第六十九章 消された十六人
将軍の顔を剥いだ男は、新之介をまっすぐ見ていた。
「榊原家にも、十五年前に一人入れられた」
「その者は今も生きている」
新之介はすぐには問わなかった。
玄斎なら、早く名を聞けと言っただろう。
だが今。
目の前の男自身が、十五年前に「消された十六人」の一人だという。
「まず」
新之介が言った。
「そなたの話から聞きます」
「私の?」
「はい」
「榊原家へ入れられた者を聞かぬのか」
「聞きます」
「なら先に」
「順番をそなたに決めさせない」
男が少し笑った。
「やはり、変わらぬな」
新之介の目が動く。
「何」
「昔もそうだった」
「昔?」
男は答えず、自分が剥いだ家慶の顔型を畳へ置いた。
水野がそれを遠くへ蹴る。
「触るな」
「分かっている」
宗一を名乗る男が問う。
「そなたの本名は藤吉なのか」
「今の名は」
「今の?」
「父がくれた」
「生まれた時の名は」
男は黙った。
「分からないのか」
「ああ」
「覚えていない?」
「覚えていた時期はある」
「では」
「捨てさせられた」
新之介の表情が硬くなる。
「誰に」
「弁財丸へ人を集めた者たちだ」
「名は」
「一人だけ覚えている」
「誰」
「三宅主膳」
水野が低く息を吐いた。
「また三宅か」
「三宅だけではない」
「分かっています」
「沢渡」
「相模屋」
「安西」
「役人も」
「寺も」
男は首を振った。
「だから一人の悪人を作るな」
新之介は彼を見る。
「それを、そなたが申すのですか」
「何が」
「誰かに教わった言葉ですか」
「……」
「鷹見静山?」
男は答えなかった。
◇
「十五年前」
男はようやく話し始めた。
「私たちは六十三人いた」
「子どもだけか」
「違う」
「年齢は」
「一番下が七つ」
「上が三十を少し越えていた」
「男も女も」
「ああ」
「なぜ六十三」
「売れる者を集めた」
水野の顔が歪む。
「人を品のように」
「そうだ」
「弁財丸へ乗ったのが四十七」
「残る十六人は」
「船へ乗る前に抜かれた」
「助けられたのですか」
新之介が問う。
男は少し考えた。
「最初は、そう思った」
「違った?」
「半分は救いだった」
「残りは」
「利用だ」
新之介は黙って続きを待つ。
「弁財丸から人を逃がそうとした者がいた」
「鷹見静山?」
「その名を使っていた者たち」
「一人ではない」
「ああ」
「彼らは十六人を船から抜いた」
「そこまでは救った」
「だが」
男の目が暗くなる。
「元の場所へ戻さなかった」
「なぜ」
「戻せば、また捕まる」
「なら別の場所へ」
「その時、静山たちは考えた」
男は自分の顔へ触れた。
「名前を消せば追えない、と」
玄斎がその場にいれば、怒鳴っただろう。
新之介は静かに問う。
「十六人へ別の名を与えた」
「そうだ」
「別の家」
「別の役」
「別の人生」
「それで助かった者もいる」
「そなたも」
「命は」
「では」
「人としては?」
男は苦く笑った。
「十五年経った今でも、その問いへ答えられない」
◇
「十六人はどこへ」
「全部は知らない」
「知る範囲で」
「寺へ二人」
「商家へ三人」
「町方へ一人」
「武家へ四人」
「船へ二人」
「御影へ一人」
「影武者へ」
「三人」
「合わせて十六」
水野が数える。
「そのうち榊原家へ一人」
「そうだ」
「誰です」
男は新之介を見る。
「私だ」
新之介が動かなかった。
宗一を名乗る男が息を呑む。
「そなたが?」
「ああ」
「将軍の影へ入ったのでは」
「その前だ」
男は新之介へ向き直った。
「私は三年、榊原家にいた」
「名は」
「弥吉」
新之介の呼吸が止まった。
その名。
遠い記憶。
「……弥吉」
「覚えているか」
十五年前。
榊原家の裏庭。
薪置き場。
井戸。
雨の日。
新之介より少し若い少年。
家へ来た時には痩せていた。
よく働いた。
口数は少なかった。
縄を結ぶのが妙に上手かった。
「まさか」
新之介が男へ近づく。
「そなた」
「ああ」
「本当に」
「確かめろ」
「……」
「私を信じるな」
新之介が目を上げた。
「それを誰に教わった」
「お前だ」
「私?」
「十五年前」
男は少し笑った。
「蔵から米が消えた」
新之介の記憶が戻る。
「覚えている」
「家中は私を疑った」
「新入りだったから」
「ああ」
「だが、お前だけが」
――弥吉を信じるな。
――蔵を見ろ。
若い自分が、そんなことを言った。
確かに覚えている。
「米俵の底が破れていた」
「鼠ではなかった」
「家人が横流ししていた」
「私ではなかった」
男が言う。
「その時、お前が申した」
「人を先に決めれば、見えるものも見えなくなる、と」
新之介は目を閉じた。
今の自分が何度も口にしている考え。
それを十五年前にも。
「では」
水野が言った。
「新之介の思想は、鷹見静山からではなく」
