上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第二十六章

目次

第二十六章 浪人の朝

 卯の刻前。

 再起館の門は、まだ閉じられていた。

 神田の町も完全には目を覚ましていない。

 空は青みを帯び、路地の井戸端では水を汲む音がかすかに響いている。遠くで豆腐屋の笛が鳴り、長屋の軒から雀が一羽飛び立った。

 片桐宗次郎は門前に立っていた。

 昨夜と同じ、擦り切れた羽織。

 袴の裾には泥が残り、月代も整っていない。

 腰には刀を差している。

 だが、その手は柄に触れていなかった。

 宗次郎は門札を見上げた。

 再起館。

 名が気に入らなかった。

 一度負けた者に、もう一度立てと迫る。

 ひどく無責任な名に思えた。

 立てる者は、初めから倒れぬ。

 倒れた者は、立ち方を忘れたから倒れている。

 そう考えながらも、宗次郎は帰らなかった。

 門の内側から、閂を外す音がした。

 戸が開く。

 榊原新之介が立っていた。

「来たか」

「来てはいけなかったか」

「来ぬと思っていた」

 宗次郎の眉が動く。

「ならば、なぜ卯の刻前と申した」

「来るかどうか確かめるためだ」

 新之介は門を開けた。

「入れ」

 宗次郎は一歩踏み出した。

 すると新之介が言った。

「刀はそこへ置け」

 門脇に木の刀掛けがある。

 宗次郎は動かなかった。

「昨夜も同じことを申された」

「昨夜は置けた」

「今朝は置けぬ」

「なぜだ」

「ここへ来る途中で、浪人狩りのような若侍どもに絡まれた」

 宗次郎は唇を歪めた。

「刀がなければ、辱められていた」

「抜いたのか」

「抜かぬ」

「ならば刀は役に立っておらぬ」

 宗次郎の目が鋭くなった。

「差しているから抜かずに済んだ」

「そうかもしれぬ」

 新之介は否定しなかった。

「だが、この門の内では要らぬ」

「なぜ」

「ここでは、刀を差している者も、差せぬ者も同じだからだ」

 宗次郎は道場の中を見た。

 まだ誰もいない。

 薄暗い板の間。

 壁際には木刀が並び、反対側には机と硯箱が置かれている。

 武家の道場とも、寺子屋とも違う。

 妙な場所である。

「盗まれぬだろうな」

「その刀に盗む価値があるなら、見張っておこう」

 宗次郎は顔をしかめた。

 だが刀を外し、刀掛けへ置いた。

「鞘に傷をつけるな」

「掃除を始めろ」

「返事はないのか」

「掃除をすれば、傷はつかぬ」

 宗次郎は舌打ちした。

 ◇

 道場の朝は、床拭きから始まった。

 新之介は雑巾を一枚渡した。

「端から端まで拭け」

「剣は」

「床を拭いた後だ」

「昨日もそう申された」

「今日も同じだ」

 宗次郎は雑巾を見下ろした。

「私は武士だ」

「知っている」

「下男ではない」

「下男なら、もっと上手に拭く」

 宗次郎の頬が引きつった。

 新之介は自分も雑巾を取り、板の間へ膝をついた。

「何をしている」

「掃除だ」

「後見役が?」

「後見役は埃を避けられるのか」

 新之介は無言で床を拭き始めた。

 宗次郎はしばらく立っていた。

 やがて、仕方なく膝をつく。

 雑巾を板へ押しつけ、乱暴に動かした。

「力を入れすぎだ」

「床拭きにも型があるのか」

「ある」

「馬鹿にしているのか」

「していない。力だけで動けば、すぐ息が切れる」

 宗次郎は返事をしなかった。

 だが、次第に新之介の動きを真似始めた。

 腰を落とす。

 腕だけでなく、体を前へ送る。

 押して戻る。

 呼吸を乱さない。

 何度か往復するうち、額に汗が滲んだ。

「剣より疲れる」

「剣でそれほど動いたことがないのだろう」

「何だと」

「見れば分かる」

 宗次郎は雑巾を放り出し、立ち上がった。

「ならば試せ」

 新之介も立った。

「何を」

「剣だ」

「まだ床が半分残っている」

「逃げるのか」

 新之介は宗次郎を見た。

 挑発に怒りはなかった。

 むしろ、怯えがある。

 自分がどこまで通じるのか、今すぐ確かめずにはいられない者の目だった。

