上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第九十一章

目次

第九十一章 兄の名

「そなたには」

「兄がいた」

 宗次郎の言葉は。

 新之介の耳へ入った。

 だが。

 意味になるまで。

 少し時間がかかった。

「いた?」

「ああ」

「死んだと」

「聞かされた?」

「ああ」

「誰に」

 宗次郎は。

 答えない。

 新之介が。

 先に言った。

「沢渡ですか」

「……そうだ」

 海から戻った兵庫が。

 深く息を吐く。

「またあの医者か」

「兄上」

「何だ」

「そなたも知っていたのですか」

「子がいたことは」

「知っていた」

「生きていることは」

「知らなかった」

「では」

「母上――」

 新之介は。

 紙に残された名を見る。

「お澄という方を」

「知っていた?」

 二人の兵庫が。

 同時に。

 黙った。

 その沈黙だけで。

 新之介には。

 十分だった。

 ◇

「父上」

 新之介は宗次郎を見る。

「母上の名を」

「私は」

「ほとんど聞かされていません」

「ああ」

「なぜ」

「死んだからだ」

「それだけ?」

「……」

「父上」

「それだけではない」

 新之介は。

 ゆっくり座った。

「では」

「最初から」

 宗次郎が顔を上げる。

「今ここでか」

「今まで」

「後にしたことが」

「多すぎます」

 海の兵庫が。

 小さく笑った。

「それは」

「宗次郎の負けだな」

「兄上は黙っておれ」

「そなたが三十四年黙ったのだ」

「今くらい」

「わしが喋ってもよいだろう」

 ◇

「お澄は」

 海の兵庫が言った。

「私の許嫁だった」

 新之介の目が動く。

「妻では」

「祝言の前」

「私が長崎へ出た」

「その時」

「子が?」

「……ああ」

 宗次郎が。

 苦い顔で続ける。

「新三郎だ」

「では」

 新之介が問う。

「海の兵庫殿の」

「実子?」

「そのはずだ」

 海の兵庫が答える。

「そのはず?」

「私は」

「生まれたところを見ていない」

「長崎へ」

「出た後だからだ」

「記録は」

「ある」

 宗次郎。

「寺」

「産婆」

「榊家」

「三つ」

「後で見ます」

「今」

「血を決めない?」

「はい」

 海の兵庫が。

 少し笑った。

「そなた」

「本当に」

「家族相手でも変わらんな」

「最近」

「家族ほど必要だと」

「思っています」

 ◇

「では」

 新之介が宗次郎へ。

「母上は」

「兄上を産んだ後」

「どうした」

「私と」

「夫婦になった」

 新之介は。

 目を閉じた。

「いつ」

「兄が」

「死んだとされた後」

「つまり」

「海の兵庫殿が」

「死んだとされた後?」

「そうだ」

「母上は」

「望んだ?」

「……」

「父上」

「望んだ」

「本当に」

「少なくとも」

「私は」

「そう聞いた」

 海の兵庫が。

 静かに言った。

「そこは」

「私も責めぬ」

 宗次郎が兄を見る。

「何」

「私は」

「死んだことになった」

「お澄へ」

「三年待てとも」

「一生待てとも」

「言える立場ではない」

「兄上」

「ただし」

 海の兵庫の声が。

 少し硬くなる。

「新三郎のことは」

「別だ」

 ◇

「新三郎殿は」

 新之介が問う。

「榊家で育った?」

「最初の五年」

 宗次郎が答える。

「では」

「私は」

「会っている?」

「そなたが生まれた時」

「新三郎は六つ」

「……」

「一年ほど」

「同じ屋敷にいた」

「覚えていません」

「そなたは赤子だ」

「では」

「兄上は」

「私を」

「知っていた」

「ああ」

 宗次郎の声が。

 掠れる。

「よく」

「そなたの寝床へ」

「行った」

「何を」

