上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第二十七章

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第二十七章 残り火

 再起館の朝は、倒れ方の稽古から始まった。

 玄斎は板の間の中央に立ち、弟子たちを一列に並ばせた。

「まず前へ倒れよ」

 吉松が首を傾げる。

「前へですか」

「そうだ」

「痛そうです」

「痛い」

「避ける方法は」

「倒れぬことだ」

 道場に笑いが起きた。

 玄斎は笑わない。

「だが、人は倒れる」

 声だけが静かに響いた。

「剣を受けて倒れる。足を滑らせて倒れる。家を失って倒れる。役目を失って倒れる。己の思いどおりにならず、心から倒れることもある」

 片桐宗次郎は列の端で黙って聞いていた。

 昨日より身なりは整っている。

 だが目の下には眠れなかった跡が残っていた。

「だから倒れ方を知れ」

 玄斎は自ら膝を落とし、片手を床へついた。

 身体を丸め、肩から静かに転がる。

 老いた身とは思えぬ滑らかな動きである。

「力を入れて受ければ、骨を折る。怖がって手を突けば、手首を痛める。流れに逆らうな」

 火消しの辰蔵が笑った。

「火事場でも同じですな」

「何がだ」

「梁が落ちる時、踏ん張ると下敷きになる。転がって逃げた方が助かる」

 玄斎は頷いた。

「よく知っておる」

 旗本の次男・堀江兵馬が不満そうに口を開く。

「しかし侍は、倒れぬよう鍛えるものでは」

「お前は一生倒れぬのか」

「そのつもりです」

「ならば試そう」

 玄斎は兵馬の前へ立った。

「構えよ」

 兵馬が木刀を取る。

 玄斎は何も持たない。

「打て」

 兵馬がためらう。

「先生は素手です」

「だからどうした」

「危のうございます」

「遠慮するなら、お前の負けだ」

 兵馬の顔が赤くなった。

「参ります」

 木刀を振り下ろす。

 玄斎は身を外し、兵馬の手首を軽く押した。

 それだけだった。

 勢いのついた兵馬は前へ泳ぎ、板の間へ倒れ込んだ。

 両手を突いた。

 鈍い音。

「痛っ」

「倒れぬつもりの者ほど、倒れた時に弱い」

 玄斎は見下ろした。

「立て」

 兵馬は顔をしかめながら立った。

「もう一度お願いします」

「よい」

 二度目。

 兵馬は打ち込む直前、足を少し緩めた。

 玄斎に崩される。

 今度は肩から転がった。

 不格好ではあったが、手首は守った。

 玄斎は小さく頷いた。

「それでよい」

 宗次郎はその様子を見ていた。

 倒れることを恥じず、もう一度打ち込む兵馬。

 昨日までなら、旗本の倅の甘さを笑っていたかもしれない。

 だが今は笑えなかった。

 自分は倒れることを拒み続け、立ち上がることもできずにいた。

「片桐」

 玄斎が呼んだ。

「前へ」

 宗次郎は進み出た。

「お前は木刀を持つな」

「何をする」

「わしが倒す」

「最初から分かっているではないか」

「分かっているから学べる」

 玄斎は宗次郎の襟を取った。

「力を抜け」

「抜けば倒される」

「力を入れても倒す」

「ならば」

「選べ。固まって痛むか、流れて戻るか」

 宗次郎は唇を結んだ。

 やがて肩の力を抜く。

 次の瞬間、玄斎が足を払った。

 宗次郎の身体が浮く。

 床が迫った。

 恐怖で手を突きそうになる。

 だが昨日教わった形を思い出した。

 顎を引き、肩を丸める。

 背から転がった。

 息は詰まったが、痛みは少ない。

「立て」

 玄斎が言う。

 宗次郎は起き上がった。

「もう一度」

「よい」

 二度。

 三度。

 五度目には、倒される瞬間の恐怖が少し薄れていた。

 十度目。

 宗次郎は転がった勢いのまま膝を立て、すぐ構えへ戻った。

