山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第六十四章

目次

――第六十四章 三つの戻り口――

 夜が明けきる前、伊織はすでに起きていた。

 囲炉裏の灰はまだ温かく、火を起こせばすぐに朝の支度ができる状態だった。母はそれを見越して、昨夜のうちに炭を整えてある。人の暮らしというのは、こういう“次に戻るための用意”の積み重ねでできているのだと、伊織はふと思った。主水の言う「戻す場所を残す」という理も、突き詰めればこれと同じなのかもしれぬ。

 小机の上には、お澪が書き写した三つの略号がある。

 ――《川向き三番》
 ――《北廻り》
 ――《客殿裏》

 どれも曖昧だ。
 曖昧だからこそ、いくつもの顔を持てる。
 そしてその曖昧さを解くには、紙や帳面だけでは足りない。
 現に行き、匂いを嗅ぎ、足の動きと人の目を見るしかない。

「もう見てるのか」

 新兵衛が後ろから言った。まだ寝癖の残る頭で、欠伸を噛み殺している。

「ああ」

「どれから行く」

 伊織は、三つの名を順に見た。

「川向き三番は、昨日押さえた蔵だ」

「だな」

「北廻りは、水の上で動く筋だ。急げば逃げる」

「客殿裏は?」

「寺か屋敷か、まだ分からぬ」

 新兵衛は腕を組んだ。

「じゃあ客殿裏だな」

「なぜ」

「曖昧だからだ」

 単純な理屈だが、筋は通っている。曖昧なものは、後に回せば回すほど顔を変える。まず一つ、曖昧さを削るべきかもしれぬ。

 伊織は頷いた。

「客殿裏から行く」


 朝餉の席で、その話をすると、お澪が静かに言った。

「“客殿”という言葉は、寺よりも武家屋敷でよく使われます」

「屋敷か」

「はい。ただし、寺でも来客用の間をそう呼ぶことはあります。ですが帳面に残す略号としては、武家側の言い方に近い気がします」

 志乃が首を傾げる。

「でも、“裏”って書いてあるんですよね。正面じゃないってことですよね」

「そうだ」

 伊織は答えた。

「正面から入る客ではない」

 母が、そこでぽつりと言った。

「正面から来られない客ってのは、大抵ろくでもない用事だよ」

 新兵衛が笑う。

「違いねぇ」

 だが伊織は、その言葉を軽くは受け流さなかった。正面から来られないということは、顔を見せられないということだ。紙の流れと同じだ。堂々と通せぬものは、裏へ回る。

「屋敷を当たる」

 伊織が言うと、老僧が頷いた。

「だが、屋敷は寺よりも顔が固い。無理に踏み込めば、かえって閉じる」

「分かっています」

「顔を見よ」

 老僧は短く言った。

「門番の顔、下働きの顔、台所の煙。どこかに“戻さぬ顔”がある」

 伊織は深く頷いた。
 紙の流れは、いつも顔に出る。
 ただ、その顔がどこに出るかが変わるだけだ。


 城下の武家屋敷は、朝が早い。

 門が開き、下働きが水を撒き、台所から煙が上がる。人の出入りも多く、行き交う顔も整っている。そういう中で“裏”を探すのは、寺や町とはまた違う難しさがあった。

 伊織と新兵衛は、目立たぬようにいくつかの屋敷を外から見て回った。客殿のある屋敷は多い。だが“裏”へ回る動きがあるかどうかは、門前からでもある程度分かる。

「ここだ」

 伊織が足を止めたのは、中堅の旗本屋敷だった。

 門は大きすぎず、小さすぎず。
 家格としては、目立たぬが軽くもない。
 だが裏手へ回ると、様子が少し違っていた。

 塀の外に、細い通用口がある。
 人一人がやっと通れるほどの幅。
 しかも、そこへ朝から二度、三度と小さな荷が運ばれている。
 荷は箱だが、箱屋の刻印は見えない。
 つまり、表の箱ではない。

