第六十六章 二人の家慶
門の外にいる男も、徳川家慶の顔をしていた。
左脇腹へ手を当て、
「二十年前、曲直瀬玄朴。そなたが残した針だ」
と、同じ声で言った。
再起館の中にいる家慶が、ゆっくり門へ近づく。
二人の距離は十間ほど。
白灰で引いた線を挟み、向かい合った。
「……似ている」
玄斎が呟く。
「似ている、で済ませるのですか」
新之介が言う。
「同じに見えるのだから仕方なかろう」
内側の家慶が外の家慶を見る。
外も同じ顔で見返す。
「久しいな」
外の男が言った。
内の家慶の表情が変わった。
「そなた」
「覚えているか」
「何を」
「十五年前、吹上の池で鯉を逃がした」
「……」
「二人でだ」
神谷作左衛門が驚く。
「二人?」
外の家慶が答える。
「影武者は、ただ立っているだけでは務まらぬ」
「一緒に過ごしたのか」
新之介が問う。
「何年もな」
内側の家慶は黙っている。
「認めますか」
新之介が聞く。
「認める」
「では、この男が影武者」
「そうだ」
外の家慶が笑った。
「逆だ」
周囲がざわつく。
「私が徳川家慶だ」
「中にいるのが影だ」
「証は」
新之介が即座に問う。
「いくらでもある」
「顔以外で」
「脇腹の針」
「それは、そちらにも」
「私にだけだ」
「まだ調べていません」
外の家慶が玄朴を見る。
「確かめよ」
玄朴は動かない。
「玄朴」
「……」
「どうした」
「怖いのです」
「何が」
「どちらにもあったら」
一同が黙った。
外の家慶の顔から、僅かに笑みが消える。
「あるわけがない」
「そう思って、先ほど中のお方を調べました」
「そして」
「ありました」
外の男が内側を見る。
「……そうか」
その反応を新之介は見逃さなかった。
驚いた。
だが、それが何を意味するかは分からない。
「外の方も調べます」
新之介が言う。
「立会いは同じ条件で」
「私に衣を脱げと」
「中の方もされました」
「将軍に」
「まだどちらが将軍か分かりません」
玄斎が小さく笑う。
「今日一日で将軍の扱いがずいぶん雑になったな」
「先生」
「何だ」
「聞こえています」
「本人たちにも聞かせておる」
二人の家慶が同時に玄斎を見た。
玄斎が一歩退いた。
「その顔で二人に睨まれると怖いな」
◇
外の男の確認も、門前では行わなかった。
再起館の一室。
ただし二人を同じ部屋へは入れない。
先に外の男。
玄朴。
志乃。
神谷。
町方同心。
新之介。
「左脇腹」
玄朴が衣の下を調べる。
古い切り傷。
「同じです」
玄朴の声が震えた。
「傷だけでは」
「分かっている」
指で探る。
しばらく。
玄朴が手を止めた。
「……ある」
神谷が息を呑む。
「針が?」
「ああ」
新之介は外の家慶を見る。
男は静かだった。
「場所は」
「ほぼ同じだ」
「ほぼ?」
「内のお方より、僅かに下」
「同じ針か」
「触るだけでは分からぬ」
「なぜ二人に」
玄朴は顔を青くしている。
「私は知らない」
「本当に」
「私が針を残したのは、一人だけだ!」
外の家慶が言った。
「なら、その一人が私だ」
「まだ決めません」
「榊原」
「はい」
「ここまで同じで、何を疑う」
「ここまで同じだからです」
「何」
「誰かが身体まで証に使うと考えた」
新之介は玄朴へ向く。
「針のことを知っていたのは、本当に玄朴殿だけですか」
「……」
「答えてください」
「処置には助手がいた」
「何人」
「二人」
「名は」
「一人は死んだ」
「確認しましたか」
玄斎が廊下から口を挟む。
玄朴が怒鳴る。
「入ってくるな!」
「聞こえたのでな」
「誰が死んだ」
新之介が戻す。
「杉野良庵」
「遺体は」
「見た」
「もう一人」
玄朴が黙った。
「名を」
「……沢渡玄隆」
新之介の顔が変わった。
「沢渡」
「若い頃、私の助手をしていた」
「なぜ今まで」
「関係があると思わなかった!」
「声を扱う医師が、将軍の身体の秘密を知っていた」
