第十四章 告白書の署名
一 帰還
奈良県警本部の正面玄関に、真壁修司が到着したのは午後七時四十二分だった。
京都からの帰路、野村亮介はほとんど口を開かなかった。
石倉雅人。
四年前に死亡したはずの男。
十六年前、京都認知行動研究室で岡崎玲子が転落した際、その場にいた可能性のある男。
その人物が、今度は奈良県警の岸田の執務室へ入っていった。
真壁は車を降りると、まっすぐ庁舎へ向かった。
「真壁さん」
野村が呼び止めた。
「何だ」
「石倉が本当に生きているとして、どうして今になって現れたんでしょう」
「わからん」
「これまでの連中は、みんな死んだことにして姿を消していました」
「ああ」
「でも石倉は、自分から警察へ来た」
真壁は立ち止まった。
「そこが違うな」
「はい」
「逃げるつもりがないのかもしれん」
「それとも」
野村は言葉を切った。
「何だ」
「もう逃げる必要がなくなったのかもしれません」
真壁は野村を見た。
その可能性は考えていなかった。
観測実験。
偽造された死亡記録。
すり替えられた映像。
十六年間にわたる人間の行動観察。
それらを動かしてきた者にとって、もはや隠れる必要がなくなったとしたら。
何が起きたのか。
真壁は再び歩き出した。
「本人に聞こう」
二人はエレベーターに乗った。
四階。
捜査一課。
廊下には、いつもと変わらない光景があった。
電話をする刑事。
書類を抱えた職員。
コピー機の音。
真壁は、その普通さに違和感を覚えた。
これほど大きな事件が起きているのに、組織は何事もなかったように動いている。
いや。
組織というものは、そういうものなのかもしれない。
一人の人間が真実を知っても、翌日の勤務表は変わらない。
真壁は岸田の執務室の前で足を止めた。
扉を叩く。
「真壁です」
「入れ」
岸田の声だった。
真壁は扉を開けた。
室内には岸田がいた。
そして、もう一人。
窓際に立つ男。
六十代半ば。
灰色の背広。
短く刈った髪。
左手首に黒いバンド。
男は真壁を見て、静かに頭を下げた。
「お久しぶりです」
真壁は答えなかった。
岸田が言った。
「真壁、紹介する」
「必要ありません」
真壁は男を見つめた。
「石倉雅人さんですね」
男は微笑んだ。
「そう呼ばれていた時期もあります」
真壁の目が細くなった。
また名前だ。
また役割だ。
「では、本名は」
男は答えた。
「それを確かめてもらうために来ました」
真壁は、うんざりしたように息を吐いた。
「十六年間、同じことばかりだな」
男は笑みを消した。
「今回は違います」
「何が」
「私は、記録を渡しに来ました」
机の上に、古い封筒が置かれていた。
茶色い封筒。
表面に黒い文字。
《岡崎玲子死亡事件について》
その下に、真壁修司の名前があった。
二 告白書
「まず、これを読んでください」
男が言った。
真壁は封筒に手を伸ばさなかった。
「その前に聞く」
「どうぞ」
「お前は石倉雅人なのか」
「戸籍上は違います」
「どういう意味だ」
「石倉雅人という人物は、確かに存在しました」
「お前ではない?」
「はい」
真壁は岸田を見た。
岸田は黙っていた。
「じゃあ、あんたは誰だ」
男は答えた。
「石倉雅人の父親です」
野村が息を呑んだ。
「父親?」
「石倉正一と申します」
真壁は男を見つめた。
似ている。
確かに、四年前の石倉雅人の写真と面影が重なる。
しかし、それだけでは証明にならない。
「なぜ息子の名前を使っていた」
「使っていたわけではありません」
「十六年前の映像にいた男は?」
「私です」
「二〇一八年に神谷と歩いていた男も?」
「私です」
「四年前、葛城の死亡記録に利用された石倉雅人は?」
