――第九十章 怖れの値――
扇屋宗庵に会ってから、伊織は「怖れ」というものの重さを、以前よりはっきり感じるようになった。
怖れは、人の胸の内にある時は形がない。
だが誰かがそれに名をつけると、急に重くなる。
「家のため」
「秩序のため」
「若君のため」
そういう名をつけられた怖れは、いつの間にか正しさの顔をする。
その朝、主水から文が届いた。
――扇屋宗庵、久我家へ入る気配あり。
――病める名を、再び奥へ戻すつもり。
――急げ。ただし、宗庵を先に責めるな。久我の怖れを見よ。
伊織は文を畳み、立ち上がった。
「久我か」
新兵衛が言う。
「ああ」
「宗庵って爺さん、今度は病の若様を狙うわけか」
「病は、怖れを売りやすい」
伊織は答えた。
「倒れたらどうする。悪くなったら誰が責を負う。そう言えば、皆、奥へ戻したくなる」
新兵衛は苦い顔をした。
「嫌な商いだな」
「だから高く売れる」
久我家へ着くと、屋敷の空気は重かった。
直之助は、縁側には出ていなかった。
奥の間で布団に身を起こし、家老と向かい合っている。
その横に、扇屋宗庵が座っていた。
宗庵は、伊織を見ると穏やかに頭を下げた。
「榊原殿。よくお越しで」
「宗庵殿こそ、早い」
「病には時が大切でございますから」
その声は柔らかい。
だが、柔らかいからこそ刺さる。
直之助は伊織を見た。
「榊原殿。宗庵殿は、私に奥で役を果たす道もあると仰る」
「それを、どう思われました」
「……迷っています」
直之助は正直に言った。
「外へ出たい。だが、昨日から咳が増えた。家老の顔も青い。私が外へ出ることは、私だけの望みでは済まぬ」
宗庵が静かに続けた。
「若様は聡明です。弱き身を押して外へ出ることだけが勇気ではございませぬ。奥にあって澄む名もある」
またその言葉だ。
美しく、整っていて、逃げ道がない。
だが伊織はすぐには反論しなかった。
「家老殿」
伊織は家老へ向いた。
「怖いですか」
家老は顔を伏せた。
「怖うございます」
「何が」
「若様を失うことが」
声が震えていた。
「若様が外へ出て倒れられるのも怖い。だが、奥へ押し込めてお心が枯れるのも怖い。私は、どちらも怖い」
宗庵が頷いた。
「だからこそ、まずは安全な方を選ぶのです」
「安全な方とは、誰にとってです」
伊織が問うと、宗庵は少しだけ目を細めた。
「無論、若様にとって」
「本当に?」
伊織は家老を見た。
「家老殿にとってではありませんか」
家老の肩が震えた。
長い沈黙のあと、家老は言った。
「……私にとっても、でございます」
その一言で、部屋の空気が変わった。
直之助が家老を見た。
「そうか」
「若様」
「お前は、私を守るためだけでなく、自分が怖いから止めたいのだな」
「はい」
家老は深く頭を下げた。
「申し訳ございませぬ」
直之助は、しばらく黙った。
それから、かすかに笑った。
「なら、半分ずつだ」
家老が顔を上げる。
「お前の怖さと、私の望みを、半分ずつ持つ。昨日そう決めた」
宗庵の表情が、ほんの少しだけ崩れた。
直之助は続けた。
「今日は外へ出ぬ。だが、それは宗庵殿の言う“奥で澄む”ためではない。私が、私の体と相談して、今日は出ぬと決める」
伊織は黙って頷いた。
その違いは大きい。
同じ「出ない」でも、人に閉じ込められるのと、自分で選ぶのとは違う。
宗庵が売ろうとした怖れは、そこで値を失った。
「若様」
宗庵はなおも柔らかく言った。
「人は時に、自分で選んだと思いながら、周囲を苦しめます」
「そうでしょう」
直之助は答えた。
「だから、家老と話す。怖いと互いに言う。宗庵殿に私の怖さを決めていただく必要はない」
宗庵は口を閉じた。
帰り際、宗庵は伊織に言った。
「榊原殿。あなたは怖れを軽く見ている」
「軽くは見ていません」
「ならば、なぜ怖れに形を与えぬ」
「形を与える前に、誰の怖れかを見たい」
宗庵は静かに笑った。
「怖れは、誰のものでもありませぬ。家に生じ、家を守るものです」
「違う」
伊織は言った。
「怖れは、まず人の胸に生じる。それを家のものにした時、人は自分の怖れを見失う」
宗庵の目が冷えた。
「では、あなたは人を家より重く見るのですな」
「家を守るためにも、人を見ます」
宗庵は答えなかった。
その沈黙に、初めて小さな怒りが見えた。
宗庵は怖れを売る。
だが、その根には「家は人より先にある」という固い信仰がある。
そこを崩されることを、彼自身が怖れているのだ。
寺へ戻ると、お澪が戻り帳を開いた。
「久我家ですね」
「ああ」
伊織は言った。
「宗庵は怖れに形を売ろうとした。だが直之助殿と家老殿は、怖れを半分ずつ持つことを選んだ」
お澪は筆を走らせた。
――久我直之助。
――宗庵、病める名を奥へ戻さんとす。
――直之助、出ぬことを己で選び、家老と怖れを半分ずつ持つ。
――宗庵の怖れ、値を失う。
母がそれを聞いて、ぽつりと言った。
「怖れにも値があるんだね」
「はい」
「でも、誰かと分けた怖れは、売り物にならない」
伊織は顔を上げた。
まさにそうだった。
宗庵は、人がひとりで抱えた怖れを買い取り、家の理をつけて売る。
だが、怖れを互いに言葉にし、分け合えば、それはもう売り物ではなくなる。
それは暮らしの中の重さになる。
老僧が静かに言った。
「次は、宗庵自身の怖れだな」
伊織は頷いた。
扇屋宗庵。
怖れを売る者。
だが、怖れを売る者ほど、自分の怖れを誰にも分けられずにいるのかもしれない。
囲炉裏の火が、静かに揺れた。
波瀾万丈の物語は、怖れを買い、怖れを売る者の値を、少しずつ下げ始めていた。
だが宗庵の奥にある本当の怖れは、まだ姿を見せていない。
それを見届けるまで、この戦いは終わらないのだった。
(第91章につづく)

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