「知らぬと思っていた!」
「思っていた」
清太郎が廊下で筆を走らせる。
「そこも書くのか!」
玄朴が叫ぶ。
「重要です!」
沢渡。
声。
薬。
身体の癖。
そして将軍の傷。
「影武者にも同じ傷をつけた時」
新之介が問う。
「誰が施した」
「私だ」
「針までは」
「入れていない」
「沢渡は立ち会った」
玄朴の顔がさらに青くなる。
「……いた」
「なら、後から入れられる」
「可能性はある」
外の家慶が低く言った。
「つまり、この身体も証にならぬと」
「単独では」
「では私は何をもって私だと証明すればよい」
新之介は答えた。
「証明することを、いったんやめましょう」
全員が彼を見る。
「何」
「どちらが本物かという問いを、一度置きます」
「逃げるのか」
「逆です」
「では何をする」
「今日、誰が何をしたかを確かめる」
◇
二人の家慶を広間へ入れた。
ただし離して座らせる。
中央に清太郎。
記録役。
その横に吉松。
「読み上げながら書きます」
「なぜ」
外の家慶が問う。
「書き間違いを減らすためです」
「将軍を前に?」
「二人いらっしゃるので、なおさらです」
外の男が一瞬黙り。
「なるほど」
内の家慶が苦笑した。
「慣れると便利だぞ」
「そなたが言うな」
初めて、二人の顔に同じ笑いが浮かんだ。
新之介はそれを見る。
本当に長い時間を共にした者同士なのかもしれない。
「内の方から」
「内の方とは何だ」
「便宜です」
「好きにしろ」
「今朝、どこにいました」
「江戸城御座所」
「何時まで」
「辰の刻過ぎ」
「その後」
「宗太郎から届いた紙を読んだ」
宗太郎が頷く。
「送ったか」
「送った」
「内容は」
「城の中で声が増えている。戻る場所を間違えるな」
「それで城を出た」
「ああ」
「誰に告げて」
「誰にも」
「本当に」
「川辺主馬にだけ、出るかもしれぬと前夜に」
「出る時には」
「告げなかった」
「なぜ」
「誰が御影側か分からなかった」
「どの道で」
「吹上から外堀へ出る古道」
「一人で」
「途中で宗太郎と合流した」
「どこ」
「竹橋外」
宗太郎が答える。
「会った」
「時刻は」
「巳の刻前」
清太郎が記す。
「そこから再起館へ」
「ああ」
「では高札が出た時には」
「すでに城外」
「はい」
新之介は外の家慶へ向く。
「そちらは」
「朝から城内だ」
「御座所に」
「別の部屋にいた」
「なぜ」
「影の役を務めていた」
「本物が御座所にいるのに?」
「家慶本人の姿を、同時に二か所で見せることは以前からある」
「今日も」
「ああ」
「誰の命で」
「川辺主馬」
「直接」
「紙で」
「本人を見た」
「昨夜は」
「見た」
「今朝は」
「見ていない」
「また紙」
玄斎が呟く。
「続けて」
「辰の刻過ぎ、御座所の家慶が消えたと聞いた」
「誰から」
「久松主膳」
「本物か」
「その時は本物と思った」
「それで」
「私は代わりに御座所へ入った」
内側の家慶が顔を上げる。
「勝手にか」
「御城を空にできぬ」
「それが影の役目だ」
「そうだ」
「そして」
「昼前、高札を出した」
全員の視線が集まった。
「家慶薨去の高札を」
「私が許した」
内の家慶が立ち上がりかける。
「何のために!」
外の男も声を上げる。
「座れ!」
新之介が二人へ叫んだ。
一瞬。
部屋中が凍る。
新之介自身も固まる。
将軍の顔をした男二人へ「座れ」と言ってしまった。
玄斎が小さく言った。
「もう戻れぬな」
「先生、黙ってください」
二人とも。
座った。
「続けてください」
外の家慶が答える。
「本物の家慶が城外へ出た可能性を知った」
「なら、なぜ死んだと」
「城内にいる御影側を動かすためだ」
「囮にした?」
「ああ」
「本人へ知らせず」
「知らせれば囮にならぬ」
内の家慶の顔が怒りに変わる。
「私の死を勝手に使ったのか」
「そなたも私の姿を何度使った」
