山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第九十四章

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――第九十四章 詫びのあと――

 宗庵の詫び状が三家へ届いてから、数日は静かだった。

 だが伊織は、その静けさをそのまま信じなかった。静けさには二つある。水が澄んでいる静けさと、泥が底に沈んで見えなくなっているだけの静けさである。

 宗庵は戻りはじめた。
 清之進も、伊之助も、直之助も、それぞれの名を少しずつ取り戻しつつある。
 だが、人が戻りはじめると、それを面白く思わぬ者もまた生まれる。

 主水から届いた文には、こうあった。

 ――三家の外が騒ぎ始めた。
 ――若名の戻りを「家の弱体」と見る者あり。
 ――次は、家の外の目を見るべし。

 家の外の目。

 伊織はその言葉を胸に置いた。これまで見てきたのは、家の中の怖れだった。若様を待つ者、支える者、止める者。その疲れだった。だが家は、内だけで立っているのではない。外から見られ、比べられ、噂される。その目が、また名を歪める。


 まず牧野家へ行くと、清之進は門前で若い家士たちと話していた。

 以前のように、整った顔ではない。笑われると赤くなり、言い返そうとして詰まり、また黙る。だが、それでも逃げていない。

 左内が伊織へ近づいてきた。

「困ったことになりました」

「何が」

「他家の者が、若様の荒い文を面白がっております」

 伊織は眉をひそめた。

「外へ漏れたのですか」

「一部が」

 左内は苦い顔をした。

「家中の誰かが、悪意で出したのではないと思います。ただ、珍しいものとして話したのでしょう」

 珍しいもの。
 それが厄介だった。
 悪意より軽い。
 だが軽いぶん、広がりやすい。

 清之進は伊織に気づくと、苦笑した。

「私の文、よほど下手らしいです」

「そうでしょう」

「そこは慰めてくださらないのですか」

「下手なものを上手いと言えば、また整える手が来ます」

 清之進は肩を落とし、それから笑った。

「たしかに」

 その笑いは、少しだけ強くなっていた。

「ですが、外で笑われるのは……家の中で笑われるより堪えます」

「なぜ」

「相手の顔が見えないからです」

 伊織は頷いた。

 家の中なら、誰が笑ったか分かる。言い返すこともできる。だが外の笑いは、顔が見えぬ。見えぬ笑いほど、人の名を疲れさせるものはない。

「清之進殿」

「はい」

「外の笑いに、すべて答える必要はありません」

「はい」

「ですが、顔の見える相手には、ご自分で答えることです」

 清之進はしばらく考え、頷いた。

「では、まず一人に会います」

「誰に」

「私の文を笑ったという、久世家の次男です。昔から知っています」

 新兵衛が横で笑った。

「喧嘩か?」

「いえ」

 清之進は真面目な顔で言った。

「私の文を、どこが下手か聞いてきます」

 伊織は少し驚いた。
 だが、悪くないと思った。

 笑いをただ耐えるのではなく、顔の見える相手から言葉を取り戻す。
 それも一つの堰になる。


 遠山家では、伊之助が少しふさぎ込んでいた。

 幼い文を許された彼の話も、外へ漏れていたらしい。

 ――遠山家の若君は、まだ子どもの文を書いている。
 ――父君まで下手な字を見せて慰めている。

 そういう噂が出ていた。

 伊之助は庭石のそばに座り、手習い帳を抱えていた。

「榊原さま」

「はい」

「子どもなのは、本当です」

「そうですね」

「でも、本当のことを笑われるのは、変な気持ちです」

 伊織はそばに座った。

「本当のことほど、笑われると痛いものです」

「では、どうすればいいのですか」

「隠すか、怒るか、育てるかです」

 伊之助は顔を上げた。

「育てる?」

「はい。幼いなら、育てればよい。笑った者に、来年また見せればよいのです」

 伊之助は少し考えた。

「来年、少し上手くなっていればよいのですか」

「はい」

「再来年は、もっと?」

「はい」

 伊之助の顔に、少し光が戻った。

「では、笑われても、来年の私には関係ないですね」

 伊織は笑った。

「関係はあります。ですが、来年の伊之助殿が、その笑いをどう扱うかは、来年決めればよい」

 伊之助は頷いた。

「なら、今日は書きます」

 幼い手が、また筆を握った。


 久我家では、直之助が外へ出ていた。

 空は晴れていたが、風は冷たい。家老が心配そうにそばにいる。

 直之助は伊織を見ると、苦笑した。

「外の者は、私を“病を売り物にする若”と言っているそうです」

「聞きましたか」

「はい」

「どう思われました」

「腹が立ちました」

 直之助は答えた。

「私は病を美談にされたくなかった。なのに、今度は“病を使って目立とうとしている”と言われる」

 その怒りはもっともだった。
 人の名を戻そうとすると、外の目はすぐに別の檻を作る。
 奥にいれば美談。
 外へ出れば売り物。
 どちらも本人の名ではない。

「では、どうします」

 伊織が問う。

 直之助はしばらく空を見ていた。

「今日は、ここにいます」

「外に?」

「はい。言われたから戻るのも癪ですし、無理に歩き回るのも違う。だから、ここに座って風を受けます」

 家老が小さく笑った。

「それなら半刻」

「四半刻」

「半刻」

「……では、半刻」

 そのやりとりに、伊織は少し安心した。

 直之助は外の目に答えるために無理をするのではなく、自分の体と相談している。家老も止めるだけではなく、時間を共に決めている。

 そこには、まだ細いが確かな堰があった。


 寺へ戻った夜、お澪は戻り帳を開いた。

「今日は、三家の外の目ですね」

「ああ」

 伊織は言った。

「牧野清之進。外の笑いに疲れるも、顔の見える相手へ聞きに行くと決める」

 お澪は書いた。

「遠山伊之助。幼さを笑われるも、来年の自分へ余白を残して筆を取る」

 続けて書く。

「久我直之助。病を売り物と言われるも、怒りに任せず、己の体と相談して風を受ける」

 お澪は最後にこう添えた。

 ――外の目、名を再び縛らんとす。
 ――三家、それぞれ己の速さで応ず。

 伊織はその文字を見て、深く息を吐いた。

 名を戻す戦いは、家の中で終わらない。
 外の目がある。
 笑いがある。
 誤解がある。
 そして、それにすべて答えようとすれば、人はまた自分の名を失う。

 母が言った。

「外の目なんて、全部相手にしてたら飯が冷めるよ」

 新兵衛が笑った。

「お袋さん、それを主水殿に言ってやれ」

「主水様だって、飯は温かい方がいいだろう」

 伊織は久しぶりに声を出して笑った。

 その笑いで、胸の重さが少しだけ軽くなった。

 囲炉裏の火は、今日も静かに燃えていた。
 波瀾万丈の物語は、若名を家の内から外へ連れ出した。
 外の目は冷たい。
 だが、冷たい風に当たることでしか強くならぬ名もある。
 伊織は、そのことを少しずつ知り始めていた。

(第95章につづく)

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