東野圭吾を模倣し、元首相暗殺事件を題材にしたオリジナル小説『二発目の空白』第三章

目次

第三章 十九本目

1

十九本目の映像は、送られてこなかった。

真壁修司はそれを待っていた。

十分。

二十分。

一時間。

だが、何も届かない。

メールの最後に書かれていた一文だけが、モニターに残っている。

《あなたはそこで、安倍元首相本人と話しています。》

野村亮介が時計を見た。

午後二時四十七分。

「向こうは、こっちが待ってることを楽しんでるんでしょうか」

「違う」

真壁は言った。

「え?」

「楽しんでるなら、とっくに送ってくる」

「じゃあ何のために」

「俺に探させたいんだ」

野村は眉を寄せた。

「十九本目を?」

「ああ」

真壁は椅子から立った。

「最初からそうだ」

机の上には、これまでの資料が並んでいる。

高瀬浩二。

白いシャツの男。

葛城慎一。

十七本の映像。

十八本目。

消された二十五フレーム。

空の封筒。

そして四年前の真壁自身。

「相手は答えを送ってきてるんじゃない」

真壁は言った。

「ヒントだけ?」

「そうだ」

「何のために」

「俺に思い出させるためだ」

「でも真壁さん」

野村は少し言いにくそうにした。

「もし本当に記憶が消えてるなら……」

「何だ」

「思い出していい記憶なんでしょうか」

真壁は野村を見た。

若い刑事の顔に冗談はなかった。

「どういう意味だ」

「人間って、忘れたいことを忘れることがあるじゃないですか」

「心理学の話か」

「詳しくは知りません。でも、ものすごく怖い体験とか」

「俺が自分から忘れたと?」

「可能性の話です」

真壁は窓へ目を向けた。

夏の日差しが白く反射している。

四年前の七月八日も、こんな光だった。

そう思った瞬間。

また映像が浮かんだ。

地下駐車場。

白い柱。

蛍光灯。

誰かの声。

――二発目が鳴ったら。

そこで切れる。

「野村」

「はい」

「俺の七月八日の行動を全部洗え」

「四年前の?」

「一分単位で」

「でも公式記録では――」

「公式記録は一度忘れろ」

真壁は言った。

「人間の記録を探せ」

「人間?」

「俺を見た人間だ」

2

四年前の記憶を探す作業は、真壁が想像していた以上に難しかった。

記録は残る。

だが、人の記憶は残らない。

まして何でもない一日の一場面など、四年も経てばほとんど消えている。

それでも野村は片っ端から電話をかけた。

当時の捜査員。

事務職員。

会議参加者。

県警本部の警備員。

食堂職員。

そして一時間半後。

一人だけ、妙なことを覚えている人物が見つかった。

元県警職員の女性。

藤岡美佐子。

現在六十八歳。

四年前まで県警本部一階の受付に勤務していた。

電話はスピーカーにした。

『真壁さん?』

女性の声。

「はい」

『覚えてますよ。無口な刑事さん』

「無口でしたか」

『愛想がなかった』

野村が横で笑いを堪えた。

真壁は睨んだ。

「二〇二二年七月八日のことを伺いたいんです」

電話の向こうが静かになった。

『あの日ね』

声の調子が変わった。

やはり日本中が覚えている日なのだ。

「午前中、私を見ませんでしたか」

『午前中?』

「はい」

『どうだったかしら』

「どんな小さなことでも構いません」

しばらく沈黙。

そして。

『あ』

「何か?」

『出ていったわ』

真壁と野村は顔を見合わせた。

「私が?」

『たぶん』

「何時です」

『そこまでは』

「思い出してください」

『四年前よ』

「お願いします」

沈黙。

『十一時前だったと思う』

「十一時前?」

『ええ』

真壁の心拍が速くなる。

公式記録では、その時間、真壁は会議室にいた。

「どこへ行くと言いました?」

『何も』

「一人でした?」

『ええ』

「戻ってきたのは?」

女性は答えなかった。

「藤岡さん?」

『変なのよね』

「何がです」

『戻ってきたところを覚えてないの』

真壁は野村を見る。

「でも私は十一時十五分に会議で発言しています」

『そうなの?』

「はい」

『じゃあ戻ったんでしょうね』

「私が出ていったことは確かですか」

『ええ』

「なぜ覚えてるんです」

藤岡は少し笑った。

『あなた、私に時計を訊いたから』

真壁の背中に冷たいものが走った。

「時計?」

『今、何時ですかって』

「私が?」

『そう』

「腕時計をしていたでしょう」

『してたわよ』

「なのに?」

『だから変だと思ったの』

真壁は左腕を見た。

父の形見。

『私が十時五十三分ですって答えたら、あなた、自分の時計を見たの』

「それから?」

『何か言った』

「何を?」

『聞こえなかった』