「客殿裏……」

 新兵衛が低く言う。

「ああ」

 二人は塀の陰に身を寄せ、通用口の動きを見た。

 やがて、一人の下男が箱を抱えて出てきた。
 軽い。
 だが軽すぎない。
 中に何か入っている。

 下男は箱を通用口の脇に置き、少しだけ周りを見てから去る。
 その仕草が、妙に慣れている。
 つまり、これは一度きりではない。

「取る手が来る」

 伊織が言った。

 案の定、しばらくして別の男が現れた。
 町人風。
 だが歩き方が軽すぎる。
 荷を運ぶ者の歩きではない。
 “中身を知っている者”の歩きだ。

 男は箱を持ち上げると、そのまま裏道へ消えようとした。

「待て」

 伊織が声をかけた。

 男が振り向く。
 一瞬の躊躇。
 そしてすぐに逃げる。

「逃がすな!」

 新兵衛が飛び出した。

 狭い裏道での追いかけは、足の速さよりも勘が物を言う。男は曲がり角を二つ三つ素早く抜けたが、その動きがかえって道を教えた。慣れた道だ。つまり、いつもこの筋で運んでいる。

 角を曲がった先で、新兵衛が男を捕まえた。

「観念しろ!」

 男はもがくが、力では敵わない。やがて膝をついた。

 伊織が近づき、箱を開ける。

 中には、布に包まれた紙束。
 帳面ではない。
 だがただの紙でもない。

 包みを解くと、中から出てきたのは――

「控え文……」

 伊織が呟く。

 しかも、見覚えのある書き方。
 主水の控えの手に似ているが、微妙に違う。
 写しだ。
 本物ではないが、本物に近い。

「戻し帳に載る前の写しか」

 新兵衛が言う。

「いや……」

 伊織は紙を一枚ずつ見た。

「これは“戻す前の整え”だ」

「何だそれは」

「止める前でも、戻した後でもない。間だ」

 紙は、すでに一度書かれた文を、別の手で整え直している。
 字の癖が揃えられ、言い回しが少し変えられている。
 つまり、ここで“別の顔”を与えられるのだ。

「真壁の後だな」

 新兵衛が言う。

「そうだ」

 伊織は頷いた。

「真壁が横へ寝かせた文を、ここで整え、別の文として通す」

「じゃあこの屋敷が……」

「継ぎ目の次だ」

 伊織は男を見た。

「誰の屋敷だ」

 男は口をつぐんだままだ。
 だがその目に、恐れがある。
 紙の敵の目ではない。
 ただの使いの目だ。

「名は」

 伊織が問う。

 男はしばらく迷ったが、やがて絞り出すように言った。

「……牧野様です」

 伊織と新兵衛が顔を見合わせる。

「牧野……」

 旗本の名だ。
 大きすぎない。
 だが軽くもない。
 まさに、こういう“継ぎ目の次”に置くには都合のよい家格。

「牧野家の誰がやっている」

 男は首を振る。

「分かりません……私はただ、箱を渡すだけで……」

 その言い方は本当だろう。
 この男はただの運び手だ。
 顔を知らぬように使われている。

「戻し帳に、この筋は載っているか」

 新兵衛が言う。

「いや」

 伊織は首を振った。

「載っていない。だから見えなかった」

 戻し帳は“戻った先”しか書かれていない。
 その前の整えの場所は、帳にも残らぬ。
 つまり、ここは帳の外だ。
 だからこそ、真壁を切ってもなお流れが続く理由でもある。

「やっかいだな」

 新兵衛が唸る。

「ああ」

 伊織は静かに言った。

「だが顔は見えた」

 牧野の屋敷。
 客殿裏。
 そしてこの整えの手。

 波瀾万丈の物語は、さらに一段奥へ踏み込んだ。
 止まる前の手を切っても、まだその先に“整える手”がある。
 だが、それでも一つずつ顔は見えている。
 それだけで、まだ進めると伊織は思った。

(第六十五章につづく)

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