第十二章 語る者
《語る者を選べ》
その文字は、スマートフォンの画面に焼きついたように残っていた。
電源を切っても消えない。
画面を伏せても、白い光が畳に滲む。
悠真はスマートフォンを机の上に置いた。
実家の居間。
朝の光が障子越しに入っている。
母は毛布に包まって座っていた。
佐伯は濡れた写真と書類を一枚ずつ新聞紙の上に広げている。
古い写真。
処置録。
蘭から悠子への手紙。
八ミリフィルム。
どれも消えてはいない。
少なくとも今は。
「語る者って、どういう意味だ」
悠真が訊くと、佐伯は顔を上げた。
「記録を外へ出すだけでは足りない、ということでしょう」
「誰かが話せばいいのか」
「たぶん、ただ読むだけじゃだめです。白蘭で起きたことを、自分の言葉として引き受ける人間が必要なんです」
母が小さく言った。
「それは、私がやるわ」
悠真は即座に首を振った。
「だめだ」
「おばあちゃんの孫は私よ。大槻の血を受けているのも私」
「俺も同じだ」
「あなたを巻き込みたくない」
悠真は笑いそうになった。
巻き込まれていない人間など、もう誰もいない。
母も、佐伯も、自分も。
白蘭は名前を覚えてしまった。
「俺がやる」
佐伯が止めた。
「軽く言わない方がいい」
「軽く言ってない」
「語る者になるということは、白蘭の記録の中心になるということです。忘れられない代わりに、忘れさせてもらえない」
「それでも、誰かがやらなきゃ終わらない」
佐伯は黙った。
母は写真を見ていた。
八人の少女。
蘭、美代、ハル、静子、文、千代、雪、悠子。
名前を取り戻した少女たちの顔は、どこか安らかだった。
だが写真の背景に写る寄宿舎の窓。
そこだけが黒く潰れている。
中から誰かが見ているように。
佐伯は立ち上がった。
「語るなら、人前です。記録として残り、複数人が同時に聞く場所」
「配信か」
「危険です。映像は呪いの媒体になりやすい」
「じゃあどうする」
「紙と声です」
佐伯は処置録を指した。
「紙の記録を複製して、朗読する。映像ではなく証言として残す」
「誰に聞かせる」
佐伯は少し迷ってから言った。
「白蘭に関係した人たち。失踪者の家族。地元史の研究者。新聞社。誰でもいい。ただ、確かに聞いてくれる人間を集める」
「今からそんな人間を集められるのか」
佐伯は自分のスマートフォンを取り出した。
「兄の件を調べていた時に、つながった人たちがいます。全員が信じるとは思いません。でも来る人はいる」
悠真のスマートフォンのカウントダウンは進んでいた。
残り三日を切っている。
五日目。
七日目までに終わらせなければならない。
その時、固定電話が鳴った。
実家の黒電話ではない。
母が今も使っている古い電話機。
朝の居間に、電子音が響く。
母が出ようとしたが、悠真が止めた。
受話器を取る。
「はい」
ノイズ。
水音。
そして、年老いた男の声。
『語るな』
大槻宗一だった。
井戸に沈んだはずの男。
『語れば、聞いた者も水へ戻る』
悠真は受話器を握りしめた。
「黙っていれば、お前が戻ってくるだけだろ」
『私は戻らない。私は最初からここにいる』
受話器の向こうで、女たちのすすり泣きが聞こえる。
『語る者は、最後に井戸へ降りる。そういう決まりだ』
「誰が決めた」
『水だ』
電話が切れた。
悠真は受話器を置いた。
母が青ざめている。
「最後に井戸へ降りるって……」
佐伯が低く言った。
「脅しの可能性もあります」
「本当の可能性もある」
「ええ」
佐伯は否定しなかった。
悠真は深呼吸した。
怖くないと言えば嘘になる。
だが不思議と、逃げる気にはならなかった。
ここまで見てしまった。
見た者には、責任がある。
昼過ぎ、佐伯は連絡を取り始めた。
失踪者家族の会。
都市伝説を追っていたライター。
白蘭の元従業員。
地元史研究会。
新聞記者。
ほとんどは相手にしなかった。
だが数人が反応した。
特に強く反応したのは、黒川千尋の姉だった。
電話越しに、彼女はしばらく黙ったあと、こう言った。
『千尋の名前を、まだ覚えている人がいるんですね』
その一言で、悠真は胸が詰まった。
会場は、佐伯が以前使ったことのある小さな貸し会議室に決まった。
新宿の雑居ビル。
ホテル白蘭から徒歩十分。
近すぎる。
だが佐伯は言った。
「遠くへ逃げても無駄です。むしろ、白蘭の近くで語る方が届くかもしれない」
夕方までに、資料を複製した。
コピー機は何度も紙詰まりを起こした。
処置録のページだけが黒く潰れた。
蘭の手紙は、一度コピーすると白紙になった。
だが母が原本を手で書き写すと、文字は残った。
母の手は震えていた。
それでも、一字ずつ書いた。
《名前は、血より長く残るから》
その文を書いた時、部屋の水音が止まった。
まるで、蘭が聞いているようだった。
夜。
会議室には七人が集まった。
悠真、母、佐伯。
黒川千尋の姉。
佐伯の兄の元同僚。
白蘭の元清掃員だった老女。
そして、地方紙の若い記者。
合計七人。
七。
数字に気づいた瞬間、悠真は嫌な予感がした。
佐伯も気づいたようだった。
「もう一人必要です」
