上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第二十四章

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第二十四章 夕暮れの始末

 江戸城を出た新之介の肩に、夕暮れの風が触れた。

 長い一日だった。

 稲葉備中守は役儀差し控えとなり、酒井丹波守は正式に拘束された。

 大黒屋宗兵衛、水野監物、大久保主膳、そして勘定方に連なる者たちも、これから一人ずつ詮議される。

 だが、城門の外に広がる江戸の町は、何事もなかったかのように暮れていく。

 魚売りの声。

 店じまいの戸板の音。

 湯屋へ向かう町人たちの笑い声。

 新之介はその音を聞きながら、ようやく刀の柄から手を離した。

「終わった顔ではないな」

 玄斎が言った。

「終わっておりません」

「そうだ」

 老人は満足げに頷いた。

「戦の後始末こそ、戦より難しい」

 忠左衛門も静かに言った。

「人を斬れば血を拭えば済む。だが帳面の傷は、消すのに年がかかる」

 新之介は父を見た。

 忠左衛門の顔色は悪い。

 無理を重ねている。

 だが、その目には以前とは違う光があった。

 過去から逃げぬ者の目である。

「父上、お体を」

「分かっておる」

「本当に?」

「少しは疑えと言ったが、父の養生まで疑うな」

 新之介は思わず笑った。

 久しく笑っていなかった気がした。

 ◇

 榊原家へ戻ると、屋敷は静かだった。

 頼母の遺骸はすでに弔われ、書院には白い花が一輪置かれている。

 新之介はその前に座し、手を合わせた。

 叔父は弱かった。

 家名を使い、金を借り、罪を招いた。

 だが、最後には兄へ詫び、命を落とした。

 その弱さも、悔いも、すべて榊原家の一部である。

 隠してはならぬ。

 新之介はそう思った。

 背後に忠左衛門が座った。

「頼母は、昔から寂しがりであった」

「叔父上が?」

「ああ。笑ってばかりいる者ほど、寂しさを隠すものだ」

 忠左衛門は花を見つめた。

「私は兄でありながら、それを見なかった」

「父上だけの責ではありません」

「そう言われても、消えぬものはある」

 新之介は何も言えなかった。

 消えぬものを抱えながら生きる。

 それもまた、武士の務めなのかもしれない。

 ◇

 翌日から、帳面改めは本格的に始まった。

 勘定所の空気は一変していた。

 昨日まで平然と筆を取っていた者が、今日は青い顔で視線を伏せている。

 誰が大黒屋と通じていたのか。

 誰が名を貸したのか。

 誰が見て見ぬふりをしたのか。

 疑心は畳の上に薄い霜のように降りていた。

 新之介は席に着き、帳面を開いた。

 隣には松井弥十郎がいる。

 松井は以前より痩せて見えた。

「榊原殿」

「何だ」

「私はおそらく、役を解かれる」

「まだ決まったわけではない」

「決まる」

 松井は静かに言った。

「帳面を燃やそうとした。それだけで十分だ」

「後悔しているか」

「している」

 松井は筆を置いた。

「だが、燃やそうとした心も、まだ分かる」

 新之介は顔を上げた。

「家を守りたい者、妻子を食わせたい者、借金で首が回らぬ者。帳面の中にいるのは悪人ばかりではない」

「分かっている」

「ならば、斬りすぎるな」

 松井の声には切実なものがあった。

 新之介は頷いた。

「斬るためではなく、正すために改める」

「それが難しい」

「だから逃げぬ」

 松井は少し笑った。

「お前は本当に、面倒な侍だ」

「よく言われる」

 ◇

 昼過ぎ、志乃が勘定所の控えへ呼ばれた。

 大久保主膳の件について、証言をするためである。

 武家の娘が公の場で家の罪を語る。

 それは容易なことではない。

 新之介は廊下の隅で、志乃とすれ違った。

 彼女は白い小袖に身を包み、静かに歩いていた。

「志乃殿」

「榊原様」

「無理はなさらず」

「無理をせねば、言えませぬ」

 志乃は微かに笑った。

「けれど、言います」

「なぜ」

「父を恨みたくないからです」

 新之介は黙った。

「隠せば、きっと恨みだけが残ります。語れば、罪として残る。罪として残れば、いつか父も人として見られる気がするのです」

 新之介は深く頭を下げた。

「強いお方です」

「強くはありません」

 志乃は首を振った。

「怖いだけです。父の罪が闇に消えることが」

 戸田と同じ言葉だった。

 ここにも、逃げぬ者がいる。

 志乃は控えの間へ入っていった。

 その背を見送りながら、新之介は武家の家というものの重さを思った。

 家を守るとは、時に家の罪を晒すことでもある。

 それを知らぬまま、これまで家名ばかりを見ていたのかもしれない。

 ◇

 数日後、大久保家への処分が下った。

 主膳は役儀召し放ち。

 家禄の一部召し上げ。

