鈴木光司を模倣し、エリサ・ラム事件モチーフにした完全オリジナルホラー小説『水槽の女』第二十章

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第二十章 流れる水

 山の中で、波の音がした。

 ざあ。

 ざあ。

 ざあ。

 都路の集落に海などない。

 見えるのは杉林と畑と、低く垂れ込めた雲だけだった。

 それでも、音は確かに聞こえた。

 遠くではない。

 足元からだった。

 土の下。

 納屋の床下。

 便槽へ続く暗い管のさらに下。

 そこから、波が寄せては返す音がしている。

 佐伯は兄のHDDを抱えたまま、青ざめた顔で画面を見ていた。

《FERRY_MISSING_1994》

《船から消えた女。海は流れるのに、なぜ戻るのか》

 悠真はその一文を何度も読み返した。

 白蘭は井戸。

 秩父は貯水槽。

 福島は便槽。

 どれも閉じた場所だった。

 蓋をされ、沈められ、見えない場所にされた水。

 だが海は違う。

 海は流れる。

 広がる。

 隠しても、いずれどこかへ漂着する。

 それなのに、なぜ戻るのか。

 佳代子が不安そうに訊いた。

「まだ、続くのですか」

 悠真は答えられなかった。

 終わったはずだった。

 片桐修一の声は届いた。

 汚名は剥がれた。

 安西の息子も証言すると言った。

 だが、終わりは次の扉を開けるだけだった。

 佐伯が低く言った。

「これは兄の最初の調査かもしれません」

「最初?」

「白蘭より前。秩父より前。福島より前に、兄はこのフェリー失踪を追っていた形跡があります」

「どこだ」

 佐伯はHDD内のメモを開いた。

 短い文章が表示される。

《一九九四年十月。新潟発小樽行きフェリー。深夜、女性客が船内から消える。遺留品は洗面所に残る。防犯映像なし。海上転落として処理。ただし、七年ごとに同じ航路で“濡れた女”の目撃あり》

