山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第八十一章

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――第八十一章 榊原伊織という名――

 老僧に「次は、お前自身の名だな」と言われてから、伊織は妙に落ち着かなかった。

 榊原伊織。

 その名は、自分のもののはずだった。
 だが、いつからか自分だけのものではなくなっていた。
 母と志乃を守る者。
 新兵衛と肩を並べる者。
 主水の目として動く者。
 白紙を読む者。
 戻り帳を始めた者。

 人は、自分の名を自分で持っているつもりでも、周囲の目によっていくつもの顔を着せられる。
 牧野清之進だけではない。
 遠山伊之助も、久我直之助も、秋庭も、杉戸も、采女も。
 そして自分もまた例外ではない。

 翌朝、主水から呼びが来た。

 伊織が城へ入ると、主水は珍しくすぐには文を示さなかった。
 ただ、静かに伊織を見た。

「榊原」

「はい」

「お前の名が、動き始めている」

 伊織は胸の奥が冷えた。

「私の名が?」

「そうだ」

 主水は一枚の紙を出した。

 そこには、こう書かれていた。

 ――榊原伊織、若名を惑わす者。
 ――家中の秩序を乱し、未熟な者に己の名を背負わせる危うき男。
 ――主水の影として、諸家に口を入る。

 伊織は、黙って読んだ。

 なるほど、と思った。
 こちらが若い名を戻そうとすれば、向こうは伊織の名を歪める。
 戻す者を、乱す者にする。
 人の名を背負わせる者を、若者を惑わす者にする。
 手は見事だった。

「誰の手でしょう」

「まだ分からぬ」

 主水は言った。

「だが、采女だけではない。杉戸の点を失った者たちが、お前の名へ点を打ち始めた」

 伊織は、紙を畳んだ。

「私を切れば、戻り帳も止まる」

「そう見ているのだろう」

 主水の声は静かだった。

「どうする」

 伊織は少し考えた。

 怒りはある。
 だが不思議と、昔ほど血が騒がなかった。
 名を歪められる痛みを、牧野清之進は味わった。
 久我直之助も、遠山伊之助も、形は違えど味わった。
 ならば今度は、自分がそれを知る番なのだろう。

「まず、自分で見ます」

「よい」

「逃げず、怒りで切らず、私の名がどう使われているかを見ます」

 主水はわずかに頷いた。

「戻り帳に、お前自身を載せる時が来たかもしれぬな」

 その言葉に、伊織は返事をしなかった。
 まだ早い。
 自分が戻ったのか、流れたのかすら分からない。
 だが、余白には立っている。
 それだけは確かだった。


 寺へ戻り、その紙を皆に見せた。

 志乃は顔を赤くして怒った。

「ひどいです。兄さまは、そんな人ではありません」

 新兵衛は笑った。

「まぁ、“危うき男”ってところだけは当たってるな」

「新兵衛さん!」

 志乃が怒ると、新兵衛は肩をすくめた。

「冗談だよ。だがな、伊織。名を汚す文ってのは、半分だけ本当を混ぜるから厄介なんだ」

「半分だけ本当」

「ああ。お前は若い奴らに口を入れた。家中から見れば秩序を乱したのも本当だ。だが、その先に何を戻したかは書かねぇ」

 伊織は頷いた。

「そうだな」

 母は紙を一度だけ見て、すぐに返した。

「で、お前は何をしたんだい」

「若い名を、本人へ戻そうとした」

「なら、それでいい」

「ですが、世間はそう見ないかもしれません」

「世間に飯を出してもらってるわけじゃないだろ」

 母は淡々と言った。

「自分が何をしたか、戻る場所の人間に言えるなら、まずはそれでいい」

 その言葉は、伊織の胸に深く落ちた。

 戻る場所の人間に言えるか。
 それが一つの堰なのだ。
 主水に言えるか。
 母に言えるか。
 志乃に言えるか。
 老僧に言えるか。
 自分自身に言えるか。

 お澪が戻り帳を開いた。

「書きますか」

 伊織は首を振った。

「まだだ」

「では、余白にしますか」

「ああ」

 お澪は何も書かなかった。
 ただ、新しい頁を開き、そこを空けた。

 伊織はその余白を見つめた。
 今度の余白は、他人のためではない。
 自分の名のための余白だった。


 その夜、伊織はひとりで境内へ出た。

 月が薄く、井戸の水面に淡く映っている。

 榊原伊織。
 その名を、誰かが乱す者として書いた。
 だが、名は他人の紙の上だけにあるわけではない。
 自分が何を選び、何を背負うかで、少しずつ形を取り戻す。

 背後で老僧の声がした。

「苦いか」

「はい」

「ならよい」

「よいのですか」

「名を汚されても痛まぬ者は、もう名を持っておらぬ」

 伊織は黙った。

「だが、痛みに任せて斬れば、名はさらに濁る」

「分かっています」

「本当に分かっているか」

 伊織は少し笑った。

「分かる“気”でおります」

 老僧も笑った。

「それでよい」

 風が吹いた。
 庭の木が揺れ、井戸の水面が少し乱れた。
 だが、すぐにまた静まる。

 人は水ではない。
 だが心は揺れる。
 揺れても戻る。
 その戻り方を知ることが、名を持つということなのかもしれない。

 伊織は月を見上げた。

 波瀾万丈の物語は、ついに伊織自身の名へ刃を向けてきた。
 だが今の伊織は、ただ刃で返すだけの男ではない。
 余白を持ち、戻る場所を持ち、自分の名を自分で見つめるところから始めようとしていた。
 それが、次の戦いの初めだった。

(第82章につづく)

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