上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第四章

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第四章 木場炎上

 火は、音を立てて育った。

 はじめは蔵の軒先を舐めるほどの小さな赤であったものが、乾いた板壁に食いついた途端、獣のごとく牙を剥いた。

「水だ!」

 源太郎が叫んだ。

 新之介は桶を掴み、川へ走った。

 深川木場の夜は、一瞬で戦場に変わった。

 積まれた材木。

 古い蔵。

 火薬の匂い。

 風は悪い方角から吹いていた。

 このまま火が材木へ移れば、木場一帯は炎に呑まれる。

 いや、それだけでは済まぬ。

 江戸は火の都である。

 一度燃え出せば、町は紙のように燃え広がる。

 新之介は川水を桶に汲み、蔵へ浴びせた。

 焼け石に水だった。

 だが、やらねばならぬ。

「中の火薬を運び出せ!」

 玄斎の声が飛んだ。

「危険です!」

「だから運ぶのだ!」

 老人はすでに蔵の中へ踏み込んでいた。

 新之介も続く。

 煙が目を刺した。

 喉が焼ける。

 床には折れた刀身が散らばり、奥には火縄銃と火薬袋が積まれていた。

「源太郎、火薬袋を外へ!」

「承知!」

 三人は無言で動いた。

 剣術の稽古よりも、戦場の働きに近かった。

 迷えば死ぬ。

 躊躇えば燃える。

 新之介は火薬袋を抱え、外へ放った。

 その時、天井の梁が軋んだ。

「若様!」

 源太郎が叫ぶ。

 燃えた梁が落ちてきた。

 新之介は身を捻った。

 熱風が頬を掠め、梁は床に叩きつけられた。

 火の粉が舞う。

 その赤い光の中で、新之介は見た。

 床板の下に、何かがある。

 鉄砲でも刀でもない。

 文箱だった。

 黒漆の小箱。

 なぜこのようなものが、火薬の蔵に隠されているのか。

 新之介は咄嗟に手を伸ばした。

「何をしておる!」

 玄斎が怒鳴った。

「文箱が!」

「命を先にせい!」

 だが新之介は引かなかった。

 熱に焼かれた床板を刀の鞘でこじ開け、文箱を引き出した。

 次の瞬間、さらに梁が崩れた。

「出ろ!」

 三人は転がるように外へ出た。

 背後で蔵が大きく鳴った。

 炎が柱を食い破り、屋根を突き上げる。

 夜空が赤く染まった。

 やがて町方の火消しが駆けつけた。

「纏だ!」

「水を回せ!」

「材木へ火を移すな!」

 男たちの怒号が飛ぶ。

 火消しは町の侍であった。

 刀は差さぬ。

 だが火に向かう背には、武士にも劣らぬ覚悟があった。

 新之介は煤に汚れた顔で、その姿を見つめていた。

 矢代左馬之助の問いが、耳の奥で響く。

 ――お前の武士道とは何だ。

 火へ向かう者。

 帳面に向かう者。

 刀を抜く者。

 どれが武士で、どれが武士ではないのか。

 答えはまだ出なかった。

 ◇

 夜明け前。

 火はようやく収まった。

 蔵は半ば焼け落ちたが、材木への延焼は防がれた。

 奇跡に近かった。

 源太郎は地面に腰を下ろし、荒く息を吐いた。

「生きた心地がしませんでした」

「生きておるなら上出来だ」

 玄斎は平然としている。

 だが袖は焦げ、額には煤がついていた。

 新之介は文箱を膝に置いた。

 黒漆は熱でひび割れている。

 鍵はかかっていなかった。

 蓋を開ける。

 中には数枚の書付があった。

 焼け焦げた端を慎重に開く。

 そこには、人名が並んでいた。

 浪人。

 御家人。

 旗本の次男三男。

 寺侍。

 そして、ところどころに金額が記されている。

「これは……」

 源太郎が覗き込む。

「誠心組の名簿か」

「いや」

 新之介は一枚を手に取った。

「金の流れだ」

 玄斎の目が細くなる。