「元から面倒だったのか」
男が答えた。
新之介が睨む。
「そこは重要ではありません」
「少し重要だ」
「水野様まで」
◇
「なぜ榊原家から消えた」
「回収された」
「誰に」
「父だ」
「藤吉殿」
「ああ」
「西徳寺の」
「当時は別の名だった」
「何という」
「知らない」
「父の本名も」
「知らない」
「そなたを守るため」
「そう言われた」
「どこへ」
「最初は品川」
「次に御影の工房」
「そこで顔と声を作る技を覚えた」
「望んで?」
「最初は違う」
「途中からは」
男は黙った。
「自分で選んだのですか」
「生きるためだ」
「それを選んだと申すのか」
「……」
「子どもへ他の道を見せず」
「これしかないと言って選ばせる」
「それは選びとは呼びたくありません」
男が新之介を見る。
「相変わらずだ」
「何が」
「私が一番嫌なところを言う」
「すみません」
「謝るな」
◇
「父・藤吉殿は、なぜそなたを将軍の影へ」
「御影から隠すため」
「御影自身の工房にいたのに?」
「途中で父は気づいた」
「何に」
「救った十六人を、今度は御影が使い始めたことに」
「人売りから救い」
「自分たちの道具へした」
「そうだ」
宗一を名乗る男が低く言う。
「宗太郎は知っていたのか」
「全部ではない」
「宗伯は」
「もっと知らなかった」
「鷹見宗一郎は」
「知ったから、御影を離れた」
「海へ行った理由の一つか」
「ああ」
新之介は拳を握った。
正しいことから始まった。
人を救う。
売られる者を抜く。
名前を変え、追っ手から隠す。
それだけなら善意に見える。
だが。
名前を返さなかった。
役目を与えた。
役目に適した者として育てた。
いつしか、
救われた人間が仕組みを守る部品になった。
「本当の言葉を並べても」
新之介が呟く。
「本当の話になるとは限らない」
「何」
「救った」
「隠した」
「生かした」
「全部本当です」
「ですが」
「その後、使った」
男は頷いた。
「それも本当だ」
◇
「十六人の記録はあるのですか」
水野が問う。
「ある」
「どこに」
「この下」
男は御座所の畳を見る。
先ほど自分が出てきた地下口。
「まだ何かあるのですか」
「影武者の控え部屋だけではない」
「案内を」
「よい」
新之介が止める。
「先に」
「何だ」
「御記録所の人は全員助かったか」
神谷が廊下から答える。
「確認済み!」
「火は」
「一棚のみ! 消し止めた!」
「沢渡は」
「水野殿の者が見張っている!」
「複数で?」
「三人!」
「では下へ」
水野が呆れた。
「この状況でも順番か」
「人が先です」
「分かっている」
◇
地下。
御座所の真下。
狭い控え部屋を抜ける。
その先に鉄扉。
男――弥吉、今は藤吉を名乗る者が手を止める。
「鍵はない」
「どう開ける」
「中からしか」
「誰かいる?」
「いるはずだ」
「誰」
「十六人の記録を守る者」
「名は」
「知らない」
新之介が無言で彼を見る。
「見るな」
「まだ何も」
「顔が申している」
「何と」
「またか、と」
「正解です」
弥吉が扉を三度叩く。
間を置く。
二度。
一度。
「誰だ」
中から女の声。
「藤吉」
「どちらの」
弥吉が苦笑する。
「息子だ」
「証は」
「右肩の焼印」
「それだけでは足りない」
新之介が思わず言った。
「良い方ですね」
扉の向こうが静かになる。
「榊原新之介か」
「なぜ私を」
「声で」
「それでは証に」
「分かっている」
「……」
「面倒な男だな」
新之介が水野を見る。
「今、私何か申しましたか」
「顔に書いてある」
◇
扉が少し開く。
中から五十ほどの女。
白髪交じり。
左手の小指がない。
全員の身体が硬くなる。
「鷹見千代?」
水野が問う。
女は首を振った。
「違う」
「では」
「その名を使ったことはある」
新之介がため息をつく。
「まず今の名を」
「お冬」
「生まれた名は」
「千代」
「……」
「ややこしいか」
「かなり」
「私もそう思う」
女は中へ招いた。
◇
石室。
壁一面に木札が並んでいる。
十六枚。
上に数字。
一から十六。
だが名前ではない。
――寺。
――船。
――商。
――町。
――武。
――影。
役目。
「名ではなく役で残した」
新之介の声が低くなる。
「御影が作ったからな」
「お冬殿は」
「十六人の一人だ」
「どこへ」
女は木札を指す。
「寺」
「何番」
「四」
「元の名は千代」
「ああ」
「それを鷹見千代の役へも」
「一時だけ使われた」
「では十五年前、玄斎先生へ竹筒を渡した女性は」
「私ではない」
「誰」
お冬は十六枚の木札を見る。
「八番」
「今どこに」
「死んだ」
「確認は」
「した」
「顔も」
「ああ」
「複数で」
「私と藤吉、それに宗一郎」
「記録は」
「ここに」
お冬は一枚の帳面を出す。
