東野圭吾を模倣し、元首相暗殺事件を題材にしたオリジナル小説『二発目の空白』第十二章

目次

第十二章 十六年前の約束

1 知らない自分

写真の中で、真壁修司は笑っていた。

二〇一〇年。

三十二歳。

まだ捜査一課へ配属されて間もないころだった。

隣には野村真紀。

当時三十九歳。

二人は古い建物の前に立っている。

真紀は白いブラウス。

真壁は紺色の上着。

背景には小さな看板。

《京都認知行動研究室》

真壁は写真を裏返した。

日付。

二〇一〇年六月十七日。

その下に手書きの文字。

《約束の日》

真壁は眉を寄せた。

約束。

誰との。

何のための。

まったく覚えていない。

「真壁さん」

隣で野村亮介が言った。

「母と会っていたんですね」

「写真が正しければな」

「またそれですか」

「悪いか」

「いいえ」

野村は写真を見つめた。

「でも、母は笑っています」

真壁は頷いた。

確かに笑っている。

作り笑いには見えない。

真壁自身も同じだった。

二人の間には、初対面の緊張がない。

むしろ、何度も会った人間同士のようだった。

「この場所へ行った記憶は?」

「ない」

「京都へ行った記録は?」

「調べる」

真壁は当時の勤務記録を確認した。

二〇一〇年六月十七日。

奈良県警。

勤務。

通常勤務。

午後五時三十分退庁。

翌日も出勤。

京都への出張記録なし。

「写真の時刻は?」

野村が訊いた。

「書いてない」

「背景からわかりませんか」

写真には窓が映っている。

陽光。

影。

真壁は写真を拡大した。

看板の下に小さな時計。

午後六時四十二分。

「退庁後なら行けますね」

野村が言った。

「そうだな」

「じゃあ、記録と矛盾しない」

真壁は少し笑った。

「珍しいな」

「何がです」

「記録と記憶のどちらも、何も教えてくれない」

野村は黙った。

真壁は封筒から便箋を取り出した。

まだ読んでいない。

十六年前の手紙。

差出人。

野村真紀。

宛先。

真壁修司。

《私が死んだことになったら、この手紙を開けてください。》

真壁は一度、野村を見た。

「読むぞ」

野村が頷いた。

「お願いします」

真壁は便箋を開いた。

2 未来の刑事へ

《真壁修司様》

《この手紙を読んでいるということは、私はもうあなたの前に現れないことになっているのでしょう。》

《最初に謝らなければなりません。》

《私は、あなたを利用しました。》

真壁の手が止まった。

野村が息を呑む。

続きを読む。

《あなたは私の研究に協力してくれました。》

《ただし、あなたはそれを研究だとは知りません。》

《私はあなたに、ある出来事を見せました。》

《そして、別の記録を渡しました。》

《あなたがどちらを信じるのかを確かめたのです。》

《結果は、私の予想と違いました。》

《あなたは記録も記憶も信じませんでした。》

《その代わり、私にこう言いました。》

《「人間を試す前に、自分が何をしているか考えろ」》

真壁は便箋を見つめた。

自分が言いそうな言葉だった。

だが、言った記憶はない。

《私はその言葉を忘れられませんでした。》

《研究はすでに私の手を離れ始めていました。》

《資金を提供する人間が増え、研究者が増え、記録を集める仕組みが大きくなっていました。》

《最初は、人間の記憶を守るための研究でした。》

《しかし、いつの間にか、人間の記憶を利用する研究になっていました。》

