第九十章 父の名
「生まれ名――榊兵庫」
その一行を。
新之介は。
何度も読み返した。
間違いではない。
写し違いでもない。
海の向こうにいる男は。
そう答えた。
役名ではない。
借りた名でもない。
生まれた時から。
榊兵庫。
「父上と」
家定が言いかけ。
止めた。
「……今、江戸におられる榊兵庫殿と」
「同じ名ですね」
「はい」
「どうします」
「本人へ聞きます」
「どちらに」
「両方です」
水野がため息をつく。
「もう」
「その答えにも慣れた」
「嬉しくありません」
「知っている」
◇
江戸にいる榊兵庫は。
御座所の近くにいた。
新之介が入ると。
父は。
紙を一枚。
机へ置いた。
「来たか」
「はい」
「聞いたか」
新之介は止まる。
「何を」
「海の兵庫」
「もう」
「ご存じで」
「ああ」
「誰から」
「家定殿」
「早いですね」
「そなたが遅い」
「今回は」
「言われても仕方ありません」
兵庫が。
少し笑った。
だが。
目は笑っていない。
「父上」
「何だ」
「今の名は」
「榊兵庫」
「生まれた名は」
兵庫は。
すぐには答えなかった。
新之介の胸の奥が。
ゆっくり冷える。
「父上」
「……宗次郎」
「姓は」
「榊」
「では」
「榊宗次郎」
「ああ」
新之介は。
目を閉じた。
◇
「いつから」
「兵庫を」
「三十四年前」
「なぜ」
「兄が死んだと」
「されたからだ」
「兄上の名が」
「榊兵庫?」
「ああ」
「生まれた時から」
「ああ」
「その兄上が」
「今」
「海に?」
「おそらく」
「知っていた?」
兵庫――宗次郎は。
また黙る。
「可能性は」
「いつから」
「十年前」
新之介の顔が変わる。
「十年前?」
「ああ」
「それまで」
「死んだと」
「思っていた?」
「そうだ」
「十年前」
「何が」
「長崎から」
「文が来た」
「誰から」
「差出人なし」
「内容」
宗次郎は。
机の紙を。
新之介へ押した。
「これだ」
◇
古い。
紙の端が。
黄色くなっている。
短い文。
――宗次郎へ。
――兵庫の名を。
――そのまま使え。
――私は戻らぬ。
新之介の手が止まる。
次。
――榊の家へ。
――私が戻れば。
――二人の兵庫が生まれる。
――なら。
――私が海で消えた方がよい。
最後。
――ただし。
――私が死んだことにはするな。
新之介は。
父を見る。
「これを」
「十年前から」
「持っていた?」
「ああ」
「誰にも」
「言わなかった」
「ああ」
「なぜ」
「怖かった」
「何が」
「兄が生きていることが?」
「違う」
宗次郎は。
低く答えた。
「私が」
「兵庫ではなくなることが」
◇
新之介は。
父の顔を見た。
榊兵庫。
その名で。
自分を育て。
叱り。
黙り。
家を守り。
何度も。
命を張った男。
「父上」
「言え」
「三十四年前」
「兄上が死んだと」
「された」
「ああ」
「誰が確認」
「……沢渡」
新之介は。
額へ手を当てた。
宗次郎が言う。
「何だ」
「いえ」
「もう驚かないつもりだったのですが」
「わしも」
「そこは後で」
◇
「兄上は」
「どうして消えた」
「三十六年前」
「長崎へ行った」
「何のため」
「御用」
「誰の」
「幕府」
「表向きは」
「商いの調べ」
「実際は」
「海外へ流れた」
「武具と人の道を調べる」
「見捨役?」
「まだ」
「私は知らなかった」
「御影?」
「関係していた可能性はある」
「兄上は」
「戻る予定だった?」
「ああ」
「その後」
「消息不明」
「二年」
「三年」
「そして」
「死亡扱い」
「家が」
「名を継げと」
「宗次郎殿へ」
「ああ」
「断った?」
「最初は」
「なぜ」
「兄が」
「死んだと思えなかった」
「それでも」
「継いだ」
「父が倒れた」
「家臣がいる」
「藩とのつながり」
「借り」
「約定」
「兵庫という名で」
「つながっていたものが多すぎた」
「つまり」
「家を残すため」
「そう思った」
宗次郎が。
苦く笑う。
「今までの連中と」
「同じだ」
◇
「全部は」
