第五章 下へ戻る水
階段は水の音で満ちていた。
悠真はビニール袋を胸に抱えたまま、段を踏み外すようにして駆け下りた。
背後から黒い水が追ってくる。
ただ流れてくるのではない。
意思を持っている。
壁を這い、手すりを濡らし、階段の角を曲がるたびに、悠真の足首を狙って伸びてくる。
佐伯の悲鳴は、もう聞こえない。
代わりに、ホテル全体から音がしていた。
ドン。
ドン。
ドン。
巨大な水槽の内側を、誰かが叩いている音。
七階。
六階。
五階。
表示は確かに下がっている。
だが、景色が変わらない。
同じ踊り場。
同じ非常灯。
同じ剥がれた壁紙。
下へ行っているはずなのに、どこにも近づいていない。
「ふざけるな……」
息が切れる。
肺が痛い。
だが止まれない。
胸のビニール袋の中で、小型カメラが硬い感触を返している。
これが水紀の記録。
これが、ホテルの中で唯一、過去をそのまま閉じ込めているもの。
悠真はそう思おうとした。
そうでなければ、佐伯を置いて逃げた意味がなくなる。
四階の踊り場まで来た時、スマートフォンが震えた。
あり得なかった。
水に濡れ、何度も異常を起こしているはずの端末。
画面には、佐伯律、と表示されていた。
悠真は通話に出た。
「佐伯!」
返事はない。
ザーッという水音。
その奥で、かすかに呼吸音が聞こえる。
「佐伯、どこだ!」
沈黙。
やがて、佐伯の声がした。
『……戻るな』
途切れ途切れだった。
『俺は……まだ……部屋にいる』
「今助けに――」
『来るな!』
声が割れた。
同時に、階段の水が一気に増えた。
悠真は壁に手をつく。
『カメラを……再生しろ』
「どこで」
『外へ出てからだ。ホテルの中で再生するな』
「お前はどうする」
返事が遅れた。
『俺は……兄を見た』
悠真の足が止まった。
『七一三号室の浴室に……兄がいた。水の中で……俺を見てた』
「佐伯」
『でも違う。あれは兄じゃない。兄の形を使ってるだけだ』
電話の向こうで、何かが濡れた床を這う音がした。
佐伯の息が乱れる。
『岸本さん。あれは水紀だけじゃない。黒川千尋だけでもない。もっと古い。ホテルが建つ前から、あそこにある』
「何だよ、それ」
『井戸だ』
ノイズ。
『地下に……井戸がある。白蘭は、その上に建ってる』
その瞬間、通話が切れた。
画面には、通話終了の文字。
そしてその下に、見知らぬ通知が現れた。
《地下へ》
悠真は画面を投げ捨てそうになった。
だが捨てられなかった。
階段の下から、音がした。
チン。
エレベーターの到着音。
非常階段の扉の向こうに、うっすら光が漏れている。
悠真は一階へ向かった。
今度は確かに辿り着いた。
扉を開けると、ロビーだった。
だが入ってきた時とは違っていた。
床一面が水に覆われている。
フロントカウンターの上に、宿泊者カードが浮いている。
古いソファは半分沈んでいた。
シャンデリアからは、水滴が落ちている。
そして、入口のシャッターは閉まっていた。
さっき屈んで入った隙間がない。
完全に塞がれている。
悠真はシャッターを叩いた。
「開けろ!」
返事はない。
外の車の音も、人の声も聞こえない。
ホテルの外は、最初から存在しなかったかのようだった。
背後で、エレベーターの扉が開いた。
悠真は振り返らなかった。
見れば、そこに誰かがいる。
分かっていた。
水音。
裸足で水を踏む音。
パシャ。
パシャ。
ゆっくり近づいてくる。
悠真はカウンターの横にある従業員用扉を見つけた。
押す。
開いた。
中は事務室だった。
古い机。
金庫。
壁にかかった勤務表。
埃まみれの電話機。
水はここにも入り込んでいる。
足元を流れ、机の脚を黒く濡らしていた。
悠真は扉に鍵をかけた。