男の表情が変わった。
「息子です」
真壁は黙った。
「息子は本当に死にました」
男が言った。
「二〇二二年七月七日。京都府内の交通事故で」
「遺体は葛城として処理された」
「はい」
「誰がやった」
男は答えなかった。
「お前か」
「いいえ」
「では誰だ」
「息子の死を利用した人間です」
「名前を言え」
石倉正一は真壁を見た。
「それを知るためにも、告白書を読んでいただきたい」
真壁は封筒を手に取った。
中には三枚の紙。
一枚目。
《岡崎玲子死亡事件について》
《二〇一〇年六月十八日、京都認知行動研究室において、岡崎玲子氏が転落し、死亡した。》
《私は、その直前に岡崎氏と口論していた。》
《私は研究の中止を求め、同意書および観測記録の返還を要求した。》
《岡崎氏はこれを拒否した。》
《私は岡崎氏を追って非常階段へ向かった。》
そこまでは映像と一致していた。
真壁は続きを読む。
《階段で岡崎氏が転落した際、私は彼女を救うことができなかった。》
《私は、彼女の死を防げた可能性があったと考えている。》
《その意味において、岡崎玲子を死なせたのは私である。》
真壁は紙を下ろした。
「これが告白か」
石倉正一が頷いた。
「はい」
「殺したとは書いてない」
「そうです」
「責任を感じているという文章だ」
「その通りです」
野村が言った。
「では、真壁さんが岡崎さんを殺害した証拠ではないんですね」
石倉は頷いた。
「ありません」
真壁は二枚目を読んだ。
《ただし、私は岡崎氏が転落する直前、別の人物が非常階段へ現れたことを確認している。》
《その人物が岡崎氏に接触したかどうかは、私の位置からは確認できなかった。》
《私は、その人物の身元を知っている。》
真壁の指が止まった。
続き。
《しかし、現時点で名前を記録することはできない。》
《なぜなら、その人物は私の証言を利用し、別の人間を犯人に仕立てる可能性があるからだ。》
真壁は顔を上げた。
「俺は名前を知っていた?」
石倉は頷いた。
「はい」
「誰だ」
「三枚目にあります」
真壁は最後の紙を開いた。
そこには、短い文章があった。
《私は、岡崎玲子の死について知っていることを、第三者へ預けることにした。》
《その第三者が誰であるかは、私自身の記憶から切り離す。》
《私は、いつか自分がこの事件を再び調べることになると考えている。》
《そのとき、私が何も覚えていなくても、記録だけが残っていればよい。》
最後に、署名。
真壁修司。
日付。
二〇一〇年六月十八日。
真壁はしばらく紙を見つめた。
「おかしい」
野村が訊いた。
「何がです」
「俺は記録を疑っていた」
「はい」
「なのに、自分の記憶より記録を残すことを選んでいる」
石倉が答えた。
「それには理由があります」
真壁は男を見た。
「聞かせてもらおう」
三 記憶を封じた男
石倉正一は椅子に座った。
岸田も黙って聞いていた。
「二〇一〇年六月十八日、岡崎玲子さんが転落したあと、真壁さんは私に一つの相談をしました」
「何だ」
「自分の記憶が信用できない、と」
真壁は眉を寄せた。
「俺が?」
「はい」
「なぜ」
「転落事故の前後で、記憶の順序が混乱していたからです」
「研究の影響か」
「そう考えられていました」
「薬物を使われた?」
「その証拠はありません」
「催眠?」
「それも確認されていません」
真壁は頷いた。
石倉は続けた。
「真壁さんは、事故の前に岡崎さんと話した内容を覚えていました」
「それは映像にもある」
「はい。しかし事故の直後、別の記憶が生じた」
「どんな」
「自分が岡崎さんを突き落としたという記憶です」
野村が顔を上げた。
「でも映像では」
「押していません」
石倉が答えた。