「よい」

 新之介は木刀を一本取った。

「ただし一合だけだ」

 宗次郎も木刀を取る。

 構えた。

 上段。

 勢いのある構えだが、肩に力が入りすぎている。

「来い」

 新之介が言った。

 宗次郎は踏み込んだ。

 速い。

 だが真っ直ぐすぎた。

 新之介は半歩だけ外し、木刀の柄を宗次郎の胸へ当てた。

 宗次郎の体が止まる。

 勝負は終わった。

「もう一度」

「一合だけだ」

「今のは足が滑った」

「床を拭かなかったからだ」

 宗次郎は新之介を睨んだ。

 やがて木刀を床へ置き、再び雑巾を取った。

 今度は何も言わず、残りの床を拭き始めた。

 ◇

 日が昇る頃、弟子たちが集まり始めた。

 魚屋の倅・吉松。

 火消しの若者・辰蔵。

 旗本の次男・堀江兵馬。

 浪人の娘・お園。

 札差の手代の倅・清太郎。

 それぞれが門脇で履物を揃え、刀や木刀を所定の場所へ置く。

 宗次郎は、その様子を黙って見ていた。

 町人の子と武士の子が同じ場所に座る。

 年長の火消しが、年下の旗本の倅へ頭を下げる。

 宗次郎には理解し難かった。

「なぜ町人と一緒なのだ」

 宗次郎が新之介へ問うた。

「同じことを学ぶからだ」

「身分が違う」

「違う」

「ならば分けるべきだ」

 吉松が振り返った。

「侍様は、魚を食わねえのか」

「何だ」

「うちの親父が捌いた魚を食ってるかもしれねえだろ」

「それがどうした」

「腹に入れば同じだ」

 周囲に笑いが起きた。

 宗次郎の顔が赤くなる。

「無礼者!」

 立ち上がろうとした宗次郎の前に、玄斎の木刀がすっと伸びた。

「座れ」

「この小僧が」

「座れ」

 二度目の声は低かった。

 宗次郎は唇を噛み、座り直した。

 玄斎は一同を見回した。

「身分を忘れよとは言わぬ」

 道場は静かになる。

「武士には武士の役目がある。町人には町人の役目がある。火消しには火消しの役目があり、魚屋には魚屋の役目がある」

 吉松は背筋を伸ばした。

「だが、役目の違いを人の値打ちの違いと思うな」

 玄斎は宗次郎を見た。

「刀を差しているから偉いのではない。刀を差す責任があるだけだ」

 宗次郎は答えない。

「分かったか」

「分からぬ」

 宗次郎は正直に言った。

 玄斎は頷いた。

「それでよい」

「怒らぬのか」

「分からぬことを分かったと言う者よりましだ」

 稽古が始まった。

 その日は礼法だった。

 座礼。

 立礼。

 履物の揃え方。

 刀の置き方。

 客を迎える時の位置。

 宗次郎は不満を隠さなかった。

「いつ剣を教える」

「礼ができてからだ」

 玄斎が答える。

「礼で敵は倒せぬ」

「礼を知らぬ者は、味方を敵にする」

「言葉遊びだ」

「ならば試してみよ」

 玄斎は吉松を前へ呼んだ。

「宗次郎。この者から木刀を借りよ」

「そこにある」

「吉松が使っているものだ」

 吉松は木刀を膝の前へ置いた。

 宗次郎は手を伸ばした。

 吉松は木刀を引いた。

「何をする」

「貸してくれって言われてねえ」

「必要だから取る」

「嫌だ」

 宗次郎の目に怒りが浮かぶ。

 玄斎が言った。

「斬るか」

「子どもを斬るものか」

「ならばどうする」

 宗次郎は木刀を見た。

 吉松を見る。

 しばらく黙った後、不器用に頭を下げた。

「……貸してくれ」

 吉松も頭を下げ、木刀を差し出した。

「どうぞ」

 玄斎は言った。

「礼は敵を倒さぬ。だが、斬らずに物事を進める」

 宗次郎は借りた木刀を見つめた。

 何も言わなかった。

 ◇

 昼からは算術だった。

 真崎半九郎が板の前に立ち、米と銭の換算を教える。

 宗次郎は最初、腕を組んで聞いていた。

 だが問題が出されると、まるで答えられなかった。

「米五俵を一俵三十七匁で売った。手数料を引かれ、実際に受け取るのはいくらか」

 宗次郎は眉を寄せた。

「そんなものは商人に任せればよい」

 清太郎が首を振った。

「任せるから誤魔化されるんです」

「商人が侍を誤魔化すと申すか」