「見ていた」

「それだけ?」

「一度」

「そなたが泣き止まぬ時」

「新三郎が」

「自分の指を握らせた」

「そしたら」

「泣き止んだ」

 新之介の胸に。

 存在しないはずの記憶が。

 痛みのように生まれる。

「その人を」

「なぜ」

「家から出した」

 ◇

 宗次郎は。

 しばらく。

 何も言わなかった。

「出したのではない」

「では」

「連れて行かれた」

「誰に」

「幕府」

「何のため」

「家督見分」

「何」

 海の兵庫の顔が。

 一気に険しくなる。

「宗次郎」

「それを」

「私は知らぬぞ」

「だから」

「言わなかった」

「今それを言うか!」

 兄が。

 宗次郎の胸ぐらを掴みかける。

 新之介が。

 手を出さない。

「兄上」

「離せと」

「言わぬのか」

「父上が」

「自分で離してもらうべき話です」

 宗次郎が。

 苦い顔で頷く。

「兄上」

「聞いてくれ」

 海の兵庫が。

 手を止めた。

 ◇

「当時」

 宗次郎が言う。

「榊家の兵庫が」

「本当に死んだのか」

「疑う者がいた」

「当然だ」

「死体は」

「なかった」

「沢渡の証文だけ」

 新之介が言う。

「それで」

「新三郎殿が」

「本来の兵庫の子として」

「家督を継ぐ可能性が」

「あった」

「はい」

「でも」

「父上が兵庫を継いだ」

「はい」

「二つの系統」

「はい」

「それを」

「誰かが整理したかった」

「……そうだ」

「誰」

「当時の老中筋」

「御影」

「見捨役」

「全部」

「少しずつ関わっていた」

「一人ではない?」

「分からぬ」

「では」

「そう記録します」

 ◇

「新三郎は」

「六つ」

「子どもだった」

「はい」

「それを」

「『どちらが榊家を継ぐべきか』」

「見分するため」

「外へ?」

「表向きは」

「別邸で養育」

「実際は」

「沢渡のところへ」

 海の兵庫が。

 歯を食いしばる。

「六つの子を」

「何に使った」

「声」

「顔」

「癖」

「家の記憶」

「全部」

「調べた」

 新之介の目が。

 冷たくなる。

「代替計画?」

「もっと前だ」

「では」

「原型?」

「おそらく」

「榊兵庫という名を」

「誰へでも継げるように」

「子の記憶まで」

「取った?」

「……」

 宗次郎は。

 答えられない。

 ◇

「母上は」

 新之介が問う。

「知っていた?」

「最初は」

「養育先が変わったと」

「聞かされた」

「その後」

「半年」

「新三郎が」

「帰ってこない」

「お澄は」

「毎日」

「聞いた」

「誰に」

「私」

「沢渡」

「家臣」

「役人」

「それで」

「ある日」

「死亡通知」

 海の兵庫が。

 顔を覆った。

「何と」

「病」

「高熱」

「遺体は」

「感染を避けるため」

「すでに葬った、と」

「確認は」

 新之介が問う。

「した」

 宗次郎が答える。

「何を」

「墓」

「死亡証文」

「遺品」

「遺体は」

「見ていない」

「沢渡が」

「確認」

「ああ」

 ◇

「母上は」

「信じた?」

「信じなかった」

「では」

「探した?」

「探した」

「どれくらい」

「四年」

 新之介が。

 父を見る。

「父上も?」

「最初の一年」

「……」

「その後は」

「やめた」

「なぜ」

「そなたが」

「生まれた」

 部屋の空気が。

 重くなる。

「私が」

「生まれたから?」

「お澄が」

「壊れそうだった」

「新三郎を探す」

「そなたを育てる」

「家を守る」

「全部」

「できなかった」

「だから」

「私は」

「新三郎の死を」

「受け入れようとした」

「母上へも」

「受け入れろと?」

 宗次郎の目が。

 閉じる。

「言った」

 ◇

「何と」