 玄斎が初めて笑った。

「それだ」

「これが剣になるのか」

「生きることにはなる」

 宗次郎は乱れた息を整えた。

「剣になるかは、その後だ」

 ◇

 稽古が終わると、弟子たちは井戸端で汗を流した。

 吉松と清太郎が互いの倒れ方を真似し、辰蔵に叱られている。

 志乃は書き物机を整え、真崎半九郎は本日の稽古内容を帳面に記していた。

 新之介は道場の隅で、宗次郎の刀を見ていた。

 古い。

 鞘には細かな傷が多く、柄糸も擦れている。

 だが、よく手入れされていた。

 貧しくとも、刀だけは守ってきたのだろう。

「人の刀を勝手に見るな」

 宗次郎が背後に立った。

「触れてはいない」

「見るのも同じだ」

 新之介は刀掛けから目を離した。

「父君の形見か」

 宗次郎は一瞬黙った。

「ああ」

「売らなかったのだな」

「売れなかった」

「なぜ」

「父がこれで人を斬った」

 新之介は宗次郎を見た。

「いつ」

「御役目で、という話だった」

 宗次郎は声を落とした。

「だが、本当かは分からぬ」

「どういうことだ」

「父は死ぬ前、うわ言で何度も申していた。あれは役目ではなかった、と」

「誰を斬った」

「知らぬ」

「調べたか」

「調べて何になる」

 宗次郎は苛立ったように言った。

「父は死んだ。斬られた者も、おそらく死んでいる」

「それでも知りたいのではないか」

「知りたくない」

 答えは早かった。

 新之介には、その速さが恐れに思えた。

「ならば、なぜ話した」

 宗次郎は返事をしなかった。

 やがて刀を取り、腰へ差す。

「今日は帰る」

「読み書きは」

「用がある」

「借財のことか」

「違う」

「浪人仲間か」

 宗次郎の目が鋭くなった。

「私を調べたのか」

「少し」

「信用していないのだな」

「まだ知らぬからだ」

「同じことだ」

「違う」

 新之介は静かに言った。

「疑っている。だが決めつけてはいない」

「武士らしい言い訳だ」

「父に教わった」

 宗次郎は鼻で笑い、門へ向かった。

「片桐」

 呼び止める。

「何だ」

「明朝も来い」

「気が向けばな」

「床は毎日汚れる」

 宗次郎は振り返らなかった。

 だが足取りは、昨日までより少しだけ軽く見えた。

 ◇

 その日の昼過ぎ、庄司源太郎が再起館を訪れた。

 町方の仕事着のまま、いつになく険しい顔をしている。

「榊原様、お話が」

 二人は道場裏の小部屋へ入った。

 源太郎は一枚の人相書きを広げた。

「昨夜、日本橋の質屋へ押し借りに入った浪人です」

 人相書きには三人。

 そのうち一人に、新之介は見覚えがあった。

 再起館の門外で宗次郎を見ていた男とは知らない。

 だが、浅草で誠心組の残党を追った時、遠目に見た顔だった。

「名は」

「笠原陣内。元は小普請組の御家人です」

「誠心組と関わりが」

「矢代の死後、残党を集めているようです」

 源太郎は声を低くした。

「奴らは自らを『真誠組』と称しています」

「真の誠か」

「誠心組の失敗は、矢代が幕府の者に利用されたからだと考えているようです」

「では今度は誰にも使われぬつもりか」

「表向きは」

「実際は違うのか」

 源太郎は別の紙を出した。

 米問屋や質屋から奪われた品の一覧である。

 米。

 金。

 薬。

 古刀。

 火薬の材料。

「ただの押し借りではありません」

「備えている」

「ええ」

 新之介は一覧を見つめた。

 誠心組と同じ道を辿り始めている。

 不満を抱えた浪人を集め、金と刀を蓄える。

 いずれ何かを起こすつもりだ。

「宗次郎との関わりは」

「まだ分かりません。ただ、笠原陣内と片桐宗次郎は、同じ浪人溜まりに出入りしていました」

 源太郎は慎重に言った。

「片桐を捕えるか」

「証は」