「侍様が計算できなければ」

 清太郎は淡々と答えた。

 宗次郎は反論できなかった。

 真崎が問う。

「片桐殿。これまで禄米をどうしていました」

「父が受け取っていた」

「父君が亡くなってからは」

「札差へ任せた」

「受け取った金額が正しいか確かめましたか」

 宗次郎は黙った。

「借財は」

「……ある」

「いくらです」

「知らぬ」

 道場が静まり返った。

 宗次郎の拳が震える。

「知らぬものは知らぬ」

 真崎は責めなかった。

「ならば、今日から知ればよい」

 紙を一枚差し出す。

「まず、借りた先と分かる範囲の金額を書いてください」

「なぜ皆の前で」

「皆の前で読む必要はありません」

「ならば」

「自分には隠さぬためです」

 宗次郎は紙を受け取った。

 筆を握る。

 だが文字を書こうとして、手が止まった。

「字が」

 新之介が気づいた。

「書けぬのか」

「読める」

「書く方は」

「少しだけだ」

 宗次郎の声は小さかった。

 武士である自分が、町人の子の前で文字を書けぬ。

 その恥に耐えている。

 お園が隣へ座った。

「手伝いましょうか」

「女に教わる気はない」

「では、いつまで経っても書けません」

 お園はさらりと言った。

 宗次郎は睨んだ。

 だが、お園は目を逸らさない。

「恥ずかしいのは書けないことではありません。書けないまま、人に任せることです」

 宗次郎は何も言えなかった。

 やがて筆を持ち直した。

「最初は何を書く」

「借りた人の名前から」

 お園が手本を書いた。

 宗次郎はそれを真似た。

 何度も線が歪んだ。

 墨が滲んだ。

 それでも途中で筆を投げなかった。

 ◇

 稽古を終えた後、宗次郎だけが道場に残った。

 他の弟子たちは帰り、志乃と真崎は帳面を整理している。

 新之介は木刀を拭いていた。

「榊原殿」

「何だ」

「朝の続きを」

「まだやるのか」

「もう一合」

 宗次郎は木刀を持って立った。

 朝より肩の力が抜けている。

 だが、目には焦りがある。

「なぜ勝ちたい」

 新之介が問う。

「侍だからだ」

「答えになっていない」

「負けたくない」

「誰に」

「誰にも」

「違う」

 宗次郎は黙った。

 新之介は続けた。

「父君か」

 宗次郎の顔色が変わった。

「なぜ父を知っている」

「知らぬ。だが、お前は誰かに追いつこうとしている」

 宗次郎は木刀を握り締めた。

「父は御家人だった」

 低い声で言う。

「禄は少なかったが、剣は強かった。少なくとも私はそう思っていた」

「亡くなったのか」

「借財を残してな」

 宗次郎は自嘲した。

「病で死んだ。薬代も払えず、刀も一本売った」

「それで剣を」

「剣だけは父に負けたくなかった」

「亡くなった父に勝てるのか」

 宗次郎の目に怒りが浮かんだ。

「黙れ」

「勝てぬ相手を追えば、いつまでも負け続ける」

「黙れ!」

 宗次郎が踏み込んだ。

 木刀が走る。

 朝より速い。

 だが怒りが先に出ていた。

 新之介は受け流し、足を払った。

 宗次郎は床へ倒れた。

 木刀が手から離れる。

「また負けた」

 宗次郎は起き上がらない。

「何度負ければよい」

 声が震えていた。

 新之介は木刀を置いた。

「立て」

「もうよい」

「立て」

「負けた者に何をさせる」

「戻ることを覚えろ」

 宗次郎は床へ拳を打ちつけた。

「戻るところなどない!」

 道場に声が響いた。

「家は借財で取られた。母は親類へ預けた。父は死んだ。役もない。禄もない。何に戻れと申す!」

 新之介は黙って聞いた。

 宗次郎の目から涙が落ちた。

 本人は気づいていないのか、拭おうともしない。

「刀しか残っていない」

 宗次郎は言った。

「だから刀を捨てられぬ」

 新之介は宗次郎のそばへ座った。

「捨てる必要はない」

「ならばなぜ門で置かせる」

「刀以外にも残っているものを確かめるためだ」

「何がある」

「今、自分で話した」

 宗次郎は顔を上げた。

「母上がいる」

