鈴木光司を模倣し、エリサ・ラム事件モチーフにした完全オリジナルホラー小説『水槽の女』第十章

目次

第十章 大槻家の箱

 夜の庭に、井戸があった。

 悠真の実家には、井戸などなかった。

 少なくとも、彼が生まれてから一度も見たことはない。庭には古い物置と、母が植えた紫陽花があるだけだった。

 だが今、紫陽花の根元を割るように、石組みの井戸が口を開けている。

 井戸の縁は濡れていた。

 黒い水が、内側から滲み出している。

 大槻宗一の影は、井戸の向こう側に立っていた。

 顔は崩れている。

 眼窩だけが暗く、そこから水が流れていた。

「大槻家の記録を開け」

 スマートフォンに表示された言葉と同じだった。

 母は震えていた。

「大槻家……」

「何か知ってるのか」

 悠真が訊くと、母はゆっくり首を振った。

「おばあちゃんは、昔のものを全部嫌ってた。でも……ひとつだけ、捨てなかった箱がある」

「箱?」

「仏間の押し入れ。絶対に開けるなって言われていた」

 佐伯が低く言った。

「それです」

 井戸の向こうで、大槻宗一が笑った。

「開ければ分かる。お前たちの家が、何を水へ沈めてきたか」

 家の中から、ギシ、と音がした。

 誰かが歩いている。

 いや、何人も。

 畳を踏む足音。

 廊下を濡らす音。

 悠真は母を支え、玄関へ戻った。

 家の中は、さっきより暗くなっていた。

 電気はつかない。

 懐中電灯の光だけが、湿った廊下を照らす。

 壁にかかった家族写真が、すべて濡れていた。

 写真の中の父の顔が滲んでいる。

 幼い悠真の顔も、黒く溶けかけている。

 仏間は一階の奥にあった。

 父の遺影がある。

 普段なら線香の匂いがする部屋。

 今は違った。

 濡れた木。

 古い紙。

 そして、井戸の底の匂い。

 母は仏壇の前で立ち止まった。

「お父さん……ごめんなさい」

 誰に謝っているのか、悠真には分からなかった。

 佐伯が押し入れを開ける。

 中には布団と古い衣装ケース。

 その奥に、木箱があった。

 黒ずんだ桐箱。

 紐で固く縛られている。

 箱の蓋には、墨で短く書かれていた。

《白蘭》

 母が息を呑む。

「これ……」

 悠真は箱を畳の上に下ろした。

 紐は湿っているのに、妙に固かった。

 佐伯がナイフで切る。

 その瞬間、仏間の襖が勝手に閉まった。

 閉じ込められた。

 廊下の向こうで、足音が止まる。

 静寂。

 そして、襖の向こうから声がした。

「開けてはいけない」

 女の声。

 年老いた声だった。

 母が震えた。

「おばあちゃん……」

 悠真の祖母。

 大槻悠子。

 すでに亡くなっている。

 だが、その声は母の記憶の中にある声そのものだった。

「開ければ、家が終わる」

 悠真は箱の蓋に手をかけた。