新之介が言った。
「同じではありません」
「何が違う」
「兄上が」
「死んだと」
「本当に信じていた時期がある」
「はい」
「家の中で」
「名を継ぐ仕組みも」
「元からあった」
「はい」
「そなたは」
「兄上の顔へ」
「変えられたわけでもない」
「声も」
「歩き方も」
「真似ていない」
「はい」
「でも」
宗次郎が自分で続けた。
「兄が生きていると知った後も」
「黙った」
「はい」
「そこは」
「私の行いだ」
「はい」
「厳しいな」
「父上ですから」
「他人なら」
「もう少し優しいのか」
「たぶん同じです」
「そうだろうな」
◇
「新之介」
「はい」
「そなたは」
「何と呼ぶ」
「何を」
「私を」
新之介は。
すぐ答えた。
「父上」
宗次郎が止まる。
「名ではなく?」
「はい」
「もし」
「海の兵庫が」
「本来の榊兵庫なら」
「それでも?」
「父上です」
「なぜ」
「私を育てたのは」
「そなたの行いだからです」
玄斎が。
宗一郎へ言った言葉と。
似ている。
「では」
「海の兵庫は」
「伯父上かもしれない」
「かもしれない?」
「血縁確認は」
「後です」
「そこまで疑うのか」
「最近」
「必要です」
宗次郎は。
声を出して笑った。
「そうだな」
◇
「しかし」
新之介が問う。
「兄上は」
「なぜ」
「戻る日本がない、と」
「言ったのでしょう」
「分かる」
「何が」
「榊兵庫として」
「戻れば」
「私がいる」
「はい」
「家へ戻れば」
「家督」
「土地」
「墓」
「家臣」
「何もかも」
「今の兵庫を中心に」
「三十四年動いた」
「はい」
「兄が」
「『自分こそ兵庫だ』と戻れば」
「全部を」
「取り返すことになる」
「本人は」
「望んでいない」
「だろうな」
「なら」
「兵庫ではない名で」
「戻れば」
宗次郎が。
新之介を見る。
「それも」
「兄には」
「自分を消すことになる」
新之介は黙った。
「兵庫として戻れば」
「私を消す」
「別の名で戻れば」
「自分を消す」
「だから」
「戻る日本がない」
◇
その言葉。
重かった。
どちらか。
ではない。
どちらを選んでも。
誰かが消える。
「父上」
「何だ」
「会いますか」
「兄に?」
「はい」
「怖い」
「はい」
「そなた」
「何でも」
「怖いまま会わせるな」
「でも」
「逃げる方が」
「後で怖いです」
「……」
「会いますか」
宗次郎は。
長く。
机の古い手紙を見る。
「会う」
「分かりました」
「ただし」
「何です」
「そなたも来い」
「なぜ」
「逃げ道が要る」
「私は」
「逃げ道ですか」
「かなり面倒な」
「逃げ道だ」
「褒められている気がしません」
「褒めておらぬ」
◇
海側。
返答は。
夕刻に来た。
榊兵庫。
生まれ名。
同じ。
年。
六十六。
帰国。
希望せず。
面会。
条件付きで希望。
「条件」
新之介が読む。
――榊家では会わない。
――江戸城でも会わない。
――兵庫の名で呼ばない。
宗次郎の顔が変わる。
「では」
「何と」
「本人は」
「呼び名未定」
「また未定か」
「よいと思います」
「何が」
「兄上自身が」
「兵庫の名を」
「どうするか」
「まだ決めていない」
「なら」
「会う時」
「兄上」
「それは」
宗次郎が言う。
「よいだろう」
「場所は」
紙。
――品川沖。
――小舟。
――双方二名まで。
「二名」
「父上」
「私」
「兄上側は」
――本人。
――喜兵衛。
「なぜ喜兵衛殿」
「帰る場所がない話を」
「一番聞いているからでしょう」
◇
翌朝。
品川沖。
大きな船ではない。
ただの舟。
屋根もない。
真ん中に。
低い板。
宗次郎。
新之介。
向こうから。
喜兵衛。
そして。
一人の老人。
六十を越えている。
日に焼け。
髷はない。
頬に。
古い傷。
男は。
宗次郎を見た。
宗次郎も。
男を見る。
「……兄上」
最初に。
宗次郎が言った。
男の顔が。
少しだけ。
崩れた。
「その呼び方は」
「嫌か」
「分からない」
「では」
「今は」