《私には止められませんでした。》

《だから、あなたにお願いしたのです。》

《もし将来、この研究が誰かを傷つけることになったら、止めてほしいと。》

真壁は息を吐いた。

十六年前。

自分はすでに、この研究の存在を知っていた。

しかし、その後の人生で一度も思い出さなかった。

なぜか。

《あなたは私に、一つ条件を出しました。》

《「俺を研究の中へ入れるな」》

《私は約束しました。》

《そして、その約束を破りました。》

野村が顔を上げた。

真壁は続きを読む。

《あなたがこれを読んでいるころには、亮介は大人になっているはずです。》

《あの子を研究に巻き込まないでください。》

《もし亮介が警察官になっていたら、あなたのそばへ置いてください。》

《それは、あなたに守ってほしいからではありません。》

《あの子自身が、自分で真実を確かめられる人間になってほしいからです。》

《ただし、ひとつだけ。》

《亮介に、私を探させないでください。》

最後の一行。

《私を見つけたとき、あの子は二度目の母親の死を経験することになります。》

真壁は便箋を下ろした。

野村は何も言わなかった。

長い沈黙。

そして、

「二度目の死って」

野村が呟いた。

「どういう意味でしょう」

真壁は答えられなかった。

3 消された一日

翌朝。

京都へ向かう前に、真壁は一つの場所へ立ち寄った。

奈良県警の古い資料保管庫。

二〇一〇年の勤務日誌。

当時の真壁が担当した事件。

六月十七日。

その前後。

すべて調べた。

特別な事件はない。

強盗。

窃盗。

交通事故。

行方不明者。

ありふれた記録。

だが一つだけ、

不自然なものがあった。

六月十八日。

真壁の勤務記録に、

《私用休暇》

と記されていた。

「昨日のデータでは出勤でしたよね」

野村が言った。

「そうだ」

「どちらが正しいんです」

「わからん」

真壁は原本を確認した。

紙の勤務日誌。

六月十八日。

出勤。

電子記録。

私用休暇。

「また食い違いか」

野村が呟いた。

真壁は紙を見た。

訂正の跡。

薄い鉛筆の線。

余白。

そこに小さな文字。

《17》

野村が顔をしかめた。

「また十七ですか」

真壁は答えた。

「意味を探すな」

「はい」

「でも記録しろ」

「え?」

「数字に意味があるかどうかは、後で決める」

野村は頷いた。

真壁は紙をめくった。

六月十九日。

通常勤務。

六月二十日。

休日。

六月二十一日。

通常勤務。

問題は六月十八日だけ。

真壁は当時の上司を探した。

すでに退職している。

名前。

小野寺正夫。

七十三歳。

奈良市内在住。

電話がつながった。

『真壁?』

「お久しぶりです」

『お前、まだ刑事やってるのか』

「はい」

『物好きだな』

真壁は少し笑った。

「二〇一〇年六月十八日のことを覚えていますか」

『そんな昔のこと』

「俺が休んだかどうかです」

小野寺はしばらく黙った。

『休んでない』

真壁の目が細くなる。

「確かですか」

『ああ』

「なぜ覚えてるんです」

『お前が倒れたからだ』

真壁は動きを止めた。

「倒れた?」

『そうだ』

「どこで」

『署内の廊下だ』

「原因は」

『過労だと言われた』

「病院へ?」

『運ばれた』

「どこの」

『京都の病院だったと思う』

真壁は眉を寄せた。

奈良で倒れて、

京都へ運ばれた?

