山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第九十一章

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――第九十一章 宗庵の古傷――

 扇屋宗庵の怖れを見る。

 そう決めた時、伊織はすぐに宗庵の庵へは向かわなかった。怖れを売る者は、自分の怖れを人前には出さない。むしろ、立派な言葉で幾重にも包んでいる。正面から問えば、また「家のため」「秩序のため」と返されるだけだろう。

 まず、宗庵が何を見てきたのかを知らねばならない。

 主水の控えで調べると、宗庵はもともと武家の出ではなかった。江戸近郊の小さな医家に生まれ、若い頃は諸家へ出入りして病人を診ていたという。その後、医師とも相談役ともつかぬ立場になり、家中の揉め事、若君の教育、病弱な跡取りの扱いなどに口を出すようになった。

 そして二十年前、ある家が潰れていた。

 名は、榊原家ではない。牧野でも、久我でも、遠山でもない。

 《相良家》。

 小身の旗本で、跡取りが病弱だった。宗庵はその家へ出入りしていた。若君を表へ出すか、奥へ置くかで家中が割れ、結局、若君は無理に役へ出され、倒れ、その後まもなく亡くなった。家は跡目で揉め、数年後に取り潰された。

 伊織はその記録を読み、しばらく言葉を失った。

 宗庵は、そこから来ている。

 病める名を奥へ置きたがるのも、若い名を早く整えたがるのも、怖れを言葉にさせず形へ押し込めたがるのも、すべて相良家の崩れた記憶から出ているのかもしれない。

 主水は静かに言った。

「宗庵は、あの家で“怖れを言葉にする場”を作れなかった」

「だから、怖れに先に形を与えるようになった」

「そうだろう」

 主水は帳を閉じた。

「だが古傷があるからといって、人を縛ってよいわけではない」

「はい」

「見に行け」

 伊織は頷いた。


 宗庵の庵へ向かう前に、伊織は一度寺へ戻った。

 囲炉裏の前で、母が味噌を溶いている。

「宗庵殿の怖れが少し見えました」

 伊織が言うと、母は手を止めなかった。

「昔、誰かを失ったのかい」

「はい」

「そうだろうね」

「なぜ分かるのです」

「人を檻に入れたがる者は、たいてい昔、誰かが外で壊れたのを見てる」

 伊織は黙った。

 母は味噌汁を椀によそいながら続けた。

「でもね、外で壊れたからといって、みんなを蔵にしまえばいいわけじゃない。飯だってそうだよ。腐るのが怖いからって、何でも塩漬けにしたら食えたもんじゃない」

 新兵衛が横で笑った。

「お袋さんの例えは、腹にくるな」

「腹に入る話が一番分かりやすいんだよ」

 伊織は椀を受け取った。
 温かい。
 宗庵には、この温かさがあるだろうかと思った。
 怖れを売る者は、怖れを食べて生きている。母の言葉が蘇る。
 別のものを食べる場所を知らないだけかもしれない。


