第十五章 おばけが出る
佐伯から送られてきた画像を、悠真は何度も拡大した。
山道。
防火用貯水槽。
白い石。
そこに書かれた文字。
《おばけが出る》
子供の落書きのようでもあり、警告のようでもあった。
だが、悠真が見ていたのは石ではなかった。
貯水槽の脇。
暗い木立の隙間。
そこに、人影がある。
女だった。
顔は見えない。
濡れた髪が頬に張りつき、白っぽい服が夜の中でぼんやり浮いている。
画質は荒い。
普通なら、木の影だと言える。
だが悠真には分かった。
これは、見えてはいけないものだ。
電話が鳴った。
佐伯だった。
『見ましたか』
「ああ」
『兄のHDDに残っていました。ファイル名は CHICHIBU_TANK_1977。作成日は三年前ですが、中身はもっと古い映像です』
「白蘭とは関係あるのか」
『直接は分かりません。ただ、兄は白蘭を調べる前から、水に関係する怪談を集めていました』
「貯水槽、井戸、便槽……」
『ええ。閉じた水です』
閉じた水。
その言葉が妙に引っかかった。
川や海ではない。
流れない水。
貯められ、隠され、蓋をされる水。
そこに死が入ると、記憶は腐らず、沈む。
白蘭で見たものと同じだった。
『映像を送りますか』
佐伯が言った。
悠真は一瞬迷った。
見るべきではない。
そういう直感がある。
だが、見なければ始まらない。
「送ってくれ」
『分かりました。ただし一人では見ないでください』
「もう遅い」
『え?』
悠真のパソコンが勝手に起動した。
画面には、すでに動画ファイルが表示されている。
CHICHIBU_TANK_1977.mp4
佐伯はまだ送っていない。
なのに、ファイルはそこにあった。
スピーカーから、かすかな水音が流れ始める。
ポタ。
ポタ。
悠真は椅子に座った。
逃げる気はなかった。
再生ボタンを押す。
映像は白黒だった。
山道。
夜。
カメラは手持ちで、ひどく揺れている。
誰かの荒い息。
男の声がする。
『ここだ……ここに出るんだ』
画面の端に、白い石が映る。
《おばけが出る》
その文字の前で、カメラが止まる。
男は怯えている。
それでも、何かを確かめようとしている。
映像が貯水槽へ向く。
コンクリート製の丸い蓋。
周囲には落ち葉が積もっている。
蓋の隙間から、黒い水が滲んでいた。
男の声。
『昨日も見た。女がここに立ってた。顔が……』
そこで声が詰まる。
風が吹く。
木々が揺れる。
カメラの奥に、女が立っている。
山道の端。
うずくまるように。
男が近づく。
『大丈夫ですか』
女は動かない。
男がさらに近づく。
女が顔を上げた。
映像が乱れる。
ノイズ。
水音。
そして一瞬だけ、顔が映った。
崩れていた。
目も鼻も口も、輪郭が溶けたように崩れている。
だが、口だけが動いた。
――まだ、そこ。
男が悲鳴を上げ、カメラが大きく揺れる。
映像はそこで切れた。
悠真は画面を止めた。
部屋は静かだった。
雨音も止んでいる。
だが、背後で誰かが濡れた足で床を歩く音がした。
パシャ。
パシャ。
振り返る。
誰もいない。
床も乾いている。
ただ、机の上のノートだけが濡れていた。
開いたページに、黒い染みが広がっている。
その染みの中から、文字が浮かび上がった。
《見つけたなら、開けて》
白蘭の時と違う。
これは「返して」ではない。
開けて。
貯水槽の蓋を。
閉じ込められたものを。
佐伯の声が電話から聞こえた。
『岸本さん? 今、何が起きてます?』
「映像が来た」
『送ってません』
「分かってる」
『見たんですか』
「ああ」
佐伯は沈黙した。
その沈黙で、事態の悪さが分かった。
『すぐ行きます』
「いや、明日の朝でいい。秩父へ行こう」
『今夜は?』
「今夜は記録する」
悠真は電話を切った。
ノートに書く。
秩父。
防火用貯水槽。
白い石。
顔の崩れた女。
「まだ、そこ」
「開けて」
書くたびに、部屋の空気が冷えていく。
だが、白蘭の時のような圧迫感ではない。
これは訴えに近い。
怒りよりも、悲しみ。
怨みよりも、置き去りにされた声。
翌朝、悠真と佐伯は電車で秩父へ向かった。
母には知らせなかった。
いや、知らせるべきか迷ったが、やめた。
白蘭の件だけでも十分すぎる。
これ以上、母を水の記録に近づけたくなかった。
電車の窓から山が見え始める。
佐伯は兄のHDDから復元した資料を開いていた。
「兄は、この件を“貯水槽の女”と呼んでいました」
「実際の事件なのか」
「昭和五十年代に、山間部の貯水槽から女性の遺体が発見された事件があったようです。発見前から、地元で幽霊の目撃談があった」
「顔が崩れた女」
「ええ」
「犯人は?」
「当時、関係者が逮捕されたという記録があります。ただ、兄のメモにはこう書かれています」
佐伯はノートを見せた。
《犯人は捕まった。だが女はまだ立っている》
悠真は窓の外を見た。
山の斜面に、古い墓地が見える。
その中に一瞬、白い服の女が立っているように見えた。
瞬きをすると消えていた。
秩父の駅に着くと、空は曇っていた。
観光客の姿もある。
だが目的地へ向かうバスに乗ると、人は少なくなった。
山道を登る。
古い集落を抜ける。
道端の店も家も、少しずつ減っていく。
バスを降りた時には、あたりは静かだった。
佐伯が地図を確認する。
「ここから歩きです」
山道は湿っていた。
雨は降っていない。
それでも、足元の落ち葉は黒く濡れている。
