第十章 最初の空白
1
二〇一八年十一月二十七日。
午後四時十二分。
取調室。
モニターの中の真壁修司は、今より少し若かった。
四十代半ば。
髪にもまだ白いものが少ない。
向かいに座っている男。
神谷直人。
当時四十一歳。
細身。
黒いセーター。
伏し目がち。
特徴のない顔。
だが真壁は覚えていた。
忘れていたのではない。
忘れたつもりになっていた。
「神谷……」
野村が横から訊いた。
「誰です?」
真壁は答えなかった。
モニターを見る。
映像の中で、
二〇一八年の真壁が言う。
『もう一度聞きます』
神谷。
『何度聞かれても同じです』
『十一月二十三日の午後九時から十一時まで、どこにいました』
『自宅です』
『証明できる人は』
『いません』
『携帯電話の位置情報は京都にある』
神谷は黙る。
『奈良の自宅にいた人間の携帯が、なぜ京都にある』
『わかりません』
『携帯だけ誰かに渡した?』
『いいえ』
『じゃあ京都にいた』
神谷が真壁を見る。
『刑事さん』
『何です』
『記録がそう言っているなら、そうなんでしょうね』
映像の前の真壁の表情が変わった。
今の真壁も同じだった。
あの言葉。
当時は、
容疑をかわすための皮肉だと思った。
だが今聞けば、
意味が違う。
『あなた自身はどうなんです』
神谷が言う。
『何が』
『自分が昨日どこにいたか、どうやって証明します』
『今はあなたの話をしてる』
『記憶ですか』
『……』
『記録ですか』
真壁はモニターへ近づいた。
八年前。
すでに同じ問いが存在している。
記憶か。
記録か。
神谷がカメラを見る。
唇。
《まだだ》
映像が止まった。
黒いバンドの男――水島圭介と名乗った人物が言った。
「ここが最初です」
真壁が振り向く。
「何の」
「あなたの観測です」
「神谷はどこだ」
「知りません」
「嘘をつくな」
「本当に知りません」
「お前は神谷の仲間か」
男は少し考えた。
「仲間という言葉は正確ではありません」
「じゃあ何だ」
「彼が始めた」
「何を」
男はモニターを指した。
「質問を」
真壁は眉を寄せた。
「質問?」
「記録が人間の記憶と矛盾したとき、人はどちらを選ぶのか」
「神谷が研究者だったとでも言うのか」
「いいえ」
「ならなぜ」
男は答えた。
「神谷直人は、最初の被害者です」
2
真壁は二〇一八年の事件を思い出していた。
失踪した女性。
名前は相沢美紀。
三十八歳。
会社員。
十一月二十三日の夜、
京都市内のホテルを出たあと行方不明。
携帯電話だけが翌朝、
奈良県内の駅で発見された。
神谷は相沢の元交際相手。
事件の一年前に別れていた。
ホテル近くの防犯カメラには、
神谷によく似た男。
神谷の携帯電話も京都。
交通系ICカードにも京都での利用履歴。
だから重要参考人になった。
だが決定的証拠はなかった。
そして。
相沢美紀は、
一週間後に帰ってきた。
無事だった。
「そうだ」
真壁が呟いた。
野村が訊く。
「失踪じゃなかった?」
「本人は、自分の意思で姿を消したと言った」
「神谷は関係なかった?」
「本人は会ってないと証言した」
「なら釈放」
「ああ」
だが。
神谷はその翌日に消えた。
住居を引き払い、
勤務先も退職。
携帯電話も解約。
それ以降、
真壁は神谷を見ていない。
「相沢美紀は?」
野村が訊く。
「今は?」
真壁は答えられなかった。
調べたことがない。
事件が解決したと思ったから。
水島が言った。
「相沢美紀さんは二〇二〇年に死亡しています」
「死因」
「交通事故」
真壁が睨む。
「また事故か」
「本当の事故です」
「お前が言っても信用できん」
「正しい態度です」
真壁は苛立った。
「神谷は何の被害者なんだ」
水島はモニターを操作した。
別の映像。
同じ取調室。
日付。
十一月二十六日。
真壁がいない時間。
神谷一人。
しばらくすると、
男が入ってくる。
私服。
顔は映らない。
神谷へ紙を置く。
男。
『これを見てください』
写真。
ホテル前。
神谷らしい人物。
神谷が言う。
『私じゃない』
『でも似ています』
『似ているだけだ』
次。
携帯位置情報。
京都。
