第十八章 先生へのテープ
電話の向こうで、爪音が続いていた。
カリ。
カリ。
カリ。
老いた女性の息遣いが、その音に重なって聞こえる。
『修一さんは、まだあそこにいるのね』
悠真はすぐに訊いた。
「今、どちらにいますか」
『会津です。山の方の、小さな町』
「会いに行ってもいいですか」
電話の向こうで、長い沈黙があった。
その間も、爪音だけは止まらない。
『来てください』
女性はそう言った。
『ただし、テープを持ってきて。私、聞かなければいけないの』
通話はそこで切れた。
佐伯は黙って録音機を見ていた。
カセットテープ。
《先生へ》
その小さなラベルが、夕暮れの車内で妙に白く浮いている。
「罠だと思いますか」
佐伯が言った。
「分からない」
「でも行くしかない」
「ああ」
悠真は空き地の方を見た。
教員住宅の跡。
草の中に埋もれた蓋。
片桐修一は、まだそこから離れられない。
覗き犯という汚名。
村の沈黙。
女性教員へ届かなかった声。
それらが、狭い暗闇の中で三十年以上も爪を立てていた。
夜、二人は会津へ向かった。
山道は暗かった。
レンタカーのヘッドライトだけが、曲がりくねった道を白く照らしている。
佐伯は助手席で、カセットテープの音声を何度も確認していた。
片桐修一の声は、若く、まっすぐだった。
『あなたが悪いんじゃない』
その一言を聞くたび、悠真は胸が詰まった。
守ろうとした男が、死後、覗き犯として語られ続けた。
助けられるはずだった女性は、真相を知らずに村を去った。
水よりも暗いものがある。
それは、汚名だ。
人の名前に泥を塗り、そのまま時効にする。
便槽という場所は、その象徴のようだった。
見たくないもの。
触れたくないもの。
臭いもの。
全部そこに落とし、蓋をする。
だが、蓋の下で声は腐らない。
爪を立て続ける。
会津の町に着いたのは、夜十時を過ぎていた。
女性の家は、山沿いの古い一軒家だった。
玄関灯が一つだけ点いている。
家の前に立つと、悠真はすぐに異変に気づいた。
水の匂いではない。
下水の匂い。
土とアンモニアと古い木が混ざったような、重い匂い。
佐伯が小声で言う。
「ここにも来ています」
玄関の戸が開いた。
現れたのは、小柄な老女だった。
髪は白く、背筋は少し曲がっている。
だが目ははっきりしていた。
「岸本さん?」
「はい」
「佐伯さんも?」
佐伯が頷く。
老女は二人を中へ招いた。
「私は、宮原佳代子と申します」
宮原。
おそらく結婚後の姓だろう。
彼女が、かつて教員住宅に住んでいた女性教員。
片桐修一が守ろうとした人。
居間には、小さな仏壇と古い本棚があった。
壁には、子どもたちと写った写真が何枚も飾られている。
教師としての人生を、ここで続けてきたのだろう。
だが部屋の隅だけが異様だった。
廊下の奥。
トイレの扉。
そこから、かすかな爪音が聞こえている。
カリ。
カリ。
カリ。
佳代子は静かに言った。
「三日前からです。最初は鼠かと思いました。でも、声が聞こえたの」
「何と?」
「ここじゃない、と」
悠真と佐伯は顔を見合わせた。
同じ言葉。
佳代子は畳に正座した。
「私は、長い間、修一さんを恨んでいました」
彼女の声は震えていた。
「信じたくなかった。でも警察も村の人も、皆そう言った。あの人が、私を覗こうとして死んだのだと」
悠真は黙って聞いた。
「私は逃げました。村から。教師も一度辞めました。自分が汚されたような気がして。誰も悪くないと言ってくれなかった」
佐伯がカセットテープを机の上に置いた。
「片桐さんは、あなたに伝えようとしていました」
佳代子はテープを見つめた。
手が震えている。
「怖いわ」
「聞かなくてもいいです」
悠真が言うと、佳代子は首を横に振った。
「いいえ。聞かなかったから、ここまで来たの」
佐伯が再生機にテープを入れた。
古い機械音。
カチ。
ノイズ。
そして、若い片桐修一の声。
『先生。これを聞いているなら、俺はたぶん村を出た後だと思います』
佳代子の目が大きく開く。
彼女は両手で口元を覆った。
『あの人たちがあなたにしていることを、俺は黙っていません。教育委員会にも、新聞にも話します。あなたが悪いんじゃない。悪いのは、脅している連中です』
佳代子の目から涙がこぼれた。
『もし俺に何かあったら、このテープを出してください。俺は、覗きなんかしていません』
再生機が止まった。
部屋は静まり返った。
爪音も止まっていた。
佳代子はしばらく動かなかった。
やがて、深く頭を下げた。
「修一さん……ごめんなさい」
その一言が出た瞬間、廊下の奥でトイレの扉が開いた。
ゆっくりと。
中は暗い。
古い家だが、今は水洗トイレのはずだった。
だが、扉の向こうには、汲み取り式の便所があった。
昭和の教員住宅のトイレ。
狭い床。
和式便器。
黒い穴。
時間が重なっている。
佳代子は震えた。
「あの部屋……」
悠真は立ち上がる。
佐伯が録音機を構えた。
便器の奥から、男の声がした。
「先生」
佳代子が泣きながら立ち上がる。