「もう」

「新之介がいる」

 新之介は。

 動かなかった。

 海の兵庫が。

 宗次郎を見る。

 怒りより。

 哀れみのような顔。

「宗次郎」

「ああ」

「それは」

「言ってはならぬ」

「分かっている」

「今は?」

「ああ」

「当時は」

「家を」

「前へ進めるためだと」

「思った」

 新之介が。

 静かに言う。

「私を」

「兄上の代わりにした?」

「違う!」

 宗次郎が。

 初めて強く否定する。

「そこは違う!」

「では」

「何が」

「そなたは」

「そなただ!」

「生まれた時から!」

「新三郎の代わりではない!」

「なら」

「なぜ母上へ」

「『新之介がいる』と」

「言った」

 宗次郎が。

 言葉を失う。

「父上」

「人は」

「言葉で役にされます」

「私は」

「兄上の代わりではないとしても」

「その言葉は」

「母上へ」

「代わりがいると」

「言ったのと同じです」

 宗次郎は。

 深く。

 頭を下げた。

「……そうだ」

 ◇

「母上は」

「その後」

「どうした」

「探すのを」

「やめなかった」

「父上に隠れて?」

「ああ」

「誰と」

「一人」

「女中」

「名は」

「お久」

 新之介の顔が変わる。

「久殿の母上?」

「同じかは」

「分からぬ」

「また」

「だが」

「年は合う」

 海の兵庫が言う。

「お澄は」

「新三郎を探すため」

「大奥」

「御影」

「沢渡」

「全部へ」

「手を伸ばした」

「その結果」

「何を」

「知りすぎた」

 宗次郎の声が。

 低くなる。

「何を」

「新三郎だけではない」

「子どもへ」

「別の名を」

「与える仕組み」

「真崎半九郎」

「榊原新之介」

「堀田新三郎」

「その前の」

「もっと古い」

「家督代替」

「それで」

「母上は」

「死んだ?」

「表向きは」

「病」

「本当は」

「分からない」

「確認は」

「私がした」

「遺体を?」

「見た」

 新之介が。

 初めて。

 少し息を吐く。

「沢渡だけではない?」

「ああ」

「私」

「産婆」

「寺僧」

「三人」

「死は」

「確かだと思う」

「原因は」

「分からない」

「毒?」

「病?」

「疲れ?」

「今も」

「分からない」

 新之介が頷く。

「分からないまま」

「残します」

「……ああ」

 ◇

「では」

 海の兵庫が問う。

「新三郎は」

「六つで連れ出され」

「死んだことにされ」

「その後」

「どうやって」

「海へ」

「そこを」

「本人へ」

「聞きます」

 新之介が言う。

「父上」

「何だ」

「会いますか」

「……会う」

「伯父上」

「私も」

「なぜ」

「もし」

「私の子なら」

「聞くことがある」

「何を」

「なぜ」

「生きていると」

「知らせなかった」

 新之介は。

 海の兵庫を見る。

「伯父上」

「何だ」

「それ」

「本人へ」

「責める前提で」

「聞かないでください」

「なぜ」

「六つで」

「家から出された人です」

「……」

「戻れなかった理由を」

「先に」

「聞いてください」

 海の兵庫は。

 長く黙り。

 やがて。

「分かった」

 ◇

 翌日。

 一番船から。

 小舟が出た。

 乗る者。

 一人。

 榊原新三郎。

 ただし。

 その名も。

 本人の生まれ名という申告。

 まだ。

 確定ではない。

 場所は。

 再び。

 品川沖。

 中立の舟。

 新之介。

 宗次郎。

 海の兵庫。

 そして。

 清太郎。

「なぜ私まで」

 清太郎が問う。

「記録」

「家族の話ですよ」

「だからです」

「普通」

「家族だけで」

「聞きませんか」

「普通の家族なら」

「そうかもしれません」

「普通では」

「ない?」