「それは」
「将軍家のためだろう」
「同じではない!」
「同じだ!」
二人が立つ。
「座ってください!」
新之介がまた怒鳴った。
二人が渋々座る。
玄斎が横を向いて肩を震わせている。
「先生」
「笑っておらぬ」
「肩が」
「膝が痛いだけだ」
「そこは関係ないでしょう」
◇
「外の方」
新之介が続ける。
「高札を出せば、何が起きると思った」
「城外にいる家慶を狙う者が動く」
「再起館の封鎖命令は」
「私は出していない」
「阿部伊勢守名義」
「知らぬ」
「では、そなたが出した高札に誰かが命令を重ねた」
「そうなる」
「『将軍を名乗る者すべて逆賊』は」
「私ではない」
「最初の薨去だけ」
「ああ」
清太郎が声に出して確認する。
「外の家慶殿は、将軍薨去の虚偽高札を承認」
「目的は御影側を動かすため」
「本人への告知なし」
「結果、別の者が再起館封鎖と将軍僭称者捕縛命令を追加した可能性」
「その通りだ」
「責任は」
外の男が黙った。
「そこまで聞くのか」
「はい」
「私にある」
内の家慶がすぐ言った。
「当然だ!」
「そなたに言われたくない!」
「なぜ!」
「そなたも声の偽造を半年放置した!」
二人がまた立とうとする。
「座ってください!」
今度は志乃が怒鳴った。
二人とも座った。
新之介が志乃を見る。
「助かります」
「見ていられません」
◇
「ここで重要なのは」
新之介が言う。
「どちらが本物の家慶かではない」
「何だと」
二人が同時に言う。
「今の話では」
「内の方は偽声を知りながら放置した」
「外の方は偽の死亡高札を出した」
「どちらも、人を動かすために事実を伏せた」
「私は将軍として」
内の男が言う。
「私は将軍の代わりとして」
外が言う。
「そこです」
新之介は二人を見る。
「役目を盾にするな」
部屋が静まる。
「本物か偽物か決める前に」
「そなたは半年、何をした」
「そなたは今日、何をした」
「先にそこを記す」
「本物なら許されるわけではない」
「偽物なら全部が偽りになるわけでもない」
外の男が腕を組む。
「影武者が将軍として正しい命を出したら」
「命は正しいかもしれない」
「では本物の将軍が誤った命を出したら」
「誤りです」
「将軍でも」
「はい」
家慶の顔をした二人が、同時に新之介を見る。
玄斎が呟いた。
「簡単なことだが」
「難しいですね」
志乃が答える。
「今まで、名の方を先に見てきましたから」
◇
その時、門外から馬の音。
「使い!」
「江戸城より!」
今度は誰もすぐ動かなかった。
清太郎が笑う。
「皆、学びましたね」
「何が」
「まず誰が来たか見るようになりました」
使者は水野隼人正だった。
後ろに青山新六郎。
さらに。
髪を乱した老中・阿部伊勢守。
「阿部殿!」
内外の家慶が同時に立つ。
阿部は二人を見るなり、その場で止まった。
「……これは」
「どちらか分かりますか」
新之介が問う。
「分からぬ!」
阿部が即答した。
「よい」
玄斎が頷く。
「何がよい!」
「正直でよい」
「笑い事ではない!」
阿部は新之介へ詰め寄る。
「城内が割れた!」
「何が」
「御城代は将軍薨去を信じている!」
「大目付は撤回を主張!」
「御側衆は二派!」
「大奥は誰も城門を開けるなと!」
「川辺主馬は」
家慶が問う。
「消えた」
「いつ」
「半刻前」
「久松主膳は」
「確保した」
「本人か」
新之介が問う。
阿部が睨む。
「今からそれを確かめるところだ!」
「よい」
「だから何がよい!」
◇
水野が紙を差し出す。
「榊原」
「何です」
「御記録所から続帳の最後の頁が出た」
お志津が前へ出る。
「父の」
「長兵衛本人も来る」
「どこに」
「すぐ後ろだ」
「頁には」
水野は二人の家慶を見る。
「家慶公の筆跡がある」
「やはり」
外の男が言う。
内の家慶は黙る。
「ただし」
「何です」
