第四章 声の証拠
1
二十本目は、翌朝届いた。
午前七時四十二分。
真壁修司が県警本部に到着して三分後だった。
メールでもない。
宅配便でもない。
机の上に置かれていた。
小さなICレコーダー。
黒い、ごく普通のものだった。
その下に白い紙が一枚。
《20》
真壁はそれを見た瞬間、触れなかった。
昨日までなら、すぐに再生したかもしれない。
だが今は違う。
この一連の出来事には、明らかな意図がある。
誰かが真壁を動かしている。
十七本。
十八本。
十九本。
そして二十本目。
偶然見つかった証拠など一つもない。
すべて誰かが順番を決めている。
真壁が一つの事実を理解すると、次の事実が与えられる。
まるで階段だ。
問題は、
その階段がどこへ続いているかだった。
「触りました?」
背後から野村亮介の声がした。
「触ってない」
「正解ですね」
「鑑識を呼べ」
「もう呼びました」
真壁は振り返った。
「いつ」
「三十秒前」
「俺より刑事らしくなってきたな」
「元からです」
真壁は少しだけ笑った。
だがすぐICレコーダーへ視線を戻した。
「防犯カメラ」
「確認中です」
「誰が置いた」
「それも」
「入退室記録」
「やってます」
野村が真壁の横へ立った。
二人で黒い機械を見る。
「本当に安倍さんの声なんでしょうか」
野村が言った。
「わからん」
「偽物だったら?」
「そのほうが簡単だ」
「本物だったら?」
真壁は答えなかった。
それが一番困る。
四年前。
事件発生の約三十分前。
真壁は安倍元首相と四十七秒間話している。
映像には残っている。
だが真壁には記憶がほとんどない。
断片だけ。
『警察の方ですか』
『はい』
『少し妙なことを聞きまして』
そして。
『もし本当なら――』
そこから先がない。
二十本目の音声。
それが本物なら、
空白が埋まる。
だが。
真壁はなぜか、
埋めてはいけない空白のような気がしていた。
2
鑑識の結果が出たのは午前十時過ぎだった。
指紋なし。
ICレコーダーは市販品。
購入者の特定につながる情報なし。
内部には音声ファイルが一つ。
作成日時は二〇二二年七月八日。
ただし日時情報は容易に変更できるため、証拠価値は低い。
「声紋分析は?」
真壁が訊いた。
担当者が答えた。
「まだです」
「急げ」
「すでに専門機関へ回しています」
「加工の痕跡」
「それも解析中です」
野村が言った。
「今はAIで声なんて作れますからね」
真壁は頷いた。
二〇二六年。
四年前とは違う。
声。
顔。
映像。
本物そっくりの偽物を作る技術は、珍しいものではなくなった。
だからこそ厄介だった。
偽物を本物に見せることができる。
同時に、
本物を見せられた人間が「偽物だ」と逃げることもできる。
証拠という言葉そのものが、
以前より脆くなっている。
「再生しますか」
野村が訊いた。
真壁は岸田を見る。
岸田は腕を組んでいた。
「公式には解析結果を待つべきだ」
「公式には?」
「俺個人としては今すぐ聞きたい」
真壁はICレコーダーを見た。
「再生しよう」
三人。
解析室。
ドアを施錠。
携帯電話を別室へ置いた。
ICレコーダーを外部スピーカーにつなぐ。
野村が再生ボタンを押した。
3
最初は雑音だった。
人の声。
車。
駅のアナウンス。
風。
そして男性の声。
『警察の方ですか』
真壁の背筋が伸びた。
テレビや記録映像で何度も聞いた声に似ていた。
しかし似ていることと、本物であることは違う。
真壁は自分にそう言い聞かせた。
次。
別の声。
『はい』
真壁自身だった。
野村がこちらを見る。
真壁は手で制した。
音声は続く。
男性。
『少し妙なことを聞きまして』
真壁。
『何でしょう』
雑音。
『今日ここで、何か起きると』
真壁の喉が乾いた。
録音の中の自分が訊く。
『誰からですか』
『名前はわかりません』
『具体的には』
風。
数秒、聞き取りにくい。
そして。
『二回、音がする、と』
真壁の指が動いた。
岸田が再生を止めた。
「待て」
部屋が静かになった。
野村が言った。
「二回……」
岸田は真壁を見る。
「覚えてるか」
「いや」
「まったく?」
「断片だけです」
岸田が言う。
「続けろ」
再生。
真壁の声。
『どこで聞いたんです』
男性。
『昨夜です』
『誰に』
『電話でした』