「ない」

「ならばできぬ」

「ですが、見張りはつけます」

 新之介は頷いた。

 その時、襖の外で微かな音がした。

 人の気配。

 新之介が戸を開ける。

 廊下に吉松が立っていた。

「何をしている」

「水を持ってきました」

 盆には湯呑みが二つ。

 だが顔色が不自然だった。

「聞いたか」

 吉松は黙った。

「正直に申せ」

「片桐さん、悪い人なんですか」

「まだ分からぬ」

「捕まえるんですか」

「それも決まっていない」

 吉松は唇を噛んだ。

「片桐さん、昨日、俺に握り飯をくれました」

「そうか」

「自分は食ってなかったのに」

 源太郎が新之介を見る。

 吉松は続けた。

「悪い人なら、そんなことしないでしょう」

 新之介はすぐには答えなかった。

「人は、よいことも悪いこともする」

「じゃあ、どっちなんです」

「それを今、確かめている」

「侍なのに分からないんですか」

「侍だから何でも分かるわけではない」

 吉松は不満そうだった。

 だがやがて盆を置き、頭を下げた。

「片桐さんを斬らないでください」

「斬らずに済むよう動く」

 それ以上の約束はできなかった。

 吉松は小部屋を出ていった。

 源太郎が小さく息を吐く。

「難しいですね」

「何が」

「道場を開くというのは」

「今ごろ気づいた」

「奉行所より面倒です」

「そなたは手伝うと言った」

「掃除だけのつもりでした」

 わずかに笑ったが、胸の重さは消えなかった。

 ◇

 宗次郎はその頃、浅草の外れにある荒れ寺へ向かっていた。

 寺とは名ばかりで、住職はおらず、本堂の屋根も傾いている。

 境内には雑草が伸び、墓石のいくつかは倒れていた。

 宗次郎は周囲を確かめ、本堂へ入った。

 中には十人ほどの浪人がいた。

 皆、痩せている。

 着物は汚れ、刀だけが異様に磨かれていた。

 正面に笠原陣内が座している。

 年は三十五ほど。

 額に古い傷があり、細い目には油断がない。

「遅かったな、宗次郎」

「道場にいた」

「再起館か」

 陣内は笑った。

「侍と町人が並んで算盤を弾くという、あの道場」

「算盤ではない。今日は受け身だ」

 周囲に笑いが起こる。

「武士が転がり方を学ぶか」

「倒れたままのお前たちよりはましだ」

 笑いが止まった。

 一人が立ち上がる。

「何だと」

「座れ」

 陣内の一声で男は腰を下ろした。

 陣内は宗次郎を見つめる。

「少し変わったな」

「そうか」

「榊原に何を吹き込まれた」

「何も」

「ならば、なぜ我らを見下す」

「見下してはいない」

「先ほど倒れたままと申した」

「事実だ」

 宗次郎は本堂を見回した。

「押し借りで米を奪い、刀を集め、それで何をする」

「武士の居場所を取り戻す」

「どこから」

「町人からだ」

 陣内の声が低くなる。

「江戸を見ろ。商人は米を動かし、銭を握り、侍を見下している。武士は禄だけでは暮らせず、町人に頭を下げる」

「だから奪うのか」

「元より武士のものだ」

 宗次郎は眉を寄せた。

「米を作ったのは百姓だ」

「百姓を守るのは武士だ」

「魚を獲るのは魚屋だ」

「町の秩序を守るのは武士だ」

「火を消すのは火消しだ」

 陣内の目が細くなる。

「ずいぶん町人の肩を持つ」

 宗次郎は吉松の顔を思い出した。

 握り飯を渡した時、あの少年は何度も礼を言った。

 自分より腹を空かせているように見えたから渡しただけだ。

 町人だからではない。

 子どもだったからだ。

「肩を持つのではない」

「では」

「見えるものを申している」

 陣内は立ち上がった。

「宗次郎。お前の父は町人に殺されたも同じだぞ」

 宗次郎の顔が強張る。

「何を知っている」

「薬代を吊り上げた薬種問屋。借財の利を重ねた札差。刀を安く買い叩いた道具屋」