 三人。

 誰も否定しなかった。

 ◇

 小舟が。

 近づく。

 男。

 四十ほど。

 新之介より。

 少し年上。

 顔は。

 似ていない。

 全くではない。

 目元。

 顎。

 何かが。

 宗次郎より。

 海の兵庫に似ている。

 だが。

 そんなことは。

 証ではない。

 男が。

 舟へ移る。

 誰も。

 すぐには口を開かない。

 最初に。

 男が言った。

「新之介」

 新之介の胸が。

 僅かに揺れる。

「はい」

「大きくなった」

「覚えている?」

「ああ」

「私は」

「覚えていません」

「当然だ」

「それでも」

「兄と」

「呼んでよいですか」

 男は。

 少し笑った。

「今は」

「そのために来た」

 ◇

「新三郎」

 宗次郎が。

 声を出す。

 男の顔が。

 一瞬。

 硬くなる。

「父上」

 ではない。

「宗次郎殿」

 宗次郎の顔が。

 崩れる。

「そうか」

「……」

「そう呼ぶか」

「はい」

「なぜ」

「あなたは」

「私の父ではない」

「分かっている」

「でも」

「六つまで」

「育ててもらった」

「……」

「だから」

「嫌いではありません」

「それは」

「ありがたい」

「ただ」

「許してはいません」

「何を」

「私を」

「探すのを」

「やめたこと」

 宗次郎が。

 頭を下げた。

「すまなかった」

「その言葉は」

「聞きます」

「受け取るかは」

「今決めません」

「……ああ」

 ◇

 海の兵庫。

 実父かもしれない男。

 新三郎を見る。

「私を」

「知っているか」

「写真で」

 全員が止まる。

「写真?」

「異国で」

「見ました」

「誰が」

「持っていた」

「御影」

「いつ」

「二十年前」

「では」

「父だと」

「聞いた?」

「はい」

「それでも」

「知らせなかった?」

「知らせられなかった」

 海の兵庫の顔が。

 険しくなる。

「なぜ」

 新之介が。

 そっと言う。

「伯父上」

「分かっている」

 兄は。

 拳を緩める。

「先に聞く」

 ◇

「私は」

 新三郎が言う。

「六つで」

「沢渡のところへ」

「送られた」

「何をされた」

「榊兵庫の子として」

「何を覚えているか」

「毎日」

「聞かれた」

「家の間取り」

「家臣の名」

「父の癖」

「母の声」

「宗次郎殿の傷」

「全部」

「なぜ」

「榊家に」

「誰を戻しても」

「本物に見えるように」

 清太郎の筆が止まる。

「誰を」

「私は」

「知らなかった」

「その後」

「私と同じように」

「榊家を覚えさせられた子が」

「二人いた」

「何」

 宗次郎が。

 顔を上げる。

「では」

「新三郎の代替も」

「いた?」

「はい」

 新之介が。

 目を閉じる。

「やはり」

「一人の名を」

「残すため」

「人を増やした」

「はい」

 ◇

「私は」

 新三郎が続ける。

「十で」

「長崎へ」

「十三で」

「船」

「十五で」

「国外」

「なぜ」

「私が」

「榊兵庫の子だと」

「分かる者が」

「日本にいると」

「家督争いが」

「終わらないから」

「誰が」

「そう言った」

「松平左京」

 新之介の目が。

 鋭くなる。

「本人?」

「分かりません」

 新三郎が。

 即座に答える。

 新之介が。

 少し驚く。

「なぜ」

「顔は見た」

「声も聞いた」

「でも」

「今の話を聞けば」

「それだけでは」

「本人だと」

「言えないのでしょう」

 新之介が。

 初めて。

 兄らしい男へ。

 僅かに笑った。

「はい」

 ◇

「海で」

「何と」

「呼ばれた」

「最初は」

「榊原新三郎」

「そのまま?」

「はい」

「なぜ」

「榊兵庫の子だと」

