鈴木光司を模倣し、エリサ・ラム事件モチーフにした完全オリジナルホラー小説『水槽の女』第二十一章

目次

第二十一章 七番タンク

 船の下から、海が上がってきた。

 ざああああ。

 ざああああ。

 それは波音ではなかった。

 巨大な生き物が、船腹を内側から舐め上げているような音だった。

 悠真は、真帆の手から受け取った鍵を握りしめた。

 タグには、錆びた文字でこう刻まれている。

《BALLAST 7》

 七番バラストタンク。

 佐伯は洗面所の入口で、廊下の奥を睨んでいた。

 赤い非常灯の下で、中年男の影が揺れている。

 相原真帆を追い、閉じ込め、船の底へ隠した男。

 彼は、まだこちらを見ていた。

「開けるな」

 男の声は、船内放送のように廊下全体へ響いた。

「開ければ、船が沈む」

 悠真は答えなかった。

 佐伯が低く言う。

「行きましょう」

 二人は廊下へ出た。

 真帆のバッグと上着は、洗面台の上に残されている。

 まるで、そこに置かれた瞬間から時間が止まっているようだった。

 廊下の水位は、くるぶしまで上がっていた。

 海水だった。

 冷たい。

 塩の匂い。

 白蘭の井戸水とも、秩父の貯水槽とも、福島の便槽とも違う。

 これは、流れる水の匂いだった。

 だが、この船の中では流れない。

 閉じ込められ、タンクに溜められ、船の重さとして利用される水。

 海でありながら、閉じた水。

 佐伯が船内図を見た。

「バラスト制御室は下層です。エンジンルームのさらに奥」

「そこまで行けるのか」

「普通なら乗客は行けません」

「普通の船じゃない」

「ええ」

 その時、船内放送が再び鳴った。

『お客様にご案内いたします』

 女の声。

 相原真帆の声ではない。

 もっと古い、事務的な声。

『船内で行方不明者を発見した場合は、係員へお知らせください』

 ノイズ。

『ただし、海へ返されたものは、発見物に含まれません』

 放送が切れた。

 佐伯が顔をしかめる。

「船側の記録ですね」

「隠すためのアナウンスか」

「あるいは、この船そのものの言葉です」

 階段を下りる。

 BデッキからCデッキへ。

 さらに下へ。

 乗客の姿は消えていた。

 さっきまでロビーにいた人々はどこへ行ったのか。

 廊下には誰もいない。

 ただ、濡れた足跡だけが続いている。

 女の足跡。

 裸足ではない。

 ヒールの跡。

 相原真帆。

 その足跡を辿る。

 階段の途中、壁に古いポスターが貼られていた。

《快適な船旅を、北星丸で》

 笑顔の家族。

 青い海。

 白い船。

 そのポスターの海だけが黒く濡れていた。

 水滴が垂れ、絵の中の家族の顔を滲ませている。

 下層へ行くほど、音が大きくなる。

 エンジンの低い唸り。

 水の流入音。

 金属が軋む音。

 そして、時折混じる女の声。

「ここ」

 遠くで聞こえる。

「ここにいる」

 佐伯が足を止めた。

「聞こえました?」

「ああ」

「近い」

 階段を降り切ると、そこは乗客区域ではなかった。

 灰色の金属通路。

 配管。

 バルブ。

 警告灯。

 床には海水が流れている。

 壁に赤い文字。

《関係者以外立入禁止》

 その下に、誰かが爪で刻んだような文字。

《私は関係者ではない》

 悠真は文字に触れた。

 まだ湿っている。

 真帆は乗客だった。

 船の底にいるはずのない人間。

 だからこそ、見つけられなかった。

 佐伯が通路の奥を照らす。

 そこに鉄扉があった。

 鍵穴。

 タグと同じ文字。

《BALLAST CONTROL》

 悠真が鍵を差し込む。

 回る。

 扉が開いた。

 中は制御室だった。

 古い計器盤。

 配管の図面。

 赤と青のバルブ。

 壁には、バラストタンクの配置図がある。

 一番から八番まで。

 七番だけ、赤い印がついていた。

 その横に、手書きの文字。

《開放禁止》

 佐伯が図面を調べる。

「七番タンクは右舷後方。ここから通路で行けます」

 悠真は制御盤を見た。

 七番タンクの水位計だけが、振り切れている。

 満水。

 いや、針は満水の目盛りを超えている。

 あり得ない位置まで。

 その計器のガラス面に、女の顔が映った。

 真帆。

 彼女は口を動かす。

 ――急いで。

 その瞬間、制御室の扉が背後で閉まった。

 中年男がそこに立っていた。

 さっきよりも輪郭がはっきりしている。

 濃紺のコート。

 濡れていない革靴。