「今は」
男は。
小さく頷く。
「それでよい」
◇
三十四年以上。
兄弟。
会っていない。
だが。
すぐに抱き合うことも。
泣くこともない。
ただ。
互いの顔を見る。
「老けたな」
海の男が言う。
宗次郎が。
即座に返す。
「そなたもだ」
「昔から」
「口だけは」
「変わらぬ」
「兄上も」
新之介が。
少し息を吐く。
少なくとも。
そのやり取りは。
作ったものには見えない。
だが。
見えるだけ。
証ではない。
「新之介」
宗次郎が言う。
「今」
「疑ったな」
「少し」
海の男が笑う。
「聞いていた通りだ」
「誰から」
「喜兵衛」
「またですか」
◇
「新之介」
海の男が言う。
「はい」
「そなたは」
「宗次郎を」
「父と呼ぶのだな」
「はい」
「迷わず?」
「そこは」
「はい」
「なぜ」
「育てられました」
「叱られました」
「守られました」
「腹も立ちました」
「全部」
「この人とのことです」
「血は」
「確認していない?」
「父上との?」
「ああ」
「していません」
「では」
「違ったら」
「変わりません」
海の男が。
新之介を。
長く見る。
「そうか」
◇
「兄上」
宗次郎が言う。
「十年前の文」
「読んだ」
「ああ」
「なぜ」
「戻らぬと」
「書いた」
「書いた通りだ」
「二人の兵庫を」
「作りたくなかった」
「なら」
「なぜ」
「死んだことにするなと」
「書いた」
海の男の目が。
鋭くなる。
「私は」
「生きていたからだ」
「……」
「そなたに」
「兵庫を譲ることと」
「私が死んだことになるのは」
「別だ」
宗次郎が。
言葉を失う。
「私は」
「海で」
「榊兵庫ではない名も」
「何度も使った」
「だが」
「だからといって」
「榊兵庫として生まれた私が」
「消えたわけではない」
「なのに」
「日本の記録では」
「私は死んだ」
「墓まで」
「ある」
「墓?」
新之介が問う。
「ああ」
「見た?」
「十年前」
「夜に」
「江戸へ戻った」
宗次郎が立ち上がりかける。
「何!」
「座って」
新之介が言う。
「父上」
「十年前」
「兄上は」
「江戸に?」
「ああ」
◇
「どこまで」
「来た」
「榊家の門」
「入らなかった」
「なぜ!」
宗次郎が叫ぶ。
「中に」
「子どもの声がした」
「新之介?」
「おそらく」
「私は」
「門の外で」
「聞いた」
「そなたが」
「『父上』と」
「呼ばれているのを」
宗次郎の顔が。
崩れる。
「それで」
「帰った」
「なぜ」
「もう」
「私が戻る家ではないと」
「思った」
「勝手に!」
宗次郎が怒鳴る。
「勝手に決めたのは」
「そなたも同じだ!」
兄が返す。
「何」
「私が死んだと」
「決めた!」
「死んだと聞かされた!」
「十年前」
「文を送った!」
「それでも」
「そなたは」
「榊兵庫を」
「続けた!」
「家があった!」
「では」
「私は!」
兄の声が。
震える。
「家がなかった!」
◇
喜兵衛が。
黙って二人を見る。
新之介も。
止めない。
兄弟の話。
「私は」
海の男が続ける。
「戻れば」
「家督を取り返す男になる」
「そなたを」
「偽物にする」
「新之介から」
「父を奪う」
「家臣から」
「主を変える」
「そんなものを」
「私は望んでいない!」
「なら」
宗次郎が叫ぶ。
「兄として」
「戻ればよかった!」
「兵庫でなくても!」
「その言葉を」
海の男は。
低く返した。
「三十四年前に」
「聞きたかった」
宗次郎が止まる。
「私の名を」
「継ぐ前に」
「生きているか」
「探してほしかった」
「探した!」
「二年だ!」
「何」
「二年で」
「諦めた!」
「父が!」
「家が!」
「役目が!」
「役目を盾にするな」
海の男が言った。
新之介の胸が。
痛む。
宗次郎も。
完全に黙った。
◇
「その言葉」
宗次郎が。
やっと言う。
「母も」
「よく申した」
「ああ」
「覚えている」
「……」
「だから」
兄は言う。
「余計に」
「腹が立った」
「そなたが」
「家のために」
