鈴木光司を模倣し、エリサ・ラム事件モチーフにした完全オリジナルホラー小説『水槽の女』第十一章

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第十一章 寄宿舎の夜

 水の中に落ちたはずだった。

 だが、悠真が目を開けた時、そこは廊下だった。

 古い木造の廊下。

 板張りの床。

 裸電球。

 壁には、白蘭女学院、と書かれた木札が掛かっている。

 外は夜だった。

 窓の向こうに、黒い庭が見える。

 庭の中央には井戸。

 その周囲に、白い蘭の花が咲いていた。

 あり得ない。

 白蘭の花は、そんなふうに群生しない。

 だが、そこでは無数の白い花が、闇の中でぼんやり光っていた。

「母さん!」

 悠真は叫んだ。

 返事はない。

「佐伯!」

 声は廊下に吸い込まれた。

 自分一人だった。

 濡れてはいない。

 服も乾いている。

 だが、胸の内側だけが冷たい。

 水を飲み込んだ後のように、肺の奥が重かった。

 廊下の奥から、少女たちの歌声が聞こえた。

 古い唱歌。

 音程が少しずつ外れている。

 声は七つ。

 いや、八つ。

 悠真は息を殺して進んだ。

 教室のような部屋の前で、歌声が止まる。

 扉が開いていた。

 中を覗く。

 少女たちが机に座っている。

 蘭。

 美代。

 ハル。

 静子。

 文。

 千代。

 雪。

 そして、若い祖母、悠子。

 八人全員が、黒板を見ていた。

 黒板には、大きく白いチョークで書かれている。

《名前を忘れた者は、水へ戻る》

 教壇に立っているのは、大槻宗一だった。

 白衣姿。

 手には帳面。

 彼は少女たちを見回し、穏やかな声で言った。

「君たちは選ばれた生徒だ。水は記憶を運ぶ。人が忘れたものを、下から戻す。私はそれを証明したい」

 蘭が俯いている。

 悠子は震えていた。

 宗一は杯を手にした。

 中には、井戸水。

 黒くはない。

 透明だった。

 だが透明すぎて、底がないように見えた。

「飲みなさい」

 蘭は首を振った。

 宗一の表情が消える。

「飲みなさい」

 蘭は動かない。

 宗一が蘭の顎を掴み、無理やり水を飲ませた。

 悠真は思わず教室へ踏み込んだ。

「やめろ!」

 誰も振り返らない。

 声が届いていない。

 これは記録だ。

 過去の映像。

 だが、ただの映像ではない。

 水が覚えている記憶の中に、自分が入っている。

 蘭は咳き込みながら床に倒れた。

 その瞬間、教室の床から水が滲み出した。

 机の脚を濡らし、少女たちの靴を濡らす。

 宗一は目を輝かせた。

「見ろ。反応している」

 狂っている。

 悠真は拳を握った。

 だが触れられない。

 宗一にも、蘭にも。

 ただ見ていることしかできない。

 それが何より苦しかった。

 場面が変わった。

 寄宿舎の寝室。

 八つの布団。

 少女たちは眠っている。

 蘭だけが目を開けていた。

 天井から水滴が落ちる。

 ポタ。

 蘭はゆっくり起き上がる。

 廊下へ出る。

 悠真は後を追った。

 蘭は庭へ向かった。

 井戸の前に立つ。

 井戸の底から声がする。

「返して」

 この時から、すでに声はあった。

 蘭より前に、誰かが沈んでいた。

 蘭は井戸の中を覗いた。

 その瞬間、悠真の背後で声がした。

「見てはいけません」

 振り返ると、悠子が立っていた。

 若い祖母。

 写真で見た少女の姿。

 だが、目だけは年老いていた。

「あなたは……」

「悠真でしょう」

 悠真は息を呑んだ。

「俺が見えるのか」

 悠子は頷いた。

「ここは記録だから。記録を見る者も、記録に見られる」

「母さんと佐伯はどこだ」

「それぞれ別の記録に落ちています」

「助けられるのか」

「あなたが、最後まで見れば」

 悠子は井戸を見た。

 蘭はまだ井戸を覗いている。

「私は逃げました」

 悠子の声は小さかった。

「蘭に頼まれたのに、名前を返せなかった」

「なぜ」

「怖かったから。大槻の家に戻れば、全部なかったことにされると分かっていた。でも、私は生きたかった」

 悠真は何も言えなかった。

 責めることは簡単だった。

 だが目の前の悠子は、まだ少女だった。

 恐怖に震える一人の子供だった。

「宗一は、あなたの父親か」

 悠子は首を振った。

「叔父です。けれど、大槻家では父より強い人でした。学校も、寄宿舎も、井戸も、全部あの人が支配していた」

「井戸のことを知っていた?」

「最初から知っていました。白蘭女学院が建つ前、この土地には身寄りのない女たちを集めた作業場があったそうです。逃げた女、売られた女、名前を捨てられた女。死んだ者は井戸へ沈められた」