「誰かが矢代に金を出しておる」

 書付の末尾には、ひとつの印があった。

 丸に三つ柏。

 新之介はその家紋を知っていた。

「大久保家……」

 源太郎が息を呑む。

「若様、縁談の」

 その通りだった。

 新之介の父が進めていた縁談。

 相手は大久保家。

 その家紋が、矢代の隠し蔵の書付に押されている。

「偶然ではあるまい」

 玄斎が言った。

 新之介は黙って書付を畳んだ。

 家と家。

 縁談。

 金。

 浪人集団。

 怪文書。

 矢代左馬之助。

 江戸の闇は、武士の表座敷と裏口を同時に繋いでいた。

 ◇

 その朝、新之介は屋敷に戻るなり、父に呼ばれた。

 書院には、忠左衛門が正座していた。

 顔色は険しい。

「昨夜、深川で火事があったそうだな」

「はい」

「お前がいたとも聞いた」

「いました」

「なぜだ」

「調べたいことがありました」

「奉行所の役目か」

「いいえ」

「ならば何の権で動いた」

 新之介は答えられなかった。

 父の叱責は当然だった。

 武士は身分で動くのではない。

 役目で動く。

 役目なき行動は、時に家を危うくする。

「お前は剣ばかり見て、家が見えておらぬ」

 忠左衛門の声は低い。

「家とは何だと思う」

「……血筋です」

「違う」

 父は即座に否定した。

「家とは責任だ」

 新之介は顔を上げた。

「祖先から受け継ぎ、子孫へ渡す責任だ。お前一人の義で潰してよいものではない」

「しかし」

「しかしではない」

 忠左衛門は厳しく言った。

「今朝、大久保家から使者が来た」

 新之介の胸が動いた。

「縁談の件でございますか」

「そうだ。三日後、先方の屋敷で顔合わせを行う」

「父上」

「断ることは許さぬ」

「大久保家には不審な点があります」

 忠左衛門の目が細くなった。

「何を申す」

 新之介は文箱の書付を出そうとした。

 だが、手が止まった。

 これは証拠ではある。

 しかし不完全だ。

 焼けた書付。

 家紋。

 金額。

 それだけで大久保家を断じれば、榊原家は逆に窮地へ追い込まれる。

 忠左衛門は息子の迷いを見抜いた。

「確証なき疑いを口にするな」

「……承知しました」

「顔合わせには出よ」

「はい」

 新之介は頭を下げた。

 だが胸中では、別の火が燃え始めていた。

 大久保家。

 縁談。

 矢代。

 すべてが繋がるなら、顔合わせは敵の懐へ入る機会でもある。

 ◇

 三日後。

 新之介は父とともに大久保家の屋敷を訪れた。

 屋敷は麻布の高台にあった。

 門構えは立派で、庭には手入れの行き届いた松が並ぶ。

 譜代の家らしい格式があった。

 出迎えたのは、大久保家の当主・大久保主膳である。

 四十代半ば。

 柔和な笑みを浮かべているが、目だけは笑っていない。

「榊原殿、ようこそお越しくださいました」

「本日はお招き、痛み入ります」

 父たちは座敷へ通された。

 新之介も後に続く。

 畳の匂い。

 香の香り。

 白檀。

 新之介は思わず目を上げた。

 あの怪文書の紙から漂っていた香りと同じだった。

 主膳は穏やかに微笑む。

「新之介殿は剣をよくなさるとか」

「少々」

「少々で玄斎殿の弟子は務まりませぬ」

 新之介の目が鋭くなる。

「黒川玄斎をご存じで」

「江戸の剣を知る者なら、知らぬ者はおりませぬ」

 主膳は笑った。

 だが、その笑みは薄かった。

 やがて、縁談の相手が姿を見せた。

 大久保志乃。

 年は二十ほど。

 落ち着いた面差しの娘である。

 派手ではない。

 だが、背筋がまっすぐ伸びていた。

「志乃にございます」

 声は静かだった。

 新之介は礼を返した。

 形式的な挨拶。

 家同士の会話。

 茶。

 菓子。

 すべてが武家の作法通りに進んだ。

