上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第九十章

目次

第九十章 父の名

「生まれ名――榊兵庫」

 その一行を。

 新之介は。

 何度も読み返した。

 間違いではない。

 写し違いでもない。

 海の向こうにいる男は。

 そう答えた。

 役名ではない。

 借りた名でもない。

 生まれた時から。

 榊兵庫。

「父上と」

 家定が言いかけ。

 止めた。

「……今、江戸におられる榊兵庫殿と」

「同じ名ですね」

「はい」

「どうします」

「本人へ聞きます」

「どちらに」

「両方です」

 水野がため息をつく。

「もう」

「その答えにも慣れた」

「嬉しくありません」

「知っている」

 ◇

 江戸にいる榊兵庫は。

 御座所の近くにいた。

 新之介が入ると。

 父は。

 紙を一枚。

 机へ置いた。

「来たか」

「はい」

「聞いたか」

 新之介は止まる。

「何を」

「海の兵庫」

「もう」

「ご存じで」

「ああ」

「誰から」

「家定殿」

「早いですね」

「そなたが遅い」

「今回は」

「言われても仕方ありません」

 兵庫が。

 少し笑った。

 だが。

 目は笑っていない。

「父上」

「何だ」

「今の名は」

「榊兵庫」

「生まれた名は」

 兵庫は。

 すぐには答えなかった。

 新之介の胸の奥が。

 ゆっくり冷える。

「父上」

「……宗次郎」

「姓は」

「榊」

「では」

「榊宗次郎」

「ああ」

 新之介は。

 目を閉じた。

 ◇

「いつから」

「兵庫を」

「三十四年前」

「なぜ」

「兄が死んだと」

「されたからだ」

「兄上の名が」

「榊兵庫?」

「ああ」

「生まれた時から」

「ああ」

「その兄上が」

「今」

「海に?」

「おそらく」

「知っていた?」

 兵庫――宗次郎は。

 また黙る。

「可能性は」

「いつから」

「十年前」

 新之介の顔が変わる。

「十年前?」

「ああ」

「それまで」

「死んだと」

「思っていた?」

「そうだ」

「十年前」

「何が」

「長崎から」

「文が来た」

「誰から」

「差出人なし」

「内容」

 宗次郎は。

 机の紙を。

 新之介へ押した。

「これだ」

 ◇

 古い。

 紙の端が。

 黄色くなっている。

 短い文。

 ――宗次郎へ。

 ――兵庫の名を。

 ――そのまま使え。

 ――私は戻らぬ。

 新之介の手が止まる。

 次。

 ――榊の家へ。

 ――私が戻れば。

 ――二人の兵庫が生まれる。

 ――なら。

 ――私が海で消えた方がよい。

 最後。

 ――ただし。

 ――私が死んだことにはするな。

 新之介は。

 父を見る。

「これを」

「十年前から」

「持っていた?」

「ああ」

「誰にも」

「言わなかった」

「ああ」

「なぜ」

「怖かった」

「何が」

「兄が生きていることが?」

「違う」

 宗次郎は。

 低く答えた。

「私が」

「兵庫ではなくなることが」

 ◇

 新之介は。

 父の顔を見た。

 榊兵庫。

 その名で。

 自分を育て。

 叱り。

 黙り。

 家を守り。

 何度も。

 命を張った男。

「父上」

「言え」

「三十四年前」

「兄上が死んだと」

「された」

「ああ」

「誰が確認」

「……沢渡」

 新之介は。

 額へ手を当てた。

 宗次郎が言う。

「何だ」

「いえ」

「もう驚かないつもりだったのですが」

「わしも」

「そこは後で」

 ◇

「兄上は」

「どうして消えた」

「三十六年前」

「長崎へ行った」

「何のため」

「御用」

「誰の」

「幕府」

「表向きは」

「商いの調べ」

「実際は」

「海外へ流れた」

「武具と人の道を調べる」

「見捨役?」

「まだ」

