山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第六十三章

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――第六十三章 切れた継ぎ目のあと――

 真壁蔵人に縄がかけられても、廊下の空気はすぐには変わらなかった。

 火を止めたあとのような、はっきりした安堵がない。誰も声を上げず、誰も駆け寄らず、ただ一人の男が静かに腕を取られ、静かに歩かされていく。それだけだ。だが伊織には、その静けさの中でこそ、いま確かに何かが切れたのだと分かった。目に見えぬ継ぎ目。文が生まれた直後に横へ寝かされ、別の息を吹き込まれる、その最初の手。そこへ縄がかかった。

 主水は、真壁が連れていかれる背を見送ったあと、ようやく小さく息を吐いた。

「岡野」

「は」

「真壁は別に置け。沼田とも、秋庭とも、誰とも顔を合わせるな」

「承知」

「文庫の鍵も、今この時より替える」

 岡野が頷き、すぐに去っていく。
 その後ろ姿を見ながら、伊織は主水の手が早いことを改めて思った。
 真壁一人を取るだけで満足しない。
 真壁が触れていた場所、鍵、刻限、出入りの順、すべてを今この場で切り替える。
 継ぎ目を切るというのは、つまりそういうことなのだろう。
 人一人を取って終わりではない。
 その人のいた“間”まで入れ替えて、ようやく流れが一度止まる。

 主水は、そこで伊織へ向き直った。

「榊原」

「はい」

「どう見た」

 それは真壁のことを問うているのだとすぐ分かった。
 罪の軽重ではない。
 理の深さでもない。
 おそらく、“これからどう扱うべきか”を見るための問いだ。

 伊織は少し考えた。

「真壁蔵人は、自分を悪と思っていない」

「その通りだ」

「だが、沼田宗十郎とも違う」

 主水の目がわずかに細くなる。

「どう違う」

「沼田は、止める理に酔っていた。自分が整えねばならぬと思っていた」

 伊織はゆっくりと言った。

「真壁は、もっと薄い。整えることにも酔っていない。ただ“そこに継ぎ目があるから、自分が入る”という顔です。……必要だからやる、ではなく、自分が必要そのものになっている」

 主水は黙って聞いていた。
 やがて、ほんの僅かに頷く。

「よく見ている」

 それだけだった。
 だが、その短い言葉は伊織の胸に重く残った。
 必要そのものになる。
 役が人を呑むとは、つまりそういうことなのかもしれなかった。
 自分が何を守るためにそこへ立っていたかを忘れ、ただ“いまここに自分がいなければ回らぬ”と思い始めた時、人は継ぎ目そのものになる。
 そして継ぎ目は、切られるまで自分を疑わぬ。

「主水殿」

 伊織が問う。

「真壁は、どうなります」

 主水は即答しなかった。
 机の上に戻された一通の文へ目を落とし、指でその封の端をなぞる。
 それから静かに言った。

「表へはすぐに出さぬ」

「なぜです」

「真壁をいま公にすれば、あまりにも多くの“止める手”が一斉に身を引く」

 主水は言う。

「そうなれば、見えておらぬ継ぎ目はすべて地下へ沈む。沈んだものは、次に出てくるまで十年でも二十年でも待たねばならぬ」

 伊織は、その理を理解しながらも、胸のどこかで苦かった。
 まただ。
 また“いまは出さぬ”という判断。
 それ自体は必要だ。
 だが必要だからこそ、真壁や沼田がそこへ寄りかかったのだ。
 主水と真壁の違いは何か。
 さっき見たばかりなのに、もうその問いが胸に戻ってくる。

 主水は、その伊織の顔を見て何かを読んだらしい。

「言いたいことがあるな」

「……あります」

「言え」

「いま出さぬという判断は、真壁や沼田とどこが違うのです」

 部屋の空気が少しだけ硬くなった。
 秋庭が息を止める気配。
 新兵衛もさすがに口を挟まない。

 だが主水は怒らなかった。
 むしろ、静かに伊織を見た。

「よい問いだ」

 そう言ってから、短く続けた。

「違いは、戻す場所を残すことだ」

 伊織は黙って聞く。

「真壁は、止めた文を横へ抜き、誰にも戻さぬ。沼田も秋庭も、自分の理の中で文を眠らせ、眠らせたまま別の顔を被せようとした」

 主水の声は低いが、澱みはない。

「私は違う。止めるなら、必ずいつ、どこへ、誰の名で戻すかを自分で抱える。戻せぬ文は止めぬ。戻す場所のない止め方は、ただの隠しだ」

 伊織は、その言葉を胸に受けた。
 戻す場所。
 寺だけではない。
 文にも、流れにも、判断にも、戻す場所が要る。
 人を人に戻すのと同じだ。
 戻し先を持たぬ止め方は、いずれ継ぎ目になる。
 それが主水の答えだった。

「……分かる気がします」

 伊織が言うと、主水は小さく頷いた。

「分かる“気”でよい。完全に分かったと思えば、お前も継ぎ目になる」

 その言葉に、新兵衛が小さく鼻を鳴らした。

「難儀だな。分かりすぎても駄目かよ」

「そうだ」

 主水は珍しく、新兵衛にも答えた。

「分かったつもりの手ほど、人を早く止めたがる」

 新兵衛は肩をすくめた。

「じゃあ俺は大丈夫だな。だいたい分かってねぇ」

 その軽口に、部屋の空気がほんの少しだけゆるむ。
 その“少し”が、いまの伊織にはありがたかった。


 その日の昼、主水は主馬を呼んだ。

 真壁の名までは出さぬ。
 だが文庫の鍵を替え、差し戻しの刻限を変え、控えの出入りを細かく改めるとだけ伝える。
 そこにどれほどの意味があるのか、主馬はおそらく察するだろう。だが察したとしても、あえて全部は聞かぬはずだ。主水と主馬の間には、そういう“聞かぬことで保つ理”があるらしい。

