山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第七十三章

目次

――第七十三章 名を洗う朝――

 翌朝、伊織はいつもより遅く目を覚ました。

 囲炉裏の火はもう起こされ、味噌汁の匂いが部屋に満ちていた。母は何も言わなかった。ただ椀を置き、「食べな」とだけ言った。その短い言葉の中に、昨夜の疲れも、戻ってきたことへの安堵も、すべて含まれていた。

 清之進の顔が、伊織の胸に残っていた。

 若い名。
 人に整えられ、利用され、それでも最後に「自分の手で書く」と言った顔。

 あれは弱さではなかった。震えながらでも、自分の名を自分で引き受けるということは、刀を抜くより難しい時がある。伊織はそれを見た。

 朝餉のあと、主水から使いが来た。

 文は短い。

 ――牧野清之進、己の文を洗う。
 ――立花采女の控えと照らす。
 ――同席せよ。

 伊織は文を畳み、立ち上がった。

「また城かい」

 母が言う。

「ああ」

「なら、今日はよく見ておいで」

「何を」

「人が自分で汚れを洗うところだよ」

 伊織は少しだけ笑った。

「分かった」


 城の一室で、清之進はすでに座っていた。

 顔色は悪い。昨夜ほとんど眠っていないのだろう。だが目は逃げていなかった。机の上には、采女が整えた文と、清之進自身がかつて書いた荒い下書きが並べられている。

 主水は、余計な言葉を挟まなかった。

「始めよ」

 それだけだった。

 清之進は一枚目を手に取った。
 采女の文は美しい。整っている。筋が通り、言葉に隙がない。
 だが清之進の元の文は、荒い。焦りがあり、怒りがあり、若さゆえの危うさがある。

 清之進は二つを見比べ、やがて低く言った。

「これは、私ではありません」

 采女は縄をかけられたまま、部屋の隅に座っていた。顔は整っている。だがその整いは昨夜より薄い。

「若様のお考えを、通りやすくしただけにございます」

 清之進は首を振った。

「通りやすいが、私ではない」

 その声はまだ弱い。
 だが、確かだった。

 伊織は黙ってその様子を見ていた。
 名を洗うとは、こういうことなのかもしれない。
 誰かに作られた綺麗な顔を一枚ずつ剥がし、荒くても自分の言葉へ戻していく。
 それは美しい作業ではない。
 むしろ苦い。
 自分の未熟さを見なければならないからだ。

 二枚目。
 三枚目。
 四枚目。

 清之進は、ひとつずつ見ていった。

「これは半分、私です」

「これは采女の考えです」

「これは……私が言いたかったことを、采女が別の方へ曲げています」

 そう言うたび、采女の顔から少しずつ余裕が消えていく。
 采女は、自分が文を整えたと思っていた。
 だが今、その整えが“別人の顔”として暴かれている。
 整える手にとって、それは何よりの敗北なのだろう。

 主水が静かに言った。

「清之進殿」

「はい」

「どれを残す」

 清之進は、長く沈黙した。
 そして、自分の荒い下書きだけを一枚、手元へ寄せた。

「これを、書き直します」

「采女の文は」

「残しません」

 采女が初めて声を荒げた。

「若様、それでは家中で笑われますぞ。幼い、青い、筋が粗いと」

 清之進は顔を上げた。

「笑われてもよい」

 その一言に、部屋の空気が変わった。

「笑われるのは私だ。お前ではない」

 采女は口を閉ざした。

 伊織は、その瞬間に清之進の中に堰ができたのを見た。
 人は水ではない。
 笑われることを引き受けた時、人は流れを止める。
 恥もまた、正しく抱けば堰になるのだ。


 昼過ぎまでかかって、清之進はすべての文を見終えた。

 采女の手が大きく入ったものは破棄。
 清之進自身の考えが残るものは、本人の手で書き直す。
 すでに外へ出たものは、主水の控えで印をつけ、後日、清之進自身の名で訂正文を出す。

 簡単ではない。
 恥もかく。
 家中で波も立つ。
 だが、それが戻すということなのだろう。

 主水は最後に言った。

「名は、一度汚れれば終わりではない」

 清之進は顔を上げた。

「はい」

「だが洗うには、水が要る」

「水……」

「恥、時間、己の手。この三つだ」

 清之進は深く頭を下げた。

「覚えておきます」

 伊織はその横顔を見ていた。
 昨夜より少し痩せたようにも見える。だが、顔は昨夜より清い。
 清いというより、自分のものになっていた。


 寺へ戻る道で、新兵衛が言った。

「若様、少しは男になったな」

「ああ」

「采女はどうなる」

「主水殿が預かる」

「また預かるのか」

 新兵衛は苦い顔をした。

「この話、預かりばっかだな」

「すぐ斬れば楽だ」

 伊織は言った。

「だが楽な方へ流れれば、また点が生まれる」

 新兵衛はしばらく黙り、それから小さく笑った。

「お前、本当に変わったな」

「そうか」

「前なら、采女みてぇなのは斬って終わりにしたがった」

 伊織は否定しなかった。
 たしかにそうだったかもしれない。
 だが今は違う。
 斬って終わるものと、斬るだけでは戻らぬものの違いが、少しずつ見えてきた。

 それが成長なのか、迷いなのかはまだ分からない。
 だが、迷いのない剣より、戻る場所を知った迷いの方が、人を救うこともあるのだろう。


 寺へ着くと、志乃が門前で待っていた。

「兄さま、今日は早いです」

「ああ」

「何か、よいことがありましたか」

 伊織は少し考えた。

「人が、自分の名を少し取り戻した」

 志乃は意味を半分も分からぬ顔をしながら、それでも嬉しそうに笑った。

「それは、よかったです」

 囲炉裏の前では、母が湯を沸かしていた。
 伊織が座ると、母は湯呑を差し出した。

「洗えたかい」

 伊織は驚いて母を見た。

「どうして分かる」

「朝、そう言っただろ」

 母は当然のように言う。

「で、洗えたのかい」

「少しだけ」

「なら上等だ」

 その“少しだけ”は、今日は悪い言葉に聞こえなかった。
 少しだけ戻る。
 少しだけ洗う。
 少しだけ自分の顔を取り戻す。
 それを積み重ねることも、また堰なのだろう。

 お澪が小机に新しい紙を置いた。

「点帳に、今日のことも書きますか」

 伊織は少し考え、首を振った。

「点帳ではない」

「では」

「戻り帳だ」

 お澪が目を瞬いた。

「戻り帳……」

「ああ。点だけを記せば、人は点しか見なくなる。戻ったものも記さねばならぬ」

 老僧が、奥で静かに笑った。

「ようやくそこへ来たか」

 伊織は頭を下げた。

 点帳だけでは足りない。
 人の中の窪みを見るなら、同時に堰も見なければならない。
 流れた記録だけではなく、戻った記録も残す。
 そうしなければ、いつか自分も杉戸と同じ目になる。

 囲炉裏の火が赤く揺れた。

 波瀾万丈の物語は、点を追い、名を洗い、そして今、戻ったものを記す段へ入ろうとしていた。
 敵を斬るだけではない。
 人が戻った跡を見落とさないこと。
 それもまた、これからの伊織の戦いになるのだった。

(第74章につづく)

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