「私は知らなかった」

「御影?」

「関係していた可能性はある」

「兄上は」

「戻る予定だった?」

「ああ」

「その後」

「消息不明」

「二年」

「三年」

「そして」

「死亡扱い」

「家が」

「名を継げと」

「宗次郎殿へ」

「ああ」

「断った?」

「最初は」

「なぜ」

「兄が」

「死んだと思えなかった」

「それでも」

「継いだ」

「父が倒れた」

「家臣がいる」

「藩とのつながり」

「借り」

「約定」

「兵庫という名で」

「つながっていたものが多すぎた」

「つまり」

「家を残すため」

「そう思った」

 宗次郎が。

 苦く笑う。

「今までの連中と」

「同じだ」

 ◇

「全部は」

 新之介が言った。

「同じではありません」

「何が違う」

「兄上が」

「死んだと」

「本当に信じていた時期がある」

「はい」

「家の中で」

「名を継ぐ仕組みも」

「元からあった」

「はい」

「そなたは」

「兄上の顔へ」

「変えられたわけでもない」

「声も」

「歩き方も」

「真似ていない」

「はい」

「でも」

 宗次郎が自分で続けた。

「兄が生きていると知った後も」

「黙った」

「はい」

「そこは」

「私の行いだ」

「はい」

「厳しいな」

「父上ですから」

「他人なら」

「もう少し優しいのか」

「たぶん同じです」

「そうだろうな」

 ◇

「新之介」

「はい」

「そなたは」

「何と呼ぶ」

「何を」

「私を」

 新之介は。

 すぐ答えた。

「父上」

 宗次郎が止まる。

「名ではなく?」

「はい」

「もし」

「海の兵庫が」

「本来の榊兵庫なら」

「それでも?」

「父上です」

「なぜ」

「私を育てたのは」

「そなたの行いだからです」

 玄斎が。

 宗一郎へ言った言葉と。

 似ている。

「では」

「海の兵庫は」

「伯父上かもしれない」

「かもしれない?」

「血縁確認は」

「後です」

「そこまで疑うのか」

「最近」

「必要です」

 宗次郎は。

 声を出して笑った。

「そうだな」

 ◇

「しかし」

 新之介が問う。

「兄上は」

「なぜ」

「戻る日本がない、と」

「言ったのでしょう」

「分かる」

「何が」

「榊兵庫として」

「戻れば」

「私がいる」

「はい」

「家へ戻れば」

「家督」

「土地」

「墓」

「家臣」

「何もかも」

「今の兵庫を中心に」

「三十四年動いた」

「はい」

「兄が」

「『自分こそ兵庫だ』と戻れば」

「全部を」

「取り返すことになる」

「本人は」

「望んでいない」

「だろうな」

「なら」

「兵庫ではない名で」

「戻れば」

 宗次郎が。

 新之介を見る。

「それも」

「兄には」

「自分を消すことになる」

 新之介は黙った。

「兵庫として戻れば」

「私を消す」

「別の名で戻れば」

「自分を消す」

「だから」

「戻る日本がない」

 ◇

 その言葉。

 重かった。

 どちらか。

 ではない。

 どちらを選んでも。

 誰かが消える。

「父上」

「何だ」

「会いますか」

「兄に?」

「はい」

「怖い」

「はい」

「そなた」

「何でも」

「怖いまま会わせるな」

「でも」

「逃げる方が」

「後で怖いです」

「……」

「会いますか」

 宗次郎は。

 長く。

 机の古い手紙を見る。

「会う」

「分かりました」

「ただし」

「何です」

「そなたも来い」

「なぜ」

「逃げ道が要る」

「私は」

「逃げ道ですか」

「かなり面倒な」

「逃げ道だ」

「褒められている気がしません」

「褒めておらぬ」

 ◇

 海側。

 返答は。

 夕刻に来た。

 榊兵庫。

 生まれ名。

 同じ。

 年。

 六十六。

 帰国。

 希望せず。

 面会。

 条件付きで希望。

「条件」