「修一さん?」
悠真は止めようとした。
だが佳代子は首を振った。
「行かせてください」
彼女はトイレの前に立った。
穴の中から、冷たい風が吹き上がる。
臭いはない。
ただ、狭い場所に長く閉じ込められた空気だけがある。
佳代子は言った。
「修一さん。私は、あなたを信じられませんでした」
穴の奥で、何かが動く。
白い手。
泥ではなく、擦り傷だらけの手。
それが便器の縁にかかった。
悠真は身構えた。
だが手は這い上がってこなかった。
ただ、テープを求めるように開かれている。
佳代子はカセットテープを受け取り、便器の前に置いた。
「あなたの声、聞きました。やっと、聞けました」
穴の奥から、若い男の嗚咽が聞こえた。
それは怪異の声ではなかった。
三十年以上、誤解されたまま閉じ込められた人間の声だった。
佳代子は続けた。
「あなたは、私を貶めた人ではありません。私を守ろうとしてくれた人です」
その瞬間、家の中に風が吹いた。
廊下の壁に、古い教員住宅の幻が浮かび上がる。
雪の夜。
納屋。
倒れた片桐修一。
数人の男たち。
その中に、今日空き地で会った老人の若い姿がある。
さらにもう一人。
背の高い男。
顔は影で隠れている。
佳代子が息を呑んだ。
「あの人……校長の弟さん……」
悠真はその言葉を拾った。
「名前は?」
佳代子は震えながら言った。
「安西重治」
幻の男がこちらを向いた。
影で隠れていた顔が、一瞬だけ見える。
怒りに歪んだ顔。
彼が中心だった。
佳代子を脅し、片桐を殺し、事故に見せかけた男。
佐伯が録音する。
「安西重治」
その名を言った瞬間、トイレの穴から激しい音がした。
ドン。
ドン。
ドン。
便槽の内側を叩く音。
片桐の声が叫ぶ。
「そいつだ!」
家全体が揺れた。
幻の中で、安西重治が片桐を蹴っている。
片桐はまだ息がある。
安西が言う。
「覗きにしろ。女の家に入ったことにすれば、誰も同情しない」
別の男が言う。
「どうやって便槽に入れる」
安西は納屋の奥を指す。
古い農業用の細い排水管。
便槽とつながっているわけではない。
だが、その夜だけ、穴が開いていた。
いや、開けられた。
土地の暗いものが、汚名を受け入れるために道を作った。
男たちは片桐を押し込んだ。
狭い管。
胸を圧迫される。
服を抱えさせられる。
片桐は叫べない。
上でも下でもない場所を通り、最後に教員住宅の便槽へ“出た”。
だから彼は言った。
ここじゃない。
俺はここに入ってない。
悠真は吐き気をこらえた。
佳代子は床に崩れ落ちた。
「そんな……」
佐伯が静かに言った。
「真相を記録しましょう」
佳代子は涙を拭った。
そして、はっきり頷いた。
「私が証言します」
その言葉で、トイレの穴の暗闇が少し薄くなった。
片桐の手が、便器の縁から離れる。
だが、まだ消えない。
悠真は分かった。
もう一人いる。
安西重治。
彼の名前を記録しただけでは足りない。
本人の罪を、どこかに残さなければならない。
「安西は生きていますか」
悠真が訊くと、佳代子は首を振った。
「十年ほど前に亡くなったと聞きました」
佐伯が尋ねる。
「家は?」
「村に残っているはずです。息子さんが継いだと」
悠真のスマートフォンが震えた。
画面には、白い文字。
《押した者の家へ》
佐伯も同じ表示を見ていた。
佳代子は立ち上がった。
「私も行きます」
「危険です」
悠真が言うと、佳代子は静かに答えた。
「危険なものから逃げた結果、修一さんを三十年以上ひとりにしました。もう逃げません」
その瞬間、トイレの奥から若い男の声がした。
「先生」
佳代子は振り返る。
「はい」
「ありがとう」
それは、初めて苦しみの混じらない声だった。
佳代子は泣き崩れた。
だが、穴の暗闇はまだ閉じなかった。
奥で、別の声がした。
低い男の声。
安西重治。
「来るな」
便器の水が黒く濁った。
いや、水洗ではない。
いつの間にか、そこには深い便槽が戻っていた。
その底から、安西の声が響く。
「俺の家に来るな。村の下は、全部つながっている」
家の外で、遠くの山が鳴った。
地鳴りのように。
悠真はノートを開き、書いた。
安西重治。
校長の弟。
主犯。
押した者。
村の下は全部つながっている。
ペン先が止まる。
村の下。
便槽。
排水管。
納屋。
教員住宅。
農家。
汚物を流すための地下の道が、沈黙の道になっている。
そこに片桐修一の声が引っかかっている。
翌朝、三人は再び都路の村へ向かうことにした。
佳代子はカセットテープを胸に抱えていた。
悠真は、彼女の横顔を見た。
老いた教師の顔ではなく、三十年前の若い女性教員の面影がそこにあった。
傷つけられ、逃げ、それでも生き延びた人の顔。
出発前、佳代子は家のトイレの前で手を合わせた。
「修一さん。行ってきます」
便槽の奥から、かすかな返事がした。
「待ってる」
その声は、もう爪を立てていなかった。
(第19章につづく)

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