「じゃあ、蘭が最初じゃない」

「最初ではありません。でも、蘭は井戸に名前を与えてしまった」

「名前を?」

 悠子は俯いた。

「井戸は、ただの怨みの溜まり場でした。でも蘭が落とされてから、井戸は“返せ”と言うようになった。蘭は覚えていたから。自分だけでなく、全員の名前を」

 庭に風が吹いた。

 白い蘭の花が揺れる。

 その花の一つひとつに、少女たちの顔が浮かんで見えた。

 悠子は言った。

「宗一は、蘭を利用した。蘭の記憶力を。蘭は一度聞いた名前を忘れなかった」

 その時、井戸の中から手が伸びた。

 蘭の腕を掴む。

 悠真は走り出した。

 だが悠子が止める。

「これは変えられません」

「でも」

「変えるのではなく、知るんです」

 蘭は井戸へ引き込まれなかった。

 その夜は。

 ただ、井戸の底から声を聞いただけだった。

 場面がまた変わる。

 昼。

 教室。

 宗一が少女たちに名前を書かせている。

 紙には、家族の名、出身地、過去に聞いた死者の名。

 蘭の紙だけが異様だった。

 びっしりと名前が書かれている。

 知らない女たちの名前。

 井戸の底から聞こえた名前。

 宗一はその紙を見て笑った。

「素晴らしい」

 蘭は怯えていた。

「先生、あの人たちが帰りたいと言っています」

「どこへ」

「名前のある場所へ」

 宗一は蘭の髪を撫でた。

「なら、君が聞き続けなさい」

 悠真の中で怒りが膨れ上がる。

 宗一は最初から分かっていた。

 井戸が求めていたのは供物ではなく、記録だった。

 名前を返すことだった。

 それなのに彼は隠した。

 研究のために。

 支配のために。

 恐怖を利用するために。

 次の場面。

 火事の夜。

 寄宿舎が燃えている。

 煙が廊下を満たす。

 少女たちは逃げ惑っている。

 宗一は帳面とフィルムを抱え、金庫へ向かっていた。

 彼は少女たちを助けようとしていない。

 蘭が立ちはだかる。

「名前を返してください」

 宗一は怒鳴った。

「黙れ!」

 蘭の頬を打つ。

 蘭は倒れない。

 背後に、美代、ハル、静子、文、千代、雪が並ぶ。

 悠子は廊下の端に立っている。

 逃げることも、助けることもできずに。

 蘭が言う。

「先生は、井戸を閉じられません」

「私が管理する」

「違います。先生は、もう井戸の中です」

 宗一の顔が歪む。

 その時、床板が抜けた。

 下には水。

 燃えている寄宿舎の下に、黒い水が広がっている。

 宗一は後退した。

 だが背後にも水。

 どこにも逃げ場はない。

 彼は帳面を抱え、井戸へ走った。

 全部沈めるつもりだった。

 記録ごと。

 蘭が叫ぶ。

「悠子!」

 若い祖母が顔を上げる。

 蘭は燃える廊下の向こうで、必死に言った。

「覚えて!」

 悠子は泣きながら頷いた。

 蘭が一人ずつ名前を叫ぶ。

「美代! ハル! 静子! 文! 千代! 雪! 蘭!」

 そして最後に、

「悠子!」

 その声が、火の中を貫いた。

 悠子は走った。

 外へ。

 生きるために。

 名前を持ち出すために。

 だが、宗一が彼女の腕を掴んだ。

「お前は大槻だ。あちら側へ行くな」

 悠子は振りほどいた。

 その拍子に、宗一は井戸へ落ちた。

 事故ではない。

 自殺でもない。

 悠子が振り払ったことで、彼は落ちた。

 悠子はそれを隠した。

 だから、罪は血に残った。

 悠真はすべてを見た。

 祖母は加害者ではない。

 だが完全な被害者でもなかった。

 生き延びるために逃げ、約束を抱えたまま沈黙した。

 それが白蘭をここまで育てた。

 場面が崩れた。

 火の粉が水に変わる。

 寄宿舎の廊下が、現代の実家の廊下に重なる。

 悠子が悠真の前に立つ。

「お願い」

「何を」

「私を許さなくていい。でも、名前だけは残して」

「もう書いた」

「足りない」

「まだ?」

 悠子は首を振った。

「名前だけではだめ。何があったかを、誰かが語らなければ」

