第十九章 押した者の家
都路へ戻る道は、前日よりも暗く見えた。
朝であるはずなのに、山の稜線には灰色の雲が低く垂れ込めていた。レンタカーのフロントガラスには、細かな雨粒が張りついている。
運転席に佐伯。
助手席に悠真。
後部座席に宮原佳代子。
佳代子は膝の上で、カセットテープを両手で包んでいた。
《先生へ》
片桐修一の声が入ったテープ。
それは、遺品というより、まだ温度を持った手紙のようだった。
「安西重治の家は、村の北側です」
佳代子が静かに言った。
「当時は大きな農家でした。校長先生の実家筋で、村では逆らえる人が少なかった」
佐伯が尋ねる。
「安西本人は亡くなっているんですね」
「ええ。十年ほど前に。ただ、息子さんが住んでいるはずです」
「息子さんは事件のことを?」
佳代子は首を振った。
「分かりません。でも、知らないはずがないと思います」
車内に沈黙が落ちた。
知らないはずがない。
その言葉は重かった。
村の沈黙は、一人の犯人だけで作られるものではない。知っていた者、薄々気づいていた者、噂で聞いた者、けれど口を閉ざした者。そういう人間たちが、何十年もかけて一つの蓋を作る。
便槽の蓋。
納屋の蓋。
家の蓋。
記憶の蓋。
村に入ると、空気が変わった。
昨日よりも静かだった。
人影はほとんどない。
畑の脇に立つ案山子だけが、雨に濡れて黒く沈んでいる。
安西家は、集落の外れにあった。
大きな農家だった。
瓦屋根。
広い庭。
古い納屋。
母屋の横には、使われなくなった牛小屋のような建物もある。
その全体が、山の陰に押し込められているように見えた。
庭先に車を停める。
佐伯が録音機を確認した。
悠真はノートをポケットに入れた。
佳代子はテープを握りしめる。
玄関へ向かう前に、悠真は納屋を見た。
古い板戸。
錆びた金具。
戸の下に、黒い染みがある。
水ではない。
だが、湿っている。
佐伯もそれに気づいた。
「先に母屋へ」
悠真は頷いた。
玄関の呼び鈴を押す。
しばらくして、戸が開いた。
出てきたのは、六十代くらいの男だった。
痩せているが、骨格はがっしりしている。
目元に、安西重治の面影があった。
「どちらさんですか」
警戒心を隠さない声だった。
佳代子が一歩前へ出た。
「宮原です。昔、この村の小学校に勤めていました」
男の顔がわずかに変わった。
すぐに無表情へ戻したが、その一瞬を悠真は見逃さなかった。
「何の用です」
「片桐修一さんのことで伺いました」
男は戸を閉めようとした。
佐伯が素早く言った。
「お父様の安西重治さんについても」
戸が止まった。
男の目が鋭くなる。
「帰ってください」
悠真は言った。
「片桐さんは覗き犯ではありませんでした」
「知りません」
「あなたは知っている」
男は悠真を睨んだ。
「よそ者が、昔の話を掘り返すな」
「昔の話じゃない」
悠真は庭の納屋を指した。
「まだ、あそこから声がする」
その瞬間、母屋の奥で何かが鳴った。
カリ。
カリ。
カリ。
男の顔から血の気が引いた。
佳代子が震えた。
佐伯が録音機のスイッチを入れる。
音は、家の中から聞こえていた。
廊下の奥。
床下。
いや、もっと深い場所。
カリ。
カリ。
カリ。
男は叫んだ。
「やめろ!」
誰に向かって言ったのか分からない。
悠真たちではない。
家そのものへ向かって叫んだように見えた。
「毎晩ですか」
佐伯が静かに訊いた。
男は答えなかった。
「毎晩、聞こえているんですね」
「帰れ!」
「片桐修一さんの声ですか」
男は戸を閉めようとした。
その時、玄関の土間の下から、若い男の声がした。
「押した」
男の手が止まった。
声は続いた。
「お前の父親が、押した」
佳代子が涙をこらえるように目を閉じた。
安西の息子は、ゆっくりと後退した。
「……入れ」
母屋の中は暗かった。
昼間なのに、雨戸が閉められている。
廊下の床板は古く、踏むたびに湿った音を立てた。
座敷へ通される。
仏壇には、安西重治の遺影があった。
厳しい顔つきの男。
映像の中で片桐を蹴っていた男。
その顔が、黒い額縁の中からこちらを見下ろしている。
息子は座布団も出さず、畳に座った。
「父は死んだ。もう何も言えない」
「でも、家は覚えている」
悠真が言うと、息子は唇を噛んだ。
「何を聞きたい」