「それで父の病が治ったか」

「何」

「町人を斬れば父が生き返るのか」

 本堂に沈黙が落ちた。

 陣内は宗次郎の前まで来た。

「榊原の犬になるつもりか」

「犬ではない」

「では、なぜ来た」

 宗次郎は答えに詰まった。

 以前なら迷わなかった。

 陣内たちは仲間だった。

 同じように家を失い、禄を失い、世を恨む者たち。

 ここに来れば、自分の怒りは正しいと思えた。

 だが今は、その怒りの向こうに吉松や辰蔵、志乃や真崎の顔が浮かぶ。

「抜けるつもりか」

 陣内が問う。

「……分からぬ」

「分からぬ?」

「少し前なら、お前たちと何かを起こすつもりだった」

 宗次郎は正直に言った。

「だが今は、何を起こせば何が変わるのか分からぬ」

「分からぬから刃が要る」

「違う」

「何が違う」

「分からぬまま抜けば、誰かの真似になる」

 矢代左馬之助。

 宗次郎は会ったことがない。

 だが、新之介や真崎から話を聞いた。

 正しさを信じすぎ、世を斬ろうとした男。

「明後日、蔵前を襲う」

 陣内が突然言った。

 宗次郎は息を呑んだ。

「何のために」

「札差の証文を焼く」

「借財の証文を?」

「そうだ。証文が消えれば、多くの御家人が救われる」

 浪人たちの顔に熱が浮かぶ。

 宗次郎自身、一瞬心が動いた。

 自分の借財も、父が残した証文も消えるかもしれない。

「火を使うのか」

「必要なら」

「蔵前には人がいる」

「夜を選ぶ」

「夜でも人はいる」

「大事の前の小事だ」

 その言葉に、宗次郎の胸が冷えた。

 新之介から聞いた。

 不正に加担した者たちが何度も口にした言葉。

 大事の前の小事。

 そう言って、人を小さく扱った。

「私は加わらぬ」

 宗次郎は言った。

 本堂の空気が変わる。

 陣内は静かに問う。

「もう一度申せ」

「加わらぬ」

「ならば、ここを出られると思うな」

 浪人たちが立ち上がる。

 宗次郎は刀の柄へ手を置いた。

 再起館の門では外した刀。

 今は腰にある。

 だが抜けば、もう戻れない気がした。

「斬るのか」

 宗次郎が問う。

「裏切り者は残せぬ」

「まだ仲間だった覚えはない」

「では何度も米を受け取ったのは何だ」

 宗次郎は黙った。

 押し借りで得た米。

 知りながら食った。

 直接脅してはいない。

 だが分け前を受けた以上、無関係ではない。

「罪を忘れたか」

「忘れていない」

「ならば我らと同じだ」

「同じだから、これ以上進まぬ」

 陣内の手が柄へかかる。

 宗次郎も構えた。

 その時、荒れ寺の外で鐘が鳴った。

 一度。

 二度。

 誰も触れていないはずの鐘。

 浪人たちが戸口を見る。

 次の瞬間、裏手の壁が破られた。

 黒い影が飛び込む。

 宗次郎ではない。

 浪人の一人が胸を押さえて倒れた。

 投げ針が刺さっている。

「何者だ!」

 陣内が叫ぶ。

 屋根裏から黒装束の者たちが落ちてきた。

 宗次郎にも陣内にも見覚えがない。

 狙いは全員。

 新たな口封じだった。

 ◇

 再起館へ知らせが届いたのは、日が傾き始めた頃だった。

 使いは浅草寺門前の小僧である。

「榊原様という方に」

 差し出されたのは、血のついた紙片だった。

 そこには乱れた字で一行。

 ――蔵前、明後日。宗次郎。

 新之介は立ち上がった。

「誰から受け取った」

「浪人の方です。肩から血を流していました」

「どこで」

「浅草寺の裏です」

「今は」

「すぐに行ってしまいました」

 源太郎が紙片を覗く。

「罠でしょうか」

「かもしれぬ」

「それでも行きますか」

「行く」

 新之介は刀を差した。

 玄斎も木刀を取る。

 真崎が問う。

「再起館は」

「今日は閉める」

 吉松が奥から出てきた。

「片桐さんに何かあったんですか」

