第七十二章 十七人目
「十七人目の名は――真崎半九郎」
お菊の声が、石室に残った。
半九郎は動かなかった。
新之介も。
玄斎も。
誰も、すぐには続きを問わなかった。
半九郎がようやく口を開く。
「……私ですか」
「名は」
お菊が答えた。
「そなたの名です」
「人は」
「そこから説明します」
「先に答えてください」
半九郎の声が低くなる。
「父は、十六人を助けるために」
「私を差し出したのですか」
お菊は首を振った。
「違う」
「では、身代わりとは何です」
「人ではない」
「何」
「最初に差し出したのは」
お菊は薄い帳面へ手を置いた。
「そなたの名だ」
◇
十五年前。
弁財丸へ送られる予定だった六十三人。
そのうち十六人が、船へ乗る前に抜かれた。
だが、人買い側には人数の記録がある。
消えた十六人を、そのまま消すことはできない。
「帳尻」
長く黙っていた水野が言った。
「人数が減れば気づかれる」
「そうです」
お菊が答える。
「そこで御影側は別の十六人を補充しようとした」
「安西主馬が話していた」
新之介が言う。
「一つの村から助ければ、別の村から補われた」
「はい」
「玄十郎殿は」
「それを止めようとした」
「どうやって」
「十六人が消えていないように、帳面を作った」
半九郎の顔が険しくなる。
「十六人分の偽名を?」
「違います」
「では」
「一人の名を十六通りに使った」
「一人?」
「真崎半九郎」
お菊は帳面を開く。
そこには同じ名が並んでいた。
――真崎半九郎。
――真崎半九郎。
――真崎半九郎。
横にはそれぞれ別の年齢。
別の出身。
別の特徴。
別の役目。
「同じ名で十六人」
清太郎がいたなら、筆が止まっただろう。
「なぜそんなことを」
半九郎が問う。
「名簿を壊すためです」
「壊す?」
「誰が誰か分からなくする」
「人買い側が追えば」
「どこへ行っても真崎半九郎にぶつかる」
「本物を探そうとすれば」
「時間がかかる」
玄斎が低く言った。
「その間に十六人を別路へ」
「はい」
半九郎は帳面を見つめた。
「では父は」
「自分の息子の名を」
「盾にした」
お菊は否定しなかった。
「そうです」
◇
「私が何歳の時です」
「六つ」
半九郎の顔が変わった。
「六歳」
「はい」
「父は私へ聞きましたか」
「いいえ」
「当然ですね」
「半九郎殿」
「六歳です」
半九郎は笑った。
笑っているのに、声は震えている。
「何を聞くのです」
「十六人を助けるために、お前の名を使ってよいか、と?」
「……」
「父らしい」
「そう思いますか」
新之介が問う。
「思いたくありません」
半九郎はすぐ答えた。
「ですが」
「父ならやる」
「人を助けるためなら」
「自分の家を使う」
「自分の名を使う」
「最後には」
半九郎は拳を握った。
「息子まで」
玄斎が言う。
「玄十郎は、そなたを捨てたわけではない」
「同じです」
「違う」
「では先生」
半九郎が玄斎を見る。
「その偽名簿を見た者が」
「本物の真崎半九郎を消せば、十六人を追いやすくなると考えたら?」
玄斎が黙る。
「私は六歳です」
「刀も持てない」
「逃げる理由も知らない」
「父が何をしたかも知らない」
「それでも」
「私の名だけは、敵の帳面へ入った」
お菊が小さく言った。
「その通りです」
◇
「実際に狙われたのですか」
新之介が問う。
お菊は半九郎から目を逸らさず答える。
「三度」
「三度?」
「最初は七歳」
半九郎の眉が動く。
「井戸へ落ちた」
「覚えていますか」
「……事故だと」
「違います」
「誰が」
「分かりません」
「二度目は」
「十歳」
「馬が暴れた」
半九郎の顔から血の気が引く。
「父が、馬丁を斬った」
「はい」
「私は」
「酒を飲んだ馬丁が手綱を誤ったと聞いた」
「偽りです」
「では馬丁は」
「口を封じられる前に、玄十郎殿が捕えようとした」
「それで」
「馬丁は逃げる途中で刀を抜いた」
「父が斬った」
「はい」
「三度目」
お菊が息を吸う。
「十二歳」
半九郎が目を閉じた。
「……川」
「覚えていますね」
「泳ぎを習っていた時」
「足をつかまれた」
「水草だと思っていました」
「人です」
半九郎は何も言わない。
「玄十郎殿は、その日から」
お菊が続ける。
「そなたを自分の手元から遠ざけ始めた」
「なぜ父が急に」
半九郎の声が弱くなる。
「剣ばかり教えるようになったか」
「生き残らせるためです」
「……」
「そして」
「自分が死んでも」
「真崎半九郎が自分で逃げられるように」
◇
新之介は半九郎へ近づこうとした。
半九郎が手を上げる。
「今は」
新之介は止まる。
「分かりました」
「何も言わないのですか」