「少なくとも、保管されていた映像には、そのような場面はありません」
真壁は黙った。
「真壁さんは、自分の記憶が間違っている可能性に気づいていました」
「だから告白書を書いた?」
「はい」
「だが、殺したとは書かなかった」
「そうです」
「わからないことを、わかったことにしなかった」
石倉は頷いた。
「あなたは、そういう人でした」
真壁は苦笑した。
「今もそうありたいがな」
石倉は続けた。
「そして、もう一つの問題がありました」
「何だ」
「事故の現場にいた第三者です」
「俺はそいつを知っていた」
「はい」
「なぜ名前を残さなかった」
石倉は少し黙った。
「その人物が、あなたにとって非常に近い存在だったからです」
真壁の目が細くなった。
「近い?」
「はい」
「警察関係者か」
「違います」
「家族か」
石倉は答えなかった。
真壁は立ち上がった。
「誰なんだ」
石倉は静かに言った。
「あなたの父親です」
室内が静まり返った。
真壁は動かなかった。
「何を言ってる」
「真壁修一さんです」
真壁の父親。
元警察官。
すでに死亡している。
真壁は石倉を見つめた。
「父は二〇〇九年に死んだ」
「はい」
「なのに二〇一〇年の研究所にいた?」
「そうです」
真壁は笑った。
「また死人か」
しかし笑いは続かなかった。
石倉の表情が、あまりにも真剣だったからだ。
「死亡記録が偽造されたと言いたいのか」
「違います」
「では」
「真壁修一さんは、本当に二〇〇九年に亡くなっています」
真壁は眉を寄せた。
「ならどういうことだ」
石倉は答えた。
「あなたが見たのは、お父様に非常によく似た別人です」
真壁は椅子に座った。
「替え玉か」
「はい」
「誰が用意した」
「岡崎玲子さんです」
「目的は」
「あなたが、その人物を父親だと認識するか確かめるためでした」
野村が言った。
「それは……」
石倉が頷いた。
「観測実験です」
真壁は目を閉じた。
二〇一〇年。
父親を亡くした翌年。
その父親によく似た男が、突然目の前に現れる。
自分ならどうする。
驚く。
疑う。
近づく。
そして、記憶を探す。
その反応を誰かが記録する。
真壁は拳を握った。
「人の死まで使ったのか」
石倉は何も言わなかった。
「父親の死まで」
長い沈黙。
岸田が低い声で言った。
「ひどい話だ」
真壁は顔を上げた。
「その男は誰だった」
石倉が答えた。
「私です」
真壁は動きを止めた。
「何?」
「二〇一〇年六月十八日、非常階段に現れたのは私です」
野村が石倉を見る。
「あなたが、真壁さんの父親に似せていた?」
「はい」
「では、岡崎さんが転落したとき」
「私がそこにいました」
真壁は石倉を見つめた。
十六年前の映像。
顔の見えない男。
低い声。
黒いバンド。
そして父親。
記憶の底で、何かが動いた。
四 父親の声
真壁修一。
昭和の終わりから平成にかけて、奈良県警に勤務した刑事だった。
寡黙。
頑固。
仕事一筋。
真壁修司が警察官になったのも、父親の影響だった。
だが親子の仲が良かったわけではない。
むしろ、長い間ぎくしゃくしていた。
父親は仕事の話を家庭へ持ち込まなかった。
事件について尋ねても答えない。
褒められた記憶も少ない。
それでも真壁は、父親を尊敬していた。
二〇〇九年。
父親は病気で亡くなった。
真壁は葬儀で泣かなかった。
泣けなかった。
そのことを、ずっと気にしていた。
「石倉さん」
真壁が言った。
「あなたは、父に似ているとは思えません」
石倉は頷いた。
「今はそうでしょう」
「十六年前は?」
「髪型と眼鏡を変え、声を似せていました」
「それだけで俺が間違えるか」
「間違えませんでした」