 新之介が読む。

 ――榊家では会わない。

 ――江戸城でも会わない。

 ――兵庫の名で呼ばない。

 宗次郎の顔が変わる。

「では」

「何と」

「本人は」

「呼び名未定」

「また未定か」

「よいと思います」

「何が」

「兄上自身が」

「兵庫の名を」

「どうするか」

「まだ決めていない」

「なら」

「会う時」

「兄上」

「それは」

 宗次郎が言う。

「よいだろう」

「場所は」

 紙。

 ――品川沖。

 ――小舟。

 ――双方二名まで。

「二名」

「父上」

「私」

「兄上側は」

 ――本人。

 ――喜兵衛。

「なぜ喜兵衛殿」

「帰る場所がない話を」

「一番聞いているからでしょう」

 ◇

 翌朝。

 品川沖。

 大きな船ではない。

 ただの舟。

 屋根もない。

 真ん中に。

 低い板。

 宗次郎。

 新之介。

 向こうから。

 喜兵衛。

 そして。

 一人の老人。

 六十を越えている。

 日に焼け。

 髷はない。

 頬に。

 古い傷。

 男は。

 宗次郎を見た。

 宗次郎も。

 男を見る。

「……兄上」

 最初に。

 宗次郎が言った。

 男の顔が。

 少しだけ。

 崩れた。

「その呼び方は」

「嫌か」

「分からない」

「では」

「今は」

「今は」

 男は。

 小さく頷く。

「それでよい」

 ◇

 三十四年以上。

 兄弟。

 会っていない。

 だが。

 すぐに抱き合うことも。

 泣くこともない。

 ただ。

 互いの顔を見る。

「老けたな」

 海の男が言う。

 宗次郎が。

 即座に返す。

「そなたもだ」

「昔から」

「口だけは」

「変わらぬ」

「兄上も」

 新之介が。

 少し息を吐く。

 少なくとも。

 そのやり取りは。

 作ったものには見えない。

 だが。

 見えるだけ。

 証ではない。

「新之介」

 宗次郎が言う。

「今」

「疑ったな」

「少し」

 海の男が笑う。

「聞いていた通りだ」

「誰から」

「喜兵衛」

「またですか」

 ◇

「新之介」

 海の男が言う。

「はい」

「そなたは」

「宗次郎を」

「父と呼ぶのだな」

「はい」

「迷わず?」

「そこは」

「はい」

「なぜ」

「育てられました」

「叱られました」

「守られました」

「腹も立ちました」

「全部」

「この人とのことです」

「血は」

「確認していない?」

「父上との?」

「ああ」

「していません」

「では」

「違ったら」

「変わりません」

 海の男が。

 新之介を。

 長く見る。

「そうか」

 ◇

「兄上」

 宗次郎が言う。

「十年前の文」

「読んだ」

「ああ」

「なぜ」

「戻らぬと」

「書いた」

「書いた通りだ」

「二人の兵庫を」

「作りたくなかった」

「なら」

「なぜ」

「死んだことにするなと」

「書いた」

 海の男の目が。

 鋭くなる。

「私は」

「生きていたからだ」

「……」

「そなたに」

「兵庫を譲ることと」

「私が死んだことになるのは」

「別だ」

 宗次郎が。

 言葉を失う。

「私は」

「海で」

「榊兵庫ではない名も」

「何度も使った」

「だが」

「だからといって」

「榊兵庫として生まれた私が」

「消えたわけではない」

「なのに」

「日本の記録では」

「私は死んだ」

「墓まで」

「ある」

「墓?」

 新之介が問う。

「ああ」

「見た?」

「十年前」

「夜に」

「江戸へ戻った」

 宗次郎が立ち上がりかける。

「何!」

「座って」

 新之介が言う。

「父上」

「十年前」

「兄上は」

「江戸に?」

「ああ」

 ◇

「どこまで」

「来た」

「榊家の門」

「入らなかった」

「なぜ!」

 宗次郎が叫ぶ。

「中に」

「子どもの声がした」

