――第八十五章 疲れた堰――
戻る者は、疲れる。
老僧のその言葉は、翌朝になっても伊織の胸に残っていた。
人は戻る。
だが、戻り続けるには力が要る。
笑われながら文を書く清之進も、幼い言葉を許された伊之助も、病のまま外へ出ようとする直之助も、皆、昨日より強くなったように見える。
しかし強くなった者ほど、人はさらに求める。
もっと書け。
もっと幼さを捨てろ。
もっと外へ出ろ。
そう求められれば、堰はいつか疲れる。
伊織は朝餉のあと、戻り帳を閉じた。
「今日は、まず牧野へ行く」
新兵衛が箸を置いた。
「年寄りの家士か」
「ああ。湿りを見た」
「湿りねぇ」
新兵衛は苦笑した。
「お前の言葉、だんだん水っぽくなってきたな」
「水を見すぎた」
「違いねぇ」
母が横から言った。
「水ばかり見てるなら、火も見ておきなさい」
「火ですか」
「水は流れる。火は残る場所を選ぶ。人の腹の中にも、火があるよ」
伊織は頷いた。
堰を見るだけでは足りない。
人が戻るためには、ただ流れを止めるだけでなく、内に小さな火を保たねばならぬのだろう。
牧野家では、清之進が昨日と同じように庭で文を書いていた。
だが、顔が少し硬い。
笑われる稽古は始まったばかりだ。
昨日は耐えられても、今日も明日もとなると、疲れが出る。
伊織は、遠くからしばらく見ていた。
若い家士たちは、もうあからさまには笑わない。
だが、その沈黙がかえって重い。
笑いよりも、黙った視線の方が人を疲れさせることがある。
昨日見た年配の家士が、廊下の奥に立っていた。
名を、牧野左内という。
家中では古くから仕える者らしい。
伊織は左内の前へ出た。
「牧野左内殿」
左内は驚いた顔をせず、静かに頭を下げた。
「榊原殿」
「若様を、どう見ておられる」
左内はすぐには答えなかった。
庭の清之進を見て、低く言う。
「危うい」
「どこが」
「恥を背負うと言う。荒い文を読むと言う。立派に聞こえましょう。だが家は、若様ひとりの稽古場ではござらぬ」
その言葉には、敵意よりも疲れがあった。
左内もまた、家を支え続けてきた者なのだ。
「采女の文をよしとされたか」
「よしとは申さぬ」
左内は苦い顔をした。
「だが、采女の文なら家中は静かだった。若様は褒められ、家も保たれた。今は皆、若様の一挙手一投足を見ている」
「静かならよかったのですか」
「静かでなければ、家はもたぬこともある」
伊織は黙った。
左内の言うことは、間違いではない。
家というものは、時に若い名より重い。
清之進ひとりが戻っても、家中がそれを受け止める力を持たなければ、また誰かが整える手を求める。
「左内殿」
伊織は言った。
「若様の堰だけでは足りません」
左内がこちらを見る。
「家中にも堰が要る」
「家中に?」
「はい。若様が荒い文を書く。笑われる。怒る。やり直す。その時間を家中が待てなければ、また誰かが采女を呼ぶ」
左内は目を伏せた。
「待つ、か」
「待つのは、疲れます」
「その通りです」
左内の声が少しだけ崩れた。
「私は、もう疲れております。若様を信じたい。だが、家の者がざわめくたびに、やはり整えた方が早いと思ってしまう」
伊織はその顔を見た。
湿りの正体は、悪意ではなかった。
疲れだった。
「なら、それを若様に言うべきです」
「若様に?」
「はい。左内殿が疲れていることを。待つことが苦しいことを」
左内は驚いたように伊織を見た。
「そんなことを申し上げれば、若様の重荷になります」
「隠せば、もっと重くなります」
しばらく沈黙があった。
やがて左内は、ゆっくりと庭へ降りた。
清之進が顔を上げる。
「左内?」
左内は深く頭を下げた。
「若様。私は、若様を待つのが怖うございます」
清之進の筆が止まった。
「怖い?」
「はい。家中が笑い、ざわめき、若様が傷つくのを見るのが怖い。だから、采女のような者に任せたくなりました」
清之進は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく言った。
「私も怖い」
「はい」
「だが、私が自分で書かないと、また誰かに私を作られる」
「承知しております」
左内は顔を上げた。
「ですから、私にも稽古させてください」
「稽古?」
「若様を待つ稽古にございます」
清之進は、ぽかんとした顔をした。
そして、少しだけ笑った。
「左内も稽古か」
「はい」
「では、一緒に下手でいよう」
その言葉で、左内の顔が少し和らいだ。
伊織は、その場を離れた。
清之進の堰だけでなく、左内の堰も少しできた。
それで、牧野の水は昨日より静かになるかもしれない。
寺へ戻ると、お澪が戻り帳を開いた。
「牧野家ですね」
「ああ」
伊織は言った。
「清之進殿だけではない。左内殿も書いてくれ」
お澪は頷く。
――牧野左内。
――若き名を待つことに疲れ、整える手を欲す。
――己の怖れを若に告げ、共に待つ稽古を始める。
――家中の堰、少し形を得る。
母がそれを聞いて、味噌をかき混ぜながら言った。
「待つ稽古か。いい言葉だね」
「母上にも、あるのですか」
「毎日だよ」
母はさらりと言った。
「子どもは、こちらの思う速さでは育たないからね」
志乃が少し照れたように笑った。
伊織は思った。
家も、人も、同じだ。
急いで整えれば形は早くできる。
だが中身は育たない。
待つ疲れに耐える者がいて、初めて名は自分のものになる。
その夜、主水へ報せを出した。
返ってきた文は短かった。
――よい。
――采女の次の手、待つ者を疲れさせることにあり。
――遠山、久我も同じ目で見よ。
伊織は文を畳んだ。
敵は、戻る者を直接折るだけではない。
その周囲の“待つ者”を疲れさせる。
待てぬ周囲が、再び整える手を呼ぶ。
それが次の狙いなのだ。
囲炉裏の火が静かに燃えていた。
火は、急がない。
だが放っておけば消える。
近づきすぎれば燃える。
適度に手を入れ、灰を寄せ、待たねばならぬ。
人を待つことも、火を守ることに似ているのだろう。
波瀾万丈の物語は、戻る者だけでなく、戻る者を待つ者たちの疲れへ目を向け始めた。
そこにこそ、次の点が打たれる。
伊織は、そのことを深く胸に刻んだ。
(第86章につづく)

コメント