ICカード履歴。
ホテルの領収書。
神谷の名前。
男。
『これだけ記録がある』
神谷。
『私は行っていない』
『では記録が全部間違っている?』
『そうだ』
『それとも』
男は言う。
『あなたが忘れている?』
神谷の顔が変わった。
真壁は映像を見る。
「誰だ、こいつ」
水島。
「当時の観測担当者です」
「警察官か」
「違います」
「なぜ取調室に入れる」
「協力者がいた」
「誰」
「すでに死亡しています」
真壁は笑った。
「便利だな。困ると全員死ぬ」
水島は何も言わなかった。
3
映像が続く。
男は神谷へ記録を見せ続ける。
一つ。
また一つ。
神谷が京都にいたことを示す記録。
神谷は否定する。
だが、
十五分後。
声が弱くなる。
『もしかしたら……』
真壁が画面を見る。
神谷。
『行ったのかもしれない』
男。
『覚えていない?』
『はい』
『相沢さんに会った?』
神谷は頭を抱える。
『わからない』
真壁の拳に力が入った。
「誘導尋問じゃないか」
水島。
「はい」
「こんなもの実験でも何でもない」
「その通りです」
「その通り?」
「だから問題になった」
「誰の中で」
水島は秋月を見る。
秋月が答えた。
「私だ」
野村が驚く。
「先生は二〇一八年から?」
「関わっていた」
「どうして」
秋月は長く息を吐いた。
「大学の共同研究として始まった」
「警察と?」
「違う。民間研究機関とだ」
「情報行動研究機構?」
「前身組織だ」
真壁が訊く。
「目的は」
「誤情報が目撃証言に与える影響」
「まともな研究に聞こえるな」
「最初はまともだった」
秋月の声が低くなる。
「実験室で映像を見せ、後から一部違う情報を与える。それだけだった」
「神谷は?」
「実験ではない」
「じゃあ何だ」
秋月は答えた。
「無断で行われた実地試験だ」
野村が顔をしかめる。
「実際の警察捜査で?」
「そうだ」
「先生は知ってた?」
「後から知った」
「止めなかったんですか」
秋月は黙った。
その沈黙が答えだった。
野村が目を逸らす。
真壁は責めなかった。
今は事実だけでいい。
「神谷は、自分の記憶を疑い始めた」
水島が言った。
「しかし翌日、状況が変わった」
「相沢が戻った?」
「はい」
「神谷の無実がわかった」
「少なくとも失踪への関与は否定された」
「そこで終わるはずだった」
「はい」
水島は言った。
「ところが神谷さんは終わらなかった」
4
釈放された神谷は、
翌朝、県警へ戻ってきた。
真壁にはその記憶がない。
映像があった。
午前八時三十二分。
真壁は数字を見て苦笑した。
もう意味を探さない。
神谷が受付に立っている。
『真壁刑事に会わせてください』
受付。
『ご用件は』
『確認したいことがあります』
真壁が現れる。
映像の中。
『神谷さん』
『刑事さん』
『どうしました』
神谷が紙袋を差し出す。
『これ、調べてください』
『何です』
『私が京都にいた証拠です』
真壁が眉を寄せる。
『あなたは京都にいなかったんでしょう』
『はい』
『なら』
神谷が遮る。
『だから調べてほしい』
紙袋。
中。
領収書。
ICカード。
写真。
ホテルカードキー。
神谷名義。
『全部、本物です』
『どういう意味です』
『誰かが本物を作った』
真壁は黙る。
神谷。
『偽造じゃない』
『……』
『本物のホテルで、本物の料金を払って、本物のカードを使って、私の名前で記録を残した』
真壁の表情が変わる。
神谷。
『記録を偽造する必要なんかないんです』
『何が言いたい』
『別の人間が、私として行動すればいい』
真壁は現在の野村を見る。
替え玉。
同じだ。
二〇一八年。
すでに手法は完成していた。
「俺はどうした」
水島は映像を続ける。
二〇一八年の真壁。
『正式に届けてください』
神谷。
『届けたらどうなります』
『捜査します』
『記録が残る』
『当然です』
神谷が笑う。
『その記録を作る人間を、私は疑ってるんですよ』
真壁は言葉を失う。
神谷は紙袋を引っ込める。
『まだだ』
『何がです』
『まだ警察には渡せない』
ここだった。
《まだだ》
白いシャツの男。
二十五フレーム。