「言ってほしいですか」
「分かりません」
「なら、今は言いません」
半九郎が苦笑する。
「本当に面倒ですね」
「皆、同じことを申します」
玄斎が口を挟む。
「今は言わせてやれ」
◇
「第五の写し」
新之介が、お菊の帳面を見る。
「これは第四冊の写しではないですね」
「正確には」
「第四冊から外された記録です」
「なぜ玄十郎殿は書かなかった」
「書けなかった」
「何が」
「第四冊の決まりを、自分で破ったからです」
「決まり」
「人生が変わる者を、立会いなしに決めるな」
新之介が息を止める。
第四冊の核心。
役人だけで公開を決めない。
その記録で人生が変わる者自身を、見分へ入れる。
「玄十郎殿は」
「その原則を書いた本人なのに」
「息子の名を」
「本人へ聞かずに使った」
「はい」
「だから第四冊へ書けば」
「自分の矛盾が残る」
「それが嫌だった?」
「違います」
お菊は首を振る。
「玄十郎殿は、書こうとした」
「なら」
「私が止めました」
半九郎が顔を上げる。
「お菊殿が?」
「はい」
「なぜ」
「そなたがまだ子どもだったからです」
「でも」
「第四冊が見つかれば」
「真崎半九郎の名が再び表へ出る」
「だから」
「成人するまで別記にする」
「私が決めました」
新之介が問う。
「それも本人の同意なし」
「はい」
「そなたも同じことを」
「しました」
お菊は逃げなかった。
「守るために」
「はい」
「今はどう思います」
長い沈黙。
「間違っていたと思う部分があります」
「全部ではない?」
「全部と言えば」
お菊は半九郎を見る。
「当時の私が、何も考えずに人を使ったことになる」
「実際は」
「怖かった」
「半九郎殿が殺されるのが」
「怖かった」
「だから隠した」
「その選びを、今の私が簡単に全部否定したくはない」
新之介が頷く。
「それでよいと思います」
「よいのですか」
「本当の言葉を並べても」
「本当の話になるとは限らない」
「『守った』も本当」
「『本人へ聞かなかった』も本当」
「どちらか一つにしないでください」
◇
半九郎は第五の写しを見た。
「私に読ませてください」
お菊が帳面へ手を置いた。
「今、全部を?」
「私の名の部分だけでも」
「立会人を」
半九郎が少し笑った。
「やはり必要ですか」
「そなたの父が、それをしなかったからです」
「……そうですね」
新之介。
玄斎。
水野。
神谷。
冬。
お菊。
そして半九郎本人。
七人。
帳面を囲む。
「読みます」
お菊が声を出す。
――真崎半九郎。
――六歳。
――本人、事情を知らず。
半九郎の喉が動く。
――御影側の追跡を乱すため、その名を十六名分の空名として使用。
――決定者、真崎玄十郎。
その下。
別の筆跡。
――反対、鷹見宗一郎。
玄斎が顔を上げる。
「宗一郎先生は反対した」
「はい」
「理由」
お菊が読む。
――子の名を盾にして人を救うな。
――大事のために小事を捨てれば、捨てられた小事もまた人である。
半九郎の目が赤くなる。
「父は何と」
次の行。
――玄十郎答。
――分かっている。
――それでも今夜、十六人を船へ戻すことはできぬ。
さらに。
――我が子を使う責は、我が身に残す。
半九郎が目を閉じた。
「残せていない」
誰も答えない。
「父上」
半九郎の声が震える。
「自分の身へ残すと書いて」
「死んだら終わりではないか」
◇
帳面には続きがあった。
――半九郎が十五になった時、本人へ告げる。
――その時、名を捨てると言うなら捨てさせる。
――真崎家を離れると言うなら認める。
半九郎が目を開く。
「十五」
「はい」
「私は聞いていない」
「玄十郎殿は」
「その前に亡くなったと」
お菊が答えた。
「死んだと思われた」
「思われた?」
一同が止まる。
「お菊殿」
新之介が問う。
「今、何と」
「玄十郎殿の遺体を」
「私は見ていません」
「また」
玄斎が呻く。
「誰が見たのです」
「川辺主馬」
「ほかは」
「沢渡玄隆」
水野が天井を見る。
「その二人の確認は、もう確認と呼びたくない」
「では」
半九郎が立ち上がる。
「父は」
「生きている可能性が?」
お菊は答えない。
「知っているのですか!」
「いいえ」
「本当に!」
「本当に知らない!」
半九郎が、お菊へ迫りかける。
新之介は止めなかった。
だが半九郎自身が止まった。
「……すみません」
「謝らなくてよい」
「いえ」
「今、私は答えを急がせました」
半九郎は息を整える。
「父が生きていると思いたかった」
「それも記録した方がよいのでしょうね」
新之介が言う。
「嫌なら後で」
「いえ」
「書いてください」
「清太郎殿がいません」
玄斎が杖で神谷を指す。
「そなた書け」