 悠真は理解した。

 記録は残すだけでは足りない。

 読まれ、語られ、受け取られて初めて、隠蔽ではなくなる。

「母さんと佐伯を返せ」

 悠子は悲しそうに目を伏せた。

「あなたが戻れば、戻る」

「どうやって」

「井戸の底で、宗一に言わせるのです」

「何を」

「自分がしたことを」

 その瞬間、背後の井戸から声が響いた。

「言うものか」

 大槻宗一が、井戸の中から這い上がってきた。

 白衣は焼け焦げ、顔は水で崩れている。

 だが目だけは生きていた。

 憎悪に満ちていた。

「記録は私のものだ。水も、井戸も、白蘭も、すべて私が見つけた」

 悠真は宗一を睨んだ。

「お前が作ったんじゃない。お前が隠しただけだ」

 宗一が笑った。

「人は忘れたいものを忘れる。私が手伝っただけだ」

 井戸の水が盛り上がる。

 その中から、母の手が見えた。

 佐伯の顔も。

 二人は水の膜の向こうに閉じ込められている。

 宗一が言った。

「選べ。母親を返すか、記録を返すか」

 悠真は唇を噛んだ。

「両方だ」

「できるものか」

 悠真は一歩前に出た。

 怖さはあった。

 だが、それ以上に怒りがあった。

「俺は編集者だ」

 宗一の目が細くなる。

「映像も、音も、嘘も、切り取れば本当に見える。だが、つなぎ直せば、隠されたものも見える」

 悠真は水の中へ手を伸ばした。

 母の手を掴む。

 同時に佐伯の腕も掴む。

 冷たい。

 引き戻そうとする水の力が強い。

 宗一が怒鳴る。

「見るな! 考えるな! 忘れろ!」

 悠真は叫んだ。

「大槻宗一は、白蘭女学院の少女たちに井戸水を飲ませ、記憶の実験を行った!」

 廊下が震えた。

 宗一の顔が歪む。

「寄宿舎の火災で、七人の名前を消した!」

 水が荒れる。

 母の手が少し近づく。

「蘭、美代、ハル、静子、文、千代、雪、大槻悠子!」

 少女たちの声が重なる。

 名前が呼ばれるたび、白い蘭の花が一つずつ燃えるように光った。

「そして、お前は罪を隠すために井戸へ落ち、死んだ後も記録を支配し続けた!」

 宗一が悲鳴を上げた。

 その声は老人でも男でもなかった。

 井戸に溜まった泥のような声だった。

 水の膜が破れる。

 悠真は母と佐伯を引きずり出した。

 三人は廊下に倒れ込む。

 母は咳き込んでいる。

 佐伯も息がある。

 悠真は振り返った。

 宗一は井戸の縁にしがみついていた。

 その背後に、蘭が立っている。

 少女たちも。

 悠子も。

 蘭は宗一を見下ろした。

「今度は、忘れない」

 宗一は井戸の底へ引きずり込まれた。

 水面が閉じる。

 寄宿舎の廊下が崩れ始める。

 悠子が悠真に近づいた。

「ありがとう」

「終わったのか」

 悠子は首を振った。

「記録の中では終わった。でも、外で残さなければ、また水は戻る」

 世界が揺れた。

 廊下が割れ、光が差し込む。

 悠真は母と佐伯を抱えるようにして走った。

 出口は、実家の玄関だった。

 三人は転がるように外へ出た。

 朝だった。

 庭の井戸は消えている。

 紫陽花だけが濡れていた。

 母は泣きながら、古い写真を握っていた。

 そこには、八人の少女の顔がはっきり写っていた。

 黒く塗られた顔は、もうない。

 大槻悠子。

 その名前も裏に残っている。

 佐伯が言った。

「今度こそ、消える前に複製しましょう」

 悠真は頷いた。

 だがその時、スマートフォンが震えた。

 画面には、白い文字。

《五日目》

 その下に、また新しい文字が浮かぶ。

《語る者を選べ》

 悠真は写真を握りしめた。

 白蘭はまだ終わっていない。

 記録を外へ出すだけでは足りない。

 誰かが語らなければならない。

 そして語る者は、おそらく。

 呪いの次の器になる。

(第11章につづく)

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