何度も現れた言葉。
真壁は水島を見る。
「これが最初?」
「はい」
「暗号じゃない?」
「違います」
「神谷が実際に言っただけ?」
「そうです」
真壁は天井を見上げた。
笑いたくなった。
四年間。
「まだだ」という二文字に意味を探してきた。
だが始まりは、
一人の男が証拠を警察へ渡すのをためらった、
ただそれだけ。
「それを後から使った」
高瀬が答えた。
「はい」
「映像に入れた」
「はい」
「白いシャツの男に言わせたように見せた」
「はい」
「俺が意味を探すと予測して?」
「はい」
真壁は高瀬を見る。
「成功したな」
高瀬は目を伏せた。
5
「神谷は何をした」
真壁が訊く。
水島が答える。
「自分で調べ始めた」
「何を」
「誰が自分の記録を作ったのか」
「見つけた?」
「一部だけ」
「誰」
水島は大庭を見る。
大庭が答えた。
「私です」
真壁が振り向く。
「お前?」
「当時、私は実験の被験者になった後、研究補助へ回っていました」
「神谷の替え玉を?」
「手配しました」
真壁の目が冷たくなる。
「犯罪だぞ」
「わかっています」
「今さらか」
「当時もわかっていました」
「ならなぜ」
大庭は答えた。
「自分がされたことを、他人にも起こしたかった」
野村が顔をしかめる。
「復讐?」
「違います」
「じゃあ何です」
「確認です」
大庭の声は静かだった。
「自分だけがおかしくなったのか」
「……」
「それとも誰でも同じようになるのか」
真壁は大庭を見る。
被害者が実験者になった。
理解はできる。
納得はできない。
「神谷はお前にたどり着いた?」
「はい」
「どうした」
「私を殺そうとしました」
沈黙。
「本当に?」
「はい」
「証拠は」
大庭が笑った。
「その質問を待っていました」
「何?」
「あなたは変わりました」
「昔の俺なら?」
「私の言葉を信じたか、疑った」
「今は」
「証拠を求める」
大庭はポケットからUSBメモリーを出した。
真壁は受け取らない。
「そこへ置け」
大庭が床へ置く。
「何が入ってる」
「二〇一八年十二月三日」
「何の映像」
「神谷さんが私に拳銃を向けた映像」
真壁の眉が動く。
「また拳銃か」
「はい」
「俺と葛城の映像と同じ構図?」
「ほぼ」
真壁は理解した。
「再現したのか」
大庭は答えない。
「二〇二二年、俺に葛城へ銃を向けさせたのは」
「二〇一八年の神谷さんの行動を再現できるか試した」
「誰が決めた」
「システムです」
「違う」
真壁が強く言った。
「システムは決めない」
大庭の表情が変わる。
「入力した人間がいる」
沈黙。
「誰かが条件を書いた」
「……」
「誰かがプログラムした」
「……」
「『システムが決めた』は責任逃れだ」
大庭は初めて目を逸らした。
秋月が小さく頷いた。
「その通りだ」
水島が真壁を見る。
「だからあなたを呼びました」
「何?」
「我々の中で」
水島は言った。
「最後まで、そのことを言う人間が必要だった」
6
真壁は水島を見た。
「美談にするな」
「していません」
「お前も加害者だ」
「はい」
「高瀬も」
「はい」
「秋月も」
秋月が答える。
「そうだ」
「大庭も」
「はい」
「河瀬も」
肩を処置された河瀬が壁際で座っている。
「はい」
「葛城は」
葛城が言った。
「俺は巻き込まれただけだ」
真壁は葛城を見る。
「本当に?」
葛城の顔が止まる。
「何だよ」
「お前だけ綺麗すぎる」
「真壁」
「俺たち全員、どこかで嘘をついてる」
葛城は答えない。
「俺も含めてな」
真壁はモニターを見る。
神谷直人。
「神谷は大庭を殺そうとした」
「はい」
「その後消えた」
「はい」
「なぜ」
水島が言った。
「彼は一つの結論に達した」
「何」
「記録から逃げるには」
間。
「記録されない人間になるしかない」
真壁は眉を寄せる。
「戸籍を消した?」
「そこまではできません」
「じゃあ」
「記録と本人を切り離した」
「どうやって」
「名前を使わなくなった」
「仕事は」
「現金」
「住居」
「短期滞在」
「携帯」
「他人名義」
「犯罪だらけだな」
「はい」
「それで消えた?」
「完全には」
