第三章 7人目
水槽が割れた。
黒い水が、壁のように押し寄せてきた。
悠真は反射的にエレベーターの奥へ飛び退いた。だが逃げ場などない。水は一瞬で足首を越え、膝まで上がった。
冷たい。
ただの水ではなかった。
泥のように重く、腐った藻の匂いがした。
水の中から、白い手が伸びた。
一本。
二本。
三本。
悠真の足首を掴む。
「やめろ!」
叫んだ声が、地下空間に吸い込まれた。
エレベーターの扉は閉まらない。
割れた水槽の向こうで、女が立っていた。
白いワンピース。
濡れた髪。
榊水紀。
女は水の中を歩いてくる。
水面は膝まであるのに、波が立たない。
まるで、水そのものが彼女を避けているようだった。
悠真は足を引き抜こうとした。
だが白い手は離れない。
水の中に顔が浮かんだ。
見知らぬ男。
中年の女。
少年。
全員、目を開けている。
助けを求めているのではない。
見ている。
悠真だけを。
その時、スマートフォンが再び光った。
画面には非通知。
水に濡れているのに、通話ボタンだけが青く光っている。
悠真は必死に手を伸ばした。
「助けてくれ!」
通話がつながる。
さっきの男の声が聞こえた。
『目を閉じろ』
「無理だ!」
『見るな。見るから連れていかれる』
女は近づいてくる。
水音はしない。
ただ、髪の先から黒い雫が落ちている。
『三つ数えたら、左へ飛べ』
「左ってどこだよ!」
『考えるな。飛べ』
悠真は目を閉じた。
暗闇の中で、水の匂いが強くなる。
女の気配が目の前に来る。
冷たい指が頬に触れた。
『一』
水中の手が、足を強く引いた。
『二』
耳元で女が囁いた。
「どうして、見ていたの」
『三!』
悠真は左へ飛んだ。
体が壁にぶつかると思った。
だが、そこには空間があった。
水から抜ける感覚。
落下。
背中を強く打った。
目を開けると、自分の部屋だった。
六畳のワンルーム。
机。
モニター。
外付けハードディスク。
カーテンの隙間から、朝の薄い光が差していた。
悠真は床に倒れていた。
全身が濡れている。
服から黒い水が滴っていた。
夢ではない。
足首には、指の跡が残っていた。
青黒く、五本ずつ。
パソコンのモニターが点いている。
画面には、動画ファイルが開かれていた。
ROOM_0213.mp4。
再生時間は七分十三秒。
悠真は震える手で停止ボタンを押した。
映像には、自分が映っていた。
ホテル白蘭のエレベーター。
十三階。
地下の水槽。
そして最後。
水槽の前に立つ悠真の背後から、白いワンピースの女が近づいてくる。
女の顔は映っていない。
だが、口元だけが見える。
笑っている。
ファイルの横に、テキストが一つ増えていた。
readme.txt。
悠真は開いた。
そこには、短い文章が書かれていた。
《七日目までに、次の一人へ》
悠真は胃の奥が冷えるのを感じた。
呪いのルール。
見た者は、七日以内に誰かに見せなければならない。
リングのような単純な感染ではない。
もっと悪質だった。
映像を見た人間は、ホテルに呼ばれる。
十三階に行く。
水槽を見る。
そして、映像の中に取り込まれる。
だが誰かに渡せば、自分は助かるのか。
それとも、ただ次の犠牲者を増やすだけなのか。
悠真はスマートフォンを見た。
通話は切れている。
履歴には、非通知ではなく名前が残っていた。
“佐伯”
知らない名前だった。
だが番号は表示されている。
悠真はすぐにかけ直した。
数回のコール。
つながった。
『生きてたか』
男の声。
「佐伯って、お前か」
『そうだ』
「何なんだよ、これは!」
『映像だ』
「ふざけるな!」
『ふざけてない。俺も見た』
電話の向こうで、何かを叩く音がした。
キーボードの音。
『お前は七人目だ』
「それはメールにも書いてあった。七人目って何だ」
『あの映像を見て、ホテルに呼ばれた人間の数だ。俺が確認できているだけで六人。全員、消えた』
「死んだのか」
『死体は出ていない』
その言葉の方が怖かった。
「じゃあ、どこにいる」
佐伯は少し黙った。
『水槽の中だ』
悠真は昨日見た顔を思い出した。
水の中に浮く人々。
目を開けたままの男女。
自分を見ていた顔。
「お前はなぜ助かってる」
『俺は六人目じゃない。四人目の弟だ』
「弟?」
『兄が消えた。残されたパソコンに、あの映像があった』
佐伯の声は淡々としていた。
だが、その奥に抑え込んだ怒りがあった。
『兄は映像制作会社にいた。匿名の依頼で、監視カメラ映像の修復を受けた。お前と同じだ』
「依頼主は?」