「事件の夜、片桐修一さんはこの家に来ましたね」
息子は黙った。
「納屋で暴行された」
「俺は子供だった」
「見たんですね」
息子の目が揺れた。
その時、仏壇の奥から、コツ、と音がした。
位牌が揺れている。
安西重治の位牌。
佐伯が録音機を近づける。
悠真は息子を見た。
「話してください」
息子は両手を握りしめた。
「俺は……二階にいた。夜中に怒鳴り声が聞こえた。父と村の男たちが、若い男を連れてきた」
「片桐さんですね」
「たぶん。顔はよく見えなかった。殴られて、血だらけだった」
佳代子の肩が震えた。
息子は続ける。
「父は、あの先生が村を乱したと言っていた。若い女が一人で来たから、男たちがおかしくなるんだと」
佳代子は唇を噛んだ。
悠真の中に怒りが湧いた。
何もかも同じだ。
加害者は、被害者のせいにする。
女が悪い。
若いから悪い。
一人でいたから悪い。
そして、彼女を守ろうとした片桐を、汚名で殺した。
「その後は」
「納屋へ運ばれた。俺は窓から見ていた。父が……古い汲み取り用の管を指していた」
佐伯が身を乗り出した。
「その管はどこに?」
息子は納屋の方を見た。
「まだある」
その瞬間、仏壇の位牌が倒れた。
音を立てて。
安西の息子はびくっと震えた。
仏壇の中から、低い声がした。
「言うな」
安西重治の声。
佳代子は顔を上げた。
息子は真っ青になっている。
「父さん……」
「言うな」
仏壇の遺影の口元が、わずかに動いた。
悠真は録音機を遺影へ向けた。
「安西重治。あなたが片桐修一さんを殺害し、便槽に遺棄したんですね」
遺影の中の男が笑った。
「村を守った」
佳代子が震える声で言った。
「何からですか」
遺影の目が佳代子を見る。
「お前からだ」
部屋の空気が一気に冷えた。
「女が一人で来て、村を乱した。若い男どもが浮ついた。噂が立った。学校も、村も、壊れるところだった」
佳代子は黙って聞いていた。
かつてなら、その言葉で傷つき、逃げ出したのかもしれない。
だが今の彼女は逃げなかった。
「壊したのは、あなたです」
静かな声だった。
安西の遺影が歪んだ。
「黙れ」
「私は何もしていません。修一さんも何もしていません。あなたたちが、勝手に欲望を向け、勝手に恥じ、勝手に隠したんです」
部屋全体が揺れた。
畳の隙間から、黒い泥水が滲み出す。
便槽の臭い。
息子が立ち上がろうとしたが、足が動かない。
畳の下から白い手が伸び、彼の足首を掴んでいた。
片桐の手ではない。
もっと黒ずんだ、何人もの手。
村の下に溜まっていた沈黙の手。
悠真は叫んだ。
「納屋へ!」
佐伯が佳代子を支え、座敷を飛び出す。
息子も必死に足を引き抜いて続いた。
背後で、仏壇が倒れる音がした。
遺影の男の声が追ってくる。
「掘るな! 開けるな!」
納屋の戸は重かった。
息子が震える手で鍵を開ける。
中は暗く、湿っていた。
古い農具。
藁。
錆びた機械。
そして奥の床に、コンクリートの円形蓋があった。
教員住宅跡の蓋と同じ爪跡。
カリ。
カリ。
カリ。
佐伯がライトを向ける。
蓋の周囲に、古い血のような黒い染みがある。
佳代子が息を詰める。
「ここで……」
息子は頷いた。
「父は、ここから押し込めた」
「どこへつながっている」
佐伯が訊く。
息子は首を振った。
「分からない。昔の排水管だと聞いている。でも父は、あの夜、ここを“下の道”と呼んでいた」
下の道。
悠真は蓋に手をかけた。
その瞬間、納屋の梁に吊るされた古い縄が揺れた。
風はない。
縄の先に、安西重治の影が現れる。
濡れた作業服。
泥に汚れた手。
「開けたら戻ってくるぞ」
悠真は言った。
「戻ってくればいい」
佐伯と二人で蓋を開ける。
中から、強烈な臭気が上がった。
佳代子が口を押さえる。
暗い穴。
細い土管が横へ伸びている。
人が通れる太さではない。
だが、その中に、片桐修一は押し込められた。
いや、現実の管だけではない。
村の下にある“隠すための道”が、彼を便槽へ運んだ。
穴の中から声がした。
「ここだ」
初めて、「ここじゃない」ではなかった。
片桐の声。
「ここから、押された」
佳代子は膝をついた。
「修一さん……」
穴の奥に、若い男の顔が見えた。
苦痛に歪んではいない。
ただ、ひどく疲れた顔。
彼は佳代子を見た。
「先生は、悪くない」
佳代子は泣いた。