「何が残った」
水島が真壁を見る。
「あなたです」
「俺?」
「神谷さんは、あなたにだけ本当のことを話した」
「覚えてない」
「話しています」
「いつ」
「二〇一八年十二月四日」
「映像は」
「ありません」
真壁は一瞬止まる。
「珍しいな」
「神谷さんがカメラのない場所を選んだ」
「どこ」
水島は答えた。
「あなたの車です」
真壁の記憶。
雨。
夜。
車内。
助手席。
男。
神谷。
『刑事さん』
『何です』
『もし記録と記憶が違ったら』
『……』
『記憶を捨てないでください』
真壁は目を閉じた。
戻ってくる。
神谷。
『記録は後から作れる』
『記憶だって間違う』
真壁が答えている。
神谷が笑う。
『だから、どっちも信じないでください』
真壁。
『じゃあ何を信じる』
神谷。
『一致するところだけ』
真壁は目を開けた。
葛城を見る。
「お前の言葉じゃなかった」
葛城の表情が変わる。
「何が」
「複数のものが一致する地点だけを信じろ」
葛城は黙った。
「あれは神谷の言葉だ」
長い沈黙。
「そうだ」
葛城が認めた。
「なぜお前が知ってる」
「お前が俺に話した」
「いつ」
「二〇一八年」
真壁は息を止める。
「お前もいた?」
「神谷の失踪を一緒に追った」
「記録にない」
「非公式だった」
「俺は覚えてない」
葛城が言った。
「だから俺は、お前の記憶が消えたんじゃないと最初から知ってた」
「どういう意味」
「二〇二二年が初めてじゃなかったからだ」
真壁は葛城を見る。
「俺は二〇一八年にも、自分の記憶を疑わされた?」
「ああ」
「誰に」
葛城は答えた。
「神谷本人にだ」
7
「神谷が?」
野村が訊いた。
葛城が頷く。
「観測者側へ回ったんですか」
「違う」
「じゃあ」
「自分を守るためだ」
葛城は真壁を見る。
「神谷は、自分と会った記憶を真壁に持たせたくなかった」
「なぜ」
「追われていたから」
「どうやって」
真壁が訊く。
「薬か」
「違う」
「催眠?」
「違う」
「じゃあ」
葛城は言った。
「翌日、お前自身が記録を作った」
「俺が?」
「ああ」
「何の」
「十二月四日の夜、お前はずっと自宅にいたという記録」
「どうやって」
「防犯カメラ」
「替え玉?」
「違う」
葛城は首を振る。
「録画時刻をずらしただけだ」
「それを誰が」
「お前だ」
真壁は黙った。
「俺が?」
「ああ」
「なぜ」
「神谷を守るため」
真壁は理解できなかった。
葛城が続ける。
「お前は神谷と会ったあと、自分で自分のアリバイを作った」
「警察官が?」
「そうだ」
「そんなことをする理由は」
「神谷から何かを聞いた」
「何を」
葛城は首を振った。
「そこだけは俺も知らない」
真壁は記憶を探す。
車内。
雨。
神谷。
何かを渡された。
紙。
いや。
写真。
一枚。
真壁は額を押さえた。
「写真……」
「何だ」
「神谷が写真を持ってた」
「誰の」
ぼやけている。
男。
女。
建物。
日付。
二〇一八年。
写真の端。
黒いバンド。
「水島」
真壁が言った。
男が反応する。
「お前が写ってた」
「私?」
「違う」
真壁は首を振る。
「今のお前じゃない」
全員が黙る。
「黒いバンドをした男」
「……」
「顔が違う」
「……」
「神谷はそいつを水島と呼んでいた」
現在の水島が目を閉じる。
真壁は近づく。
「説明しろ」
男はしばらく黙った。
そして。
「私も二代目です」
と言った。
野村が呟く。
「役割……」
「はい」
「初代水島は」
真壁が訊く。
「誰だ」
男は答えなかった。
代わりに秋月を見る。
秋月の顔が青ざめている。
真壁は気づいた。
「先生は知ってる」
野村が言う。
秋月は目を閉じる。
「知っている」
「誰です」
「言え」
真壁も迫る。
秋月はゆっくり目を開けた。
「神谷直人だ」
誰も動かなかった。
8
「馬鹿な」
真壁が言った。
秋月は続ける。
「正確には、神谷が最初に『水島』という役割を使った」
「神谷は被害者だろ」
「そうだ」
「なのに管理者?」
「順番が逆なんだ」
秋月が言った。
「我々はずっと、神谷が観測実験の被害者になったから反撃したと思っていた」