「なぜ京都なんです」

『知らん』

「誰が手配した」

『覚えてない』

真壁は電話を握り直した。

「俺はいつ戻りました」

『翌日だ』

「何か変わった様子は」

小野寺は黙った。

『あった』

「何が」

『お前、腕時計をしてなかった』

真壁は左手首を見る。

父親の形見。

古い腕時計。

ずっと使っている。

「時計?」

『ああ』

「それが何か」

『お前、時計をなくしたって大騒ぎしてたんだ』

真壁の記憶にない。

『ところが三日後』

「はい」

『時計をして出勤してきた』

「見つかったんですか」

『そう言ってた』

「どこで」

小野寺は答えた。

『京都の研究所だと』

4 時計の裏側

真壁は電話を切った。

左手首。

腕時計。

父親から譲られたもの。

古い機械式。

何度も修理している。

だが、

一度なくした記憶はない。

「野村」

「はい」

「この時計を調べる」

「何を」

「修理履歴だ」

時計店。

奈良市内。

長年通っている小さな店。

店主は真壁の顔を覚えていた。

「お久しぶりですね」

「この時計、いつから修理に出していますか」

店主が台帳を探す。

古い紙。

二〇〇八年。

二〇一〇年。

二〇一四年。

「ありました」

二〇一〇年六月二十一日。

修理内容。

裏蓋交換。

真壁が訊いた。

「なぜ交換したんです」

店主は記録を読む。

「傷がついたから、と」

「どんな傷」

「裏蓋の内側です」

「内側?」

店主が首を傾げる。

「普通は傷つかないところですね」

「交換前の部品は」

「残っているかもしれません」

店主が奥へ消えた。

十分後。

小さな袋を持って戻ってきた。

古い裏蓋。

真壁は受け取った。

内側。

細い傷。

文字。

《M-17》

野村が息を呑んだ。

「真壁さん」

真壁は何も言わなかった。

M。

17。

「意味を探すなって言いましたよね」

野村が言った。

「ああ」

「でも、これは」

「偶然かもしれん」

真壁は裏蓋を光へ向けた。

傷は手作業で刻まれている。

さらに、

小さな数字。

《0618》

六月十八日。

倒れた日。

「誰が刻んだ」

真壁が呟いた。

店主が言った。

「それ、私がつけた傷じゃありません」

「わかりますか」

「ええ」

「なぜ」

「交換前からありましたから」

真壁は裏蓋を袋へ戻した。

二〇一〇年六月十八日。

M-17。

腕時計。

京都の研究所。

すべてが同じ日に集まっている。

「野村」

「はい」

「俺が倒れたのは偶然じゃないかもしれん」

「何をされたんです」

「まだわからない」

真壁は時計を見た。

針は動いている。

正確に。

何も知らない顔で。

5 京都の研究所

午前十一時十二分。

京都市内。

古い研究所。

三階建て。

灰色の外壁。

周囲は静かな住宅街。

真壁と野村は建物の前に立った。

「ここですね」

野村が言った。

真壁は頷いた。

写真の背景。

二〇一〇年。

真紀と並んで笑っていた場所。

看板は外されている。

だが建物は同じだった。

「入るぞ」

「はい」

玄関。

施錠されていない。

中。

薄暗い廊下。

古い床。

壁には研究発表のポスター。

《記憶と視覚情報》

《反復提示による認識変化》

《映像記録と証言》

野村が立ち止まった。

「僕の卒業研究と同じです」

真壁が見る。

「何が」

「テーマです」

「秋月の指導か」

「はい」

「母親の研究を引き継がされた?」

野村は答えなかった。

二階。

研究室。

扉。

《17》

真壁は立ち止まった。

「また十七だ」

野村が言った。

「今度は意味があるかもしれません」

真壁はドアを開けた。

室内。

机。

椅子。

古いパソコン。

壁一面の写真。

その中央に、

一枚の大きな写真。

野村真紀。

笑っている。

真壁は近づいた。

写真の下。

《研究代表者》

《野村真紀》

野村が呟いた。

「母さん……」

真壁は室内を見回した。

誰もいない。

「十一時三十一分まで十九分」

野村が時計を見る。

真壁は言った。

「待つな」

「え?」

「時間を指定したのは相手だ」

「はい」

「なら、その前に調べる」

二人は室内を確認した。

机の引き出し。

資料。

研究日誌。

パソコン。

古いビデオテープ。

真壁は一冊のノートを見つけた。

表紙。

《第17観測群》

その下。