 しかし新之介は、座敷の空気の奥に潜む何かを感じていた。

 主膳の目。

 白檀の香。

 廊下の奥で一瞬だけ見えた黒装束の影。

 ここには何かがある。

 そう確信した。

 ◇

 顔合わせが終わり、庭を案内されることになった。

 父と主膳は先を歩く。

 新之介は少し後ろを歩いた。

 志乃が隣に並ぶ。

「榊原様」

「はい」

「昨夜は、よくお眠りになれましたか」

 新之介は足を止めかけた。

「なぜ、そのようなことを」

「お顔が疲れて見えましたので」

「お気遣い痛み入ります」

 志乃は庭の池へ目を向けた。

「江戸は近頃、物騒でございますね」

「ご存じですか」

「噂は耳に入ります」

「怪文書のことも」

 志乃は答えなかった。

 沈黙が答えだった。

 新之介は声を低くする。

「志乃殿。大久保家は何を隠しておられる」

 志乃の指先がわずかに震えた。

 だが顔は動かない。

「その問いは、ここでは危のうございます」

「では、どこなら」

 志乃は袖から小さな紙片を落とした。

 新之介は足元に視線を落とす。

 紙には短く書かれていた。

 ――今夜、寛永寺裏。

 新之介が顔を上げた時、志乃は何事もなかったように歩き出していた。

 その背は、武家の娘らしく凛としていた。

 だが新之介には見えた。

 彼女もまた、この家の闇に怯えている。

 ◇

 その夜。

 新之介は玄斎だけを伴い、寛永寺裏へ向かった。

 源太郎には知らせなかった。

 奉行所を巻き込めば、志乃の身が危うい。

 月は雲に隠れていた。

 寺の裏手は静まり返っている。

 石灯籠。

 苔むした塀。

 闇の中で、虫の声だけが響く。

「罠だと思うか」

 玄斎が言った。

「半分は」

「残り半分は」

「助けを求めている」

「甘いな」

「承知しています」

 玄斎は笑った。

「甘さを知ってなお進むなら、それも剣だ」

 しばらく待つと、白い小袖の影が現れた。

 志乃だった。

 供はない。

「榊原様」

「志乃殿」

 彼女は周囲を見回し、急いで近づいた。

「時間がありません」

「何が起きているのです」

「父は矢代左馬之助を匿っています」

 新之介は息を呑んだ。

 玄斎の目が細くなる。

「なぜ」

「大久保家は財政に苦しんでいます。父は幕府内での役替えを狙い、そのために一部の者と手を組みました」

「一部の者とは」

 志乃は唇を噛んだ。

「老中配下の者です」

 話が一気に大きくなった。

 町方の事件ではない。

 幕府の中枢に繋がる。

「矢代は何をする気です」

「江戸城登城の日を狙っています」

「誰を」

「若年寄の一人を」

 新之介は拳を握った。

 暗殺。

 それも江戸城近くでの暗殺。

 成功すれば、幕府は揺れる。

「怪文書は目くらましか」

「はい。武士への不満を煽り、浪人の仕業に見せかけるためです」

「刀を集めたのは」

「浪人蜂起の証拠を作るため」

 玄斎が低く唸った。

「手が込んでおる」

「榊原様」

 志乃は新之介を見つめた。

「父を止めてください」

「あなたは」

「私は大久保家の娘です。父を売ることはできません」

「しかし今、話している」

「家を守るためです」

 新之介は言葉を失った。

 父の言葉が蘇る。

 家とは責任。

 志乃もまた、その責任に縛られている。

 その時だった。

 闇の奥から拍手が聞こえた。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

「見事だ、志乃」

 低い声。

 矢代左馬之助が、石灯籠の陰から現れた。

 左頬の傷が月明かりに白く浮かぶ。

 志乃の顔が青ざめた。

「矢代……」

「父を止めてください、か。健気なものだ」

 新之介は刀の柄に手をかけた。

「矢代」