「違う?」
「神谷は実験より前から、同じ発想を持っていた」
「何?」
「人間の記憶は記録によって変えられる」
秋月はモニターを見る。
「我々の研究計画に匿名で最初の提案書を送った人物」
「それが神谷?」
「そうだ」
野村が言った。
「自分で提案した実験の被害者になった?」
「本人は知らなかった」
「どういう意味です」
「提案は理論だった。人間を実際の事件で試すとは思っていなかった」
真壁が理解する。
「研究者が暴走した」
「そうだ」
「神谷自身を対象にした」
「そうだ」
「それで神谷は、自分の理論が何をするか体験した」
秋月が頷く。
「そして壊れた」
静寂。
真壁は神谷の映像を見る。
カメラ。
《まだだ》
「じゃあ神谷は」
「止めようとした」
秋月が言う。
「最初は」
「最初は?」
秋月の顔に苦い表情。
「途中から考えが変わった」
「なぜ」
「止められないなら」
秋月は言った。
「最後までやって、危険性を証明するしかないと」
真壁は目を閉じた。
被害者が加害者へ。
加害者が告発者へ。
誰も一つの役割ではない。
「二〇二二年の観測計画を作ったのは」
真壁が訊く。
秋月は答えない。
「神谷か」
沈黙。
「答えろ」
「基本設計は」
秋月が言った。
「神谷だ」
野村が息を呑む。
「じゃあ安倍元首相の事件を利用したのも」
「違う」
秋月は強く否定した。
「そこは違う」
「なら誰だ」
「神谷の計画は、地下駐車場で二つの人工音を使うだけだった」
「実際の事件が偶然重なった」
「そうだ」
「その瞬間」
真壁は言った。
「誰かが計画を変更した」
秋月が頷く。
「現実の事件を利用することを決めた」
「誰が」
誰も答えない。
真壁は河瀬を見る。
彼女は肩を押さえたまま、
床を見ている。
「河瀬」
「……」
「黒い箱から聞こえた声は俺の録音だった」
「はい」
「だが再生ボタンを押した人間がいる」
河瀬が顔を上げる。
「います」
「誰」
「見ました」
全員が河瀬を見る。
「四年前?」
「はい」
「どこで」
「この駐車場です」
「誰だ」
河瀬の唇が震えた。
「その人は」
その瞬間。
地下駐車場のスピーカーから、
電子音が鳴った。
ピッ。
全員が天井を見る。
続いて音声。
女性。
《記録25を開始します》
真壁の顔が変わる。
「誰だ!」
返答なし。
モニターが自動的に切り替わる。
LIVE。
現在の地下駐車場。
全員が映っている。
真壁。
野村。
葛城。
高瀬。
秋月。
大庭。
河瀬。
水島。
八人。
画面の端。
《SUBJECTS:8》
次。
《DEVICES:32》
野村が呟く。
「八人……三十二台」
最初の実験と同じ。
真壁は周囲を見る。
カメラ。
一台ではない。
柱。
天井。
車の中。
三十二台。
いつの間に。
いや。
最初からあった。
スピーカー。
《再現条件が成立しました》
秋月の顔色が変わる。
「まずい」
「何が」
「最初の実験と同じ人数だ」
「だから?」
「八人と三十二台が揃ったときだけ起動する」
「何が」
秋月が答える前に、
モニターへ文字。
《最終観測を開始します》
真壁が叫ぶ。
「全員ここから出ろ!」
その瞬間。
シャッターが降り始めた。
出口。
入口。
閉鎖。
野村が走る。
間に合わない。
金属音。
地下駐車場が封鎖された。
そしてモニター。
二つの映像が並んだ。
左。
《A》
右。
《B》
どちらも現在の地下駐車場。
だが内容が違う。
Aでは、
河瀬由美が拳銃を持っている。
Bでは、
葛城慎一が拳銃を持っている。
現実。
誰も拳銃を持っていない。
真壁は画面を見る。
「リアルタイム加工……」
野村が言う。
スピーカー。
《八名のうち、どちらの映像を真実と判断するか記録します》
真壁が天井へ叫ぶ。
「誰が見てる!」
返事。
女性の声。
《あなたです》
「何?」
《真壁修司さん》
《あなたが観測者です》
真壁は動きを止めた。
《八年間の観測によって、あなたは条件を満たしました》
「何の条件だ」
《記録を疑い》
《記憶を疑い》
《他者の証言を疑い》
《それでも判断を放棄しない人間》
モニター。
A。
B。
《次の管理者として》