真壁の表情が変わった。
「何?」
「あなたは最初から、私が別人だと気づいていました」
「なら実験は失敗だ」
「そうです」
石倉は言った。
「少なくとも、最初の目的は」
真壁は黙った。
「しかし岡崎さんは、そこで実験を終えませんでした」
「何をした」
「あなたに、お父様の声を聞かせました」
真壁の呼吸が止まった。
「声?」
「生前の録音です」
「何の録音」
石倉は答えた。
「お父様が、あなたへ残した言葉です」
真壁は左手首を見る。
父親の腕時計。
二〇一〇年六月十八日。
一度なくなり、三日後に戻ってきた時計。
裏蓋。
《M-17》
真壁は小さく呟いた。
「父の声……」
石倉が言った。
「録音には、こうありました」
『修司』
真壁の目が動いた。
『お前は刑事になった』
父親の声が、頭の奥から蘇る。
『俺より、いい刑事になれ』
真壁は目を閉じた。
覚えている。
いや。
今、思い出したと思っただけかもしれない。
石倉が続ける。
「その録音を聞いたあと、あなたは泣きました」
真壁は黙っていた。
「そして、岡崎さんに言ったんです」
「何を」
石倉は答えた。
「これを研究と呼ぶな、と」
真壁の喉が動いた。
「あなたは、怒っていました」
「……」
「父親の死を利用して、人間の反応を測ることに」
「当然だ」
「はい」
石倉は静かに頷いた。
「そのとき、岡崎さんは初めて研究を中止しようとしました」
真壁が顔を上げた。
「何?」
「あなたの言葉で、考えが変わったんです」
「それならなぜ死んだ」
石倉は黙った。
「岡崎は研究を止めようとした」
「はい」
「その直後に転落した」
「はい」
「偶然か」
石倉は答えなかった。
真壁は机へ身を乗り出した。
「お前が押したのか」
長い沈黙。
そして石倉は言った。
「わかりません」
真壁の表情が変わった。
「何?」
「私にも、記憶がない部分があります」
真壁は椅子へ背を預けた。
またか。
また同じだ。
だが石倉は続けた。
「だから、ここへ来たんです」
「何のために」
「私自身が何をしたのか、調べてほしい」
真壁は石倉を見る。
「お前は管理者だろ」
「違います」
「黒いバンドをしていた」
「はい」
「記録を管理していた」
「はい」
「では何者だ」
石倉は答えた。
「管理者の指示を受けていた人間です」
「本当の管理者は」
石倉は首を振った。
「知りません」
真壁は笑った。
「誰も知らないんだな」
「はい」
「そんな組織が十六年間も動くか」
石倉は静かに言った。
「動いてしまったんです」
五 消えた管理者
岸田が口を開いた。
「石倉さん」
「はい」
「あなたは今日、自分から県警へ来た」
「そうです」
「なぜ今なんです」
石倉は答えた。
「高瀬浩二さんが亡くなったからです」
真壁が顔を上げた。
「高瀬と連絡を取っていた?」
「はい」
「いつ」
「亡くなる前日です」
「何を話した」
「観測を終わらせる方法について」
真壁は黙った。
「高瀬さんは、ある記録を見つけたと言っていました」
「何の」
「管理者の正体です」
野村が身を乗り出した。
「誰だったんですか」
石倉は首を振った。
「名前までは聞けませんでした」
「なぜ」
「高瀬さんは、直接会って渡すと言ったんです」
「その前に死んだ」
「はい」
真壁は考えた。
高瀬は死の直前、写真の三人目を示した。
その人物は石倉正一だった。
だが石倉は、自分は管理者ではないと言う。
高瀬は石倉を指していたのか。
それとも、石倉を通じて別の人物を示そうとしたのか。
「高瀬の最後の言葉を知っているか」
真壁が訊いた。
「いいえ」
「本当の管理者は、死者の中にいる」
石倉の顔が変わった。
「そう言ったんですか」
「ああ」