「分からせるため」

「榊ではなく」

「榊原?」

「そうです」

「誰が」

「変えた」

「御影」

「理由」

「榊家から」

「少し外す」

「でも」

「榊と分かるように」

「中途半端ですね」

「はい」

 新三郎が。

 少し笑う。

「だから」

「私は」

「この名が嫌いでした」

「今は」

「嫌いではない?」

「今は」

「私が使った時間が」

「長すぎる」

「何年」

「三十年以上」

「なら」

「今の名として」

「榊原新三郎?」

「はい」

「生まれ名は」

「榊新三郎だった可能性?」

「そうです」

「分けて」

「記録してください」

 清太郎が頷く。

 ◇

「なぜ」

 海の兵庫が問う。

「父へ」

「知らせなかった」

「二十年前」

「父が生きていると」

「知ったなら」

「なぜ」

 新三郎は。

 海を見る。

「父上」

 初めて。

 そう呼んだ。

 海の兵庫の目が。

 大きく揺れる。

「私は」

「日本へ戻ることより」

「そなたを」

「探しました」

「何」

「どこに」

「海」

「長崎」

「唐」

「米利堅」

「十年」

「追った」

「会えなかった」

「……」

「そして」

「十年前」

「榊家へ」

「そなたが文を出したことを」

「知った」

 新之介の顔が変わる。

「宗次郎へ送った文?」

「はい」

「誰が」

「見せた」

「海の御影」

「では」

「そこで」

「父上が」

「榊家へ戻らないと」

「知った」

「はい」

「だから」

 新三郎が。

 実父を見る。

「私も」

「戻らないことにした」

「なぜ!」

「父上が」

「戻れない場所へ」

「私だけ」

「戻りたくなかった」

 ◇

「馬鹿者!」

 海の兵庫が。

 叫んだ。

「何です」

「わしは」

「そなたのために」

「戻らなかったのではない!」

「知っています」

「なら!」

「私が勝手に」

「父上の選びを」

「自分の理由にしました」

「それを」

 新三郎は。

 はっきり言った。

「今は」

「間違いだったと」

「思っています」

 新之介が。

 兄を見る。

「なぜ」

「人の選びを」

「自分の命令にしたからです」

 新之介は。

 ゆっくり頷いた。

「はい」

 ◇

「では」

 新之介が問う。

「今」

「日本へ」

「戻りたいですか」

 新三郎は。

 すぐには答えなかった。

「戻りたい」

「何として」

「榊兵庫の子ではなく」

「榊家の跡取りでもなく」

「榊原新之介の兄でもなく」

 一呼吸。

「新三郎として」

「姓は」

「まだ」

「榊原を使いたい?」

「分からない」

「榊へ戻したい?」

「それも」

「分からない」

「では」

 新之介が言う。

「名は」

「一部未定」

「清太郎殿」

「はい」

 筆。

 ――現名、榊原新三郎。

 ――生まれ名、榊新三郎の可能性。

 ――姓について本人、再検討中。

 ――帰国希望。

 ――家督要求、現時点でなし。

 ――家族関係、確認継続。

 新三郎が。

 その紙を見る。

「それで」

「よい」

 ◇

「兄上」

 新之介が言った。

 新三郎が。

 ゆっくり顔を上げる。

「何だ」

「戻る場所を」

「どこに」

「再起館?」

「最初は」

「嫌ですか」

「いや」

「ただ」

「一つ」

「何です」

「榊家へ」

「行きたい」

 宗次郎が。

 顔を上げる。

「家督を」

「取りに?」

「違います」

「では」

「母上の」

「墓へ」

 ◇

 夕刻。

 榊家。

 裏手。

 小さな墓。

 新之介は。

 子どもの頃。

 何度も見た。

 だが。

 母の墓だと。

 知っていただけ。

 その前に。

 新三郎。

 宗次郎。

 海の兵庫。

 新之介。

 四人。

 並ぶ。

 誰が。

 夫で。