「私の名を継いだと知った時」
「母の言葉を」
「忘れたのかと思った」
宗次郎が。
顔を伏せる。
「忘れていた」
「いや」
「知っていた」
「知っていて」
「役目を使った」
「兄上」
「何だ」
「すまなかった」
兄は。
すぐには答えない。
「その言葉を」
「受け取るかは」
「今決めない」
「……そうか」
「だが」
「聞いた」
◇
新之介が。
初めて口を開く。
「一つ」
「何だ」
海の男。
「そなたを」
「何と呼べば」
「兵庫では」
「呼ばない約束でした」
「ああ」
「新しい名は」
「決めていない」
「なら」
「兄上」
男が。
新之介を見る。
「そなたが?」
「父上の兄なら」
「はい」
「血縁が違ったら」
「その時考えます」
男が。
思わず笑う。
「本当に」
「面倒な男だな」
「よく言われます」
「では」
「今は」
「伯父上で」
海の男は。
顔を伏せた。
「それは」
「久しぶりだ」
「何が」
「役ではない呼ばれ方」
◇
「伯父上」
「何だ」
「日本へ」
「戻りたいですか」
「その問いを」
「聞きに来たのだろう」
「はい」
「答えは」
「分からぬ」
「昨日は」
「戻る日本がないと」
「言った」
「ああ」
「今は」
男は。
宗次郎を見る。
新之介を見る。
品川の岸を見る。
「戻る家は」
「昔のままではない」
「はい」
「榊兵庫という席も」
「もう私のものではない」
「はい」
宗次郎が。
小さく口を開く。
「兄上」
「何だ」
「席は」
「返せる」
新之介が父を見る。
「父上」
「黙っていろ」
「はい」
宗次郎は。
兄を見る。
「榊兵庫の名」
「家督」
「全部」
「返す」
「いらぬ」
即答。
「なぜ」
「それをすれば」
「そなたが消える」
「私は宗次郎へ」
「戻る」
「三十四年」
「兵庫として生きたそなたが」
「そんなに簡単に」
「宗次郎へ戻れるのか」
宗次郎が。
答えられない。
「私が」
兄は続ける。
「兵庫を取り返せば」
「今度は」
「そなたが」
「戻る場所を失う」
◇
「では」
新之介が言う。
「名を」
「一つの席だと」
「考えるのを」
「やめませんか」
二人が見る。
「何」
「榊兵庫という家督名」
「それは」
「今の父上が」
「三十四年」
「使った」
「はい」
「伯父上は」
「その前に」
「生まれ名として」
「使った」
「はい」
「なら」
「どちらが本物か」
「決めなくてよい」
「家では」
宗次郎が言う。
「そうはいかぬ」
「なぜ」
「家督がある」
「では」
「家督と」
「人の名前を」
「分ける」
海の男の目が動く。
「どういう」
「榊家当主としての兵庫」
「生まれ名としての兵庫」
「同じ文字でも」
「行いを分ける」
「記録で?」
「はい」
「それで」
宗次郎が問う。
「兄は」
「何と」
「呼ばれる」
「本人が決める」
「まだ決まっていない」
「なら」
「未定」
海の男が。
少し笑う。
「またか」
「便利です」
◇
「私は」
海の男が言う。
「兵庫という名を」
「捨てたいわけではない」
「はい」
「でも」
「榊家当主へ」
「戻りたいわけでもない」
「はい」
「なら」
「それを」
「そのまま残す」
「はい」
「そんな」
「中途半端なことが」
「許されるか」
「誰に」
新之介が問う。
男が止まる。
「……」
「誰の許しが」
「必要です」
「家?」
「幕府?」
「父上?」
「私?」
「それとも」
「そなた自身?」
男は。
しばらく。
答えなかった。
「分からぬ」
「では」
「まだ決めない」
「……」
「腹が立つな」
「よく言われます」
◇
喜兵衛が。
ようやく。
口を開いた。
「私にも」
「同じです」
「何が」
「戻る日本がない」
「家は」
「他人のもの」
「名は」
「死者のもの」
「役を受ければ」
「戻れる」
「でも」
「それでは」
「役へ戻るだけ」
「はい」
「なら」
「帰国の前に」
「戻る場所を」
「作る必要がある」
「そう思います」
「どこに」
「寺?」
「町?」
「城?」
「分かりません」
「また」
「だから」