「阿部殿が、あることに気づいた」
阿部が紙を受け取る。
「家慶公の筆には癖がある」
「どんな」
「『慶』の心を、やや右へ流す」
「二人とも書けますね」
「当然だ」
外の男が答える。
「影武者は筆も真似る」
「だから癖では見分けられぬ」
「では何に」
阿部は続帳最終頁を見せる。
「この文だ」
――五年のうち、次の者を罪に問う可能性あり。
――榊原新之介。
――水野隼人正。
――戸田備前守。
ほか数名。
最後に。
――阿部伊勢守。
本人の名。
「私まで入っている」
「それが何を」
「その横」
小さな書き込み。
――伊勢は、最後まで迷う。
――ゆえに切るなら早く。
阿部の顔が怒りに歪む。
「家慶公」
二人へ向く。
「この言葉を覚えておられますか」
内の家慶が首を振る。
「知らぬ」
外の男も。
「私もだ」
「だが」
阿部は紙を裏返す。
「裏から透かすと、消した跡がある」
薄い墨。
清太郎が灯りへかざす。
「読めます」
「何と」
「――阿部を切るな」
「――迷う者を傍に置け」
新之介の目が動く。
表には正反対。
消された元の文。
そしてその下。
小さな署名。
「鷹見静山」
玄斎が呻いた。
「また静山か」
「ですが」
清太郎がさらに紙を見る。
「裏に、もう一つ」
「誰の」
筆跡。
家慶。
今度は消されていない。
――静山の申す通り。
――阿部を残す。
阿部が二人の家慶を見る。
「これは」
声が低くなる。
「三年前の私と上様しか知らぬ話だ」
「何があった」
新之介が問う。
「私は一度、老中を辞すつもりだった」
「なぜ」
「異国船への備えを巡り、家中で孤立した」
「その時」
「上様が一言だけ」
「何と」
阿部は答えた。
「『迷う者が一人くらいいた方がよい』」
玄斎と新之介が顔を見合わせる。
「鷹見静山と同じ考え」
阿部が続ける。
「この話は、私と上様しか知らぬ」
新之介が言う。
「本当に」
「……」
阿部の顔が歪む。
「そう思っていた」
「誰かが聞いていた可能性」
「ある」
「声の間が城内にも」
「ある」
水野が言った。
「先ほど見つけた」
つまり。
また秘密は証にならない。
◇
「ただ」
阿部が言った。
「この時の上様には、もう一つ癖があった」
「何です」
「私へその言葉を申した後」
「はい」
「茶をこぼした」
内外の家慶が同時に顔をしかめた。
「覚えている」
二人とも言った。
阿部が凍りつく。
「二人とも?」
内の家慶が外を見る。
「そなたも、あの場に?」
「屏風の裏にいた」
外が答える。
「影として」
「誰の命で」
「川辺主馬」
阿部は座り込んだ。
「なら、やはり記憶も共有されている」
「もう本物探しはやめませんか」
半九郎が言った。
「何」
神谷が見る。
「見分けるたびに、相手が用意した同じ穴へ入っています」
「では将軍を決めずに城を」
「動かせない」
家慶の一人が言う。
「いや」
もう一人が続ける。
「動かせる」
二人が互いを見る。
外の男が言った。
「命令を二人で出す」
内の家慶が眉をひそめる。
「何」
「今だけだ」
「二人の署名が一致した命だけ通す」
「一致しない時は」
「阿部、水野、町方」
「そして」
外の男は新之介を見る。
「町人の立会い」
新之介が驚く。
「そなたがそれを」
「今日ここで見た」
「影武者が将軍へ提案するのか」
「どちらが影か、まだ分からぬのだろう」
内の家慶が笑った。
「面白い」
「見世物では」
「分かっている」
「ですが」
新之介は二人を見る。
「それは暫定です」
「分かっている」
二人が同時に答えた。
玄斎が頭を抱える。
「声まで揃えるな」
◇
「最初の命を」
阿部が言った。
「何にします」
二人の家慶が互いを見る。
しばらく。
内の男が言った。
「再起館への討ち入りを止める」
外の男が続ける。
「将軍薨去の高札を、確認中へ改める」
「城門は」
「閉じたまま」
「なぜ」