 佐伯が言う。

「それは本物ですか」

 母は泣きそうな顔で首を振った。

「分からない。でも、おばあちゃんの声……」

 襖の向こうで、また声。

「私は逃げた。逃げるしかなかった。蘭を助けなかった。だから名前を捨てた。それで終わるはずだった」

 悠真は手を止めた。

「終わらなかった」

 声は低くなった。

「白蘭は、血を辿る」

 その言葉が終わると同時に、襖の下から黒い水が流れ込んできた。

 母が悲鳴を上げる。

 佐伯が叫ぶ。

「開けてください!」

 悠真は蓋を開けた。

 中には、古い書類が詰まっていた。

 白蘭女学院の名簿。

 寄宿舎の見取り図。

 焼け焦げた日記。

 写真。

 そして、一冊の帳面。

 表紙には、こう書かれている。

《処置録》

 悠真は嫌な予感がした。

 開く。

 一ページ目。

《昭和二十二年六月十三日。寄宿生一名、井戸へ転落。外部報告せず》

 名前は黒く塗られている。

 二ページ目。

《同年七月一日。寄宿生二名、発熱および幻覚症状。隔離》

 三ページ目。

《同年七月七日。隔離生徒、井戸の声を訴える》

 佐伯が隣で読んでいた。

「これは学校の記録じゃない。実験記録だ」

 悠真はページをめくる。

《井戸水を飲ませた者に共通の夢。白い蘭。水中の廊下。名を呼ぶ声》

《大槻宗一、井戸水の性質を“記憶の媒介”と仮定》

《被験者は、失われた者の名を夢で聞く》

 母が口を押さえた。

「被験者……?」

 悠真の手が震えた。

 白蘭女学院は、ただの寄宿舎ではなかった。

 大槻宗一は、井戸を恐れていたのではない。

 利用していた。

 水に記憶を宿す現象を知り、少女たちで試していた。

 蘭たちは、犠牲者だった。

 ページの後半は、さらに異様だった。

《七名で反応が安定》

《名前を抹消した場合、被験者の夢内出現頻度が増加》

《記録を隠すほど、水は強く戻る》

 佐伯が呟く。

「分かっていたんだ……隠すと悪化するって」

 悠真はページをめくる。

 そこに祖母の名前があった。

 大槻悠子。

《宗一の親族。観察補助。井戸の声を聞くが、反応は軽微》

 母が崩れるように座り込んだ。

「おばあちゃんは……被害者じゃなかったの?」

 悠真は答えられなかった。

 祖母は少女たちの一人であり、同時に大槻家の人間だった。

 見ていた。

 逃げた。

 そして、名前を消した。

 帳面の最後に、封筒が挟まっていた。

 宛名。

《悠子へ》

 差出人は、蘭。

 封筒は焼け焦げていたが、中の紙は読めた。

《悠子、あなたがこれを読むなら、私たちはまだ水の中にいるのでしょう。あなたは逃げていい。でも、忘れないで。私たちの名前を、いつか誰かに返して。あなたができないなら、あなたの子に。あなたの子ができないなら、そのまた子に。名前は、血より長く残るから》