 そして、ひどく普通の顔。

 普通だからこそ、恐ろしかった。

「鍵を返せ」

 男が言った。

 佐伯が録音機を向ける。

「あなたの名前は」

 男は答えない。

 悠真は言った。

「相原真帆さんを閉じ込めたのは、あなたですね」

「知らない女だ」

「知らない女を追ったのか」

「酔っていただけだ」

「何をした」

 男は笑った。

「何もしていない。少しからかっただけだ。女が騒いだ。だから静かな場所に入れた。それだけだ」

 佐伯の指が録音機を握る。

「七番タンクに?」

「一時的にだ」

「一時的?」

「あとで出すつもりだった」

 男の顔が少し歪んだ。

「だが、船員に見つかりそうになった。騒ぎになれば困る。私は会社の人間だった。大事な商談があった。たかが女一人で、人生を壊されるわけにはいかなかった」

 悠真の中で怒りが静かに固まった。

 この男も同じだ。

 大槻宗一。

 藤倉昭二。

 安西重治。

 皆、同じ言葉を違う形で言う。

 自分を守るため。

 家を守るため。

 村を守るため。

 仕事を守るため。

 そのために、誰かを水へ沈める。

 男は続けた。

「海に出れば、誰も分からない。船は広い。海はもっと広い」

「真帆さんは海に落ちていない」

 悠真が言うと、男の目が細くなった。

「そうだ。だから困った」

 制御室の照明が揺れる。

 男の背後に、若い男の影が現れた。

 真帆を追っていたもう一人。

 怯えた若い男。

 彼は口を開いた。

「僕は止めようとした」

 またその言葉。

 悠真はその影を見た。

「止めたのか」

 若い男は黙った。

「誰かに知らせたのか」

 沈黙。

「タンクを開けたのか」

 若い男の影は、首を横に振った。

 中年男が笑う。

「共犯だ」

 若い男の影は震えた。

「違う……僕は……」

「黙っていた者も、同じ船に乗っている」

 その言葉で、若い男の影が崩れた。

 床の海水へ溶ける。

 佐伯が低く言う。

「この若い男も、七年後に消えた乗客の一人かもしれません」

「黙っていた罪で?」

「白蘭もそうでした。見るだけの人間も、記録に引き込まれる」

 中年男が一歩近づく。

「鍵を返せ。七番を開けるな」

 悠真は鍵を握りしめた。

「真帆さんは、船から出してほしいと言った」

「出せるものか。出せば、海が知る」

「もう知ってる」

 その瞬間、船体が大きく傾いた。

 制御盤の警報が鳴る。

 赤いランプ。

 七番タンクの水位計が激しく震える。

 壁のスピーカーから真帆の声。

『右舷、七番、開放してください』

 船内放送のように響く。

『乗客が一名、残っています』

 中年男が叫ぶ。

「違う! 残っていない! 消えたんだ!」

 悠真は制御室を飛び出した。

 佐伯が続く。

 金属通路を走る。

 背後から中年男の足音。

 コツ。

 コツ。

 速い。

 追ってくる。

 通路の奥に、丸いハッチがあった。

《BALLAST 7》

 鍵を差し込む。

 だが回らない。

 錆びついている。

 佐伯が工具を出す。

「時間がかかります!」

 背後から男が近づく。

「開けるな!」

 通路の照明が消える。

 赤い非常灯。

 水位が上がる。

 足首。

 膝。

 海水が通路に満ちていく。

 ハッチの向こうから、爪音がした。

 カリ。

 カリ。

 福島の便槽と同じ音。

 だがこちらは、金属の内側からだった。

 カリ。

 カリ。

 女の声。

「ここ」

 悠真は鍵を両手で握り、体重をかけた。

 回らない。

 中年男がすぐ背後に迫る。

 佐伯が男に体当たりした。

 二人は海水の中に倒れる。

「岸本さん、開けて!」

 悠真は叫びながら鍵を捻った。

 手の皮が裂ける。

 血が海水に溶ける。

 その血が鍵穴へ入った瞬間、鍵が回った。

 ガチン。

 ハッチが開いた。

 中から、凄まじい水圧が押し寄せた。

 悠真は吹き飛ばされそうになった。

 だが、水は外へ噴き出さなかった。

 逆に、タンクの中へ吸い込まれていく。

 通路の海水も。

 赤い非常灯の光も。

 中年男の影も。

 すべて七番タンクへ向かって流れ込む。

 ハッチの向こうは、巨大な暗闇だった。

 水で満たされた金属の部屋。

 その中央に、女が浮いていた。

 相原真帆。

 彼女は二十九年前の姿のまま、目を開けている。

 髪が水中で広がり、白いブラウスが揺れている。

 だが、腐敗していない。

 時間が止まっている。

 真帆はゆっくりと口を開いた。