『分からない。全部、捨てアドレス。支払いは暗号資産。追えない』
「ホテル白蘭は?」
『三年前に廃業している』
悠真は言葉を失った。
「営業してないのか」
『していない。少なくとも現実にはな』
現実には。
その言い方が嫌だった。
『だが、動画サイトには今も宿泊レビューが上がる。予約サイトに一瞬だけ表示される。地図アプリにも、深夜二時十三分だけ出ることがある』
「そんな馬鹿な」
『俺もそう思った。だから調べた』
佐伯は続けた。
『ホテル白蘭では、七年前に榊水紀という女が失踪している。二十四歳。長期滞在客。監視映像に映っていた女だ』
「屋上の水槽から見つかったんじゃないのか」
『公式には見つかっていない』
「でも俺は見た」
『見せられたんだ』
悠真は黙った。
部屋の床にはまだ黒い水が広がっている。
その水面に、モニターの光が揺れていた。
『水紀は何かを撮っていた』
「撮っていた?」
『ホテル内の異常をだ。エレベーター。廊下。屋上。水音。彼女は誰かに追われていたんじゃない。何かを記録していた』
「何を」
『ホテルそのものだ』
悠真はモニターを見た。
停止した映像の中で、白い女が立っている。
『白蘭はただの建物じゃない。あそこでは、何人も死んでいる。自殺、孤独死、失踪。だが記録から消えているものがある』
「誰が消した」
『ホテル側か、警察か、もっと別の誰かか。そこまでは分からない。ただ、水紀はそれを暴こうとしていた』
「それで消された?」
『たぶん』
悠真は、ふと足元を見た。
黒い水の中に、何かが浮いている。
紙だった。
濡れた紙片。
さっきまでなかった。
拾い上げる。
ホテルのカードキーだった。
部屋番号は713。
裏面に文字がある。
青黒いインク。
《返して》
悠真は思わず手を離した。
カードキーが床に落ちる。
その瞬間、パソコンの画面が切り替わった。
監視映像。
ホテル白蘭のロビー。
日付は七年前。
カウンター前に榊水紀が立っている。
彼女はフロントの男に何かを訴えていた。
音声はない。
だが表情は切迫している。
次のカット。
廊下。
水紀が走っている。
誰かから逃げている。
いや、違う。
彼女は何かを追っていた。
手に小型カメラを持っている。
次のカット。
屋上。
貯水槽の前。
水紀はカメラを構え、震える手で蓋を開けようとしている。
その背後に、男が立っていた。
顔はノイズで潰れている。
ホテルの従業員制服。
男は水紀に近づく。
水紀が振り返る。
映像が乱れる。
画面いっぱいに、水が流れる。
最後に一瞬だけ、貯水槽の中が映った。
そこには、水紀ではない別の女が浮いていた。
悠真は息を止めた。
「佐伯……水紀は最初じゃない」
『何?』
「水槽の中に、別の女がいる」
電話の向こうで、佐伯の息が止まった。
『その映像、送れるか』
「送ったらどうなる」
『分からない』
「俺は誰かに見せれば助かるのか」
『たぶん違う』
佐伯の声が低くなった。
『見せた相手も巻き込むだけだ』
「じゃあ俺はどうすればいい」
『元の映像を探せ』
「元?」
『お前が見たのはコピーだ。呪いが広がるための断片だ。本体は別にある』
「どこに」
『水紀が撮ったカメラ』
悠真は画面を見つめた。
屋上で彼女が握っていた小型カメラ。
『それを見つければ、何が起きたか分かる。分かれば、止められるかもしれない』
「ホテルは廃業してるんだろ」
『建物は残っている』
悠真は嫌な予感がした。
『今夜、白蘭へ来い』
「冗談だろ」
『来なければ七日目に連れていかれる。来ても危ない。だが選択肢はそれだけだ』
通話が切れた。
悠真はしばらく動けなかった。
外は朝になっている。
鳥の声。
車の音。
人の生活音。
すべてが遠い。
昨夜の出来事だけが、部屋の中に残っていた。
床の水は、少しずつ引いている。
だが完全には消えなかった。
畳もないフローリングの上に、小さな水たまりが一つ残っている。
その水面に、何かが映った。
悠真は見てしまった。
自分の背後。
白いワンピースの女が立っている。
振り返る。
誰もいない。
もう一度、水面を見る。
女は消えていた。
代わりに、ホテルの屋上が映っている。
黒い貯水槽。
開きかけた蓋。
その中から、誰かの手が出ている。
悠真はカードキーを拾った。
行くしかない。
そう思った瞬間、モニターに新しい文字が表示された。
《一日目》
その下に、秒単位のカウントダウンが始まっていた。
(第4章につづく)

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