 母が声を上げて泣いた。

 悠真は手紙を握りしめた。

 怒りが湧いてくる。

 大槻宗一へ。

 祖母へ。

 そして、知らずに生きてきた自分へ。

 襖が激しく揺れた。

 ドン。

 ドン。

 井戸の底から誰かが叩いているような音。

 佐伯が帳面を掴んだ。

「これを外に出せれば、今度こそ」

「また消される」

「紙なら残る」

「でも、一部だけじゃだめだ」

 悠真は箱の中を探った。

 底に、金属製の小さな筒があった。

 古いフィルムケース。

 中には、八ミリフィルム。

 ラベルには、震える字で書かれていた。

《七人》

 佐伯の目が変わった。

「映像記録……」

 大槻宗一は実験を撮影していた。

 水の記憶を。

 少女たちの異常を。

 あるいは、井戸へ沈める瞬間を。

 襖の向こうで祖母の声がした。

「それだけは、見てはいけない」

 悠真は答えた。

「見る」

「悠真!」

 母が叫んだ。

 悠真は母を見た。

「見ないから、ここまで来たんだ」

 仏間の空気が変わった。

 襖の向こうの気配が消える。

 代わりに、井戸から大槻宗一の声が響いた。

「見るなら、戻れない」

 佐伯がフィルムケースを握る。

「映写機が必要です」

 母が震えながら言った。

「ある……」

 二人が母を見る。

「おばあちゃんが使っていた古い映写機。納戸にある」

 襖が開いた。

 廊下は水浸しだった。

 その水面に、少女たちの顔が映っている。

 蘭。
 美代。
 ハル。
 静子。
 文。
 千代。
 雪。

 そして、若い祖母、悠子。

 八人目ではない。

 七人目。

 やっと顔が戻っていた。

 彼女だけが泣いていた。

 納戸は台所の奥にあった。

 母が押し入れを開ける。

 中から古い映写機を取り出す。

 電源コードはひび割れていた。

 スクリーンはない。

 白い襖に映すしかない。

 佐伯が手早く準備する。

 悠真はフィルムをセットした。

 部屋の電気が消える。

 映写機が動き出す。

 カタカタカタ。

 古い機械音。

 襖に白黒の映像が映った。

 白蘭女学院の寄宿舎。

 少女たちが並んでいる。

 蘭。

 美代。

 ハル。

 静子。

 文。

 千代。

 雪。

 悠子。

 映像の端に、大槻宗一が立っている。

 彼は白衣を着ていた。

 教育者ではない。

 研究者のようだった。

 映像が切り替わる。

 井戸の前。

 少女たちは順番に、杯の水を飲まされている。

 蘭が嫌がる。

 宗一が頬を叩く。

 母が息を呑む。

 悠真は拳を握った。

 次のカット。

 夜の寄宿舎。

 少女たちが眠っている。

 一人が起き上がる。

 水に導かれるように、廊下へ出る。

 井戸へ歩いていく。

 画面が乱れる。

 井戸の中から、手が伸びる。

 映像はそこで一度途切れた。

 再び映る。

 火事。

 寄宿舎が燃えている。

 少女たちが叫ぶ。

 宗一が帳面を抱えている。

 彼は逃げようとしていた。

 だが蘭が、井戸の前に立ちはだかる。

 蘭の後ろには、他の少女たち。

 すでに濡れている。

 すでに、この世のものではない。

 宗一が後ずさる。

 その時、画面の手前に悠子が映った。

 若い祖母。

 彼女は泣いている。

 蘭が悠子を見た。

 何かを言う。

 音声はない。

 だが唇の動きで分かった。

 ――名前をお願い。

 悠子は頷いた。

 そして逃げた。

 それは裏切りではなかった。

 約束だった。

 だが、悠子は約束を果たせなかった。

 恐怖で名前を消した。

 家を守るために沈黙した。

 映像の最後。

 宗一が井戸へ落ちる。

 事故ではない。

 蘭たちに引き込まれたのでもない。

 宗一は、自分から身を投げた。

 帳面を抱えたまま。

 罪を隠すために。

 そして井戸の底から、白蘭の呪いを支配し始めた。

 映写機が止まった。

 部屋に沈黙が戻る。

 母が呟いた。

「おばあちゃんは……約束を守れなかったのね」

 その時、襖に映っていた最後のフレームが、消えずに残った。

 宗一が井戸へ落ちる瞬間。

 その顔が、こちらを見ている。

 映像の中の宗一が、笑った。

 カタ。

 映写機が勝手に逆回転を始める。

 フィルムが巻き戻る。

 映像の宗一が井戸から這い上がる。

 佐伯が叫ぶ。

「止めろ!」

 悠真が電源を抜く。

 だが映写機は止まらない。

 襖の映像から、黒い水が滲み出した。

 宗一の手が、映像の内側から襖を押している。

 紙が膨らむ。

 破れる。

 黒い指が出る。

 母が悲鳴を上げた。

 宗一の声。

「記録を開いたな」

 襖が裂けた。

 中から、濡れた男の顔が現れる。

「ならば、記録の中へ入れ」

 部屋の床が抜けた。

 悠真、母、佐伯の身体が、暗い水の中へ落ちていく。

 落下の途中、悠真は見た。

 白蘭女学院。

 焼ける寄宿舎。

 井戸の前に立つ蘭。

 そして、こちらへ振り返る若い祖母、悠子。

 彼女は涙を流しながら、口を動かした。

 ――今度こそ、返して。

 悠真は水に呑まれた。

 その瞬間、スマートフォンの画面が暗闇に浮かび上がる。

《四日目》

 そして、新しい文字。

《白蘭女学院へようこそ》

(第11章につづく)

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