石倉はしばらく黙った。
そして小さく呟いた。
「やはり……」
真壁の目が細くなる。
「何が」
「高瀬さんは気づいたんですね」
「何に」
石倉は真壁を見た。
「管理者が、すでに亡くなっていることに」
「誰だ」
石倉は答えた。
「岡崎玲子さんです」
真壁は動かなかった。
「岡崎は二〇一〇年に死んだ」
「はい」
「なのに管理者?」
「生きている人間が管理しているとは限りません」
野村が言った。
「どういう意味です」
石倉は答えた。
「岡崎さんは、研究を自動化する仕組みを作っていました」
真壁の眉が動いた。
「プログラムか」
「はい」
「それが今も動いている?」
「少なくとも、一部は」
「だが人間が必要だ」
「その通りです」
石倉は続けた。
「岡崎さんが作った仕組みは、管理者を一人に固定しませんでした」
「役割を引き継がせる」
「はい」
「水島も、山根も、大庭も」
「それぞれの役割を与えられた」
真壁は黙った。
「そして、誰かがその仕組みを利用した」
石倉が言った。
「そうです」
「誰だ」
「それを高瀬さんが調べていました」
真壁は机を見た。
十六年前の告白書。
岡崎玲子の死亡。
石倉正一。
高瀬浩二。
そして、今も続く観測。
本当の管理者が死者だというのは、比喩ではない。
死んだ研究者の作った仕組みが、今も人間を動かしている。
だが、それだけでは説明できないことがある。
「二〇二二年七月八日」
真壁が言った。
「実際の事件が起きたあと、誰かが観測を続けると決めた」
「はい」
「その判断は、自動プログラムにはできない」
石倉が頷いた。
「そうです」
「人間がいる」
「はい」
「そいつが本当の犯人だ」
石倉は首を振った。
「犯人という言葉が正しいかは、まだわかりません」
真壁の声が低くなった。
「人間の人生を壊して、死亡記録を偽造して、警察の記録まで改ざんした」
「……」
「犯罪だ」
石倉は黙った。
真壁は続けた。
「研究だろうが、実験だろうが関係ない」
「はい」
「誰かが責任を取らなければならない」
石倉はゆっくり頷いた。
「そのために来ました」
六 十七番目の封筒
石倉は鞄から小さな封筒を取り出した。
白い封筒。
表には数字。
《17》
真壁は眉を寄せた。
「また十七か」
石倉が言った。
「今回は意味があります」
「何だ」
「観測対象の番号です」
「俺の?」
「はい」
「なぜ十七」
「最初の十六人は、研究の途中で離脱しました」
真壁は黙った。
「あなたが十七番目でした」
「その十六人は」
「生存しています」
「全員?」
「私が把握している限りでは」
真壁は頷いた。
「続けろ」
石倉は封筒を開いた。
中には一枚の紙。
名前が十七人。
一番から十六番まで。
そして最後。
十七番。
真壁修司。
「この人たちは全員、記憶と記録の食い違いを経験した?」
「はい」
「同じ実験?」
「方法は異なります」
「今どこにいる」
「わかる範囲で記載してあります」
真壁は紙を見る。
名前。
住所。
生年月日。
職業。
十六人。
そのうち数人は、すでに高齢になっている。
一人は病院。
一人は介護施設。
一人は地方で暮らしている。
そして。
十二番。
《神谷直人》
真壁の指が止まった。
「神谷も?」
「はい」
「神谷は研究の提案者じゃなかったのか」
「提案者であり、被験者でもありました」
「どういうことだ」
石倉は答えた。
「彼は、自分の理論が正しいか確かめるため、自分自身を対象にしたんです」
真壁は紙を見る。
十二番。
神谷直人。
十七番。
真壁修司。
「神谷は今どこにいる」
石倉は答えた。
「知りません」
「本当に?」
「はい」
真壁は紙を机に置いた。
「なら、この名簿を調べる」