「私が?」
「字は書けるだろう」
「書けますが」
「なら書け」
神谷は懐から紙を出した。
「――真崎半九郎」
「父・玄十郎生存の可能性を聞き」
「生きていてほしいと思ったため、問いを急いだ」
半九郎が苦笑した。
「情けないですね」
新之介が答える。
「人ですから」
◇
「十七人目という言い方」
新之介がお菊へ言った。
「正確ではありませんね」
「はい」
「十七人目の人間がいたのではない」
「十六人を隠すため」
「一人の子どもの名を、十七番目の盾として使った」
「そうです」
「では、その記録も直す」
「何と」
「『十七人目』ではなく」
半九郎が自分で答えた。
「『使われた名』」
新之介が頷く。
「それがよい」
◇
その時。
石室の外から足音。
「榊原殿!」
清太郎だった。
「ここにいましたか!」
「何が」
「再起館から急ぎです!」
「誰から」
「御影宗太郎殿!」
半九郎が振り返る。
「内容は」
「真崎玄十郎について!」
「何と!」
清太郎は紙を開く。
「宗太郎殿が」
「根帳の焼け残りから、新しい頁を見つけました!」
「読みます!」
――真崎玄十郎。
――死亡とする。
半九郎の顔が硬くなる。
「続き」
「――ただし」
清太郎が声を詰まらせる。
「――本人は生存」
石室の空気が変わった。
「生きている」
半九郎が呟く。
「どこに!」
「次です!」
――名を変え。
――十六名および真崎半九郎への追跡を、自身へ集める。
――以後。
――真崎玄十郎を名乗る者、すべて偽とする。
玄斎が眉をひそめる。
「自分の名を自分で殺した」
「追っ手を混乱させるため」
新之介が言う。
「では本人は」
「別の名で」
清太郎がさらに読む。
――新名。
そこから紙が焦げている。
「読めません」
「裏から」
お菊が言う。
「灯りへ」
紙をかざす。
一文字。
「藤」
もう一文字。
「……吉?」
全員が止まった。
「藤吉」
半九郎が言った。
西徳寺にいる老人。
鐘を鳴らし。
負傷し。
十六人の一人・弥吉を息子として育てた男。
新之介が首を振る。
「待ってください」
「藤吉殿は」
お菊の顔が真っ白になっていた。
「何です」
「私は」
「藤吉の顔を何度も見ています」
「玄十郎殿と」
「同じではない」
「なら」
「顔を変えた?」
千代。
沢渡。
影武者。
顔を変える仕組みはあった。
「声は」
玄斎が呟く。
「藤吉の声と、玄十郎の声」
「似ていたかもしれぬ」
「先生」
「わしは玄十郎が死んだと思って聞いていた」
「だから」
「同じだと考えなかった」
半九郎は立ったまま震えている。
「西徳寺へ」
「行きます」
新之介が言った。
「私も」
「当然です」
「父なら」
半九郎の声が強くなる。
「一発殴ります」
「生きていたら?」
「だからです」
玄斎が頷く。
「それは許す」
「先生が決めないでください」
◇
一行が石室を出ようとした時。
清太郎が言った。
「まだ一行あります」
全員が止まる。
「何です」
「藤吉の下」
焦げた紙。
――ただし。
――真崎玄十郎本人が藤吉を名乗る期間は、七年。
「七年?」
「はい」
「その後は」
清太郎が読む。
――藤吉の名を、別人へ渡す。
半九郎の足が止まった。
「では」
新之介が言う。
「西徳寺の藤吉殿が」
「玄十郎殿とは限らない」
「いつから藤吉なのか」
「確認が必要です」
半九郎が顔を覆った。
「父上まで、何人いるのですか」
玄斎が深く息を吐く。
「名を役にした者は」
「最後は皆、同じ穴へ落ちる」
新之介は紙を見た。
その一番下。
焦げ残った短い一文。
――玄十郎、七年後。
――名を持たず。
――西へ。
「西」
水野が呟く。
「長崎か」
「あるいは」
新之介は思い出した。
榊兵庫。
長崎。
外国船。
十五年前から続く海の道。
その時。
大手門の方角から、再び急ぎの足音。
「榊原殿!」
「朝風丸より!」
「何が!」
「異国船の二十三人の中に!」
使者が息を切らす。
「自分を真崎玄十郎と名乗る老人がいます!」
半九郎の顔が上がった。
「何だと」
「ただし!」
「まだあるのですか!」
「その老人は」
使者が半九郎を見る。
「『私は半九郎の父ではない』と申しております!」
誰も言葉を出せなかった。
父の名を持ちながら。
父ではないと言う男。
新之介は静かに息を吐いた。
「分かりました」
「何がです」
半九郎が問う。
「次に聞くことが」
「何を」
「真崎玄十郎か、ではありません」
新之介は答えた。
「そなたは誰のために」
「その名を使っているのか」
(第七十三章へ続く)

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