「まだ分からぬ」

「俺も行く」

「ならぬ」

「でも」

「ここで待て」

 吉松の顔に不満と不安が浮かぶ。

 新之介は少年の肩へ手を置いた。

「戻る場所を守るのも役目だ」

 吉松は唇を結んだ。

 やがて小さく頷く。

「必ず連れて帰ってください」

「約束はできぬ」

「またそれですか」

「斬らずに済むよう動く」

 以前と同じ答えだった。

 だが今度は、吉松もそれ以上言わなかった。

 ◇

 浅草の荒れ寺では、すでに戦いが終わっていた。

 本堂には血が飛び、浪人たちが何人も倒れている。

 だが遺骸は少ない。

 多くは傷を負いながら逃げたらしい。

 新之介は床へ膝をつき、血痕を見た。

「宗次郎のものか」

「分かりません」

 源太郎は倒れた男の懐を改める。

 黒装束の一人だった。

 胸元から小さな印籠が出た。

 家紋は削られている。

 だが削りきれず、一部が残っていた。

 三つ葉葵ではない。

 酒井家でも稲葉家でもない。

 真崎が息を呑んだ。

「この紋は」

「知っているのか」

「戸田家の替紋に似ています」

 新之介は印籠を受け取った。

 戸田備前守。

 借財整理を進め、今回の不正を暴いた人物。

 だが戸田家の者が、なぜ誠心組の残党を襲う。

「決めつけるな」

 新之介は自分に言い聞かせた。

 紋は偽れる。

 印籠も奪える。

 ただし、疑う必要はある。

 玄斎は本堂の隅を見ていた。

「誰か運び出された」

「なぜ分かるのです」

「血が途中で切れている。足跡は二人分増えた」

「宗次郎が?」

「分からぬ」

 新之介は床に落ちた木札を見つけた。

 黒く煤けた札。

 裏には「誠」の一字。

 だが、その上から新しい傷が刻まれていた。

 斜めに一本。

 誠の字を断つような傷。

 宗次郎が刻んだのか。

 笠原陣内か。

 あるいは別の誰かか。

「蔵前、明後日」

 源太郎が呟く。

「襲撃は止まっていない」

「残党が生きているならな」

「黒装束の者たちが引き継ぐ可能性もあります」

 新之介は印籠と木札を懐へ収めた。

 敵が増えたのか。

 味方の内に敵がいるのか。

 あるいは、戸田家の名を使って何かを仕掛けようとする者がいるのか。

 再起館の穏やかな日々は、わずか二日で破られた。

 だが新之介は、道場を開いたことを悔いてはいなかった。

 道場がなければ、宗次郎は蔵前襲撃を知らせなかったかもしれない。

 人は一晩で変わらない。

 それでも、一度刀を置いた記憶が、刃を止めることはある。

「庄司」

「はい」

「蔵前を密かに固めよ。札差には知らせるな」

「敵に漏れると?」

「誰が敵か分からぬ」

「戸田様にも?」

 新之介は一瞬迷った。

 戸田備前守を疑いたくはない。

 だが疑うことと決めつけることは違う。

「直接お会いする」

「病床です」

「だからこそだ」

 玄斎が頷いた。

「よい」

「先生も疑われるのですか」

「疑わぬ信頼は、ただの甘えだ」

 その言葉は厳しかった。

 だが新之介には、玄斎が戸田を信じているからこそ、確かめよと言っているのだと分かった。

 荒れ寺の外では、夕陽が傾いていた。

 倒れた墓石の影が長く伸びる。

 宗次郎の姿はない。

 生きているかも分からない。

 だが、血のついた紙片は確かに届いた。

 戻ろうとした者が残した道標である。

 新之介は木札を握った。

 誠の字を断つ傷。

 それは過去を捨てた印か。

 あるいは、新しい争いの始まりか。

 明後日。

 蔵前。

 札差の証文。

 火薬。

 そして戸田家の替紋。

 消えたはずの残り火が、再び江戸の底で燃え始めていた。

(第二十八章へ続く)

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