める。旗本・御家人の救済も同時に行う」

 それは理想ではなく、現実への一歩だった。

 全てを一刀で断つのではない。

 腐った枝を払い、根を生かす。

 それが政であった。

 堀田は長く沈黙し、やがて小さく頷いた。

「よかろう」

 その一言で、場の空気が変わった。

 勝ったわけではない。

 だが、闇が一歩退いた。

 新之介はそう感じた。

 ◇

 評定が終わると、戸田備前守は廊下で膝をついた。

 新之介が慌てて支える。

「戸田様!」

「騒ぐな」

 戸田は苦しげに笑った。

「少し、疲れただけだ」

「すぐ医師を」

「その前に聞け」

 戸田は新之介の手を掴んだ。

「今日、お前は人を斬らずに場を動かした」

「私は証を読んだだけです」

「それでよい」

 戸田の声はかすれていた。

「武士の刀は、いつも鞘の外にあるものではない。時には筆となり、時には言葉となり、時には沈黙となる」

 新之介は深く頭を下げた。

「忘れませぬ」

「忘れろ」

「え?」

「忘れぬと、人は型に縛られる。必要な時に思い出せ」

 戸田はそう言って目を閉じた。

 だが息はある。

 医師が駆け寄り、奥へ運ばれていった。

 新之介は廊下に座したまま、しばらく動けなかった。

 そこへ忠左衛門が歩み寄った。

「よくやった」

 それだけだった。

 だが新之介には、どんな褒め言葉より重く響いた。

 ◇

 城を出ると、江戸の空は晴れていた。

 堀の向こうに町が広がる。

 魚を売る声。

 荷車の音。

 遠くの寺の鐘。

 いつもの江戸である。

 だが新之介には、同じ町が少し違って見えた。

 ここに暮らす者たちのために、武士は何をなすべきか。

 答えはまだ一つではない。

 だが、少なくとも逃げてはならぬ。

 家のためと言って不正を隠すことも、天下のためと言って命を軽んじることも、武士の道ではない。

 玄斎が門の外で待っていた。

 まだ煤に汚れたままだ。

「終わったか」

「一つは」

「そうだ。一つだけだ」

 老人は頷いた。

「次がある」

「はい」

 新之介は城を振り返った。

 刀影の下に潜む闇は、まだ全て消えたわけではない。

 だが今日、確かに一筋の光が差した。

 その光を守ること。

 それが、これからの役目だった。

(第二十二章へ続く)

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