新之介は言う。
「本人たちと」
「作ります」
◇
その日の午後。
仮交渉会議。
議題が。
一つ増えた。
――帰国者仮受入。
家定。
阿部。
水野。
町側。
寺側。
海の御影側。
帰国希望者側。
志乃。
清太郎。
新之介。
「場所を」
家定が言う。
「どこにする」
「江戸城?」
阿部が首を振る。
「役へ戻す意味が強すぎる」
「寺?」
「喜兵衛が言う」
「寺請へ」
「また入れられるように見える」
「町屋?」
「町へ」
「負担を押しつける」
「再起館?」
新之介が。
少し考える。
「今のところ」
「一番近い」
「理由」
「名前」
「役」
「家」
「未定の者を」
「すでに」
「受け入れている」
志乃が頷く。
「ただし」
「何です」
「再起館へ入ったら」
「再起館の人になる」
「それも違います」
「では」
「一時滞在」
「期限」
「最初は」
「三十日」
「短くない?」
「延長は」
「本人と」
「受入側」
「立会い」
「仕事は」
「希望を聞く」
「身元は」
「確かめる」
「でも」
「元の家へ」
「必ず戻さない」
「罪は」
「帰国と分けて」
「見分」
「名前は」
「本人が選ぶ」
「未定も可」
清太郎が。
筆を走らせる。
◇
「一つ」
海の榊兵庫が。
会議へ参加していた。
「何です」
家定が問う。
「帰国者を」
「『帰国者』という役にするな」
全員が止まる。
「どういう」
「何年経っても」
「海から戻った者」
「異国を知る者」
「危ない者」
「珍しい者」
「そういう札を」
「貼り続けるな」
新之介が頷く。
「期間を」
「設ける?」
「何の」
「帰国者としての」
「特別な見分」
「はい」
「いつまで」
「三十日では短い」
「半年」
「長い」
「では」
家定が考える。
「最初の三十日」
「その後」
「必要な支援だけ」
「本人ごとに」
「期限を」
「一律ではなく?」
「はい」
「ただし」
「定期的に」
「まだ必要かを」
「確認する」
「役が」
「自分を守り始めないため」
「はい」
海の男が。
小さく笑った。
「これなら」
「戻れるかもしれぬ」
宗次郎が。
隣で。
何も言わず。
目を閉じた。
◇
だが。
その時。
清太郎が。
一通の書状を持ってきた。
「榊原様」
「何です」
「榊家から」
「家?」
「はい」
「誰から」
「古参の家臣」
「内容」
清太郎の顔が。
曇っている。
「榊兵庫殿が」
「二人いるとの風聞を」
「聞いたらしく」
「何と」
紙。
――榊家家中。
――緊急評定を願う。
――家督の正統を。
――早急に定められたし。
新之介は。
目を閉じた。
宗次郎が。
苦く笑う。
「来たな」
海の男も。
笑わない。
「やはり」
「戻る場所など」
「なかった」
「まだ」
新之介が言う。
「決めない」
「家中は」
「決めろと言っている」
「はい」
「どうする」
新之介は。
書状を見る。
「家中へ」
「二人を」
「並べます」
「本物を選ばせる?」
「違います」
「では」
「榊兵庫という名で」
「それぞれが」
「何をしたか」
「聞いてもらう」
「そして」
宗次郎が問う。
「家督は」
「別に」
「決める」
「名と」
「家督を」
「分ける?」
「はい」
「家中が」
「納得するか」
「分かりません」
「また」
「でも」
新之介は。
二人の兵庫を見る。
「どちらか一人を」
「消すよりは」
「先に」
「やる価値があります」
◇
その日の夕刻。
榊家。
座敷。
二人の。
榊兵庫。
いや。
一人は。
榊宗次郎。
現在の家督名。
榊兵庫。
もう一人は。
生まれ名。
榊兵庫。
現在の呼び名。
未定。
その二人が。
家臣たちの前へ。
並んだ。
ざわめき。
「殿が」
「二人」
「どちらが」
「本物」
新之介が。
前へ。
「今日は」
「それを決めません」
家臣たちが騒ぐ。
「若!」
「それでは家が!」
「家督は!」
「御役目は!」
「落ち着け!」
宗次郎が怒鳴る。
その声で。
家臣たちは。
反射的に黙った。
海の男が。
それを見る。
「なるほど」
「何です」
「三十四年」