「新之介?」

「おそらく」

「私は」

「門の外で」

「聞いた」

「そなたが」

「『父上』と」

「呼ばれているのを」

 宗次郎の顔が。

 崩れる。

「それで」

「帰った」

「なぜ」

「もう」

「私が戻る家ではないと」

「思った」

「勝手に!」

 宗次郎が怒鳴る。

「勝手に決めたのは」

「そなたも同じだ!」

 兄が返す。

「何」

「私が死んだと」

「決めた!」

「死んだと聞かされた!」

「十年前」

「文を送った!」

「それでも」

「そなたは」

「榊兵庫を」

「続けた!」

「家があった!」

「では」

「私は!」

 兄の声が。

 震える。

「家がなかった!」

 ◇

 喜兵衛が。

 黙って二人を見る。

 新之介も。

 止めない。

 兄弟の話。

「私は」

 海の男が続ける。

「戻れば」

「家督を取り返す男になる」

「そなたを」

「偽物にする」

「新之介から」

「父を奪う」

「家臣から」

「主を変える」

「そんなものを」

「私は望んでいない!」

「なら」

 宗次郎が叫ぶ。

「兄として」

「戻ればよかった!」

「兵庫でなくても!」

「その言葉を」

 海の男は。

 低く返した。

「三十四年前に」

「聞きたかった」

 宗次郎が止まる。

「私の名を」

「継ぐ前に」

「生きているか」

「探してほしかった」

「探した!」

「二年だ!」

「何」

「二年で」

「諦めた!」

「父が!」

「家が!」

「役目が!」

「役目を盾にするな」

 海の男が言った。

 新之介の胸が。

 痛む。

 宗次郎も。

 完全に黙った。

 ◇

「その言葉」

 宗次郎が。

 やっと言う。

「母も」

「よく申した」

「ああ」

「覚えている」

「……」

「だから」

 兄は言う。

「余計に」

「腹が立った」

「そなたが」

「家のために」

「私の名を継いだと知った時」

「母の言葉を」

「忘れたのかと思った」

 宗次郎が。

 顔を伏せる。

「忘れていた」

「いや」

「知っていた」

「知っていて」

「役目を使った」

「兄上」

「何だ」

「すまなかった」

 兄は。

 すぐには答えない。

「その言葉を」

「受け取るかは」

「今決めない」

「……そうか」

「だが」

「聞いた」

 ◇

 新之介が。

 初めて口を開く。

「一つ」

「何だ」

 海の男。

「そなたを」

「何と呼べば」

「兵庫では」

「呼ばない約束でした」

「ああ」

「新しい名は」

「決めていない」

「なら」

「兄上」

 男が。

 新之介を見る。

「そなたが?」

「父上の兄なら」

「はい」

「血縁が違ったら」

「その時考えます」

 男が。

 思わず笑う。

「本当に」

「面倒な男だな」

「よく言われます」

「では」

「今は」

「伯父上で」

 海の男は。

 顔を伏せた。

「それは」

「久しぶりだ」

「何が」

「役ではない呼ばれ方」

 ◇

「伯父上」

「何だ」

「日本へ」

「戻りたいですか」

「その問いを」

「聞きに来たのだろう」

「はい」

「答えは」

「分からぬ」

「昨日は」

「戻る日本がないと」

「言った」

「ああ」

「今は」

 男は。

 宗次郎を見る。

 新之介を見る。

 品川の岸を見る。

「戻る家は」

「昔のままではない」

「はい」

「榊兵庫という席も」

「もう私のものではない」

「はい」

 宗次郎が。

 小さく口を開く。

「兄上」

「何だ」

「席は」

「返せる」

 新之介が父を見る。

「父上」

「黙っていろ」

「はい」

 宗次郎は。

 兄を見る。

「榊兵庫の名」

「家督」

「全部」

「返す」

「いらぬ」

 即答。

「なぜ」

「それをすれば」

「そなたが消える」

「私は宗次郎へ」

「戻る」

「三十四年」