「……」

「父君の記憶がある。借財がある。恥もある。怒りもある」

「そんなもの」

「すべてお前のものだ」

 新之介は静かに言った。

「刀だけがお前ではない」

 宗次郎は長く黙っていた。

 やがて、自分で床へ手をついた。

 ゆっくり立ち上がる。

 新之介は手を貸さなかった。

 宗次郎も求めなかった。

「もう一合」

 宗次郎が言う。

「今日は終わりだ」

「逃げるのか」

「そうだ」

 宗次郎は怪訝な顔をした。

「明日のお前から逃げる」

 新之介は木刀を片づけた。

「今日のお前と何度やっても同じだ。明日、少し変わって来い」

 宗次郎はしばらく新之介を見ていた。

 やがて、わずかに頭を下げた。

「……明朝も来る」

「床は今日より汚れている」

「拭けばよいのだろう」

「そうだ」

 ◇

 宗次郎が帰った後、志乃が縁側に座った。

「厳しいのですね」

「私が?」

「手を貸されませんでした」

「自分で立つ必要があった」

「けれど、そばにはおられた」

 新之介は答えなかった。

 庭には夕暮れの光が差している。

 真崎が一冊の帳面を持ってきた。

「片桐宗次郎について調べました」

「早いな」

「庄司殿に頼みました」

 帳面には、片桐家の事情が簡潔に記されていた。

 父は小普請組の御家人。

 病没。

 借財は大黒屋の支店から始まり、現在は別の札差へ証文が渡っている。

 母は本郷の親類宅。

 そして、宗次郎自身について一行。

 ――近頃、浪人仲間とともに押し借りの疑いあり。

 新之介の目が止まった。

「押し借り」

「商家へ押しかけ、金や米を半ば脅すように借りることです」

「知っている」

「片桐殿が加わっていたかは、まだ確かではありません」

 真崎は声を低くした。

「ただ、その仲間の一人が誠心組の残党と接触していたようです」

 新之介は帳面を閉じた。

 矢代は死んだ。

 誠心組も崩れた。

 だが、怒りや不満まで消えたわけではない。

 刀しか残っていないと思う浪人は、宗次郎だけではない。

「先生」

 新之介は玄斎を見た。

「明日、宗次郎は来るでしょうか」

「来る」

「なぜ分かるのです」

「床を拭き残した」

 玄斎は板の間の隅を指した。

 薄く埃が残っている。

「自分で気づいておった」

「それだけで?」

「途中の者は戻る」

 老人はそれだけ言った。

 ◇

 翌朝。

 卯の刻前。

 再起館の門を叩く音がした。

 新之介が開ける。

 宗次郎が立っている。

 昨日より少し早い。

 羽織も変わらず、顔も痩せたまま。

 だが月代だけは整えられていた。

 宗次郎は何も言わず、刀を外した。

 門脇の刀掛けへ置く。

 そして雑巾を取った。

「昨日、拭き残したところがある」

「知っている」

「なぜ言わなかった」

「自分で気づいた方がよい」

 宗次郎は床の隅へ膝をついた。

 丁寧に雑巾を動かす。

 新之介はその背を見つめた。

 人は一晩で変わらない。

 怒りも、借財も、過去も消えない。

 今日の宗次郎も、明日にはまた刀へすがるかもしれない。

 それでも門をくぐった。

 刀を置いた。

 床へ膝をついた。

 それだけで十分な朝もある。

 玄斎が道場へ入り、木刀を肩へ担いだ。

「掃除が終わったら立て」

 宗次郎が振り返る。

「剣を教えるのか」

「まず、倒れ方を教える」

「立ち方ではなく?」

「倒れ方を知らぬ者は、立ち直れぬ」

 宗次郎は初めて、ほんの少しだけ笑った。

 朝日が障子を白く染め始める。

 道場の外では、今日も江戸の町が目を覚ましていた。

 再起館の二日目が始まる。

 だが、その門外にはすでに別の影があった。

 路地の角に、一人の浪人が立っている。

 宗次郎が門へ入るのを確かめると、音もなく立ち去った。

 懐には黒く煤けた木札。

 裏には、一文字。

 「誠」

 誠心組の火は、まだ完全には消えていなかった。

(第二十七章へ続く)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次