「思い出せませんか」

長い沈黙。

『数字だったような』

「数字?」

『六だったか……七だったか』

真壁は身を乗り出した。

「七?」

『ごめんなさい。自信ないわ』

電話を切った。

野村がすぐ計算した。

「十時五十三分に県警本部を出たとして」

地図を表示する。

「車なら大和西大寺まで、交通状況次第ですが……」

「十一時二十八分には十分間に合う」

「はい」

「問題は十一時十五分だ」

会議室で真壁が発言している。

音声も残っている。

同じ時刻、真壁が移動していたなら矛盾する。

野村が録音をもう一度開いた。

『真壁です。その件ですが――』

確かに真壁の声だ。

「もっと前から再生しろ」

野村が戻す。

別の人物が話している。

会議。

資料をめくる音。

咳。

そして司会者。

『では、この件について真壁さんからお願いします』

数秒。

『真壁です。その件ですが――』

真壁が手を上げた。

「止めろ」

停止。

「何です?」

「俺の声の前」

「はい?」

「呼ばれてから返事をするまで、間がある」

「五秒くらい」

「会議なら普通か」

「普通でしょう」

「波形を見ろ」

野村が拡大した。

真壁の声の直前。

わずかなノイズ。

カチッ。

小さな音。

「何だ、これ」

「スピーカー?」

野村が言った。

真壁は彼を見た。

「会議室にいた誰かが」

野村の顔から笑みが消える。

「録音した真壁さんの声を流した?」

二人は黙った。

可能だった。

だが。

なぜそんなことをする。

しかも事件発生前に。

3

会議の出席者は十一人。

そのうち九人は現在も警察関係者だった。

一人退職。

一人死亡。

死亡者の名前を見た瞬間、真壁は言葉を失った。

葛城慎一。

「また葛城……」

野村が呟いた。

当時、葛城は会議の進行補助を担当していた。

つまり。

真壁の録音音声を流すことができる位置にいた。

「葛城の資料を全部出せ」

「はい」

経歴。

家族。

勤務歴。

事件当日の行動。

退職記録。

死亡記録。

しかし、そこでも矛盾があった。

「真壁さん」

「何だ」

「これ」

野村が死亡届の写しを表示した。

葛城慎一。

死亡日時。

二〇二二年七月七日午後十一時十四分。

京都府内。

交通事故。

「さっき見た」

「ここじゃありません」

野村が指した。

届出人。

葛城佳代。

妻。

「それが?」

「葛城さん、独身です」

真壁は画面を見る。

「確認したのか」

「人事記録では未婚」

「離婚歴」

「なし」

「内縁?」

「わかりません」

「葛城佳代を調べろ」

検索。

住民記録。

該当者なし。

運転免許。

なし。

社会保険。

なし。

銀行。

現時点で照会可能な範囲では、存在しない。

「幽霊が死亡届を出したのか」

野村が言った。

「幽霊はいない」

「最近、自信なくなってきました」

真壁は死亡届を拡大した。

葛城佳代。

手書きの署名。

その文字を見た瞬間。

胸の奥で何かが動いた。

見たことがある。

「待て」

真壁は引き出しを開けた。

最初の封筒。

《あなたたちは、一発目を調べていない。》

封筒の宛名。

真壁修司様。

二つの筆跡を並べる。

野村が息を呑んだ。

「似てる」

完全に同じではない。

だが特徴がある。

「鑑識へ」

「はい」

結果が出たのは夕方だった。

同一人物が書いた可能性が高い。

真壁は結果を聞き、椅子に深く座った。

四年前、葛城慎一の死亡届を出した人物が、

今、

真壁に手紙を送っている。

4

午後六時三分。

十九本目の映像が届いた。

メールではなかった。

宅配便だった。

小さな箱。

宛先は県警本部。

真壁修司。

差出人欄には名前がない。

中にはSDカードが一枚。

そして紙。

《19》

それだけ。

「防犯映像は?」

野村が訊いた。

「宅配業者から普通に届いた」

「発送元」

「大阪市内の営業所。持ち込み」

「誰が」

「帽子とマスク。偽名」

「またですか」

SDカードを情報管理部門で検査した。

危険なプログラムは確認されなかった。

映像ファイルが一つ。

19.mp4。

真壁と野村。

そして課長の岸田。

三人で見ることになった。

再生。

二〇二二年七月八日。

午前十一時。

大和西大寺駅周辺。

映像は遠い位置から撮影されていた。

「誰が撮ってる」

岸田が訊いた。

「不明です」

十一時二分。

十一時三分。

人が増えていく。

そして十一時五分。

野村が言った。

「来ました」

画面の左。

真壁。

四年前の真壁修司。

間違いない。

歩いている。

「俺だ」

岸田が真壁を見る。