「兵庫として生きたそなたが」

「そんなに簡単に」

「宗次郎へ戻れるのか」

 宗次郎が。

 答えられない。

「私が」

 兄は続ける。

「兵庫を取り返せば」

「今度は」

「そなたが」

「戻る場所を失う」

 ◇

「では」

 新之介が言う。

「名を」

「一つの席だと」

「考えるのを」

「やめませんか」

 二人が見る。

「何」

「榊兵庫という家督名」

「それは」

「今の父上が」

「三十四年」

「使った」

「はい」

「伯父上は」

「その前に」

「生まれ名として」

「使った」

「はい」

「なら」

「どちらが本物か」

「決めなくてよい」

「家では」

 宗次郎が言う。

「そうはいかぬ」

「なぜ」

「家督がある」

「では」

「家督と」

「人の名前を」

「分ける」

 海の男の目が動く。

「どういう」

「榊家当主としての兵庫」

「生まれ名としての兵庫」

「同じ文字でも」

「行いを分ける」

「記録で?」

「はい」

「それで」

 宗次郎が問う。

「兄は」

「何と」

「呼ばれる」

「本人が決める」

「まだ決まっていない」

「なら」

「未定」

 海の男が。

 少し笑う。

「またか」

「便利です」

 ◇

「私は」

 海の男が言う。

「兵庫という名を」

「捨てたいわけではない」

「はい」

「でも」

「榊家当主へ」

「戻りたいわけでもない」

「はい」

「なら」

「それを」

「そのまま残す」

「はい」

「そんな」

「中途半端なことが」

「許されるか」

「誰に」

 新之介が問う。

 男が止まる。

「……」

「誰の許しが」

「必要です」

「家?」

「幕府?」

「父上?」

「私?」

「それとも」

「そなた自身?」

 男は。

 しばらく。

 答えなかった。

「分からぬ」

「では」

「まだ決めない」

「……」

「腹が立つな」

「よく言われます」

 ◇

 喜兵衛が。

 ようやく。

 口を開いた。

「私にも」

「同じです」

「何が」

「戻る日本がない」

「家は」

「他人のもの」

「名は」

「死者のもの」

「役を受ければ」

「戻れる」

「でも」

「それでは」

「役へ戻るだけ」

「はい」

「なら」

「帰国の前に」

「戻る場所を」

「作る必要がある」

「そう思います」

「どこに」

「寺?」

「町?」

「城?」

「分かりません」

「また」

「だから」

 新之介は言う。

「本人たちと」

「作ります」

 ◇

 その日の午後。

 仮交渉会議。

 議題が。

 一つ増えた。

 ――帰国者仮受入。

 家定。

 阿部。

 水野。

 町側。

 寺側。

 海の御影側。

 帰国希望者側。

 志乃。

 清太郎。

 新之介。

「場所を」

 家定が言う。

「どこにする」

「江戸城?」

 阿部が首を振る。

「役へ戻す意味が強すぎる」

「寺?」

「喜兵衛が言う」

「寺請へ」

「また入れられるように見える」

「町屋?」

「町へ」

「負担を押しつける」

「再起館?」

 新之介が。

 少し考える。

「今のところ」

「一番近い」

「理由」

「名前」

「役」

「家」

「未定の者を」

「すでに」

「受け入れている」

 志乃が頷く。

「ただし」

「何です」

「再起館へ入ったら」

「再起館の人になる」

「それも違います」

「では」

「一時滞在」

「期限」

「最初は」

「三十日」

「短くない?」

「延長は」

「本人と」

「受入側」

「立会い」

「仕事は」

「希望を聞く」

「身元は」

「確かめる」

「でも」

「元の家へ」

「必ず戻さない」

「罪は」

「帰国と分けて」

「見分」

「名前は」

「本人が選ぶ」

「未定も可」

 清太郎が。

 筆を走らせる。

 ◇

「一つ」

 海の榊兵庫が。

 会議へ参加していた。