「また会ったな、榊原新之介」

 矢代の背後から、黒装束の男たちが現れた。

 五人。

 いや、七人。

 囲まれている。

 玄斎が静かに木刀を抜いた。

「数が多いな」

「先生、下がってください」

「年寄りを労わる暇があるなら、前を見ろ」

 矢代は笑った。

「今宵は斬りに来たのではない」

「では何を」

「選ばせに来た」

「選ぶ?」

 矢代は志乃へ目を向けた。

「この娘を連れて帰れば、大久保家は榊原家を敵と見る」

 次に新之介を見た。

「見捨てれば、お前は己の義を失う」

 新之介の胸に冷たいものが走った。

「武士とは家か。義か。役目か。女一人か」

 矢代は静かに問う。

「選べ、榊原」

 新之介は刀を抜いた。

 鯉口の音が闇に響く。

「選ぶ必要はない」

「ほう」

「斬るべき者を斬り、守るべき者を守る」

 矢代の目が細くなった。

「それができれば苦労はない」

「できぬなら、武士とは名乗らぬ」

 矢代が手を上げた。

 黒装束たちが一斉に動く。

 寺裏の闇で、刃が走った。

 玄斎の木刀が一人の腕を砕く。

 新之介は志乃を背に庇い、前へ出た。

 一人目の太刀を受け流し、柄頭で鳩尾を突く。

 二人目の刃が肩を掠める。

 血が滲む。

 痛みは後でよい。

 今は間合いだけを見る。

 玄斎が叫んだ。

「新之介、左!」

 反射で身を沈める。

 刃が髷を掠めた。

 新之介は相手の膝を斬った。

 殺さぬ。

 だが動けぬようにする。

 矢代はそれを見て笑った。

「まだ人を斬る覚悟が足りぬな」

「無用に斬らぬだけだ」

「その甘さが、いずれ人を殺す」

 矢代が抜いた。

 速い。

 新之介は辛うじて受けた。

 金属音が夜を裂く。

 重い。

 矢代の剣は、ただ速いだけではない。

 怨念の重さがある。

 一合。

 二合。

 三合。

 新之介は押された。

 玄斎が助けに入ろうとする。

 だが黒装束が阻む。

「榊原」

 矢代が囁く。

「江戸城登城は五日後だ」

「なぜ言う」

「止められるものなら止めてみよ」

 矢代の刃が新之介の刀を弾いた。

 体勢が崩れる。

 矢代は追撃しなかった。

 代わりに、志乃の袖を掴んだ。

「きゃっ」

「志乃殿!」

 新之介が踏み出す。

 しかし煙玉が投げられた。

 白煙が広がる。

 咳き込む。

 視界が閉ざされる。

 煙が晴れた時、矢代も志乃も消えていた。

 残された黒装束の男たちも、倒れた数人を除いて姿を消している。

 新之介は拳を握った。

 また逃がした。

 また守れなかった。

 玄斎が肩に手を置いた。

「生きておる」

「しかし志乃殿が」

「奪われたなら取り返せ」

 新之介は顔を上げた。

 寛永寺の闇の向こうで、江戸の町が眠っている。

 五日後。

 江戸城登城の日。

 若年寄暗殺。

 大久保家。

 矢代左馬之助。

 そして、奪われた志乃。

 もはや迷っている時ではなかった。

 新之介は刀を納めた。

「源太郎を呼びます」

「奉行所を動かすか」

「はい」

「父君はどうする」

 新之介は一瞬だけ沈黙した。

 だが、すぐに答えた。

「叱責は受けます」

「家は」

「守ります」

「義は」

「捨てません」

 玄斎は満足げに頷いた。

「少しは武士らしい顔になった」

 夜風が吹いた。

 血と煙と白檀の香りが混じっていた。

 新之介はその匂いを胸に刻んだ。

 武士とは何か。

 答えはまだ遠い。

 だが一つだけ分かった。

 答えは、座敷の上では得られない。

 火の中で、血の中で、人を守ろうとする己の手の中にしかない。

 五日。

 それだけが、江戸に残された猶予であった。

(第五章へ続く)

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