 誰が。

 父で。

 誰が。

 兄で。

 誰が。

 息子か。

 すべて。

 一言では。

 言えない。

 新三郎が。

 墓へ。

 手を合わせる。

「母上」

 それだけ。

 長い。

 沈黙。

 やがて。

「戻りました」

 新三郎が言う。

「遅くなりました」

 宗次郎の肩が。

 震える。

 海の兵庫も。

 目を伏せる。

 新之介は。

 墓を見る。

 母。

 お澄。

 自分が。

 ほとんど知らなかった人。

 だが。

 兄を。

 四年探し続けた。

 ◇

「新之介」

 新三郎が。

 墓の前で言う。

「何です」

「一つ」

「聞きたい」

「はい」

「母上が」

「私を探した記録」

「残っていますか」

「父上?」

 宗次郎が答える。

「一部」

「手紙」

「日記」

「どこ」

「蔵」

「見せてください」

「分かった」

「全部?」

「あるものは」

「全部」

 新之介が。

 父を見る。

 宗次郎が。

 少し嫌な顔。

「何だ」

「『全部』は」

「危ない言葉です」

「今くらい」

「黙れ!」

 新三郎が。

 初めて。

 声を上げて笑った。

 新之介も。

 少しだけ笑った。

 ◇

 だが。

 その夜。

 蔵から出された。

 お澄の手紙。

 その一通に。

 笑いは消えた。

 宛先。

 ――新三郎へ。

 届かなかった手紙。

 年。

 彼が。

 死んだとされた。

 三年後。

 ――新三郎。

 ――生きているなら。

 ――母は。

 ――そなたへ謝らねばならない。

 新三郎の指が。

 止まる。

 新之介が読む。

 ――そなたを。

 ――沢渡へ渡すことを。

 ――最初に認めたのは。

 ――母です。

 全員が。

 息を止めた。

 宗次郎が。

 紙を見つめる。

「私は」

「知らない」

 新三郎の顔が。

 白くなる。

 手紙は続く。

 ――家を守るためではない。

 ――そなたを守るためでもない。

 ――私は。

 ――もう一人の子を。

 ――守るために。

 新之介の胸が。

 強く鳴った。

 次。

 ――新之介を。

 ――御影へ渡さない代わりに。

 ――新三郎。

 ――そなたを。

 ――差し出した。

 部屋の中。

 誰も。

 声を出せなかった。

 新三郎が。

 ゆっくり。

 新之介を見る。

 新之介も。

 兄を見る。

 兄が。

 弟の代わりに。

 捨てられた。

 しかも。

 父ではなく。

 母の選びで。

 最後の行。

 ――だから。

 ――新之介を。

 ――そなたの代わりだと。

 ――決して憎むな。

 新三郎の手が。

 震えた。

 新之介は。

 何も言わなかった。

 言えなかった。

 兄は。

 長く。

 長く。

 手紙を見た。

 そして。

 低く言った。

「母上も」

「選ばされたのか」

 新之介が。

 ゆっくり答えた。

「それを」

「次に」

「確かめましょう」

 新三郎は。

 弟を見た。

 その目に。

 怒りも。

 悲しみも。

 あった。

 だが。

 憎しみだけではなかった。

「新之介」

「はい」

「私は」

「そなたのために」

「捨てられたのか」

 新之介は。

 逃げずに答えた。

「分かりません」

「でも」

「もしそうなら」

「はい」

「そなたは」

「どうする」

 新之介は。

 少しだけ。

 考えた。

「私が生きていることを」

「兄上の犠牲で」

「正しいことにはしません」

「……」

「でも」

「私が生きてきたことまで」

「捨てません」

 新三郎は。

 長く。

 弟を見つめた。

 そして。

 ほんの少し。

 頷いた。

(第九十二章へ続く)

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