『番号は』
『非通知です』
真壁。
『内容をもう一度お願いします』
男性の声。
『明日の演説では二度、大きな音がする。一度目では動かないほうがいい、と』
野村が息を呑んだ。
真壁は黙っていた。
もしこれが本物なら。
事件前夜。
元首相に予告めいた電話があったことになる。
しかし。
それは確認された史実ではない。
むしろ、ここまで都合よく現在の謎と一致していること自体が怪しい。
真壁は言った。
「止めろ」
野村が止める。
「どうしました」
「出来すぎてる」
岸田が頷いた。
「俺もそう思う」
「今まで俺たちが知った情報を使えば作れる」
「二発」
「一発目と二発目」
「非通知」
「全部な」
野村が訊いた。
「じゃあ偽物?」
「まだわからない」
真壁は言った。
「だからこそ続きを聞く」
4
再生。
録音の中の真壁が言う。
『警護担当には?』
男性。
『まだ話していません』
『話してください』
『そうします』
少し間。
そして。
男性が言った。
『ただ、一つ気になることがあるんです』
『何です』
『電話の相手は、事件が起きるとは言っていない』
『え?』
『二度音がする、としか言わなかった』
真壁は目を細めた。
『それだけなら悪戯かもしれません』
『そうですね』
『でも気になった』
『はい』
『なぜです』
長い沈黙。
男性。
『相手が最後に、妙なことを言ったからです』
録音の中の真壁。
『何と?』
雑音。
電車の音。
その部分だけ聞こえない。
野村が音量を上げる。
再生。
やはり聞こえない。
「ノイズ除去できるか」
「後でやります」
音声は続く。
真壁の声。
『それはどういう意味です?』
男性。
『私にもわかりません』
真壁。
『言葉通りなら――』
そこで突然、
別の声が入った。
『先生、そろそろお願いします』
録音の男性が返事をする。
そして最後。
『警察の方』
『はい』
『念のため、調べていただけますか』
『もちろんです』
『お願いします』
足音。
録音終了。
解析室は静まり返った。
岸田が言った。
「肝心なところだけ聞こえない」
「意図的ですね」
野村が答えた。
真壁は何も言わなかった。
違和感がある。
何か。
録音内容ではない。
もっと単純なもの。
「もう一回」
「全部ですか」
「最初から」
再生。
真壁は目を閉じた。
声ではなく、
背景音を聞いた。
駅。
車。
風。
アナウンス。
足音。
そして。
気づいた。
「止めろ」
野村が停止。
「何です?」
「蝉がいない」
「え?」
「蝉だ」
野村が首を傾げる。
「七月ですよ」
「そうじゃない」
真壁は十九本目の映像を開かせた。
映像。
午前十一時五分。
真壁と元首相が話している。
音声はない。
だが周囲には街路樹がある。
「昨日の017を出せ」
再生。
同じ時間帯。
音声。
蝉。
かなり大きい。
「二十本目には」
真壁が言った。
「蝉の声がほとんどない」
野村の顔が変わった。
「別の場所で録音された?」
「可能性がある」
岸田が言う。
「つまり偽物か」
真壁は首を振った。
「まだです」
「なぜ」
「声だけ別の場所で録音して、駅前の環境音を重ねた可能性もある」
「それなら偽物だろ」
「逆もある」
「逆?」
真壁は言った。
「本物の会話から、背景音だけ差し替えた」
野村が真壁を見る。
「なぜそんなことを?」
真壁は答えた。
「隠したい音があったからだ」
5
音響解析の専門家が到着したのは午後一時だった。
二十本目を解析。
声。
ノイズ。
周波数。
反響。
約二時間。
結果は奇妙だった。
「会話自体には、現時点で明確な合成痕跡は確認できません」
専門家が言った。
「つまり本物?」
野村が訊く。
「そこまでは言えません」
「背景音は?」
「複数の音源が重ねられています」
真壁は身を乗り出した。
「やっぱり」
「駅の環境音は後から加えられた可能性が高い」
「元の背景音は消せますか」
「完全には無理です」
「できる範囲で」
専門家が作業する。
十分。
二十分。
そして。
音声。
男性二人の会話の後ろ。
微かな音。
一定間隔。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
野村が言った。
「何の音です?」
専門家が首を傾げる。
真壁には聞き覚えがあった。
「駐車場だ」
「え?」