 水中なのに、声が聞こえた。

「海に返さないで」

 悠真は頷いた。

「船から出す」

 佐伯がハッチの横にある排水バルブを見つける。

「これを開けば、タンク内の水が外へ出ます」

「真帆さんも海へ流れるんじゃないのか」

「分かりません」

 真帆の声。

「違う」

 ハッチの内側から、白い手が伸びる。

 その手には、小さな手帳が握られていた。

 社員手帳。

 相原真帆のもの。

 中に、メモが挟まっている。

《船内で見た男の名》

 そこに中年男の名前があった。

 葛西隆之。

 大手商社勤務。

 もう一人の若い男の名も。

 松野圭。

 真帆は、襲われる前に男たちの名前を記録していた。

 だから消された。

 悠真は手帳を受け取った。

 その瞬間、中年男、葛西隆之が絶叫した。

「返せ!」

 彼は佐伯を突き飛ばし、手帳へ手を伸ばす。

 だがタンクの中から、真帆の手が伸びた。

 葛西の手首を掴む。

 葛西の顔が恐怖に歪む。

「やめろ! 私は悪くない! 酔っていただけだ!」

 真帆の声は静かだった。

「名前を、書いた」

 葛西の身体が水中へ引き込まれる。

 彼は必死にハッチの縁を掴む。

「海に落ちたんだ! 女は海に落ちた! そういうことになった!」

 悠真は手帳を開き、声に出した。

「相原真帆は、一九九四年十月、北星丸船内で葛西隆之と松野圭に追われ、七番バラストタンクへ閉じ込められた。海上転落ではない」

 タンクの中で、真帆の目が閉じられる。

 佐伯が続ける。

「葛西隆之は、相原真帆の失踪を隠蔽した」

 葛西の指がハッチから剥がれる。

「やめろ! 残すな!」

 また同じ言葉。

 消せではない。

 残すな。

 罪を正しく残されることを恐れる声。

 真帆が葛西をタンクの奥へ引いた。

 水中に沈む直前、葛西の顔が老人の顔へ変わった。

 長い年月を逃げ延びた顔。

 だが最後には、記録から逃げられなかった。

 葛西は消えた。

 同時に、七番タンクの水が透明になった。

 真帆の身体も薄くなる。

 彼女はハッチの向こうから、悠真を見た。

「ありがとう」

「松野圭は?」

 佐伯が訊いた。

 真帆は少し悲しそうに目を伏せた。

「七年後、戻った」

 黙っていた若い男。

 彼は七年後、この船に戻り、消えた。

 真帆が連れていったのか。

 それとも、罪が彼を戻したのか。

 答えはなかった。

 真帆は最後に言った。

「海は、流す。でも、船は覚える」

 彼女の姿が水の中でほどけていく。

 手帳だけが、悠真の手に残った。

 その時、船全体が大きく揺れた。

 警報。

 アナウンス。

『七番タンク、開放』

『記録、復旧』

『乗客一名、発見』

 金属通路が白い光に包まれる。

 悠真は佐伯の腕を掴んだ。

 水が引いていく。

 海水も、非常灯も、船の幻も。

 すべて消えていく。

 次に目を開けた時、二人は新潟港の待合室にいた。

 朝だった。

 窓の外に、北星丸はいない。

 代わりに現代のフェリーが停泊している。

 悠真の手には、濡れた社員手帳。

 相原真帆の名前。

 葛西隆之と松野圭の名前。

 佐伯の録音機には、通路での会話が残っていた。

 待合室のテレビで、朝のニュースが流れている。

 画面の下に、小さな速報。

《旧フェリー解体場で人骨発見 船体内タンクから》

 佐伯が息を呑む。

 悠真はテレビを見つめた。

 船はもう廃船になっていた。

 だが七番タンクは、どこかの解体場で今、開いたのだ。

 真帆は海ではなく、船から出た。

 スマートフォンが震える。

 白い文字。

《四つ、返った》

 少し間を置いて、次の文字。

《底は近い》

 悠真は海を見た。

 朝の日本海は静かだった。

 だが、その静けさの奥に、まだ何かが沈んでいる。

 佐伯が言った。

「兄のHDDに、最後のフォルダがあります」

 悠真は聞いた。

「名前は」

 佐伯は画面を見せた。

《MOTHER_SOURCE》

 その下に、一行。

《すべての水音は、最初の母へ戻る》

 悠真は息を止めた。

 白蘭の少女。

 秩父の母子。

 福島の先生。

 フェリーの女。

 そして、最初の母。

 海の向こうで、低い声がした。

 女の声とも、波の音ともつかない声。

「帰っておいで」

 その声を聞いた瞬間、悠真のスマートフォンに母から着信が入った。

(第22章につづく)

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