《M》

真壁は開いた。

一ページ目。

《対象M》

《真壁修司》

《開始日 2010年6月17日》

野村が顔を上げる。

「本当に真壁さんが対象だった」

真壁は頷いた。

次。

《目的》

《外部記録による自己記憶の再評価》

《対象者の同意》

その下。

《あり》

真壁の指が止まった。

「同意?」

野村が訊いた。

「覚えていますか」

「ない」

「署名は」

次のページ。

同意書。

真壁修司。

本人の筆跡に見える。

真壁は長く見つめた。

「本物かどうか調べる必要がある」

野村が頷く。

「はい」

真壁は続きを読む。

《対象Mは、研究目的を理解したうえで参加。》

《ただし、記憶の混乱が生じた場合は即時中止。》

《研究終了後、対象者の希望により一部記録を封印。》

「封印?」

野村が言った。

真壁はページをめくる。

最後。

《対象M本人の申し出により、6月18日の記録は本人へ返却しない。》

真壁は動きを止めた。

「俺が?」

野村が顔を上げる。

「自分で封印した?」

「記録上はな」

「なぜ」

真壁は答えられなかった。

次のページ。

手書き。

野村真紀の筆跡。

《真壁さんは、最後に一つだけお願いをしました。》

《「俺がこの日を忘れたら、思い出させるな」》

真壁はノートを閉じた。

自分が忘れたのではない。

忘れることを望んだ。

少なくとも、

この記録はそう主張している。

6 十一時三十一分

時計。

午前十一時三十分。

研究室の奥から音がした。

足音。

一歩。

二歩。

扉が開く。

女性が立っていた。

五十代半ば。

黒い服。

髪を後ろで束ねている。

野村が息を止めた。

「母さん……」

女性は野村を見る。

目に涙が浮かぶ。

「亮介」

野村は動けなかった。

真壁は女性を見た。

写真。

遺影。

同じ顔。

ただし十六年分、年を取っている。

「野村真紀さんですか」

真壁が訊いた。

女性は頷いた。

「はい」

「本人だと証明できますか」

女性は少し笑った。

「相変わらずですね」

「会ったことがあるらしいですが」

「あります」

「いつ」

「二〇一〇年六月十七日」

「何をした」

「あなたにお願いをしました」

「何を」

「亮介を守ってほしいと」

野村が一歩前へ出た。

「母さん」

女性が見る。

「本当に母さんなの?」

女性は答えなかった。

「僕のこと、覚えてる?」

「もちろん」

「じゃあ」

野村の声が震えた。

「僕が小さいころ、何て呼ばれてた?」

女性は微笑んだ。

「りょうちゃん」

野村の顔が歪んだ。

「それだけじゃない」

「……」

「父さんは、僕を別の名前で呼んでた」

女性は少し考えた。

そして。

「小隊長」

野村の目から涙がこぼれた。

「そう……」

「おもちゃの兵隊を並べて、いつも指揮していたから」

野村は両手で顔を覆った。

真壁は黙っていた。

母親らしい。

だが本人確認としては不十分。

記憶も、記録も、第三者が知り得る。

それでも。

目の前の二人の反応は、

演技には見えなかった。

真壁は女性へ言った。

「話を聞かせてください」

女性は頷いた。

「そのために来ました」

時計。

十一時三十一分。

女性は言った。

「約束の時間ですね」

真壁は腕時計を見なかった。

7 母親の選択

「なぜ死んだことにしたんです」

真壁が訊いた。

女性は椅子へ座った。

「逃げるためです」

「誰から」

「研究を引き継いだ人たちから」

「秋月?」

「いいえ」

「神谷?」

「違います」

「では」

女性は言った。

「私自身が作った仕組みからです」

真壁は黙った。

「最初は小さな研究でした」

女性が続ける。

「写真が子どもの記憶に与える影響を調べていました」

「息子を使って?」

「はい」

野村の表情が変わる。

女性は息子を見る。

「ごめんなさい」

野村は何も言わない。

「私は研究者として、越えてはいけない線を越えました」

「いつ気づいた」

真壁が訊いた。

「亮介が、私と妹を区別できなくなったときです」

「そこで中止した?」

「しようとしました」

「でもできなかった」

「はい」

「なぜ」

「研究資金が大きくなりすぎていました」

「出資者は」

「複数いました」

「名前は」

女性は首を振った。

「全部は知りません」

真壁は眉を寄せた。

「研究代表者なのに?」

「表向きは私でした」