 悠真は胸の奥が冷えるのを感じた。

 七年。

 また数字が戻ってきた。

 佐伯は続けた。

「失踪者の名前は、相原真帆。当時二十九歳」

「真帆……」

 その名前を口にした瞬間、波の音が止まった。

 代わりに、どこかで船の汽笛が鳴った。

 長く、低い音。

 ボオオオオ――。

 山の空気が震えた。

 佳代子が両手で耳を塞いだ。

「船の音……?」

 悠真のスマートフォンが震えた。

 画面に白い文字。

《乗れ》

 佐伯の画面にも同じ文字。

《最終便》

 その下に、日付と時刻が表示された。

 今夜二十三時三十分。

 新潟港発。

 小樽行きフェリー。

 悠真は思わず笑った。

 怖いからではない。

 あまりにも露骨だったからだ。

「今夜だと」

 佐伯が時刻表を検索しようとする。

 だが画面は白く曇り、検索結果の代わりに黒い海面だけが映った。

「調べるな、ということですか」

「いや、乗れと言ってる」

「罠でしょうね」

「たぶん」

「それでも行くんですね」

 佐伯の声には、もう止める気配がなかった。

 悠真は頷いた。

「行く」

 佳代子が立ち上がった。

「私はここで修一さんのことを話します。警察にも、記者にも。あなたたちは、次の声を聞きに行ってください」

 悠真は佳代子を見た。

 彼女はもう怯えていなかった。

 昨日まで便槽の奥の声に苦しめられていた女性ではない。

 聞くべき声を聞き、語るべきことを選んだ人の顔だった。

「無理はしないでください」

 佳代子は小さく笑った。

「逃げる方が、ずっと無理でした」

 その言葉を残して、彼女はカセットテープを胸に抱いた。

 悠真と佐伯は、その日のうちに新潟へ向かった。

 移動中、佐伯は兄のHDDに残された資料を読み続けた。

 相原真帆。

 東京の出版社勤務。

 休暇で北海道へ向かう途中だった。

 乗船後、売店で飲み物を買っている姿を複数の乗客が目撃。

 深夜一時過ぎ、女性用洗面所にバッグと上着が残されているのが発見された。

 甲板から転落した可能性があるとされたが、目撃者はいない。

 遺体は見つからなかった。

 失踪後、同じ航路で奇妙な噂が出る。

 深夜、洗面所の鏡に濡れた女が映る。

 誰もいない甲板から、女の靴音が聞こえる。

 船室のドアの下から海水が流れ込む。

 そして。

 七年ごとに、乗客が一人消える。

 悠真は窓の外を見た。

 高速道路の向こうに、日本海が近づいている。

 空は暗く、海は鉛色だった。

「七年ごとというのは?」

 佐伯は資料をめくる。

「二〇〇一年、二〇〇八年、二〇一五年、二〇二二年。いずれも公式には転落、失踪、下船後行方不明などと処理されています」

「次は二〇二九年じゃないのか」

「本来なら」

「じゃあ、なぜ今呼ばれる」

 佐伯は画面を見つめた。

「周期が崩れたのかもしれません」

「白蘭の件で?」

「水の記録を開いたから」

 悠真は黙った。

 三つ、返った。

 白蘭、秩父、福島。

 閉じられた水の記録が開かれるたび、別の水が反応している。

 今度は海。

 閉じていない水。

 だが、船という空間は閉じている。

 海の上で逃げ場のない、移動する密室。

 新潟港に着いたのは、夜十時過ぎだった。

 港の灯りが雨に滲んでいる。

 巨大なフェリーが岸壁に停泊していた。

 白い船体。

 黒い海。

 船名は、北星丸。

 佐伯の資料にある船名と同じだった。

 だが、奇妙だった。

 この船はすでに引退しているはずだと、佐伯が言った。

「兄の資料では、北星丸は二〇〇九年に廃船になっています」

「じゃあ、あれは何だ」

 港には乗客がいた。

 旅行者。

 トラック運転手。

 学生らしい若者。

 家族連れ。

 皆、普通に乗船を待っている。

 だが、どこか薄い。

 顔色が悪いわけではない。

 存在感が薄い。

 まるで古い写真の中の人間のようだった。

 チケット売り場で、二人の名前を告げる前に係員が切符を差し出した。

「岸本悠真様、佐伯律様ですね」

 悠真は係員を見る。

「予約していません」

「承っております」

 係員の顔は無表情だった。

 切符には、客室番号が印字されている。

 B-213。

 二時十三分。

 佐伯が小さく息を吐いた。

「いつもの数字ですね」

 乗船口へ向かう。

 タラップを渡る時、悠真は海を見下ろした。

 黒い水面。

 その中に、女の顔が映っていた。

 水に濡れた髪。

 白い顔。

 相原真帆。

 そう思った。

 だが、その目は助けを求めているようには見えなかった。

 むしろ、何かを警告していた。

 ――降りて。

 唇がそう動いた気がした。

 だが、もう遅い。

 二人は船内へ入った。

 ロビーは明るかった。

 売店。

 案内所。

 自動販売機。

 ソファでくつろぐ乗客たち。

 普通のフェリーに見える。

 だが床が少し濡れていた。

 海水ではない。

 淡水でもない。

 冷たく、指に触れると少し粘つく。

 佐伯が言った。

「船内図を確認しましょう」

 壁の案内図を見る。

 Bデッキ。

 客室。

 大浴場。

 レストラン。

 ゲームコーナー。

 女性用洗面所。

 その横に、赤い印がついていた。

 本来、案内図にそんな印はないはずだった。

 赤い丸。

 洗面所。

 相原真帆の遺留品が見つかった場所。

 出航の汽笛が鳴った。

 長い音。

 船体が震える。

 岸壁が離れていく。

 新潟の灯りが少しずつ遠ざかる。

 その瞬間、船内アナウンスが流れた。

『本日は、北星丸にご乗船いただきありがとうございます』

 女性の声。

 古い録音のような声だった。

