第二章 水槽
岸本悠真は、自分がどこにいるのか理解できなかった。
目の前にあるのは、古びたホテルの廊下だった。
赤い絨毯。
黄ばんだ壁紙。
低い天井。
天井灯は何本か切れていて、廊下全体が薄暗い。
その中央を、水が流れていた。
黒い水だった。
排水溝から逆流したみたいに濁っている。
その水が、713号室のドアの下から絶えず流れ出していた。
悠真は立ち尽くした。
自分は数分前まで、アパートの階段にいたはずだった。
だが今は違う。
空気が違う。
湿度が異様に高い。
肺の奥まで濡れていくような、生暖かい空気。
スマートフォンからノイズが鳴った。
『聞こえるか』
若い男の声。
まだ通話は切れていなかった。
「ここ……どこだ」
『十三階』
「だから、そんな階はないだろ」
『普通はな』
男の呼吸音が聞こえる。
かなり荒い。
逃げながら話しているみたいだった。
『映像を見た人間だけが行く』
悠真は713号室を見た。
ドアの下から流れ出た水が、靴の先に触れている。
冷たい。
だが、水だけではない。
何かぬめり気があった。
悠真は反射的に足を引いた。
『その部屋に入るな』
「お前、誰なんだよ」
『後で話す。今は聞け』
ノイズ。
ザーッという水音。
その向こうで、女の笑い声が聞こえた。
悠真の背筋が凍る。
713号室の中からだった。
若い女の声。
だが感情が感じられない。
録音テープを壊れた速度で再生したような、不自然な笑い方だった。
ガチャ。
ドアノブが動く。
悠真は息を止めた。
ガチャ。
もう一度。
中から誰かが開けようとしている。
『見るな』
男が低く言った。
『顔を見るな』
その瞬間、ドアがゆっくり開いた。
暗闇。
室内はまったく見えない。
ただ、水だけが見える。
床一面に黒い水が溜まっている。
そして奥に、人影。
白いワンピース。
長い髪。
女は動かなかった。
だが、顔だけがゆっくり持ち上がる。
髪の隙間から、白い目が覗いた。
悠真は全身の血が引くのを感じた。
次の瞬間、廊下の照明が消えた。
完全な暗闇。
悠真は反射的に走った。
後ろで水音がする。
パシャ。
パシャ。
裸足の音。
一定の速度で追ってくる。
速くない。
だが確実に近づいてくる。
悠真は廊下を曲がった。
突き当たりにエレベーター。
古い金属扉。
上の表示板には、赤い数字。
13。
ボタンを連打する。
反応しない。
背後の水音が近づく。
パシャ。
パシャ。
悠真は振り返った。
暗闇の奥で、白いものが揺れている。
女だった。
歩いてくる。
顔は見えない。
髪が濡れて肌に張りついている。
だが妙なのは、歩き方だった。
膝を曲げない。
人形みたいに、ゆっくり滑るように近づいてくる。
『上を見るな』
男の声。
その瞬間。
天井から水滴が落ちた。
悠真の頬に当たる。
反射的に見上げた。
そこに女がいた。
天井に張りついている。
髪が逆さに垂れ下がっている。
白い目。
笑っている口。
悠真は叫び声を上げた。
同時にエレベーターが開く。
中へ飛び込む。
扉が閉まる寸前、女の髪が隙間から入り込んだ。
黒い蛇みたいに蠢く。
悠真は後退した。
扉が閉まる。
暗い箱の中。
エレベーターは動き始めた。
下へ。
ゆっくり。
『降りてるぞ』
男の声が変わった。
恐怖が混じっている。
『止めろ!』
「止め方なんか分かるか!」
階数表示。
12。
11。
10。
数字が減っていく。
だが妙だった。
普通なら安心するはずなのに、数字が減るほど寒気が強くなる。
8。
7。
6。
エレベーターの壁から、水が滲み始めた。
ぽたぽたと落ちる。
床が濡れていく。
腐った臭い。
古い水槽の臭い。
4。
3。
2。
突然、数字が消えた。
真っ暗になる。
エレベーターが止まる。
静寂。
そのあと。
ゴン。
と、外側から何かがぶつかった。
悠真は息を呑んだ。
もう一度。
ゴン。
何か巨大なものが、エレベーターの外を歩いている。
水音。
ザーッ。
まるで大量の水が流れているみたいだった。
『開くな』
男が言った。
『絶対に開けるな』
だが、エレベーターの扉は勝手に開き始めた。
ゆっくり。
金属音を立てながら。
その向こうに、水があった。
真っ黒な水。
地下空間だった。
巨大なコンクリートの部屋。
天井まで届く円筒形の水槽が並んでいる。
水槽。
悠真は理解した。
ホテルの貯水施設だ。
だが、おかしい。
水槽の中に、人がいた。
何人も。
男女。
子供。
全員、水の中に浮いている。
目を開けたまま。
悠真は凍りついた。
『見るな!』
男が叫ぶ。
その瞬間。
一つの水槽の内側から、女が張りついた。
白いワンピース。
濡れた髪。
監視映像の女だった。
水の中なのに、髪だけがゆっくり揺れている。
女は口を開いた。
泡が浮かぶ。
声は聞こえない。
だが悠真には、何を言ったのか分かった。
――見つけた。
次の瞬間。
水槽のガラスに、無数の手が張りついた。
内側から。
ドン。
ドン。
ドン。
水槽全体が揺れる。
ヒビが入る。
白い亀裂。
悠真は後退した。
その時、通話が途切れる寸前に男が言った。
『お前、もう映ってるぞ』
ノイズ。
通話が切れた。
同時に、水槽が割れた。
(第3章につづく)

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