「何です」

 家定が問う。

「帰国者を」

「『帰国者』という役にするな」

 全員が止まる。

「どういう」

「何年経っても」

「海から戻った者」

「異国を知る者」

「危ない者」

「珍しい者」

「そういう札を」

「貼り続けるな」

 新之介が頷く。

「期間を」

「設ける?」

「何の」

「帰国者としての」

「特別な見分」

「はい」

「いつまで」

「三十日では短い」

「半年」

「長い」

「では」

 家定が考える。

「最初の三十日」

「その後」

「必要な支援だけ」

「本人ごとに」

「期限を」

「一律ではなく?」

「はい」

「ただし」

「定期的に」

「まだ必要かを」

「確認する」

「役が」

「自分を守り始めないため」

「はい」

 海の男が。

 小さく笑った。

「これなら」

「戻れるかもしれぬ」

 宗次郎が。

 隣で。

 何も言わず。

 目を閉じた。

 ◇

 だが。

 その時。

 清太郎が。

 一通の書状を持ってきた。

「榊原様」

「何です」

「榊家から」

「家?」

「はい」

「誰から」

「古参の家臣」

「内容」

 清太郎の顔が。

 曇っている。

「榊兵庫殿が」

「二人いるとの風聞を」

「聞いたらしく」

「何と」

 紙。

 ――榊家家中。

 ――緊急評定を願う。

 ――家督の正統を。

 ――早急に定められたし。

 新之介は。

 目を閉じた。

 宗次郎が。

 苦く笑う。

「来たな」

 海の男も。

 笑わない。

「やはり」

「戻る場所など」

「なかった」

「まだ」

 新之介が言う。

「決めない」

「家中は」

「決めろと言っている」

「はい」

「どうする」

 新之介は。

 書状を見る。

「家中へ」

「二人を」

「並べます」

「本物を選ばせる?」

「違います」

「では」

「榊兵庫という名で」

「それぞれが」

「何をしたか」

「聞いてもらう」

「そして」

 宗次郎が問う。

「家督は」

「別に」

「決める」

「名と」

「家督を」

「分ける?」

「はい」

「家中が」

「納得するか」

「分かりません」

「また」

「でも」

 新之介は。

 二人の兵庫を見る。

「どちらか一人を」

「消すよりは」

「先に」

「やる価値があります」

 ◇

 その日の夕刻。

 榊家。

 座敷。

 二人の。

 榊兵庫。

 いや。

 一人は。

 榊宗次郎。

 現在の家督名。

 榊兵庫。

 もう一人は。

 生まれ名。

 榊兵庫。

 現在の呼び名。

 未定。

 その二人が。

 家臣たちの前へ。

 並んだ。

 ざわめき。

「殿が」

「二人」

「どちらが」

「本物」

 新之介が。

 前へ。

「今日は」

「それを決めません」

 家臣たちが騒ぐ。

「若!」

「それでは家が!」

「家督は!」

「御役目は!」

「落ち着け!」

 宗次郎が怒鳴る。

 その声で。

 家臣たちは。

 反射的に黙った。

 海の男が。

 それを見る。

「なるほど」

「何です」

「三十四年」

「兵庫だった声だ」

 宗次郎が。

 兄を見る。

「嫌味か」

「少し」

 ◇

 新之介が言う。

「まず」

「現在」

「榊家の家督を」

「担ってきたのは」

「この方」

 宗次郎。

「三十四年」

「はい」

「その行い」

「決定」

「責任」

「すべて」

「この方へ」

「では」

 古参家臣が問う。

「もう一人は」

「生まれた時から」

「榊兵庫」

「この方が」

「三十六年前まで」

「家督継承予定者だった可能性が高い」

「なら」

「本来は!」

「本来」

 新之介が止める。

「その言葉で」

「三十四年を」

「消さないでください」

 家臣が黙る。

「では」

「どうする」

「聞きます」

「誰に」

「二人に」

 ◇