「なぜ」
「七は白蘭の数字です。七人で始めるのは危ない」
だが、誰も増えない。
開始時刻は午後八時十三分。
会議室の蛍光灯が点滅した。
記者が不安そうに笑う。
「本当に怪談会みたいですね」
悠真は答えなかった。
机の上に資料を並べる。
写真。
処置録。
手紙。
名簿。
八ミリフィルムから抜き出した静止画。
映像そのものは流さない。
佐伯が最初に話した。
兄が失踪したこと。
白蘭の映像を見たこと。
水槽に取り込まれたこと。
黒川千尋の姉は、写真を見た瞬間、声を詰まらせた。
「千尋です」
彼女は一枚の古い写真を指した。
ホテル白蘭の従業員集合写真。
若い清掃員の女性。
黒川千尋。
「警察は、家出かもしれないと言いました。あの子はそんな子じゃなかった。でも、誰も聞いてくれなかった」
その時、会議室の壁から水が滲み出した。
誰も最初は気づかなかった。
悠真だけが見ていた。
壁紙の継ぎ目から、細い水の線が垂れる。
床へ。
机の下へ。
佐伯が目で合図した。
続けろ。
止まるな。
悠真は立ち上がった。
「これから話すのは、怪談ではありません」
自分の声が、思ったより落ち着いていた。
「白蘭という土地で、何人もの人が消されました。死んだのに、記録されなかった。助けを求めたのに、見ないふりをされた。名前を奪われた人たちの話です」
蛍光灯がまた点滅する。
会議室の窓の外に、廃ホテル白蘭が見えた。
本来なら、隣のビルに隠れて見えない角度のはずだった。
だが今は、窓いっぱいに白蘭の黒い外壁が見える。
十三階の窓も。
悠真は続けた。
白蘭女学院。
大槻宗一。
井戸水の実験。
蘭たち八人の少女。
寄宿舎の火災。
大槻悠子の逃亡と沈黙。
黒川千尋。
榊水紀。
佐伯亮。
佐伯律。
言葉にするたびに、部屋の水音が強くなった。
だが同時に、資料の文字が濃くなっていく。
消えかけていた名前が、紙の上に戻る。
蘭。
美代。
ハル。
静子。
文。
千代。
雪。
大槻悠子。
黒川千尋。
榊水紀。
佐伯亮。
そして、名も知られなかった者たち。
元清掃員の老女が震える声で言った。
「私、見たことがあります」
全員が彼女を見る。
「ホテルの水槽の点検に、男の人たちが来た夜。支配人が、清掃員は上がるなと言った。でも私は忘れ物をして戻った。屋上で、女の人の声がしたんです。助けてって」
黒川千尋の姉が息を呑んだ。
「それは……」
老女は泣いていた。
「怖くて逃げました。誰にも言えませんでした。ごめんなさい」
会議室の水が、足元まで広がった。
だが、誰も逃げなかった。
記者が録音機を机に置いた。
「続けてください。記事にします」
その瞬間、部屋のドアが激しく叩かれた。
ドン。
ドン。
ドン。
外から男の声。
「開けろ」
大槻宗一。
佐伯が立ち上がる。
「開けないでください」
ドアの下から黒い水が流れ込む。
宗一の声が響く。
「聞いた者も沈むぞ」
黒川千尋の姉が、震えながらも言った。
「沈むのは、隠した人間でしょう」
ドアの向こうが静かになった。
悠真は最後の資料を手に取った。
蘭の手紙。
母が書き写したもの。
読み上げる。
「悠子、あなたがこれを読むなら、私たちはまだ水の中にいるのでしょう。あなたは逃げていい。でも、忘れないで。私たちの名前を、いつか誰かに返して――」
声が震えた。
それでも読み続けた。
「名前は、血より長く残るから」
その瞬間、会議室の窓が割れた。
外から黒い水が流れ込む。
窓の向こうはもう新宿ではない。
白蘭女学院の焼けた寄宿舎。
井戸。
白い蘭の花。
そして、蘭が立っている。
彼女は会議室の中へ入ってきた。
参加者たちは悲鳴を上げなかった。
ただ、見ていた。
蘭は悠真の前に立った。
「語った」
悠真は頷いた。
「ああ」
「聞いた」
蘭は部屋の人々を見る。
一人ずつ。
黒川千尋の姉。
老女。
記者。
佐伯。
母。
「名前は戻る」
蘭の背後に、少女たちが現れる。
美代。
ハル。
静子。
文。
千代。
雪。
悠子。
その後ろに、黒川千尋。
榊水紀。
佐伯亮。
水に沈められた者たちが、次々と立っている。
だが大槻宗一だけがいない。
悠真が訊いた。
「宗一は?」
蘭は静かに答えた。
「まだ、認めていない」
その言葉と同時に、会議室の床が抜けた。
いや、床が水面になった。
悠真の足が沈む。
母が叫ぶ。
佐伯が手を伸ばす。
だが今度は、悠真だけが沈んでいく。
「悠真!」
母の声が遠ざかる。
蘭が水面の上から見下ろしている。
「語る者は、最後に聞く」
「何を」
「隠した者の声」
水が口を塞ぐ。
冷たい。
暗い。
悠真は沈んだ。
下へ。
白蘭の井戸の底へ。
そこには、大槻宗一がいた。
濡れた白衣。
崩れた顔。
だが目だけが爛々と光っている。
「よく来たな」
宗一は笑った。
「ここで、お前の声も消してやる」
悠真のスマートフォンが水中で光った。
《六日目》
その下に、最後の文字が浮かぶ。
《井戸の底で証言せよ》
(第13章につづく)

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