『当船は、これより小樽へ向かいます』

 ノイズ。

『なお、深夜一時十三分以降、甲板へは出ないでください』

 乗客たちは誰も反応しない。

 アナウンスは続く。

『海は、返します』

 そこで切れた。

 悠真と佐伯は顔を見合わせた。

 客室B-213は、狭い二等寝台だった。

 二段ベッド。

 小さな机。

 丸い窓。

 窓の外には黒い海。

 机の上に、古い女性用のバッグが置かれていた。

 濡れている。

 中には、財布。

 ハンカチ。

 出版社の社員証。

 相原真帆。

 そして、未投函の絵葉書。

 宛先は空白。

 裏に一文。

《私は降りていない》

 悠真は絵葉書を机に置いた。

「また“場所”だ」

 佐伯が言った。

「転落ではない。下船でもない。船内にいる」

 その時、部屋のドアの下から水が流れ込んできた。

 ゆっくりと。

 海水の匂い。

 廊下から、女の靴音が聞こえる。

 コツ。

 コツ。

 コツ。

 ドアの前で止まった。

 ノックはない。

 ただ、女の声がした。

「返さないで」

 悠真はドアへ近づく。

 佐伯が止める。

「開けない方がいい」

「でも、呼んでいる」

「今回は違います。彼女は“返して”じゃなく“返さないで”と言っている」

 悠真は手を止めた。

 確かに違う。

 白蘭も秩父も福島も、何かを返す物語だった。

 名前。

 声。

 場所。

 だが真帆は言う。

 返さないで。

 何を。

 誰を。

 ドアの外の女がもう一度言った。

「海に、返さないで」

 その瞬間、船内の照明が消えた。

 非常灯だけが赤く光る。

 廊下の奥から、男たちの声が聞こえた。

 酔った笑い声。

 怒鳴り声。

 そして、女の悲鳴。

 佐伯が録音機を構える。

 悠真はドアを開けた。

 廊下は、二十九年前の船内になっていた。

 壁紙が古い。

 照明が黄色い。

 床には海水。

 その先を、相原真帆が走っている。

 濡れていない。

 まだ生きている。

 彼女は後ろを振り返りながら、女性用洗面所へ駆け込む。

 その後を、男が二人追っていく。

 船員の制服ではない。

 乗客。

 一人は中年。

 もう一人は若い。

 悠真と佐伯は走った。

 洗面所の前で、時間が止まる。

 中から争う音。

 鏡が割れる音。

 男の声。

「騒ぐな」

 真帆の声。

「やめて!」

 そして、別の声。

 低い女の声。

「海に返せば、なかったことになる」

 悠真は洗面所のドアを開けた。

 中は暗い。

 鏡が割れている。

 洗面台に、真帆のバッグと上着。

 床には血ではなく、海水が広がっている。

 奥の個室のドアが閉まっている。

 内側から、真帆の声がした。

「開けないで」

 悠真は止まった。

 佐伯が小声で言う。

「どうします」

 個室の下から、黒い海水が流れ出す。

 その水面に、男二人の姿が映る。

 彼らは真帆を殺していない。

 少なくとも、その場では。

 彼女を閉じ込めた。

 誰にも見つからない場所へ。

 個室の中から、真帆が言う。

「私は、海に落ちていない」

「じゃあ、どこにいる」

 悠真が訊く。

 沈黙。

 船体が大きく揺れた。

 そして、真帆は答えた。

「船の中」

 洗面所の鏡の破片が、一斉に震えた。

 その一つに、船の断面図が映る。

 客室でも甲板でもない。

 エンジンルームの奥。

 使われていない貯水タンク。

 いや、海水バラストタンク。

 船の姿勢を保つために海水を入れる場所。

 そこに、何かが沈んでいる。

 佐伯が息を呑む。

「返してはいけないって……」

「海へ遺棄されたんじゃない」

 悠真は言った。

「船の中に隠されたまま、船ごと廃船になった」

 だから海は流れるのに戻る。

 真帆は海にいない。

 船内にいる。

 船が存在しない今も、記録の中の北星丸に閉じ込められている。

 その時、洗面所の入口に男が立った。

 中年の乗客。

 映像の中で真帆を追っていた男。

 彼は濡れていない。

 生きた人間のように見える。

 だが目が暗い。

「余計なことをするな」

 男は言った。

「女一人が消えただけだ」

 悠真は怒りで喉が詰まった。

 男の背後に、もう一人の若い男。

 彼は怯えている。

 中年男が続ける。

「海に出れば、何でも流れる。証拠も、声も、名前も」

 個室の中から、真帆の声がした。

「流れていない」

 船が大きく傾いた。

 廊下の水が一気に洗面所へ流れ込む。

 中年男の足元に、無数の手が現れた。

 海からではない。

 船の底から。

 七年ごとに消えた者たちの手。

 中年男は叫んだ。

「返すな! あれを開けるな!」

 悠真のスマートフォンが光った。

《バラストタンクへ》

 佐伯が頷く。

「行きましょう」

 洗面所の個室のドアが、少しだけ開いた。

 隙間から、白い手が出てきた。

 真帆の手。

 その手には、鍵が握られていた。

 古い船内鍵。

 タグには、こう書かれている。

《BALLAST 7》

 七番バラストタンク。

 悠真は鍵を受け取った。

 真帆の声が、耳元で囁いた。

「海に返さないで。私を、船から出して」

 次の瞬間、船内放送が鳴った。

『深夜一時十三分となりました』

 ノイズ。

『これより、甲板を閉鎖します』

 さらに低い声。

『タンクを開放します』

 船の下から、巨大な水音が響いた。

 ざああああ。

 ざああああ。

 海が、船内へ上がってくる音だった。

(第21章につづく)

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