石倉が頷いた。
「それがいいと思います」
「お前も調べる」
「もちろんです」
「逃げるなよ」
石倉は微笑んだ。
「もう逃げません」
そのとき。
野村が名簿を見ながら言った。
「真壁さん」
「何だ」
「この人……」
野村は八番目の名前を指した。
真壁が覗き込む。
《野村真紀》
真壁の表情が変わった。
「野村の母親も被験者?」
石倉が頷いた。
「はい」
「研究代表者じゃなかったのか」
「そうです」
「ではなぜ」
石倉は答えた。
「自分自身を対象にしたからです」
野村は黙った。
母親。
研究者。
被験者。
そして、死んだことになっていた女性。
真壁は名簿を見つめた。
だが、さらに奇妙なことがあった。
十六番。
《岡崎玲子》
真壁が顔を上げた。
「岡崎も被験者だった?」
「はい」
「研究管理責任者なのに?」
「そうです」
真壁は紙を見た。
十六番。
岡崎玲子。
十七番。
真壁修司。
順番。
岡崎が十六番目。
真壁が十七番目。
岡崎は二〇一〇年六月十八日に死亡した。
真壁はその前日に研究へ参加したことになっている。
「待て」
真壁が言った。
「番号は参加順か」
石倉が頷いた。
「はい」
「じゃあ岡崎は、俺より先に参加している」
「そうです」
「岡崎が死んだのは俺の参加翌日」
「はい」
「十六番目が死んだあと、十七番目の俺が残った」
石倉は答えなかった。
真壁は名簿を見つめた。
そして、あることに気づいた。
「この名簿」
「はい」
「被験者の名簿じゃないな」
石倉の表情が変わった。
「何を言っているんです」
真壁は紙を指した。
「番号が引き継がれている」
「……」
「研究者も被験者も同じ列に並んでいる」
「……」
「つまり、これは」
真壁は言った。
「管理者の継承順位だ」
室内が静まり返った。
石倉は何も言わなかった。
真壁は続けた。
「一番から十六番まで、順番に管理者を引き継いできた」
「……」
「十六番目が岡崎玲子」
「……」
「そして十七番目」
真壁は自分の名前を指した。
「俺だ」
石倉は目を閉じた。
「気づきましたか」
真壁はゆっくり立ち上がった。
「俺が本当の管理者だった?」
石倉は首を振った。
「違います」
「何が」
「あなたは、管理者になることを拒否したんです」
真壁の表情が変わった。
「いつ」
「二〇一〇年六月十八日」
「岡崎が死んだ日?」
「はい」
石倉は言った。
「あなたは十七番目の管理者になる予定でした」
「……」
「しかし拒否した」
「だから」
「だから、継承が止まったんです」
真壁は息を止めた。
「そのあと、誰かが無理やり動かした?」
「はい」
「誰だ」
石倉は答えた。
「十八番目の人間です」
真壁は名簿を見る。
十七人しかいない。
「十八番目?」
「はい」
「名前は」
石倉はゆっくり野村を見た。
野村の顔が強張る。
「まさか」
石倉は言った。
「野村亮介さん」
野村は動けなくなった。
「あなたが、十八番目に選ばれた人間です」
真壁は野村を見る。
「いつから」
石倉が答えた。
「二〇一〇年六月十八日」
野村は小さく首を振った。
「僕は九歳でした」
「はい」
「そんな子どもが管理者になるわけない」
「当然です」
石倉は頷いた。
「だから、成人するまで待つことになっていました」
真壁は石倉を見つめた。
「誰が決めた」
石倉は答えなかった。
「誰が、野村を十八番目にした」
長い沈黙。
そして。
石倉は言った。
「野村真紀さんです」
野村の顔から血の気が引いた。
「母が?」
「はい」
「なぜ」
石倉は答えた。
「あなたを守るためです」
野村は笑った。
乾いた笑いだった。
「また、それですか」
石倉は黙った。
野村は続けた。
「母は僕を守るために死んだことにした」