だが安心はできない。
扉の向こうで、足音が止まった。
カリ。
爪で扉を引っかく音。
カリ。
カリ。
悠真は室内を探した。
窓は鉄格子で塞がれている。
外は見えない。
ただ黒い水面のようなものが、窓の向こうに広がっていた。
机の上に、古い館内図があった。
ホテル白蘭。
地下一階、機械室。
地下二階、貯水設備。
地下三階、旧井戸跡。
旧井戸跡。
佐伯の言葉が蘇る。
ホテルが建つ前から、あそこにある。
館内図の地下三階部分には、赤い印がついていた。
手書きの文字。
《封鎖。絶対に開けるな》
悠真は寒気を覚えた。
その時、机の引き出しが勝手に開いた。
中には、古い鍵束。
そして一枚の写真。
白黒写真だった。
まだホテルが建つ前の土地。
木造の古い建物。
井戸。
井戸の前に、数人の女が立っている。
その中の一人の顔に、悠真は見覚えがあった。
黒川千尋ではない。
榊水紀でもない。
だが、水槽の中で見た女たちの中心にいた顔だった。
写真の裏を見る。
《昭和二十九年 白蘭荘 井戸祓い》
白蘭荘。
ホテルの前身だろうか。
井戸祓い。
なぜ祓う必要があったのか。
さらに引き出しの奥に、古い新聞切り抜きがあった。
《旅館白蘭荘で女中失踪》
《井戸から異臭、調査打ち切り》
《経営者、事故を否定》
記事はどれも途中で破れている。
日付は昭和三十年前後。
つまり、黒川千尋よりずっと前から、同じことが起きていた。
水の中に消える女。
記録から消される死。
ホテルはただの舞台ではなかった。
隠蔽が重なり、恐怖が沈殿し、井戸に溜まり続けた場所だった。
扉の向こうで、声がした。
「岸本さん」
佐伯の声だった。
悠真は顔を上げた。
「開けてください」
扉越しの声。
息遣いまで本物に聞こえる。
「無事だったのか」
「はい。逃げてきました」
悠真は鍵に手を伸ばしかけた。
だが止めた。
足元の水面。
そこに映っている扉の向こうには、佐伯ではなく、白いワンピースの女が立っていた。
悠真は後ずさった。
扉の向こうの声が、少し低くなる。
「どうして開けてくれないんですか」
カリ。
カリ。
爪音が強くなる。
「見捨てるんですか」
悠真は鍵束を掴んだ。
事務室の奥に、地下へ続く階段がある。
鉄の扉。
鍵穴。
鍵束の中から、地下機械室と書かれた鍵を差し込む。
回る。
扉が開いた。
同時に、背後の従業員用扉が大きく歪んだ。
ドン。
何かが体当たりした。
「岸本さん!」
佐伯の声。
今度は泣いている。
「助けてください!」
悠真は振り返らなかった。
地下階段へ降りた。
扉を閉める。
暗闇。
水の匂いが濃くなった。
階段は狭く、古い。
壁には配管が走っている。
その配管の中を、水が逆流する音がした。
下から上へ。
ザーッ。
佐伯の言った通りだ。
水は、上から来るのではない。
下から戻ってくる。
地下一階。
機械室。
錆びたポンプ。
壊れた制御盤。
床には泥水が溜まっている。
天井から吊るされた電球が、不規則に点滅している。
悠真はさらに下へ向かった。
地下二階。
貯水設備。
前に見た場所だった。
巨大な円筒形の水槽が並んでいる。
割れたはずの水槽は、元に戻っていた。
中に人影がある。
悠真は見ないようにした。
だが、視界の端で分かる。
水槽の中の人々が、全員こちらを向いている。
その中に、佐伯がいた。
悠真は思わず足を止めた。
佐伯律。
水槽の中に立っている。
目を開けたまま。
口が動く。
泡が上がる。
――行け。
悠真は歯を食いしばった。
走った。
地下三階への扉は、貯水設備の奥にあった。
錆びた鉄扉。
鍵穴の周囲には、御札のようなものが何枚も貼られている。
ほとんど腐って読めない。