「実際は」

「別の組織が運営していました」

「情報行動研究機構?」

「その前身です」

真壁は頷いた。

「神谷は」

「研究の危険性を指摘した人です」

「いつから」

「二〇〇八年」

「警察の相談員として野村家に来た」

「はい」

「それも研究の一部?」

女性は首を振った。

「最初は違いました」

「最初は?」

「神谷さんは、私たちを助けようとした」

「途中から?」

女性は黙った。

「観測側へ回った?」

「はい」

「なぜ」

「自分なら制御できると思ったんです」

真壁は小さく息を吐いた。

また同じだった。

止めるために関わる。

関わるうちに、

自分が動かす側になる。

「あなたもそうだった?」

真壁が訊いた。

女性は頷いた。

「はい」

野村が言った。

「じゃあ、母さんは」

女性が顔を上げる。

「何?」

「僕を守るために死んだことにしたの?」

「そうよ」

「でも」

野村の声が震えた。

「僕は母さんが死んだと思って、十六年生きてきた」

女性の目から涙が落ちた。

「わかってる」

「わかってない」

野村は立ち上がった。

「十六年だよ」

「……」

「学校の卒業式も」

「……」

「大学の入学式も」

「……」

「警察学校も」

女性は何も言えなかった。

「全部、母さんがいないと思ってた」

真壁は口を挟まなかった。

野村は続けた。

「守るって、何?」

女性は顔を伏せた。

「ごめんなさい」

「それだけ?」

「……」

「僕の十六年は?」

長い沈黙。

女性は小さな声で言った。

「返せない」

野村は唇を噛んだ。

「そうだよ」

その一言が、

研究室に重く落ちた。

8 封印した記憶

真壁は女性へ向き直った。

「二〇一〇年六月十八日」

女性の表情が変わる。

「俺に何をした」

「……」

「倒れたことになっている」

「はい」

「時計をなくした」

「はい」

「記録を封印した」

女性は頷いた。

「あなた自身が」

真壁は机のノートを指した。

「ここにも書いてある」

「はい」

「理由は」

女性は長く黙った。

そして。

「あなたは、ある映像を見たんです」

「何の」

「亮介の映像です」

野村が顔を上げた。

「僕?」

女性は頷いた。

「二〇一〇年。九歳の亮介」

真壁が訊いた。

「何が映っていた」

「研究室です」

「それから」

「亮介が、私を母親だと認識できなくなっている様子です」

野村が息を呑んだ。

女性は続けた。

「映像の中で、私は亮介に訊きました」

『お母さんは誰?』

「亮介は答えられなかった」

「……」

「そして、隣にいた美紀を指した」

真壁は黙った。

「その映像を見たあなたは、怒りました」

「当然だ」

「研究を止めろと言いました」

「当然だ」

「警察へ届けると言いました」

「それも当然だ」

女性は真壁を見る。

「でも、あなたは届けなかった」

「なぜ」

「私が頼んだからです」

「何を」

「亮介を守ってほしいと」

真壁は眉を寄せた。

「研究のことを公表すれば、子どもの映像も調べられる」

「はい」

「だから隠した?」

「そうです」

真壁は首を振った。

「それだけで俺が記録を封印するとは思えない」

女性は黙った。

「ほかにある」

「……」

「言ってください」

女性は目を閉じた。

「もう一つ、映像がありました」

「何の」

「あなたの映像です」

真壁は動きを止めた。

「俺?」

「はい」

「何をしていた」

女性は言った。

「あなたは、研究室で私に拳銃を向けていました」

野村が息を呑んだ。

また。

拳銃。

二〇一八年。

神谷。

二〇二二年。

葛城。

そして二〇一〇年。

真壁。

「同じ構図?」

真壁が訊いた。

女性は頷いた。

「はい」

「なぜ」

「わかりません」

「何?」

「あなた自身も覚えていなかった」

真壁は眉を寄せた。

「どういう意味です」

「映像を見せたとき、あなたは言いました」

女性は真壁を見る。

『俺はこんなことをしていない』

真壁は動かなかった。

「本当に覚えていなかった?」

「はい」

「映像は本物?」

「加工の痕跡はありませんでした」

真壁は目を閉じた。

二〇一〇年。

二〇一八年。

二〇二二年。

同じ構図。

同じ男。

同じ拳銃。

違う相手。

「つまり」

真壁が呟いた。

「俺が最初だった」

女性は答えない。

「最初の観測対象は、神谷でも大庭でもない」