「……」
「僕を守るために、真壁さんへ預けた」
「……」
「そして今度は」
野村は石倉を見る。
「僕を守るために、管理者にした?」
石倉は答えられなかった。
野村は小さく言った。
「守るって、何なんですか」
真壁は何も言わなかった。
その問いに答えられる人間は、ここにはいなかった。
七 十八番目の空白
午後十時を過ぎていた。
石倉正一は、正式な事情聴取に応じることになった。
真壁と野村は捜査室へ戻った。
机の上には、十七人の名簿。
真壁は最後の名前を見つめた。
《17 真壁修司》
その下には何もない。
十八番目。
野村亮介。
名簿には書かれていない。
「真壁さん」
野村が言った。
「何だ」
「僕は、どうすればいいんでしょう」
真壁は椅子に座った。
「何もしなくていい」
「でも」
「管理者になる義務なんかない」
「母が決めたとしても?」
「ああ」
「研究の仕組みがそうなっていても?」
「関係ない」
真壁は野村を見る。
「お前の人生だ」
野村は黙った。
「誰かが決めた役割を、引き継ぐ必要はない」
「……」
「俺が十六年前に拒否したなら、お前も拒否すればいい」
野村は小さく頷いた。
「はい」
真壁は名簿を閉じた。
そのとき。
携帯電話が鳴った。
非通知。
真壁は画面を見る。
メッセージ。
《第17管理者の辞退を確認しました》
真壁の表情が変わった。
次。
《第18管理者の選定を開始します》
野村が画面を覗き込む。
「僕のことですか」
真壁は答えなかった。
さらにメッセージ。
《候補者は二名です》
真壁の眉が動いた。
二名?
野村以外に誰がいる。
次。
《候補A 野村亮介》
そして。
《候補B 真壁修司》
真壁は笑った。
「また二択か」
野村が言った。
「真壁さんは十七番目でしょう」
「ああ」
「なぜ十八番目の候補に」
真壁は答えた。
「拒否した人間を、もう一度選ばせるためだろう」
画面が変わる。
《選択期限》
《2026年10月13日 11時31分》
翌日。
午前十一時三十一分。
また同じ時刻。
真壁は携帯電話を机に置いた。
「無視しましょう」
野村が言った。
「そうだな」
「二人とも拒否すればいい」
「ああ」
そのとき。
新しいメッセージ。
《選択が行われない場合、保存記録を公開します》
野村が顔を上げた。
「保存記録?」
次。
《対象者の家族に関する未公開映像》
真壁の目が細くなる。
《野村真紀》
《真壁修一》
《岡崎玲子》
《相沢美紀》
四人の名前。
そして最後。
《公開予定 2026年10月13日 11時32分》
野村が呟いた。
「脅迫ですね」
真壁は頷いた。
「そうだ」
「どうします」
真壁は画面を見た。
選択しなければ、記録を公開する。
選択すれば、管理者になる。
どちらも相手の用意した道だった。
真壁は立ち上がった。
「野村」
「はい」
「公開させよう」
野村が驚いた。
「え?」
「隠すから利用される」
「でも家族の映像ですよ」
「そうだ」
「母のことも」
「ああ」
「父のことも」
「そうだ」
野村は黙った。
真壁は続けた。
「ただし、相手の好きな形では公開させない」
「どうするんです」
「先に証拠を押さえる」
「どこにあるんです」
真壁は机の上の名簿を見る。
十七人。
管理者の継承順位。
その中に、まだ調べていない名前があった。
一番。
最初の管理者。
真壁は紙を開いた。
《01》
その横。
名前。
野村が覗き込む。
「これは……」
真壁は動かなかった。
そこには、意外な人物の名前があった。
《真壁修一》
真壁の父親。
二〇〇九年に死亡した元警察官。
真壁は紙を見つめた。
父親。
最初の管理者。
そして十七番目に選ばれた息子。
