――第九十五章 冷たい風の中で――
外の目は、冷たい。
だが冷たい風を知らぬ名は、内側だけで育つ。内側だけで育った名は、外へ出た時、すぐ折れる。伊織は、三家の若名を見ていて、それを思うようになっていた。
牧野清之進は、文を笑ったという久世家の次男に会った。
喧嘩にはならなかった。清之進は、自分の文を差し出し、「どこが下手か言ってほしい」と頼んだ。相手は初め、からかうつもりだったらしい。だが、清之進があまりに真面目なので、やがて困った顔になり、二つ三つ、言葉の重なりを指摘したという。
清之進はそれを聞き、怒らず、礼を言った。
その話を聞いた新兵衛は、腹を抱えて笑った。
「笑った相手に添削させるとはな。あの若様、妙な強さを覚えたな」
伊織も笑った。
「笑いを、文の稽古に変えた」
「嫌な返しだ。笑った方が困る」
それでよい、と伊織は思った。
外の目を全部敵にすれば、名は硬くなる。
全部受け入れれば、名は流れる。
必要なものだけを取り、余計なものは返す。
清之進は、それを少し覚え始めたのだ。
遠山伊之助は、来年の自分へ向けて文を書いた。
――来年の私へ。
――今年の私は、まだ子どもの文を書いています。
――笑われました。けれど、来年の私は少し上手くなっているはずです。
――もし上手くなっていなければ、もう一年待ってください。
伊織はその写しを見て、しばらく黙った。
幼い文だった。
だが、そこには余白があった。
来年の自分を責めず、もう一年待つ余白。
それは、誰かに早く形を与えられた者には書けない文だった。
久我直之助は、風を受ける日を自分で決めるようになった。
外へ出る日は、庭の石の上に小さな白い布を置く。
出ない日は、布を置かない。
家老も家人も、その布を見て騒がぬことにした。
出る日も、出ぬ日も、直之助の名で決める。
ただそれだけの決まりだったが、久我家には大きな変化だった。
それでも、外の風は止まない。
ある日、三家を揶揄する落首が町に流れた。
――荒筆の牧野、稚筆の遠山、病筆の久我。
――三つ並べて、榊原流。
新兵衛はそれを読むなり、笑った。
「うまいじゃねぇか」
志乃が怒った。
「笑うところじゃありません」
「いや、腹立つが、言葉はうまい」
伊織は紙を受け取り、静かに読んだ。
怒りはあった。
だが、それ以上に相手の狙いが見えた。
三家の若名をまとめる。
それぞれ違う戻りを、ひとつの滑稽な形に押し込める。
そして、伊織の名をその上にかぶせる。
これは外の目の次の手だ。
個々の名を見ず、まとめて笑う。
まとめて笑われると、人は自分の事情を言いにくくなる。
牧野には牧野の恥があり、遠山には遠山の幼さがあり、久我には久我の病がある。
それを一つの句にしてしまえば、すべてが軽くなる。
「主水殿へ」
伊織が言うと、新兵衛は首を振った。
「いや、これは若様たちへ先に見せた方がいい」
伊織は新兵衛を見た。
「なぜ」
「隠しても、どうせ見る。なら、こっちから見せた方がいい」
その通りだった。
三家の若者は、寺へ呼ばれた。
清之進、伊之助、直之助。
直之助は体調を見て、駕籠で来た。
清之進は少し緊張していた。
伊之助は落首という言葉を知らず、父に説明されてから顔を曇らせた。
囲炉裏の前で、伊織は落首を広げた。
三人は黙って読んだ。
最初に口を開いたのは清之進だった。
「荒筆、か」
少し顔を赤くする。
「当たっています」
次に伊之助が小さく言った。
「稚筆も、当たっています」
直之助は薄く笑った。
「病筆とは、なかなかひどい」
沈黙。
やがて、清之進がぽつりと言った。
「けれど、三つ並べられると、妙に腹が立ちます」
「なぜです」
伊織が問う。
「私の荒さと、伊之助殿の幼さと、直之助殿の病は、同じではないからです」
伊之助が頷いた。
「私は、荒いのではなく、まだ幼いだけです」
直之助も言った。
「私は、病を筆にしているつもりはない」
伊織は、三人の顔を見た。
よかった、と思った。
彼らは、まとめて笑われても、自分の違いを言葉にできた。
それは名が少し戻ってきた証だった。
「では、どうします」
伊織が問うと、三人はしばらく考えた。
清之進が言った。
「返歌を出します」
新兵衛が吹き出した。
「おいおい、やり返すのか」
「はい。ただし、怒りではなく」
清之進は伊之助と直之助を見た。
「それぞれの筆で」
伊之助は目を丸くした。
「私も?」
「はい」
直之助は少し笑った。
「病筆も出ますか」
「出ましょう」
三人は小机へ向かった。
お澪が紙を出した。
母は何も言わず、湯を置いた。
志乃は少し離れて、心配そうに見ていた。
最初に清之進が書いた。
――荒筆は、荒きままにて削るもの。
――笑う者あれば、そこを直さん。
次に伊之助。
――稚筆は、来年の春にまた見よ。
――今年の墨は、今年の私。
最後に直之助。
――病筆は、風のある日もない日もあり。
――今日は座して、明日は歩かん。
三つの文は、歌というより短い書付だった。
整っていない。
だが、それぞれの名があった。
新兵衛が腕を組んで言った。
「こりゃ、落首より面白ぇ」
伊織も頷いた。
「出しますか」
三人は顔を見合わせ、清之進が代表して答えた。
「出します」
直之助が付け加えた。
「ただし、榊原流とは書かない」
伊之助が言った。
「三人流でもありません」
清之進が笑った。
「それぞれの名で出しましょう」
その返しは、町に静かに流れた。
派手な反撃ではない。
相手を罵るものでもない。
ただ、三人がそれぞれ自分の名で、自分の言葉を返しただけだった。
だが、その効果は思いのほか大きかった。
落首を笑っていた者たちは、少し困った。
笑いの形に押し込めたものが、ひとつひとつ顔を持って戻ってきたからだ。
荒筆には荒筆の稽古がある。
稚筆には稚筆の明日がある。
病筆には病筆の風がある。
まとめて笑うことが、少しだけ難しくなった。
その夜、戻り帳にはこう記された。
――三家の若名。
――荒筆、稚筆、病筆とまとめて笑われる。
――三人、それぞれの筆で返す。
――名はまとめられず、己の速さを持つ。
――堰、さらに太くなる。
伊織はその文字を見つめた。
自分の頁には、まだ余白が多い。
だが今夜、お澪はそこに一行を足した。
――榊原伊織。
――己の名を冠された嘲りを、三つの名へ返さず、それぞれの声を待つ。
伊織は黙って頷いた。
待てた。
自分の名が嘲られても、怒りで返さず、三人の言葉を待てた。
それは小さなことだ。
だが、自分にとっては大きかった。
囲炉裏の火が、赤く静かに残っていた。
波瀾万丈の物語は、外の笑いを受け、なお名を一つにまとめさせなかった。
人はそれぞれの速さで戻る。
その速さを守ることこそ、伊織が今、ようやく身につけ始めた戦い方だった。
(第96章につづく)

コメント