山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第八十二章

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――第八十二章 汚された名の歩き方――

 翌朝、伊織は自分の名が書かれた中傷の紙を、懐に入れて町へ出た。

 逃げるためではない。
 確かめるためだった。

 自分の名が、町でどう歩いているのか。
 それを見ずに怒ることはできる。斬ることもできる。だが、それでは相手の望むままだ。名を汚された者が、怒りに任せて動けば、「やはり危うき男」と書かれる。ならばまず、名がどこをどう流れているかを見なければならない。

 新兵衛は隣を歩きながら、わざと軽い声で言った。

「有名人だな、伊織」

「嬉しくはない」

「だろうな。悪名ってのは、味噌汁に砂を入れられたようなもんだ」

「分かるような、分からぬような例えだ」

「食えば分かる」

 伊織は少し笑った。
 その笑いで、胸の重さがわずかに緩む。

 まず向かったのは、神田の紙屋筋だった。
 噂は紙の上を走る。
 そして紙を扱う者は、噂の湿り具合にも敏い。

 升屋紙舗の前を通ると、番頭が伊織の顔を見て一瞬だけ目を伏せた。恐れではない。探る目だ。
 あの紙はここにも来ている。
 伊織はそう察した。

「見たな」

 新兵衛が低く言う。

「ああ」

「入るか」

「いや」

 伊織は首を振った。

「今日は、名がどう避けられるかを見る」

 名が汚れると、人は正面から責めてこない。
 少し目を逸らす。
 声の調子を変える。
 近づきすぎず、離れすぎず、あいまいに距離を取る。
 その距離の取り方に、噂の深さが出る。

 町を歩くうちに、伊織にはそれが少しずつ分かってきた。

 米屋は知らぬ顔をした。
 紙屋は見た。
 茶屋の女中は噂を知っていて、しかし悪くは思っていない顔だった。
 武家の使いは、明らかに避けた。

 つまり、紙は町人より武家筋へ先に流れている。
 伊織の名を潰したいのは、町ではない。家中と役筋だ。

「家の中だな」

 新兵衛が言った。

「三家か」

「いや」

 伊織は答えた。

「三家を越えている。若名を戻されると困る者が、他にもいる」

 その時、向こうから一人の若侍が歩いてきた。

 見覚えがある。
 牧野家の家士だ。
 昨夜、清之進を連れ戻そうとした者の一人ではない。だが同じ家の者だろう。
 若侍は伊織を見ると、一瞬足を止めた。
 逃げるかと思ったが、逃げなかった。
 まっすぐ近づいてきて、低く頭を下げた。

「榊原殿」

「牧野家の方か」

「はい。牧野主膳と申します」

 主膳は硬い顔で言った。

「清之進様の件、家中では未だ割れております」

「そうだろう」

「あなたを悪く言う者も多い」

「承知している」

「ですが」

 主膳は少し迷い、それから続けた。

「清之進様は、昨日から変わられました。まだ頼りなく、危うい。けれど、自分の文を隠さなくなった」

 伊織は黙って聞いた。

「私は、それを見ました。だから、この紙を信じません」

 主膳は懐から、伊織を貶める例の紙を出した。
 折り目がついている。
 何度も読んだのだろう。

「しかし、捨てません」

「なぜ」

「こういう手があると、忘れぬためです」

 伊織は、遠山家で自分が言った言葉を思い出した。
 怖い文を残す。
 それが堰になる。
 その考えが、すでに別の者へ移っている。

「よいと思う」

 伊織が言うと、主膳は深く頭を下げた。

「清之進様を、もう一度笑ってやってください」

 それだけ言って、主膳は去っていった。

 新兵衛が、しばらくその背を見ていた。

「悪くねぇな」

「ああ」

「名を汚す紙が、逆に堰になってる」

「そうだ」

 伊織は懐の紙を押さえた。

 汚された名も、扱い方によっては戻るための道になる。
 怒りに任せて破れば、それで終わる。
 だが残し、読み、何が半分本当で何が嘘かを見るなら、それは堰になる。
 そのことを、伊織は自分の名で学び始めていた。


 昼過ぎ、主水のもとへ向かった。

 主水は、伊織の話を聞くと、点帳を開いた。そこに新しい点を一つ打つ。

「榊原伊織の名」

 主水が言う。

「これも点帳へ入れる」

「私の名も」

「そうだ」

 主水は淡々としている。

「名を汚された時、それをただ被害として見れば浅い。どこへ流れ、誰が避け、誰が信じ、誰が残したか。それを見る」

 伊織は頷いた。

「戻り帳にも入れます」

 主水の目がわずかに動いた。

「何と書く」

「まだ分かりません」

「よい」

 主水は言った。

「分からぬ時は書くな。余白にしておけ」

 伊織は静かに頭を下げた。


 寺へ戻ると、志乃が待っていた。

「兄さま、どうでしたか」

「私の名は、思ったより歩いていた」

「悪い方に?」

「悪い方にも。だが、止めてくれる人もいた」

 志乃はほっとしたように笑った。

「よかったです」

 お澪が戻り帳を開く。

「書きますか」

 伊織はしばらく余白を見た。

「まだ書かない」

「では、日付だけ」

「ああ」

 お澪は、伊織自身のために開いた余白の端へ、静かに日付だけを記した。

 母がそれを見て言った。

「いいじゃないか。急いで自分を説明する男ほど、信用ならないよ」

 新兵衛が笑う。

「お袋さん、今日も切れるな」

「飯を作る者は、人の言い訳もよく聞くからね」

 伊織は思わず笑った。

 その夜、井戸端で水面を見た。
 水は揺れる。
 だが井戸の中で、また静まる。

 名も同じかもしれない。
 外へ出れば揺れる。
 汚されることもある。
 だが戻る場所があれば、もう一度静まる。
 澄みきるわけではない。
 それでも、自分の顔が映るくらいには戻る。

 波瀾万丈の物語は、伊織自身の名を揺さぶり始めた。
 しかしその揺れは、伊織を壊すだけのものではなかった。
 名を汚された者が、どう歩き、どう戻るか。
 その道を、彼自身がようやく学び始めていた。

(第83章につづく)

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