「本物が確定していないから」
「異国船への備え」
「水野へ任せる」
「ただし」
二人が少し考える。
外の男。
「砲撃命令は二重確認」
内の男。
「現場の緊急判断を妨げぬ」
水野が頷く。
「それでよい」
「町の米は」
志乃が口を挟む。
二人が志乃を見る。
「蔵前の分配を続ける」
「値は」
「勝手に固定すれば商いが止まる」
「では」
「記録を出させる」
外の家慶が言う。
「米の在庫を」
「商人だけではありません」
志乃が答える。
「大名蔵も」
二人が少し黙る。
「出させる」
同時。
志乃が頷いた。
「今のところ、同じですね」
新之介は清太郎を見る。
「全部記録」
「はい」
「暫定命令」
「発令者」
清太郎が困る。
「何と書きます」
全員が二人の家慶を見る。
内の男が苦笑した。
「徳川家慶甲」
外が言う。
「私は乙か」
「不満か」
「少し」
玄斎が噴き出した。
「将軍を甲乙で呼ぶ日が来るとはな」
「先生」
「何だ」
「今は笑ってよいと思います」
「ようやくか」
◇
だが。
その僅かな安堵を壊すように、再起館の外から一人の男が現れた。
相模屋長兵衛だった。
お志津が駆け寄る。
「父上!」
「志津」
「どこへ行っていたのです!」
「あとで叱られる」
「今です!」
「今は先にこれだ」
長兵衛の手には小さな木箱。
「続帳の最後の頁だけではない」
「何が」
「御記録所に隠されていた」
「誰が」
「分からぬ」
「中身は」
「影武者の記録だ」
二人の家慶が同時に立ち上がる。
「何」
「何人いる」
長兵衛は答えた。
「家慶公の代になってから」
一呼吸。
「七人」
玄斎が目を閉じた。
「もう驚かぬぞ」
「七人のうち、現在生存が確認できるのは」
「何人」
「三人」
新之介は目の前の二人を見る。
「では、もう一人」
「ああ」
「どこに」
長兵衛は江戸城の方角を見た。
「城にいる」
「将軍として?」
「それが」
長兵衛は木箱から一枚の紙を出した。
「三人目は、影武者ではないと自分で書いている」
「では何だ」
「徳川家慶本人だ、と」
阿部が呻く。
「三人目まで」
「ただし」
長兵衛は紙の最後を示す。
「この男には、本名が残っている」
「何という」
長兵衛が答えた。
「徳川斉昭」
水野が立ち上がった。
「馬鹿な!」
水戸家の主。
家慶とは別人であるはずの男。
「本人ではない」
長兵衛が続ける。
「名を使っている」
「なぜ」
「将軍家の影武者へ、御三家の名まで与えた」
「誰が」
紙の署名。
清太郎が読む。
「――川辺主馬」
影武者を管理していた男。
今、江戸城から消えている。
その下に、さらに一文。
――将軍が二人となった時。
――第三の将軍を立てよ。
――二人が争えば、第三が国を預かる。
新之介は紙を見つめた。
「最初から」
半九郎が言う。
「二人になることを想定していた」
「違う」
新之介が答えた。
「二人にするつもりだった」
誰が本物かで争わせる。
決められなくなったところへ。
第三の答えを置く。
千代が低く呟いた。
「一つの答えを作るために」
「わざと迷いを増やした」
玄斎の顔から笑いが消えた。
その時。
遠く江戸城の方角から。
大砲ではない。
太鼓。
一打。
二打。
三打。
将軍登城を告げる太鼓。
阿部が外へ走る。
「誰が鳴らしている!」
ほどなく門外から声が上がった。
「御触れ!」
「新しい将軍家のお触れだ!」
清太郎が受け取った紙を開く。
そこには。
――徳川家慶、重病につき政務を退く。
――本日より、一時政務を預かる者を置く。
新之介が問う。
「名は」
清太郎は最後の行を読む。
「――鷹見静山」
誰も声を出さなかった。
将軍が三人になるより先に。
今度は鷹見静山が。
江戸城そのものを名乗り始めていた。
(第六十七章へ続く)

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