真壁は女性を見る。

「俺だった」

女性が小さく頷いた。

「はい」

「いつから」

女性は答えた。

「二〇〇七年です」

真壁は息を止めた。

二〇〇七年。

野村がまだ幼かったころ。

「なぜ俺を選んだ」

女性は真壁を見る。

「あなたが警察官だったからではありません」

「じゃあ」

「あなたには、ある特徴がありました」

「何だ」

「自分の記憶を疑っても、他人を簡単には疑わない」

真壁は黙った。

「それを確かめたかったんです」

「誰が」

女性は答えた。

「私です」

真壁は長く息を吐いた。

すべての始まり。

野村真紀。

彼女が自分を選んだ。

そして十六年後。

自分は息子の相棒になった。

偶然ではない。

「あなたが俺をここへ呼んだ理由は」

真壁が訊いた。

女性は机の引き出しを開けた。

小さな箱。

中。

古いフィルム。

「これを返すためです」

「何だ」

「二〇一〇年六月十八日の原本です」

真壁は箱を見る。

「俺が封印した映像?」

「はい」

「なぜ今」

女性は答えた。

「もう、私が隠しておく理由がなくなったからです」

野村が訊いた。

「どういうこと」

女性は息子を見る。

「研究は終わります」

「本当に?」

「はい」

「誰が終わらせるの」

女性は真壁を見た。

「真壁さんです」

真壁は首を振った。

「俺に決める権利はない」

「あります」

「なぜ」

女性は言った。

「あなたが最初に同意したからです」

真壁の表情が変わる。

「何に」

「研究の終了条件です」

「そんなものに同意した覚えはない」

「記録があります」

真壁は苦笑した。

「その台詞は聞き飽きた」

女性も少し笑った。

「でしょうね」

そして真顔になった。

「だから今回は、記録ではなく、あなた自身に選んでほしいんです」

真壁は箱を見る。

フィルム。

原本。

十六年前。

自分が何をしたのか。

それを知るための唯一の記録。

「これを見れば終わる?」

真壁が訊いた。

女性は首を振った。

「いいえ」

「じゃあ」

「始まります」

真壁は目を閉じた。

また同じ言葉。

始まり。

終わり。

観測。

選択。

すべてが用意されている。

「野村」

「はい」

「どう思う」

野村は母親を見る。

そして真壁を見る。

「見たいです」

「理由は」

「母が何をしたのか知りたい」

「それだけか」

野村は首を振った。

「真壁さんが何をしたのかも」

真壁は頷いた。

「俺もだ」

女性が箱を差し出す。

真壁は受け取った。

しかし、

その場では開けなかった。

「持ち帰ります」

女性が顔を上げる。

「ここで見ないんですか」

「見ません」

「なぜ」

「あなたの機械で再生したくない」

女性は黙った。

「独立した機関で調べる」

「……」

「フィルムの状態も、撮影時期も、編集の有無も」

真壁は言った。

「全部確認してから見る」

女性はゆっくり頷いた。

「そうすると思っていました」

真壁は首を振った。

「違う」

「何が」

「そうすると思っていたから、これを渡したんでしょう」

女性の表情が変わった。

「俺がどう動くか、まだ予測している」

「……」

「研究は終わってない」

長い沈黙。

そして女性は、

初めて視線を逸らした。

9 写真の外側

研究所を出たのは、午後一時を過ぎていた。

野村は何も言わなかった。

真壁も話しかけなかった。

駐車場。

車。

二人は乗り込む。

しばらくして、

野村が言った。

「真壁さん」

「何だ」

「母は本当に母なんでしょうか」

真壁はエンジンをかけなかった。

「わからん」

「でも、僕のことを知っていた」

「そうだな」

「昔の呼び名も」

「ああ」

「それでも?」

真壁は野村を見る。

「本人かどうかを確かめる方法はある」

「DNAですか」

「それも一つだ」

「じゃあ」

「ただし、本人だとわかっても、話が本当かどうかは別だ」

野村は黙った。

真壁は続けた。

「母親だから信じる必要はない」

「……」

「母親だから疑う必要もない」

野村は窓の外を見る。

「難しいですね」

「そうだな」

「刑事って」

真壁は少し笑った。

「今さらか」

野村も笑った。

ほんの少し。

真壁は車を出した。

そのとき。

携帯電話が鳴った。

岸田。

「真壁です」

『どこだ』

「京都です」

『今すぐ戻れ』