野村が言った。
「真壁さんのお父さんが、研究を始めた?」
真壁は首を振った。
「まだわからん」
「でも名前が」
「名前だけだ」
真壁は言った。
「本人が何をしたかは、これから調べる」
そのとき、岸田が捜査室へ入ってきた。
「真壁」
「はい」
「石倉が話したいことがあるそうだ」
「何です」
岸田は言った。
「お前の父親についてだ」
真壁の表情が変わった。
「父の?」
「ああ」
「何を」
岸田は少し躊躇した。
そして言った。
「石倉は、お前の父親の部下だったそうだ」
真壁は息を止めた。
「いつ」
「二〇〇七年」
「父はそのころ退職していたはずです」
「警察ではない」
「では」
岸田が答えた。
「京都認知行動研究室だ」
真壁は何も言えなかった。
父親は退職後、
京都の研究所で働いていた。
そして、
自分の息子を十七番目の観測対象に選んだ。
その可能性が浮かび上がった。
真壁は左手首を見る。
父親の腕時計。
古い針。
規則正しく動いている。
十六年前。
父親の死。
翌年の研究所。
岡崎玲子の転落。
自分の記憶の空白。
そして今。
真壁は初めて、
腕時計を外した。
裏蓋。
《M-17》
その傷を見つめる。
父親が残したもの。
自分が受け継いだもの。
時間を刻む機械。
真壁は小さく呟いた。
「親父」
誰にも聞こえない声だった。
「お前も、俺を観測していたのか」
時計の秒針が動いた。
一秒。
二秒。
三秒。
そして真壁は、あることに気づいた。
父親の腕時計は、
これまで一度も止まったことがない。
だが、
二〇一〇年六月十八日。
修理記録には、
《内部機構交換》
と書かれていた。
裏蓋だけではない。
中身も交換されていた。
真壁は時計を見つめた。
そして、野村へ言った。
「時計店へ行くぞ」
「今からですか」
「ああ」
「何を調べるんです」
真壁は答えた。
「この時計の中に、何が入っているのか」
野村が顔を上げた。
真壁は続けた。
「父親が俺に残したのは、時間だけじゃないかもしれん」
その夜。
奈良市内の時計店で、古い腕時計の裏蓋が慎重に開けられた。
店主がルーペを覗き込む。
そして、手を止めた。
「これは……」
真壁が訊いた。
「何です」
店主は時計を指した。
機械の奥。
歯車の横。
小さな金属片。
通常の時計には必要のない部品。
そこには、
極めて小さな文字が刻まれていた。
《01→17》
真壁は息を止めた。
一番から十七番へ。
父親から息子へ。
店主がさらに調べる。
「まだあります」
「何が」
「この部品、取り外せます」
真壁は頷いた。
「お願いします」
小さな金属片が取り出された。
その裏面。
細い文字。
《記録の原本は、時間の中にある》
真壁は眉を寄せた。
時間の中。
腕時計。
歯車。
記録。
そして、店主が最後に言った。
「真壁さん」
「はい」
「この時計、普通の時計じゃありません」
真壁は顔を上げた。
「どういう意味です」
店主は答えた。
「内部に、小さな記録装置が組み込まれています」
野村が息を呑んだ。
「記録装置?」
「はい」
真壁は時計を見つめた。
十六年間。
自分の左手首にあったもの。
父親の形見だと思っていたもの。
それは、
時間を刻むだけの時計ではなかった。
真壁修司を、
十六年間観測し続けていた装置だった。
そして、
その中には、
誰も改変できなかったはずの記録が残されていた。
最初の管理者。
真壁修一。
その息子。
真壁修司。
二人の間に存在した、
十六年間の空白。
そのすべてを解く鍵が、
今ようやく姿を現そうとしていた。
第十五章に続く

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