「ありがとう……ごめんなさい……」
片桐の顔が少しだけ穏やかになる。
だが、その背後から安西重治の声が響いた。
「俺は悪くない」
穴の奥の暗闇が膨らむ。
安西の影が、土管いっぱいに詰まる。
「村を守った。家を守った。男の面子を守った」
悠真は穴へ向かって言った。
「あなたが守ったのは、自分の罪だけです」
佐伯が録音機を穴へ近づける。
佳代子がカセットテープを置く。
息子が震えながら言った。
「父さん。もうやめてくれ」
安西の影が息子を見る。
「お前まで裏切るのか」
息子は涙を流していた。
「俺は、ずっと聞こえてた。床下で爪を立てる音が。父さんが死んでから、毎晩だ。もう耐えられない」
「黙れ!」
「俺は見た。あの夜、父さんが片桐さんを蹴ったのを見た。管に押し込んだのを見た。先生のせいにしろと言ったのを聞いた」
その証言が、納屋の中に響いた。
録音機の赤いランプが点滅している。
安西の影が大きく歪む。
「息子が、父を売るのか」
息子は首を振った。
「違う。父さんが、俺に罪を背負わせていたんだ」
その瞬間、土管の奥から無数の爪音が響いた。
カリカリカリカリカリ。
片桐だけではない。
村の中で黙らされた声。
汚名を着せられた者。
泣き寝入りした者。
告発できなかった者。
その全てが、村の下の道から鳴っている。
悠真はノートを開き、声に出して書くように言った。
「安西重治は、宮原佳代子さんを脅迫していた。片桐修一さんはそれを告発しようとした。安西重治と村の男たちは片桐さんを暴行し、納屋の排水管へ押し込み、教員住宅の便槽内怪死として偽装した」
安西の影が叫ぶ。
「証拠はない!」
佐伯がカセットテープを掲げる。
「声があります」
佳代子が言った。
「私の証言があります」
息子が言った。
「私の証言もあります」
穴の奥から、片桐の声が静かに続いた。
「俺も、いる」
その瞬間、土管の中の闇が割れた。
安西の影が引き裂かれる。
そこから、若い片桐修一が這い出してきた。
体は濡れていない。
汚れてもいない。
あの暗い場所に押し込められる前の姿だった。
彼は佳代子に深く頭を下げた。
「先生。勝てなくて、すみません」
佳代子は泣きながら首を振った。
「あなたは、負けていません」
片桐は少し笑った。
そして息子へ向き直る。
「話してくれて、ありがとう」
息子は嗚咽した。
「すみません……父が……俺も黙って……」
片桐は責めなかった。
ただ、静かに言った。
「もう、下へ流さないでください」
息子は何度も頷いた。
納屋の床下から、風が吹いた。
臭気が薄れていく。
爪音が遠ざかる。
カリ。
カリ。
カリ。
そして、消えた。
穴の底に、白い文字が浮かんだ。
《声は届いた》
片桐の姿が薄くなる。
佳代子が手を伸ばす。
「修一さん」
彼は最後に言った。
「先生、幸せに」
その声を残して、片桐修一は消えた。
納屋には、雨の音だけが残った。
外へ出ると、空が少し明るくなっていた。
山の雲が切れ、薄い光が村に落ちている。
安西の息子は、すべてを話すと言った。
警察にも、記者にも。
佳代子も証言すると言った。
佐伯は録音データを複数の場所へ保存した。
悠真はノートに、最後の一行を書いた。
《片桐修一の声は、宮原佳代子へ届いた》
その時、スマートフォンが震えた。
またかと思った。
だが画面には、白蘭でも、秩父でも、福島でもない文字が表示されていた。
《三つ、返った》
悠真は息を止めた。
三つ。
白蘭。
秩父。
福島。
閉じた水の記録。
だが、すぐに次の文字が浮かんだ。
《まだ、底がある》
佐伯も画面を見ていた。
「兄のHDDに、まだファイルがあります」
悠真は聞きたくなかった。
それでも訊いた。
「次は?」
佐伯の顔が青ざめていた。
「海です」
「海?」
佐伯はスマートフォンを見せた。
ファイル名。
《FERRY_MISSING_1994》
その下に、短い説明。
《船から消えた女。海は流れるのに、なぜ戻るのか》
遠くで、山の中にはあり得ない波の音がした。
ざあ。
ざあ。
ざあ。
悠真は空を見上げた。
雨雲の切れ間に、灰色の光。
その向こうに、一瞬だけ、広い海が見えた気がした。
(第20章につづく)

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