新之介が止める。
「一人で渡さないで」
「何」
「水野様」
「はいはい」
「神谷殿も」
「分かった」
お冬が呆れた顔をする。
「そこまで」
「最近ずっとです」
「疲れぬか」
「疲れます」
「そうか」
◇
十六人の見分帳。
表紙には名前がない。
第一頁。
――六十三名中、四十七名を船へ。
――十六名を別路へ。
新之介の喉が詰まる。
「別路」
「救出とは書かないのか」
「最初から利用するつもりだった者がいた」
お冬が答える。
「誰」
「書いた者」
「名は」
頁の下。
署名。
――御影宗太郎。
水野が眉をひそめる。
「宗太郎」
「今、再起館にいる男」
「筆跡確認が必要です」
新之介が言う。
次の頁。
一番。
寺。
二番。
商。
三番。
船。
四番、お冬。
五番。
町方。
六番。
武家。
七番。
影。
八番。
千代。
九番。
船。
十番。
御影。
十一番。
商。
十二番。
寺。
十三番。
武家。
十四番。
影。
十五番。
商。
十六番。
武家。
「名前が一つもない」
神谷が言う。
「人を守るため」
お冬が答える。
「結果、人を消した」
新之介が返す。
「そうだ」
お冬は否定しなかった。
「だから私は、これを守っている」
「何のために」
「いつか名を戻すため」
「本人へ?」
「ああ」
「元の名前へ戻したいか聞いたのですか」
お冬が止まった。
「何」
「十五年前の名へ戻ることが、本人にとって戻る場所とは限らない」
「だが」
「今の名で家族を持った人もいるでしょう」
「……」
「元の家がなくなった人も」
「いる」
「なら」
新之介は帳面を見る。
「戻る場所を間違えるな」
お冬の目が動く。
「誰の言葉だ」
「今はもう、誰の言葉でもよいでしょう」
◇
「六番」
新之介が言った。
「榊原家は六番ですか」
「そうだ」
弥吉が木札へ近づく。
――六 武家。
裏返す。
そこには。
――榊原家。
――名 弥吉。
――後、藤吉。
「私だ」
新之介は木札を見る。
十五年前。
確かに家にいた少年。
生きていた。
「では」
神谷が問う。
「新之介殿の家へ入れられた者は、もう判明した」
「ああ」
「先ほどの話はこれで」
「いや」
弥吉が首を振る。
「何」
「榊原家に入ったのは私だ」
「ですが」
「榊原新之介へ入った者は別にいる」
新之介の目が止まる。
「何を申している」
お冬が見分帳の後ろを開いた。
「十六人とは別だ」
「では」
「十六人を使って、後に作られた役」
「何の」
お冬が一枚の薄い紙を出す。
十五年前のものではない。
新しい。
何度も書き加えられている。
上には。
――代替。
「誰を」
新之介が問う。
お冬は紙を床へ置く。
全員で見る。
――水野隼人正。
――安西主税。
――阿部伊勢守。
――徳川家慶。
名が続く。
いずれも、声や顔を使われた者。
そして。
一番下。
――榊原新之介。
「いつから」
新之介が問う。
「十五年前」
弥吉が答えた。
「私は榊原家で」
「お前の声」
「歩き方」
「字」
「癖」
「考え方まで記録するよう命じられた」
新之介は弥吉を見る。
「そなたが」
「ああ」
「私を」
「最初は」
「誰の命で」
弥吉は答えられない。
お冬が代わりに言った。
「御影宗太郎」
新之介の顔から表情が消える。
「宗太郎殿が」
「筆跡が本物ならな」
水野が言う。
「確かめる必要がある」
「はい」
新之介は紙を見る。
さらに小さな文字。
――榊原新之介、代替候補三名。
「三人」
神谷が呟く。
「千代が日本橋で使った顔は、その一人?」
「違う」
お冬が答える。
「あれは顔型だけだ」
「では」
「三人とも」
一呼吸。
「生身だ」
新之介の背中に冷たいものが走る。
「今も?」
「一人は死んだ」
「確認は」
「した」
「残り二人」
「生きている」
「どこです」
お冬が答えようとした瞬間。
石室の外から声。
「榊原殿!」
水野の部下。
「大手門で!」
「何が!」
「榊原新之介殿がお見えです!」
神谷が新之介を見る。
「ここにいる」
「いえ!」
声は続く。
「二人です!」
新之介は目を閉じた。
将軍の次は。
自分だった。
「二人とも」
部下が叫ぶ。
「『私を信じるな、見ろ』と申しております!」
弥吉が顔を青ざめさせた。
「二人とも生きていた」
新之介は静かに立ち上がった。
「よい」
「何がよいのです」
水野が問う。
「三人並びます」
「何をする」
「本物を決めるのか」
新之介は首を振った。
「いいえ」
「では」
「三人が十五年間」
「それぞれ何をしてきたか」
「そこから聞きます」
そして。
自分自身へ言い聞かせるように続けた。
「名が同じでも」
「人は同じではない」
(第七十章へ続く)

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