「地下駐車場の精算機か、ゲート」
真壁の頭の中に記憶が戻る。
白い柱。
蛍光灯。
葛城。
地下駐車場。
「もっと除去して」
さらに処理。
そして。
別の音。
女性の声。
遠い。
何か言っている。
専門家が音量を上げる。
『……城さん』
真壁が立ち上がった。
「もう一回」
再生。
『葛城さん』
確かに聞こえた。
野村が真壁を見る。
「葛城?」
二十本目の会話。
安倍元首相と思われる声。
真壁の声。
その録音場所の近くに、
葛城慎一がいた。
6
「つまり」
野村がホワイトボードに書いた。
「駅前で交わされた会話を、別の場所で録音?」
「違う」
真壁が言った。
「映像では俺と安倍さんは駅前で話している」
「はい」
「でも二十本目の音声は地下駐車場で録音されている可能性がある」
「じゃあ同じ会話を二回した?」
「あるいは」
岸田が言った。
「駅前の映像のほうが偽物」
真壁は十九本目を見る。
自分。
安倍元首相。
四十七秒。
「可能性はある」
野村が言う。
「でも映像も音声も偽物だったら、何を信じればいいんです?」
真壁は彼を見る。
「それが相手の狙いかもしれない」
「どういう意味です」
「本物を探させてるんじゃない」
真壁はホワイトボードを見る。
「俺たちから『本物』という概念を奪おうとしてる」
映像。
音声。
記録。
証言。
記憶。
すべてが互いに矛盾している。
そしてその中心に、
四年前の自分がいる。
「真壁さん」
野村が言った。
「一つ試したいことがあります」
「何だ」
「十九本目の映像と二十本目の音声を合わせます」
「映像に音を?」
「はい」
野村が編集ソフトで同期させる。
口の動き。
音声。
少しずつ調整。
そして。
再生。
映像の安倍元首相と思われる人物が口を動かす。
音声。
『警察の方ですか』
一致。
真壁。
『はい』
一致。
会話。
すべて一致している。
「本当にあの場の会話じゃないか」
岸田が言った。
だが野村は首を振った。
「待ってください」
映像を止める。
「ここ」
元首相が言葉を発している。
音声。
『少し妙なことを聞きまして』
口の動き。
一致。
次。
『今日ここで、何か起きると』
野村が停止。
「合わない」
真壁も気づいた。
「口が違う」
「はい」
音声では、
今日ここで何か起きると。
だが映像の口は、
もっと短い。
読唇術の専門家へ映像だけを送った。
一時間後。
回答。
推定。
《あなたも聞きましたか》
真壁はその文章を見つめた。
「あなたも」
野村が言った。
「つまり」
真壁が続ける。
「安倍さんだけじゃない」
誰かが、
真壁にも何かを伝えていることを、
元首相は知っていた。
音声は改変されている。
少なくとも一部。
では本当の会話は何だったのか。
7
その答えは、
思いがけないところから出てきた。
十九本目の映像。
野村が映像の音声トラックを確認していた。
「真壁さん」
「何だ」
「これ、無音じゃありません」
「昨日そう言っただろ」
「聞こえないだけです」
波形。
ほとんど平ら。
だが微細な振動がある。
「マイクが塞がれてた?」
「たぶん」
増幅。
ノイズ除去。
また増幅。
壊れたような音。
風。
衣服が擦れる音。
そして。
声。
小さい。
だが。
聞こえる。
『……聞きましたか』
真壁の心臓が跳ねた。
映像の口と一致する。
さらに。
真壁自身の声。
『はい』
男性。
『何と言われました』
真壁。
『二発目を見ろ、と』
解析室の空気が変わった。
野村が再生を止める。
「二発目を……見ろ?」
真壁は黙った。
二十本目の音声では、
「二度、大きな音がする」。
だが実際の会話は違う。
二発目を見ろ。
再生。
男性。
『私には、一発目を見るなと言いました』
真壁。
『誰が?』
男性。
『わかりません』
真壁。
『私にもです』
男性。
『同じ人物でしょうか』
真壁。
『わかりません』
雑音。
そして。
男性。
『妙ですね』
真壁。
『何がです』
『私には一発目を見るな』
間。
『あなたには二発目を見ろ』
真壁。
『はい』
そして。
あの言葉。
『もし本当なら――』
真壁は息を止めた。
四年間、
その先を思い出せなかった。
音声が続く。
『もし本当なら、見てはいけないものと、見なければならないものが別々にあるということになりますね』