「お前、本当に覚えてないのか」

「はい」

映像の真壁は駅の方向へ向かう。

だが途中で止まった。

誰かに声をかけられた。

男。

スーツ。

顔が見える。

岸田が息を吸った。

「……安倍さん」

安倍元首相本人だった。

真壁はモニターを凝視した。

映像には音声がない。

二人は短く言葉を交わしている。

十秒。

二十秒。

元首相が何か言う。

真壁が答える。

そして元首相が真壁の肩を軽く叩いた。

別れる。

映像時間。

わずか四十七秒。

「これだけ?」

野村が言った。

映像はまだ続いた。

真壁が歩く。

そして。

白いシャツの男が現れた。

「こいつだ」

真壁が言った。

男は真壁へ近づく。

封筒を渡す。

十八本目と同じ場面。

だが今回は別角度だった。

真壁が封筒を開ける。

中を見る。

顔色が変わる。

「拡大」

紙。

文字が見える。

野村が画像処理する。

少しずつ輪郭が浮かぶ。

紙には三行。

一行目。

《11:31》

二行目。

《二発》

三行目。

そして。

真壁の喉が鳴った。

《止めるな》

誰も話さなかった。

岸田が低い声で言った。

「何だこれは」

真壁は答えられない。

事件が起きる前。

真壁は、

時刻と、

発射回数を知らされていた。

そして。

止めるな。

「捏造だ」

岸田が言った。

「こんな映像、信用できるか」

真壁は画面を見た。

そう思いたかった。

だが映像の中の自分の表情。

封筒を読む目。

口元。

それを見ているうちに、

頭の奥で何かが弾けた。

5

地下駐車場。

記憶だった。

今度は消えなかった。

真壁は目を閉じた。

白い柱。

蛍光灯。

コンクリートの匂い。

男がいる。

葛城慎一。

「真壁」

葛城が言う。

「何を見た」

真壁は答える。

「紙だ」

「何が書いてあった」

「十一時三十一分。二発。止めるな」

葛城の顔が強張る。

「誰からだ」

「知らない男」

「顔は?」

「見た」

「覚えてるか」

「覚えてる」

葛城が真壁の肩を掴む。

「よく聞け」

「何だ」

「今から俺の言う通りにしろ」

「なぜ」

「その紙を持っていることを誰にも言うな」

「ふざけるな。犯行予告かもしれない」

「だからだ」

「何?」

葛城は周囲を確認した。

そして。

信じられない言葉を言った。

「その紙は、事件が終わるまで存在してはいけない」

記憶が途切れた。

真壁は目を開けた。

「葛城……」

野村が振り向く。

「思い出したんですか」

真壁は息を整えた。

「少し」

「何を?」

「俺は葛城に会ってる」

「いつ」

「事件の前」

岸田が立ち上がった。

「どこで」

「地下駐車場」

「何を話した」

真壁は答えようとした。

その瞬間。

別の記憶。

安倍元首相。

駅前。

四十七秒。

何を話した。

映像には音声がない。

だが。

一言だけ。

戻ってきた。

元首相の声。

『警察の方ですか』

自分。

『はい』

そして。

『少し妙なことを聞きまして』

そこで記憶が止まる。

「妙なこと……」

真壁が呟いた。

野村が訊く。

「何です?」

「安倍さんは」

真壁は額を押さえた。

「何か知ってた」

「何を?」

「わからない」

「思い出してください」

「無理だ」

頭痛。

吐き気。

だが、もう一つ。

声。

安倍元首相。

『もし本当なら――』

その先。

出てこない。

「くそ」

真壁は机を叩いた。

6

十九本目には続きがあった。

映像の最後。

事件発生の約十分前。

真壁が地下駐車場へ入る。

そして二分後。

葛城慎一が入る。

さらに三分後。

もう一人。

女性。

岸田が言った。

「誰だ」

顔が映る。

四十代くらい。

真壁は知らない。

野村も知らない。

女性は周囲を確認し、地下へ消える。

そして。

映像終了。

最後に文字。

《三人目を探せ。》

野村が女性の顔を画像検索へ回した。

十分。

二十分。

一致なし。

だが真壁は別のところを見ていた。

女性の右手。

紙袋。

そこから茶色い封筒が覗いている。

最初に真壁の机へ置かれたものと同じ種類。

「こいつだ」

「え?」

「葛城佳代」

野村が目を見開いた。

「死亡届を書いた?」

「たぶん」

「でも存在しない人物ですよ」

「名前が存在しないだけだ」

真壁は画面を見る。

「人間は存在する」

その瞬間。

岸田の携帯電話が鳴った。

「岸田だ」

数秒。

表情が変わった。

「いつ?」

さらに数秒。

「わかった。誰も触らせるな」

電話を切る。

「何です」

真壁が訊いた。

岸田は二人を見る。

「葛城慎一の墓が荒らされた」

