山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第五十九章

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――第五十九章 箱に入る前の息――

 本所へ向かう道は、いつもより風が強かった。

 川に近づくにつれて、その風は冷たさを帯びる。水の上を渡ってくる風は、どこか人の気配を削ぐ。紙の匂いも、味噌の匂いも、いったんそこで薄くなる。だからこそ、水は流れを隠す。だからこそ、箱はその上に乗る。

「箱の口、か」

 新兵衛が肩を回しながら言った。

「紙より面倒だな」

「紙はまだ顔がある」

 伊織は答える。

「箱は、顔を消す」

 木箱はただの箱だ。中に何が入っていようと、外からは分からぬ。札がついていても、それはただの荷の印に過ぎない。紙は顔を持つ。字があり、折りがあり、手の癖が出る。だが箱は違う。均され、揃えられ、誰の手かも分からぬ形になる。

「じゃあ顔じゃなくて、癖を見るしかねぇな」

 新兵衛が言う。

「癖か」

「運ぶ奴の癖、置く場所の癖、開ける手の癖」

 伊織は頷いた。
 新兵衛の言い方は粗いが、要は同じだ。
 箱に入った瞬間に消える顔の代わりに、別のところへ残る“揺れ”を探すしかない。

 松屋箱店は、川沿いの細い道に面していた。

 大きな店ではない。だが間口は広く、奥行きがある。軒先には大小の木箱が積まれ、蓋を開けたもの、閉じたものが混じっている。箱屋としてはごく普通の景色だ。だが普通であることが、ここでは不気味だった。

「見張りは」

「ついている」

 新兵衛が顎で指した先に、魚売りに扮した岡野の手の者が一人いる。目が合うと、ほんのわずかに頷いた。

「動きは」

「まだなし、って顔だな」

 伊織は店の前を一度通り過ぎた。
 箱の積み方。
 湿りの具合。
 木の新しさと古さの混じり。
 それらを一瞥で見る。

 やはり違和があった。

 箱の一部に、やけに揃った高さの列がある。
 ただの在庫なら、ここまで揃える必要はない。
 むしろ、出し入れしやすいようにばらけるはずだ。
 だがあの列は、揃えてある。
 つまり、出す順が決まっている。

「奥だな」

 伊織が言う。

「ああ」

 二人は店の裏へ回った。


 裏手には、小さな船着き場があった。

 板敷きの先に、細い舟が二艘。
 水面は静かで、風にわずかに揺れている。
 紙が落ちれば、すぐに流れるだろう。
 だが箱ならどうか。
 箱は浮く。
 しかも蓋を閉じれば、水を弾く。

(箱は沈まぬ)

 伊織はそう思った。
 紙は流れて消える。
 だが箱は流れても残る。
 だからこそ、箱は“戻す”にも使える。

「おい」

 新兵衛が低く言った。

「来たぞ」

 店の裏口が開き、男が二人出てきた。
 一人は見覚えがある。
 嘉兵衛だ。

 もう一人は、初めて見る顔だった。
 若い。
 二十代の終わりか三十前か。
 動きに無駄がない。
 箱を扱う手が、やけに慣れている。

「嘉兵衛が動いた」

 伊織が呟く。

 男たちは、揃えられた箱の列から三つを選び出し、板敷きへ運ぶ。
 その動きに迷いはない。
 つまり、この三つが“次に出る箱”だ。

「今か」

 新兵衛が言う。

「まだだ」

 伊織は首を振った。

「どこへ乗せるかを見る」

 嘉兵衛が、箱の蓋を軽く叩く。
 中身を確かめる合図だろう。
 若い男が頷き、舟へ箱を乗せる。

 一つ。
 二つ。
 三つ。

 その順番が、やはり揃っている。
 順がある。
 つまり、行き先も決まっている。

「行くぞ」

 伊織が言い、二人は音を立てずに近づいた。

 舟が離れる寸前、伊織は板敷きへ踏み込んだ。

「そこまでだ」

 声は低く、だがよく通った。

 嘉兵衛が振り向く。
 一瞬の驚き。
 だがすぐに顔を戻す。
 逃げる顔ではない。
 むしろ、どこかで来ることを知っていた顔だ。

「遅かったな」

 嘉兵衛が言った。

 その一言に、伊織の胸がわずかに冷えた。
 遅かった。
 つまり、この三つだけではないということだ。

「他はどこだ」

 伊織が問う。

 嘉兵衛は笑った。

「紙を追いすぎだ」

「箱を追っている」

「同じことだ」

 嘉兵衛は肩をすくめた。

「紙も箱も、流れるものだ。止めようとするから苦しい」

「止める」

 伊織は一歩進んだ。

「ここで止める」

 若い男が、そこで初めて口を開いた。

「止めても、もう遅い」

 その声は落ち着いていた。
 妙に静かな声だ。
 宗次とも、杉浦とも違う。
 まるで、すでに一歩先を見ているような声。

「誰だ」

 伊織が問う。

「ただの手だ」

 男は答えた。

「箱を運ぶ手。開ける手。戻す手」

 その言い方に、伊織は違和を覚えた。
 “戻す手”。
 嘉兵衛も宗次も、“流す”ことを言った。
 だがこの男は“戻す”と言った。

「どこへ戻す」

 伊織が問うと、男はわずかに笑った。

「見れば分かる」

 その瞬間、嘉兵衛が動いた。

 足元の箱を蹴り上げる。
 箱が転がる。
 蓋が半分外れる。
 中から、紙が少しだけ覗いた。

 白紙ではない。
 帳面でもない。
 布だ。

「布……?」

 新兵衛が呟く。

 その隙に、若い男が舟へ飛び乗った。
 櫂を取る。
 水を切る音。
 舟が離れる。

「逃がすか!」

 新兵衛が飛びかかろうとするが、伊織が止めた。

「待て!」

「なんでだ!」

「箱だ!」

 伊織は蹴り上げられた箱を押さえ、蓋を開けた。

 中にあったのは、布に包まれた束。
 その布を解くと――

 中から出てきたのは、紙ではなかった。

 古い帳面。
 だが中身は空ではない。
 びっしりと書かれている。

「……戻し帳か」

 伊織が低く言った。

「戻し帳?」

「流した紙を、どこでどう戻したかの記しだ」

 新兵衛が目を見開く。

「そんなもん、持ってやがったのか」

「だから“戻す手”だ」

 伊織は舟を見た。
 若い男が乗った舟は、すでに少し離れている。
 だが完全には遠くない。

「追うぞ」

「箱はどうする」

「岡野に任せる」

 伊織は短く言い、板敷きから舟へ飛び移った。

 新兵衛も続く。
 櫂を掴み、水を掻く。

 前を行く舟。
 その背にいる若い男。
 流す手ではなく、戻す手。

 水の上で、流れはまた形を変えた。


 風が強くなる。

 川面がざわつく。
 舟が揺れる。

 だが伊織の目は、前の舟から離れなかった。

 あの男を逃せば、流れはまた別の顔を持つ。
 だが捕らえれば、紙も箱も越えた“戻し”の理が見える。

 波瀾万丈の物語は、いよいよ水の上へ出た。
 紙でも箱でもない、流れそのものと向き合う場所へ。

(第六十章につづく)

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