「父上」

「何だ」

「家督を」

「続けたいですか」

 宗次郎は。

 長く考えた。

「続けたい」

 兄が。

 僅かに顔を上げる。

「理由」

「三十四年」

「守った」

「最後まで」

「自分の行いとして」

「見たい」

「榊兵庫の名は」

「……」

「そこは」

「分からぬ」

「では」

「未定」

「腹が立つが」

「そうだ」

 ◇

「伯父上」

「その呼び方は」

「今はよい」

「家督を」

「取り戻したいですか」

「いらぬ」

「榊兵庫の名は」

「捨てたくない」

「では」

「家督なし」

「生まれ名として」

「榊兵庫を」

「使う?」

 男は。

 座敷を見る。

 家臣。

 仏壇。

 柱。

 庭。

 自分が。

 かつて。

 帰るはずだった場所。

「……今は」

「使いたい」

 宗次郎が。

 兄を見る。

「二人」

「榊兵庫か」

「ああ」

「面倒だな」

「そなたが言うか」

 二人。

 初めて。

 少し笑った。

 ◇

 家臣の一人が。

 困り果てる。

「では」

「我々は」

「どちらを」

「殿と」

「家督を持つ方を」

 新之介が答える。

「現在は」

「父上」

「榊宗次郎」

「家督名として榊兵庫」

「もう一人の兵庫殿は」

「当主ではない」

「では」

「何と」

「呼ぶ」

 海の男が。

 自分で答えた。

「兵庫でよい」

 家臣が。

 宗次郎を見る。

「こちらも」

「兵庫」

「はい」

「分からぬ!」

 新之介が。

 少し笑った。

「では」

「宗次郎殿と」

「兵庫殿」

「それでは」

 宗次郎が呻く。

「わしが」

「昔の名へ戻ったようだ」

「嫌ですか」

「……」

「今は」

「嫌ではない」

 ◇

 その時。

 庭先。

 急使。

「榊原様!」

「何が」

「米利堅船より!」

「またですか」

「はい!」

「帰国希望者の中から!」

「新たに」

「名乗り出た者が!」

「誰」

 使者が。

 紙を見る。

「その者」

「自分を」

「榊原新之介殿の」

「兄だと!」

 座敷が。

 完全に静まった。

 宗次郎が。

 立つ。

「新之介の」

「兄?」

 海の兵庫も。

 顔を上げる。

「名は」

 新之介が問う。

 使者は。

 紙を読む。

「生まれ名」

「榊原新三郎」

 新之介の目が細くなる。

 堀田新三郎ではない。

 新之介でもない。

 榊原新三郎。

「父は」

 使者が続ける。

「榊兵庫」

 新之介は。

 二人の兵庫を見た。

 宗次郎。

 海から戻った兵庫。

 どちらも。

 顔色が変わっている。

「母は」

 使者の声。

「榊原お澄」

 宗次郎が。

 息を呑んだ。

 新之介は。

 初めて聞く名ではなかった。

 幼い頃。

 家の奥に。

 一枚だけ。

 裏返して置かれていた位牌。

 そこに。

 薄く残っていた名。

 ――澄。

「父上」

 新之介が。

 宗次郎を見る。

「ご存じですね」

 宗次郎は。

 答えなかった。

 海の兵庫が。

 代わりに。

 低く言った。

「宗次郎」

「まさか」

「まだ」

「新之介へ」

「話していないのか」

 新之介の胸が。

 冷たくなる。

「何を」

 二人の兵庫。

 どちらも。

 新之介を見られない。

 やがて。

 宗次郎が。

 絞り出すように言った。

「新之介」

「はい」

「そなたには」

「兄がいた」

「いた?」

「ああ」

「死んだのでは」

 宗次郎は。

 目を閉じた。

「死んだと」

「聞かされた」

 新之介は。

 何も言わなかった。

 ただ。

 玄斎の声が。

 頭のどこかで。

 聞こえた気がした。

 ――もう、その言葉は聞き飽きた。

(第九十一章へ続く)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次