真壁は目を閉じた。
そうだ。
この言葉。
聞いた。
四年前。
確かに。
聞いた。
男性の声。
『警察の方』
『はい』
『二つの音そのものではなく』
短い沈黙。
『その間を調べたほうがいいのかもしれません』
そこで会話が終わった。
三人とも動かなかった。
一発目でもない。
二発目でもない。
その間。
四年前。
すでに同じ言葉が存在していた。
8
「誰が電話した」
岸田が言った。
「それを探せばいい」
野村が頷く。
「元首相と真壁さん、両方に接触した人物」
「電話記録を洗う」
「四年前ですよ」
「残ってるもの全部だ」
真壁だけは別のことを考えていた。
一発目を見るな。
二発目を見ろ。
なぜ別々の指示を与えた。
そして、
なぜ元首相と刑事を選んだ。
そのとき。
携帯電話が鳴った。
非通知。
真壁は画面を見た。
野村と岸田も気づく。
スピーカーにする。
「真壁だ」
沈黙。
そして、
あの男の声。
『二十本目を聞きましたね』
「お前は誰だ」
『まだその質問ですか』
「葛城か」
沈黙。
初めて、
電話の相手が反応した。
ほんの一秒。
だが真壁にはわかった。
「葛城慎一だな」
男は答えなかった。
「生きてるんだな」
長い沈黙。
そして。
『真壁』
声が変わった。
機械的な加工が消えた。
生の声。
真壁は目を閉じた。
知っている。
地下駐車場。
四年前。
『人間は自分の記憶より記録を信じる』
あの声。
「葛城……」
『久しぶりだな』
野村が息を呑んだ。
岸田が通信追跡を指示する。
真壁は話を続けた。
「どこにいる」
『それを言うために電話したんじゃない』
「高瀬を殺したのか」
『違う』
「証明できるか」
『できない』
「なら信用できない」
『信用する必要はない』
「何が目的だ」
葛城が答える。
『四年前、俺たちは間違えた』
「何を」
『事件を調べた』
「それの何が間違いだ」
『違うんだ』
葛城の声が低くなる。
『調べるべきだったのは事件じゃない』
「じゃあ何だ」
『記録だ』
真壁は黙った。
『誰が撃ったかではない』
『なぜ撃ったかでもない』
『誰が守れなかったかでもない』
葛城は言った。
『なぜ、事件が起きた直後から、全員が同じ映像だけを見ることになったのか』
真壁の背筋に冷たいものが走る。
「どういう意味だ」
『真壁』
「何だ」
『二十五フレームを見ただろ』
「ああ」
『あれは映像から消されたんじゃない』
「高瀬はそう言ってた」
『高瀬も最後まで勘違いしていた』
「じゃあ何だ」
葛城は数秒黙った。
そして。
『二十五フレームは』
声が小さくなる。
『後から足されたんだ』
真壁は言葉を失った。
野村が首を振る。
「どういうことだ」
真壁が訊く。
『明日の午前十一時』
「どこだ」
『お前が四年前に俺と話した地下駐車場』
「来るのか」
『ああ』
「逃げるなよ」
葛城が小さく笑った。
『逃げていたのは俺じゃない』
「何?」
『お前だよ、真壁』
電話が切れた。
追跡担当から連絡。
発信場所は特定できなかった。
真壁は携帯電話を置いた。
明日。
午前十一時。
地下駐車場。
四年前、
自分の記憶が途切れた場所。
野村が言った。
「罠でしょう」
「かもしれん」
「行くんですか」
「ああ」
「当然、僕も」
「駄目だ」
「なぜ」
真壁は答えなかった。
机の上に、
ICレコーダーがある。
映像。
音声。
記録。
四年間、
真壁はそれらを証拠だと思っていた。
だが今は違う。
証拠は、
過去を保存する。
同時に、
過去を作ることもできる。
そしてもし葛城の言葉が本当なら、
最大の謎は変わる。
二十五フレームに何が映っているのか。
ではない。
誰が、
何のために、
事件後の映像へ二十五フレームを加えたのか。
その答えを知っている人間が、
明日、
真壁の前に現れる。
死んだことになっている男。
葛城慎一。
そして真壁は、
もう一つ思い出していた。
四年前。
地下駐車場。
別れ際。
葛城が言った言葉。
『もし俺が死んだことになったら』
真壁は訊いた。
『なったら?』
葛城は答えた。
『俺の死体を確認した人間を疑え』
その人間が誰だったのか。
記録には、
はっきり残っている。
真壁修司。
自分自身だった。

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