しばらく歩くと、例の石が見えた。
白い石。
道端に置かれている。
チョークのような文字。
《おばけが出る》
悠真は息を止めた。
映像と同じだった。
何十年も前の映像と。
文字が消えていない。
いや、新しい。
まるで昨日書かれたばかりのようだった。
佐伯が写真を撮ろうとする。
その瞬間、スマートフォンの画面が真っ黒になった。
白い文字。
《撮るな》
佐伯は手を止めた。
「白蘭より直接的ですね」
「見られたくないのか」
「あるいは、撮られたくない何かがある」
石の先に、貯水槽があった。
コンクリート製。
低い円筒形。
鉄の蓋は錆びている。
周囲には落ち葉が積もり、草が絡んでいる。
だが蓋の周囲だけ、奇妙にきれいだった。
誰かが定期的に掃除しているように。
悠真は近づいた。
水の匂いがする。
古い水。
閉じ込められた水。
白蘭の井戸とは違う。
こちらはもっと浅い。
だが、浅い分だけ、人間の手の跡が濃かった。
蓋に手をかける。
佐伯が止める。
「開けるんですか」
「開けて、と言われた」
「それが罠かもしれない」
「かもしれない」
悠真は蓋を見た。
隙間から、髪の毛のようなものが一本、外へ出ている。
濡れた黒髪。
風もないのに、ゆっくり動いている。
「でも、閉じたままじゃ何も分からない」
二人で蓋を持ち上げた。
重い。
錆がこびりつき、なかなか動かない。
力を込める。
ぎい、と金属音がした。
その瞬間、山の空気が変わった。
鳥の声が消える。
風も止まる。
蓋が少し開いた。
中は暗い。
水面が見える。
黒く、静かな水。
悠真は覗き込んだ。
水面に、自分の顔が映る。
その背後に、女が立っていた。
振り返る。
誰もいない。
もう一度、水面を見る。
女はまだいる。
顔が崩れている。
だが、目だけが残っていた。
悲しそうな目。
水面の女が口を動かす。
――下じゃない。
悠真は眉をひそめた。
「下じゃない?」
その時、佐伯が蓋の裏側を見て声を上げた。
「岸本さん」
蓋の裏に、文字が刻まれていた。
爪で引っかいたような細い文字。
《私はここではない》
悠真は水面を見た。
女はまだこちらを見ている。
ここではない。
つまり、遺体は貯水槽から見つかった。
だが、彼女が本当に死んだ場所は別にある。
事件は解決していない。
犯人が捕まったとしても、何かが違う。
水面が揺れた。
その中に、別の景色が映る。
山道ではない。
古い木造の家。
畳の部屋。
赤い櫛。
割れた鏡。
女が座っている。
腹に手を当てている。
妊娠している。
背後に男が立っている。
顔は見えない。
男の手には、白い石。
次の瞬間、映像が乱れた。
水面に血のような赤が広がる。
悠真は後ずさった。
佐伯が蓋を支えている。
「何を見ました」
「貯水槽じゃない。家だ。女は家で殺された」
「場所は?」
「分からない。でも、赤い櫛があった」
その瞬間、道端の白い石が動いた。
ごとり。
二人は振り返る。
石の下に、何かが埋まっていた。
佐伯が慎重に掘る。
出てきたのは、小さな木箱だった。
箱は腐りかけている。
中に、赤い櫛。
そして、古い写真。
若い女性が写っている。
顔はまだ崩れていない。
穏やかに笑っている。
写真の裏に名前があった。
由美子。
名字は水で滲んで読めない。
その下に、短い文字。
《この子もいた》
悠真は息を呑んだ。
この子。
胎児。
貯水槽の女が返してほしいのは、自分の名前だけではない。
生まれる前に消された子の存在だった。
山の奥で、女の声がした。
「見つけた?」
二人は同時に振り返った。
山道の向こう。
白い服の女が立っている。
顔は崩れている。
だが、腹に手を当てている。
女は言った。
「まだ、ここ」
その瞬間、貯水槽の水が溢れ出した。
黒い水ではない。
赤茶けた水。
鉄と土の匂い。
水は山道を流れ、白い石を濡らし、悠真たちの足元へ迫る。
佐伯が叫んだ。
「離れて!」
二人は走った。
背後で、貯水槽の中から赤ん坊の泣き声が聞こえた。
山中に響くはずのない、小さな泣き声。
悠真は振り返らなかった。
走りながら、胸の中で名前を繰り返した。
由美子。
まだ名字のない由美子。
まだ名前のない子。
逃げるためではない。
忘れないために。
山道の出口に着いた時、佐伯のスマートフォンが鳴った。
画面には、知らない番号。
佐伯が出る。
しばらく聞いて、顔色を変えた。
「……分かりました」
電話を切る。
「誰だ」
「地元の郷土資料館です。兄が以前、問い合わせをしていたらしい」
「何て?」
「今朝、古い資料を整理していたら、差出人不明の封筒が見つかったそうです」
「中身は」
佐伯は悠真を見た。
「昭和五十二年の失踪届。名前は、三沢由美子」
悠真は目を閉じた。
名字が戻った。
三沢由美子。
その名を頭の中で刻む。
すると、山の奥の泣き声が少しだけ遠ざかった。
だが、完全には消えない。
佐伯が続ける。
「失踪時、妊娠七か月」
空から雨が落ちてきた。
一滴。
二滴。
山道の白い石の文字が、水で滲む。
《おばけが出る》
その下に、新しい文字が浮かび上がった。
《子どもの名前を返して》
悠真は息を呑んだ。
白蘭は終わった。
だが、水の記録は終わっていない。
今度は、まだ生まれなかった者の名を探さなければならない。
(第16章につづく)

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