 ただし家そのものは取り潰されなかった。

 志乃の証言と、主膳が後にすべてを認めたことが考慮されたのである。

 厳しく、しかし斬り捨てではない処分だった。

 戸田備前守の意向が働いたのだろう。

 同じ頃、榊原家にも詮議が入った。

 頼母が家名を使って大黒屋から金を借りた件である。

 忠左衛門はすべてを認めた。

 そのうえで、自らの監督不行届を申し出た。

 結果、榊原家は一時出仕差し控え。

 忠左衛門は謹慎。

 新之介も勘定方での役目を一部外されることとなった。

 屋敷へ戻った新之介は、悔しさよりも、不思議な静けさを感じていた。

 家名は傷ついた。

 だが隠していた膿は出た。

 忠左衛門は書院で処分の書付を読み、静かに畳へ置いた。

「軽すぎるくらいだ」

「父上」

「榊原家は、これでようやく始末をつけられる」

 新之介は頷いた。

「私は、家を傷つけました」

「違う」

 父は首を振った。

「家の傷を見えるところへ出したのだ」

 そして、わずかに笑った。

「よくやった」

 その一言で、新之介の胸にあった重石が少しだけ軽くなった。

 ◇

 戸田備前守の病は、一進一退であった。

 毒は命を奪うには至らなかったが、体を深く痛めている。

 新之介が見舞いに訪れると、戸田は寝所で帳面を読んでいた。

「お休みください」

「休んでいる」

「帳面を読んでおられます」

「横になって読んでいる。十分休んでおる」

 戸田は真顔で言った。

 新之介は苦笑した。

「榊原家の処分、聞いたか」

「はい」

「不服か」

「いいえ」

「ならばよい」

 戸田は帳面を閉じた。

「新之介」

「はい」

「この先、そなたは嫌われる」

「承知しています」

「正す者は好かれぬ。悪を斬る時だけ、人は喝采する。だが、己の弱さに触れられると、人は怒る」

「はい」

「それでもやるか」

 新之介は少し考えた。

「やる、というより」

「何だ」

「もう見てしまいました」

 戸田は笑った。

「見た者の役目か」

「はい」

「よい答えだ」

 戸田はしばらく目を閉じた。

 やがて低く言った。

「武士の世は、いずれ変わる」

「変わる、とは」

「刀だけでは立てぬ世になる。いや、もうなっている」

 新之介は黙って聞いた。

「その時、武士が何を拠り所にするか。家名か。禄か。刀か。役目か」

「戸田様は、何だと」

「分からぬ」

 戸田はあっさり答えた。

「分からぬから、探している」

 その言葉は重かった。

 若者だけが迷うのではない。

 老臣もまた迷っている。

 迷いながら、なお政を続ける。

 それが戸田という武士の強さなのだろう。

 ◇

 さらに半月が過ぎた。

 酒井丹波守は役儀召し放ちとなり、蟄居を命じられた。

 稲葉備中守も老中職を退いた。

 表向きは病による退任。

 しかし幕府内部には、確かに記録が残された。

 戸田が譲らなかったのである。

 大黒屋宗兵衛の店は取り潰され、多くの帳面が没収された。

 ただし借財に苦しむ小身旗本については、即時の断罪ではなく、整理と猶予の道が検討されることになった。

 完全な勝利ではない。

 むしろ不完全だらけである。

 だが、不正を闇に戻さなかったことだけは確かだった。

 ある夕方、新之介は日本橋に立っていた。

 最初に浪人斬りの噂を聞いた場所である。

 川面には舟が行き交い、橋の上には町人が溢れている。

 その中に、刀を差した武士の姿もある。

 誰も、新之介を見ない。

 誰も、あの事件の全てを知らない。

 それでよいのだと思った。

 武士の役目とは、知られぬところで町を支えることでもある。

「若様」

 声がした。

 振り返ると、玄斎が立っていた。

 木刀を肩に担いでいる。

「先生」

「稽古を怠っておるな」

「傷がまだ」

「言い訳が上手くなった」

 新之介は笑った。

「明朝から伺います」

「今からだ」

「今から?」

「武士の稽古に朝も夕もない」

 以前にも似たようなことを言われた。

 新之介は苦笑しながら、橋の向こうへ歩き出した。

 夕陽が江戸の屋根を赤く染めている。

 その色は、燃える蔵や鷹見塾の炎を思い出させた。

 だが今は、少し違って見える。

 焼き尽くす火ではなく、明日へ沈む光だった。

 新之介は心の中で、死んだ者たちへ手を合わせた。

 矢代。

 頼母。

 村垣。

 名も知らぬ者たち。

 そして鷹見静山。

 あなた方の問いは、まだ残っている。

 武士とは何か。

 その答えは、今日も出ない。

 だが新之介は、もう答えを急がなかった。

 問い続けること。

 逃げぬこと。

 それが今の自分にできる、ただ一つの始末であった。

(第二十五章へ続く)

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