だが一枚だけ、文字が残っていた。
《井戸を見た者は、水に戻る》
悠真は鍵束を探った。
旧井戸跡。
小さな黒い鍵。
差し込む。
回らない。
もう一度。
力を込める。
鍵が折れそうになる。
背後で水音。
パシャ。
パシャ。
誰かが来る。
振り返らない。
もう見ない。
悠真は両手で鍵を握り、体重をかけた。
ガチン。
回った。
扉が開く。
中から冷たい風が吹いた。
地下三階は、ホテルではなかった。
土の匂い。
湿った岩肌。
むき出しの地面。
そこだけ、建物の基礎から切り離されたように、古い土地が残っていた。
中央に井戸があった。
石で組まれた古井戸。
蓋はない。
中は真っ黒。
底は見えない。
井戸の縁に、小型カメラと同じビニール袋が置かれていた。
いや、悠真が持っている袋ではない。
古い袋。
中にはカセットテープ。
紙片。
写真。
記録の束。
その横に、文字が刻まれている。
《返せ》
返して。
水紀のカードキー。
返せ。
井戸の文字。
何を返せと言っているのか。
命か。
記録か。
隠された死者の名前か。
悠真は胸の袋から、水紀のカメラを取り出した。
濡れているのに、電源ランプが点いた。
再生ボタンを押す。
小さな液晶に映像が出た。
屋上。
貯水槽。
水紀の荒い息。
『これを見ている人へ』
水紀の声。
初めて聞く、生きた声だった。
『このホテルの水を飲まないでください。ここには、死んだ人たちがいます。私は最初、幽霊だと思いました。でも違う。これは、隠された記録です』
映像が揺れる。
貯水槽の蓋が映る。
『黒川千尋さんだけじゃない。もっと前から、女の人たちが消えている。井戸に落ちたことにされた人。逃げたことにされた人。最初からいなかったことにされた人』
画面の端に、制服の男、吉岡が映る。
『誰かが隠してる。でも、隠したものは水に戻る。下から、戻ってくる』
水紀の声が震える。
『もし私が消えたら、地下の井戸を調べてください。そこに名前があります』
映像が乱れた。
吉岡の怒鳴り声。
水紀の悲鳴。
カメラが落ちる。
横倒しの画面に、貯水槽の蓋が映る。
その蓋の内側から、手が叩いている。
ドン。
ドン。
ドン。
次の瞬間、液晶が真っ暗になった。
井戸の中から、声がした。
「名前を返して」
女の声が、いくつも重なっていた。
悠真は井戸の縁に近づいた。
中を覗く。
暗闇。
その底に、水面があった。
水面には、無数の顔が映っている。
女たち。
黒川千尋。
榊水紀。
そして佐伯の兄。
さらに、佐伯律。
全員が悠真を見上げている。
井戸の奥から、白い手が伸びた。
悠真は逃げなかった。
手は彼を掴まなかった。
代わりに、何かを差し出した。
古い宿泊者台帳。
水で膨れ、黒ずんでいる。
悠真はそれを受け取った。
表紙には、白蘭荘、と書かれている。
ページを開く。
そこには、名前が並んでいた。
赤い線で消された名前。
黒く塗りつぶされた名前。
破り取られた名前。
すべて、失踪した者たちの記録だった。
その最後のページ。
新しいインクで、名前が一つ増えている。
佐伯律。
さらに、その下。
岸本悠真。
悠真は息を止めた。
自分の名前の横には、まだ赤い線は引かれていない。
だが、ペンが置かれている。
誰かが、これから消そうとしている。
その時、背後で声がした。
「そこまで見たなら、もう戻れませんよ」
悠真は振り返った。
地下三階の入口に、男が立っていた。
ホテルの制服。
年老いている。
だが胸元の名札には、はっきり読める。
吉岡。
七年前、水紀の背後にいた男。
行方不明になったはずの男。
吉岡は微笑んだ。
「井戸は、見た者を必ず覚える」
その背後で、鉄扉がゆっくり閉まった。
(第6章につづく)

コメント