《あなたを選定します》
野村が真壁を見る。
「真壁さん」
真壁は笑った。
ようやくわかった。
神谷。
大庭。
水島。
役割が引き継がれてきた理由。
この実験には、
最初から終わりがない。
観測された人間が、
次の観測者になる。
被害者が、
次の加害者になる。
それを繰り返す。
だから管理者の本名など意味がない。
水島も。
Aも。
Oも。
全部、
椅子の名前だった。
そして今。
その椅子が、
真壁の前に置かれている。
スピーカー。
《選択してください》
《A》
《B》
真壁はモニターを見た。
河瀬。
葛城。
どちらかを選べ。
また二択。
真壁は野村を見る。
野村も真壁を見る。
二人とも、
同じことを考えていた。
真壁はモニターへ背を向けた。
「選ばない」
スピーカー。
沈黙。
真壁はもう一度言った。
「AでもBでもない」
《回答を確認できません》
「聞こえてるだろ」
《選択してください》
「嫌だ」
《選択してください》
真壁は天井のカメラを見る。
「神谷」
全員が真壁を見る。
「そこにいるんだろ」
沈黙。
「八年前、お前が俺に言った」
真壁は続ける。
「どっちも信じるなって」
スピーカー。
無音。
「だったら俺は、お前の教えを守る」
長い沈黙。
そして。
初めて、
機械音声ではない声が流れた。
男。
低い声。
老けている。
だが真壁はわかった。
神谷直人。
『真壁刑事』
真壁は目を閉じた。
八年ぶり。
『やっと、ここまで来ましたね』
「どこにいる」
『近くです』
「出てこい」
『まだです』
真壁は目を開けた。
また。
まだ。
だ。
だが今度は、
意味を探さなかった。
「わかった」
神谷が黙る。
「待つよ」
『……』
「ただし」
真壁は言った。
「今度はお前の順番じゃない」
『何です?』
「俺の質問に答えろ」
『いいでしょう』
真壁は八年間で、
最も単純な質問をした。
「相沢美紀は、本当に死んだのか」
沈黙。
一秒。
二秒。
三秒。
そして。
神谷が答えた。
『いいえ』
野村が息を呑んだ。
真壁は目を閉じた。
やはり。
最初の失踪者。
二〇一八年。
すべての始まり。
相沢美紀。
彼女もまた、
死んだことになっているだけだった。
『そして真壁さん』
神谷の声。
『あなたが探すべき最後の人間は、私ではありません』
「誰だ」
神谷が答える。
『相沢美紀です』
モニターが暗転した。
その直前。
一フレームだけ、
女性の顔が映った。
四十代。
真壁は知らない。
だが野村が、
その顔を見て立ち尽くしていた。
「知ってるのか」
野村は答えない。
「野村」
ようやく、
唇が動いた。
「母です」
地下駐車場から、
すべての音が消えた。
真壁は野村を見る。
野村自身も、
信じられない顔をしていた。
「僕の母親です」
「名前は」
野村が答えた。
「旧姓――相沢美紀」
真壁は、
八年間追い続けた線が、
ようやく一つの円になったのを感じた。
二〇一八年の失踪事件。
神谷直人。
秋月浩平。
観測実験。
二〇二二年の二発。
そして、
野村亮介。
偶然ではなかった。
野村が真壁の相棒になった理由。
秋月が警察官になるよう勧めた理由。
四年前から第二観測対象に選ばれていた理由。
全部、
最初の失踪者へつながっている。
そして真壁は気づいた。
野村の母が相沢美紀なら。
野村は彼女が二〇二〇年に死んだことを、
知らないはずがない。
「野村」
「はい」
「お前、母親はいつ死んだって聞いてた」
野村の顔が青ざめる。
「二〇一〇年です」
真壁は動かなかった。
記録では、
相沢美紀は二〇二〇年死亡。
野村の記憶では、
母親は二〇一〇年死亡。
十年の差。
そして。
どちらも、
間違っている可能性がある。
真壁は暗くなったモニターを見る。
記録と記憶。
最後に残った謎は、
事件ではなかった。
一人の人間が、
いつから「死んだことになっているのか」。
それを確かめることだった。
整合性のある時系列に整理する終盤の相沢情報を自然に伏線化する
(第十一章に続く)

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