「何かありましたか」

岸田の声が低い。

『高瀬が死んだ』

真壁はブレーキを踏んだ。

「何?」

『今度は本当にだ』

真壁は言葉を失った。

高瀬浩二。

三日前に死亡したことになっていた男。

昨日、地下駐車場で会った。

今日。

本当に死んだ。

「死因は」

『まだわからん』

「場所は」

『県警の取調室だ』

真壁は目を閉じた。

「防犯映像は」

『ある』

「何が映ってます」

岸田は答えなかった。

「岸田さん」

『真壁』

「はい」

『高瀬は一人だった』

「……」

『誰も入っていない』

「自殺?」

『わからん』

「何が問題なんです」

岸田は言った。

『死ぬ直前、高瀬がカメラに向かって何かを言っている』

真壁の心臓が跳ねた。

「何と」

『読唇を依頼した』

「結果は」

『まだだ』

真壁は黙った。

岸田が続ける。

『だが、お前に見せたいものがある』

「何です」

『高瀬の机に、写真が一枚あった』

「写真?」

『ああ』

「何が写ってる」

岸田は言った。

『お前だ』

真壁は野村を見る。

「いつの写真です」

『二〇一〇年』

真壁の顔が強張った。

『京都の研究所の前で撮った写真だ』

「……」

『女と並んで笑っている』

真壁は息を止めた。

同じ写真。

十六年前。

野村真紀。

「それが何か」

岸田が答えた。

『裏に文字がある』

「何と」

『お前の筆跡だと思う』

真壁は何も言えなかった。

岸田はゆっくり読んだ。

《真紀さんへ》

《もし俺が忘れてしまったら、この写真を見せてください。》

《ただし、写真に写っている女を信じてはいけません。》

真壁の手が止まった。

野村が顔を上げる。

「どうしたんです」

真壁は答えなかった。

岸田が続ける。

《俺が本当に守ると約束したのは、彼女ではありません。》

一呼吸。

《彼女に殺された人間です。》

真壁は目を閉じた。

十六年前。

自分は誰を守ろうとしたのか。

野村真紀は本当に研究者だったのか。

それとも、

別の人間の名前を使っていたのか。

そして、

彼女に殺された人間とは誰なのか。

真壁は携帯電話を握り直した。

「岸田さん」

『何だ』

「高瀬の最後の言葉がわかったら、すぐ教えてください」

『わかった』

電話が切れた。

野村が訊いた。

「何があったんです」

真壁は車を路肩へ寄せた。

「高瀬が死んだ」

野村の顔が変わった。

「本当に?」

「ああ」

「でも昨日まで」

「そうだ」

野村は黙った。

真壁は助手席の箱を見る。

二〇一〇年六月十八日のフィルム。

原本。

十六年間、封印されていた記録。

その中に、

何かがある。

真壁は確信していた。

だが、

その確信すら、

誰かに用意されたものかもしれない。

「野村」

「はい」

「お前の母親を、もう一度調べる」

野村が顔を上げる。

「何を」

真壁は答えた。

「生きているかどうかじゃない」

「じゃあ」

「誰なのかだ」

そのころ。

奈良県警の解析室では、

高瀬浩二の最後の映像が再生されていた。

無音。

取調室。

椅子に座る高瀬。

カメラを見る。

唇が動く。

一度。

二度。

三度。

解析担当者が画面を止めた。

口の形。

ゆっくり確認する。

そして、

一つの文章が浮かび上がった。

《真壁に伝えろ。》

《最初の写真には、三人写っていた。》

担当者は眉を寄せた。

写真には二人しかいない。

真壁。

野村真紀。

だが高瀬は、

三人と言った。

続き。

《三人目は消されたんじゃない。》

《最初から、そこにいる。》

解析担当者は写真を拡大した。

建物。

看板。

窓。

真壁。

真紀。

そして、

二人の間。

ガラス戸。

反射。

そこに、

小さな人影があった。

撮影者ではない。

二人の後ろに立つ男。

顔はぼやけている。

だが左手首に、

黒いバンド。

解析担当者は息を止めた。

高瀬の最後の言葉は、

まだ続いていた。

《その男は、二〇一〇年に死んでいる。》

《だが今も、全員の記録を管理している。》

画面が暗くなる。

最後の一行。

《本当の管理者は、死者の中にいる。》

十六年前の写真。

そこに写っていた三人目。

それが、

八年間の観測実験を動かしてきた、

本当の管理者だった。

(第十二章に続く)

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