「兵庫だった声だ」
宗次郎が。
兄を見る。
「嫌味か」
「少し」
◇
新之介が言う。
「まず」
「現在」
「榊家の家督を」
「担ってきたのは」
「この方」
宗次郎。
「三十四年」
「はい」
「その行い」
「決定」
「責任」
「すべて」
「この方へ」
「では」
古参家臣が問う。
「もう一人は」
「生まれた時から」
「榊兵庫」
「この方が」
「三十六年前まで」
「家督継承予定者だった可能性が高い」
「なら」
「本来は!」
「本来」
新之介が止める。
「その言葉で」
「三十四年を」
「消さないでください」
家臣が黙る。
「では」
「どうする」
「聞きます」
「誰に」
「二人に」
◇
「父上」
「何だ」
「家督を」
「続けたいですか」
宗次郎は。
長く考えた。
「続けたい」
兄が。
僅かに顔を上げる。
「理由」
「三十四年」
「守った」
「最後まで」
「自分の行いとして」
「見たい」
「榊兵庫の名は」
「……」
「そこは」
「分からぬ」
「では」
「未定」
「腹が立つが」
「そうだ」
◇
「伯父上」
「その呼び方は」
「今はよい」
「家督を」
「取り戻したいですか」
「いらぬ」
「榊兵庫の名は」
「捨てたくない」
「では」
「家督なし」
「生まれ名として」
「榊兵庫を」
「使う?」
男は。
座敷を見る。
家臣。
仏壇。
柱。
庭。
自分が。
かつて。
帰るはずだった場所。
「……今は」
「使いたい」
宗次郎が。
兄を見る。
「二人」
「榊兵庫か」
「ああ」
「面倒だな」
「そなたが言うか」
二人。
初めて。
少し笑った。
◇
家臣の一人が。
困り果てる。
「では」
「我々は」
「どちらを」
「殿と」
「家督を持つ方を」
新之介が答える。
「現在は」
「父上」
「榊宗次郎」
「家督名として榊兵庫」
「もう一人の兵庫殿は」
「当主ではない」
「では」
「何と」
「呼ぶ」
海の男が。
自分で答えた。
「兵庫でよい」
家臣が。
宗次郎を見る。
「こちらも」
「兵庫」
「はい」
「分からぬ!」
新之介が。
少し笑った。
「では」
「宗次郎殿と」
「兵庫殿」
「それでは」
宗次郎が呻く。
「わしが」
「昔の名へ戻ったようだ」
「嫌ですか」
「……」
「今は」
「嫌ではない」
◇
その時。
庭先。
急使。
「榊原様!」
「何が」
「米利堅船より!」
「またですか」
「はい!」
「帰国希望者の中から!」
「新たに」
「名乗り出た者が!」
「誰」
使者が。
紙を見る。
「その者」
「自分を」
「榊原新之介殿の」
「兄だと!」
座敷が。
完全に静まった。
宗次郎が。
立つ。
「新之介の」
「兄?」
海の兵庫も。
顔を上げる。
「名は」
新之介が問う。
使者は。
紙を読む。
「生まれ名」
「榊原新三郎」
新之介の目が細くなる。
堀田新三郎ではない。
新之介でもない。
榊原新三郎。
「父は」
使者が続ける。
「榊兵庫」
新之介は。
二人の兵庫を見た。
宗次郎。
海から戻った兵庫。
どちらも。
顔色が変わっている。
「母は」
使者の声。
「榊原お澄」
宗次郎が。
息を呑んだ。
新之介は。
初めて聞く名ではなかった。
幼い頃。
家の奥に。
一枚だけ。
裏返して置かれていた位牌。
そこに。
薄く残っていた名。
――澄。
「父上」
新之介が。
宗次郎を見る。
「ご存じですね」
宗次郎は。
答えなかった。
海の兵庫が。
代わりに。
低く言った。
「宗次郎」
「まさか」
「まだ」
「新之介へ」
「話していないのか」
新之介の胸が。
冷たくなる。
「何を」
二人の兵庫。
どちらも。
新之介を見られない。
やがて。
宗次郎が。
絞り出すように言った。
「新之介」
「はい」
「そなたには」
「兄がいた」
「いた?」
「ああ」
「死んだのでは」
宗次郎は。
目を閉じた。
「死んだと」
「聞かされた」
新之介は。
何も言わなかった。
ただ。
玄斎の声が。
頭のどこかで。
聞こえた気がした。
――もう、その言葉は聞き飽きた。
(第九十一章へ続く)

コメント