 伊織はその場に同席しなかった。主水にそう言われたからでもあるし、自分がいれば、主馬の目が余計に深く動く気がしたからでもある。いま必要なのは、流れを静かに切ることであって、誰がどこまで知っているかを互いに探ることではない。

 代わりに伊織は、秋庭と二人で別室にいた。

 秋庭は朝から、目に見えて疲れていた。無理もない。再び白紙の筋へ近づき、しかも今度は戻しの口まで見たのだ。若い身に、それは重かろう。

「大丈夫か」

 伊織が訊くと、秋庭は少し苦く笑った。

「大丈夫かと聞かれると、あまり大丈夫ではありません」

「そうだろうな」

「ですが……」

 秋庭は膝の上の手を見た。

「主水殿のやり方は、少し分かりました」

 伊織は黙って続きを待った。

「主水殿は、私を試したのではなく、戻すためにもう一度文のそばへ立たせたのだと思います」

 秋庭が言う。

「怖かった。けれど、怖いまま立っていれば、紙に呑まれずに済むのかもしれません」

 その言い方に、伊織は少しだけ安心した。
 秋庭はまだ戻れる。
 少なくとも、怖さを忘れてはいない。
 母の言葉でいえば、寒さや腹の減りや、人の顔を見たい気持ちがまだ残っている。
 それがあるうちは大丈夫だ。

「怖さを失うな」

 伊織が言うと、秋庭は頷いた。

「はい」

「そして、誰のために文を通すのかも忘れるな」

「はい」

 短い返事だったが、今の秋庭にはそれで十分だった。


 夕方近くになって、主水が再び伊織を呼んだ。

 部屋へ入ると、机の上には戻し帳の写しが広げられている。真壁のいた継ぎ目から先の筋が、すでに別の手で読み解かれ始めていた。

「本所水路改めの文は、今朝そのまま通した」

 主水が言う。

「反応は」

「まだない。だがそれでよい」

 主水は写しの一行を指した。

「ここを見よ。嘉兵衛の箱が戻る先は、一つではない。三つある」

 伊織は身を乗り出した。
 確かに略号が三つ並んでいる。
 《川向き三番》はその一つに過ぎない。
 あとは《北廻り》《客殿裏》とある。

「客殿裏……」

 伊織が呟く。

「寺か」

「あるいは屋敷だ」

 主水が言う。

「客殿と書けば寺にも武家屋敷にも取れる。わざと曖昧にしている」

 紙の敵は、どこまでも曖昧だ。
 名をずらし、顔を借り、札を重ね、木箱に変え、水に乗せ、戻し先まで曖昧にする。
 それでも戻し帳には必ず何か残る。
 残るから追える。
 そのことだけが、いまの救いだった。

「次はこの三つを分けて見ねばならぬ」

 主水が言う。

「だが今日はもう動かぬ」

 伊織は頷いた。
 真壁を押さえた今日に、さらに欲張れば目が濁る。
 継ぎ目を切った日の次に必要なのは、残りの揺れを見る目だ。

「榊原」

 主水がふいに声を和らげた。

「寺へ戻れ」

「はい」

「おぬしは、戻るということの意味を、少しずつ言葉にし始めている」

 伊織は思わず目を上げた。

「それは良いことでしょうか」

「良し悪しではない」

 主水は言った。

「言葉にできぬものは、いずれ誰かに名前をつけられる。おぬし自身で言葉にしておけ」

 それは妙に胸に残る言い方だった。
 自分自身で言葉にする。
 戻るとは何か。
 止めるとは何か。
 通すとは何か。
 白紙とは何か。
 いままで目の前の流れに押されてきたが、これからは自分の中でも言葉を持たねばならぬのだろう。


 寺へ戻ると、まだ空に薄い明るさが残っていた。

 志乃が門のところで待っていた。

「兄さま」

「早いな」

「今日は、少しだけ」

 志乃は笑った。

「少しだけ、早いですね」

 その“少しだけ”に、伊織も笑った。
 少しだけ。
 その言葉は今や、悪の言い訳のようにも、暮らしの救いのようにも聞こえる。
 だが志乃の口から出るそれは、ただ素直に嬉しいという響きだった。

 囲炉裏の前へ座ると、母が味噌汁をよそいながら言った。

「今日は、人の顔をしてるね」

「そう見えるか」

「見えるよ」

 母は即座に答えた。

「紙の顔してる時は、もっと唇が薄くなる」

 新兵衛が隣で吹き出した。

「よく見てんなぁ」

「母親だからね」

 伊織は椀を受け取り、その温かさを手のひらで確かめた。
 戻る場所。
 文にも、人にも。
 それを主水は言い、母は何気なくやっている。
 結局、自分が追っているものは、こういうところへ戻ってくるのだろう。

 お澪が、小机の上に新しい紙を一枚置いた。

「今日のうちに、戻し帳で気になった略号を書き写しておきました」

 そこには《川向き三番》《北廻り》《客殿裏》と丁寧に記されていた。
 紙は静かだ。
 だがその静けさの中に、次の流れの入口がもう並んでいる。

 伊織は、それを見つめながら小さく息を吐いた。

 波瀾万丈の物語は、真壁という継ぎ目を切って終わる話ではなかった。
 むしろそこから先、どこへ戻し、どこへ通し、どこで止めるかを、自分で選び始める話へ変わっていく。
 その重さを、いまようやく本当に感じ始めていた。

(第六十四章につづく)

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