 宗庵の庵は、前と同じく整っていた。

 竹垣、庭石、茶室。
 余計なものがない。
 整いすぎている。

 宗庵は、伊織が来ることを知っていたように茶を用意していた。

「榊原殿」

「相良家のことを調べました」

 伊織がそう切り出すと、宗庵の手が止まった。

 ほんの一瞬。
 だが、止まった。
 これまで宗庵が見せたどの反応よりも、人間らしい揺れだった。

「古い話です」

「古くても、消えていない」

「消す必要もない」

 宗庵は茶を置いた。

「あの家は、怖れを軽んじて潰れました」

「若君を無理に外へ出した」

「はい」

「それを止められなかった」

 宗庵の目が細くなった。

「私は止めました」

「止めきれなかった」

 宗庵は答えなかった。

 庭の竹が鳴る。

「だから今は、先に形を与える」

 伊織は続けた。

「若い名は早く整え、病める名は奥へ置き、怖れは口に出す前に家の理へ収める」

「それが悪いと?」

「悪い」

 伊織ははっきり言った。

「相良家の若君を救えなかった怖れを、ほかの若者たちへ着せている」

 宗庵の顔から、微笑みが消えた。

「あなたに何が分かる」

「分かりません」

 伊織は答えた。

「その若君を失った時のことは、私には分からない」

「ならば」

「だが、分からぬからこそ、今の若者たちを相良家の亡霊として扱ってはいけない」

 宗庵の指が、膝の上でわずかに震えた。

「亡霊……」

「宗庵殿は、牧野清之進殿を見ていない。久我直之助殿を見ていない。遠山伊之助殿も見ていない」

「見ています」

「いいえ」

 伊織は静かに首を振った。

「あなたが見ているのは、相良家の若君です」

 宗庵は立ち上がった。

 怒りだった。
 初めて、はっきりした怒りだった。

「口を慎まれよ」

 伊織も立った。

「慎みません。宗庵殿、あなたは怖れを売っているのではない。怖れを配っている。自分ひとりで持てない古い怖れを、家々に分けている」

 宗庵の息が荒くなった。

「分けて何が悪い。怖れを知らぬ者に、怖れを教えて何が悪い」

「教えるのと、押しつけるのは違う」

「押しつけねば、人は過ちを繰り返す!」

 その声は、もはや穏やかな相談役のものではなかった。

 新兵衛が少し身構えたが、伊織は手で制した。

 宗庵は、ようやく自分の怖れを口にしたのだ。
 ここで止めてはいけない。

「相良家で、何があったのです」

 伊織は問うた。

 宗庵は、しばらく伊織を睨んでいた。
 やがて、力が抜けたように座り込んだ。

「あの若君は……外へ出たいと言った」

 低い声だった。

「私は止めた。体がもたぬと。だが家中は、若君の気概を褒めた。父君も喜んだ。若君は役へ出た。雨の日だった」

 宗庵は、遠くを見る目になった。

「その夜、熱を出した。三日後、血を吐いた。十日もたなかった」

 伊織は黙っていた。

「私は言ったのです。止めよと。だが誰も聞かなかった。若君自身も、“私は家の役に立った”と笑っていた。……その笑いが、今も耳に残る」

 宗庵の声は、ほとんど掠れていた。

「だから、私は思った。人に選ばせてはならぬ時がある。若さは自分の身を知らぬ。家は美談を欲しがる。家老は責を逃れ、父は誇りを選ぶ。ならば、誰かが先に形を与えねばならぬ」

「その誰かが、宗庵殿だった」

「そうです」

 宗庵は顔を上げた。

「私は間違っておりませぬ」

「間違っています」

 伊織は言った。

「相良家で誰も怖れを分けられなかった。若君の望みも、あなたの怖れも、父君の誇りも、家老の責も、ばらばらだった。だから壊れた」

 宗庵は黙った。

「ならば必要だったのは、誰か一人が形を押しつけることではない。怖れを分ける場だった」

「そんな甘いことで、人が救えるか」

「救えぬ時もある」

 伊織は答えた。

「だが、檻に入れれば救えるとも限らない」

 宗庵は目を伏せた。

「私は……」

 その先が続かなかった。


 庵を出る時、宗庵は伊織を呼び止めた。

「榊原殿」

「はい」

「久我直之助殿は、今日は外へ?」

「出ていません。ご自分で決めました」

「……そうですか」

 宗庵は小さく頷いた。

「自分で決めた、か」

 その声には、初めて柔らかさではなく疲れがあった。

 伊織は振り返らずに言った。

「相良家の若君は、戻り帳には書けません」

「なぜ」

「もう戻れないからです」

 宗庵の肩が震えた。

「ですが、宗庵殿は書けるかもしれない」

 宗庵は答えなかった。

 それで十分だった。


 寺へ戻ると、お澪が余白を開いた。

「宗庵殿ですか」

「ああ」

「書きますか」

「まだ戻り帳には書けない」

 伊織は言った。

「だが余白に」

 お澪は頷いた。

 ――扇屋宗庵。
 ――相良家の若名を失いし古傷あり。
 ――怖れを分けられず、形を押しつける者となる。
 ――己の怖れ、初めて声となる。
 ――未だ戻らず。余白。

 伊織はその文字を見つめた。

 未だ戻らず。
 余白。

 その二つの言葉が、今の宗庵にはふさわしかった。

 母が静かに言った。

「泣いたかい」

「いいえ」

「なら、まだだね」

「泣けばよいのですか」

「泣けば戻るわけじゃないよ。でも、泣けない怖れは、人を硬くする」

 伊織は頷いた。

 扇屋宗庵は、まだ硬い。
 だが、その硬さに初めてひびが入った。
 そこから水が入るのか、火が入るのかは、まだ分からない。

 囲炉裏の火が、小さくはぜた。

 波瀾万丈の物語は、怖れを売る者の古傷へ触れた。
 だが、傷に触れることは救いではない。
 そこから戻るか、さらに閉じるか。
 宗庵の次の一手が、それを決めるのだった。

(第92章につづく)

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