「墓?」

「今日の午後」

「何をされた」

「墓石じゃない」

岸田は言った。

「骨壺が盗まれた」

真壁と野村は黙った。

「それだけじゃない」

岸田は続けた。

「墓地の管理人が警察に妙なことを言ってる」

「何です?」

「四年前、納骨のときから不思議だったそうだ」

「何が」

「骨壺が軽すぎた」

真壁は眉を寄せた。

岸田が言った。

「葛城の遺骨が入っていなかった可能性がある」

沈黙。

野村が小さく言った。

「じゃあ……」

真壁はモニターを見る。

二十五フレーム。

事件前日に死亡したはずの葛城。

だが事件当日の映像に映っている。

答えは、

驚くほど単純なのかもしれない。

「葛城は死んでない」

真壁が言った。

岸田が首を振る。

「まだ決めつけるな」

「でも」

「遺体確認記録がある」

「誰が確認した」

野村が調べる。

数秒。

手が止まる。

「どうした」

「遺体を最終確認した警察官……」

「誰だ」

野村は真壁を見た。

「真壁さんです」

真壁は動かなかった。

また自分。

死亡確認。

証拠品返却。

現場。

すべてに真壁の名前がある。

そして、

すべて記憶がない。

「誰かが俺の名前を使ってる」

真壁が言った。

野村は答えなかった。

岸田も。

二人の沈黙の意味を、真壁は理解した。

別の可能性。

真壁自身がやった。

そして忘れている。

「俺を疑ってるのか」

岸田が答えた。

「刑事なら疑う」

「俺もだ」

真壁は言った。

「俺自身を疑う」

そのとき。

解析室のプリンターが動いた。

三人とも振り向いた。

誰も操作していない。

一枚の紙が排出される。

野村が近づこうとした。

「待て」

真壁が止める。

紙には文字。

《十九本すべてを見たあなたへ。》

次。

《ようやくスタート地点です。》

真壁は紙を取った。

さらに文章。

《葛城慎一は生きています。》

野村が息を呑む。

次の一行。

《そして彼は、あなたより先に二発目の意味を知りました。》

さらに。

《だから消えました。》

真壁は読み進める。

最後の二行。

《真壁さん。》

《あなたが忘れたのではありません。》

真壁の指が止まる。

その下。

《あなたの記憶は、誰かの記録によって上書きされたのです。》

野村が言った。

「記録によって……?」

意味がわからない。

だが真壁には、

なぜかその言葉に覚えがあった。

葛城。

地下駐車場。

事件前。

会話の続き。

真壁は目を閉じる。

葛城が言っていた。

『人間は自分の記憶より記録を信じる』

『何の話だ』

『明日になればわかる』

『明日?』

『お前は明日、自分が今日ここにいたことを疑う』

『意味がわからん』

葛城は笑わなかった。

『会議記録がある』

『何?』

『防犯映像がある』

『何を言ってる』

『勤務記録もある』

葛城は真壁を見た。

『全部がお前に「ここには来ていない」と教える』

真壁は息を呑んだ。

記憶の中の自分が訊く。

『なぜそんなことをする』

葛城は答えた。

『一人の人間から記憶を奪うのに、薬なんか必要ない』

『じゃあ何が必要なんだ』

そして葛城は、

静かに言った。

『本人以外の全員が信じる記録だ』

真壁は目を開けた。

四年間。

会議記録を信じた。

勤務記録を信じた。

映像を信じた。

周囲の人間を信じた。

だから。

自分の記憶のほうを間違いだと思った。

消されたのではない。

自分で押し込めた。

「そういうことか……」

真壁が呟いた。

「何がです?」

野村が訊く。

真壁は答えようとした。

その瞬間。

プリンターがもう一度動いた。

二枚目。

一行だけ。

《では、二十本目を見ますか?》

野村が青ざめた。

「十九本で最後じゃなかったのか」

真壁は紙を見つめた。

下に小さな文字。

《二十本目は映像ではありません。》

そして。

《音声です。》

最後。

《録音者――安倍晋三。》

部屋から音が消えた。

真壁はその文字を見つめ続けた。

もし本物なら。

四年前の事件の直前、

自分と元首相が交わした四十七秒の会話。

失われていたその内容が、

どこかに残っている。

そして真壁は、

なぜか確信していた。

その音声の中にあるのは、

事件の「答え」ではない。

もっと厄介なものだ。

すべての始まりとなった、

一つの質問だ。

四年前、

安倍元首相は真壁に、

何を尋ねたのか。

二十本目の記録は、

まだ再生されていなかった。

事件前の時系列を整理して真壁の疑念を段階的に深めて

(第4章に続く)

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