第八十九章 役を降りて帰る者
三艘の小舟が。
江戸城へ向かっていた。
一艘目。
堀田新三郎を名乗る男。
二艘目。
阿部伊勢守を名乗る男。
三艘目。
徳川家定を名乗る男。
だが。
その三人の生まれた名を。
新之介は。
まだ知らない。
「追いつけますか!」
水野が船頭へ叫ぶ。
「潮が!」
「どれくらい!」
「一番前は」
「もう品川を越えます!」
新之介が言う。
「水野様」
「何だ」
「こちらが先に城へ知らせる方が早い」
「旗か」
「はい」
「何と」
新之介は。
少し考えた。
「三人を」
「偽者として捕らえるな」
水野が振り返る。
「何」
「危険だぞ」
「分かっています」
「では」
「役名で」
「権力を与えるな」
「同時に?」
「はい」
水野が目を細める。
「捕らえるな」
「命じさせるな」
「なら」
「何をさせる」
「本人確認」
「それだけ?」
「まず」
◇
朝風丸へ。
旗。
さらに。
品川へ。
城へ。
同じ内容。
――海より三名上陸の可能性。
――堀田新三郎。
――阿部伊勢守。
――徳川家定。
――いずれも役名の可能性あり。
――偽物として処断するな。
――同名の官職権限を与えるな。
――本人の行為と希望を確認せよ。
――複数立会い。
――榊原新之介。
水野が。
最後を見て言う。
「そなたの名で」
「はい」
「よいのか」
「今は」
「何を」
「私が出した命令として」
「責任を負います」
「期限は」
新之介が止まる。
「そこだ」
「水野様」
「何だ」
「慣れましたね」
「嬉しくない」
「期限」
水野が言う。
「半日」
「長い」
「三刻」
「城まで行き」
「見分を始めるには」
「それくらい必要です」
「では三刻」
「対象」
「三人だけ」
「はい」
「武器を使った場合」
「現場判断で止める」
「はい」
「よし」
旗が上がる。
◇
「榊原殿」
新之助が言った。
もう一人の。
海の外で十二年。
榊原新之介として生きた男。
「私も」
「行きます」
「なぜ」
「三人へ」
「命令を出したのは」
「私です」
「三年前」
「はい」
「なら」
「必要です」
「捕らえますか」
「可能性はあります」
「それでも」
「はい」
「分かりました」
新之助は。
海を見る。
「今まで」
「私は」
「帰る者を」
「送り出す側だと思っていた」
「はい」
「今日は」
「私自身が」
「戻る側になる」
「日本へ住むわけでは」
「ありません」
「でも」
「自分の命令が」
「日本で何をしたか」
「見に戻る」
「それも」
「戻る一つかもしれません」
◇
玄斎は。
竹吉を見る。
「そなたは」
「行くのか」
「はい」
「なぜ」
「喜兵衛たちの帰国を」
「見届けたい」
「それだけか」
「先生」
「何だ」
「十二年前のことを」
「江戸で」
「話します」
玄斎の顔が変わる。
「人を斬った件か」
「はい」
「戻れば」
「裁かれるかもしれぬぞ」
「分かっています」
「なら」
「なぜ」
竹吉は。
ゆっくり答える。
「黒川玄斎として」
「責任を負うためではなく」
「竹吉として」
「何をしたか」
「話すためです」
玄斎は。
何も言わなかった。
「先生」
「何だ」
「止めますか」
「……」
長い沈黙。
「止めぬ」
「ありがとうございます」
「ただし」
「何です」
「わしも行く」
「膝が」
「そなたまで言うな!」
◇
城。
大手門。
三人は。
すでに着いていた。
だが。
門は開いていない。
阿部伊勢守。
神谷。
家定本人。
家慶甲。
清太郎。
兵馬。
さらに。
町方二名。
立会い。
門外。
海から来た三人。
武器は。
預けている。
「間に合った」
水野が息を吐く。
「今のところ」
「言うと思った」
◇
最初に声を上げたのは。
海から来た「家定」だった。
「門を開けよ!」
声。
似ている。
家定本人の声に。
驚くほど。
門内の家定が。
自分の声を聞く。
奇妙な顔をする。
「私より」
「少し低い」
新之介が言う。
「そこですか」
「だって」
「聞こえます」
「本人だからですね」
海の家定が叫ぶ。
「私は」
「徳川家定!」
「幕府が」
「将軍を定められぬ時!」
「一時政務を預かる命を受けている!」
門内。
阿部が。
家定本人を見る。
「どうする」
「私へ聞かないでください」
「では」
「榊原」
「私へも」
「聞くなと?」
「皆で見ます」
◇
新之介が。
門前へ。
ただし。
門は開けない。
「徳川家定を名乗る方!」
「何だ!」
「今の名を」
「徳川家定!」
「生まれた名を」
「……」
「分かりますか」
「分かる!」
「では」
「何です」
男は。
少し黙る。
「伊之吉」
「姓」
「ない」
「出身」
「越後」
「年」
「三十二」
門内の家定が。
小さく息を呑む。
◇
「伊之吉殿」
新之介が言う。
「その呼び方を」
「やめろ!」
「嫌ですか」
「私は家定だ!」
「いつから」
「七年前」
「誰に」
「海の榊原新之介」
後ろの新之助が。
一歩出る。
「私です」
門外の伊之吉が。
振り返る。
「榊原様」
「伊之吉」
「その名で呼ぶな!」
「では」
新之助は。
顔を歪めながら。
「家定」
「命令を」
「覚えていますか」
「はい」
「幕府が」
「将軍を定められなくなった時」
「三人で政務を代行せよ」
「はい」
「私は」
「今」
「その命令を」
「撤回します」
伊之吉が。
完全に止まった。
「何」
「撤回です」
「なぜ」
「その命令を」
「本人たちへ」
「正しく選ばせずに出した」
「私は」
「選んだ!」
「何を」
「日本へ戻ることを!」
「役なしでも」
「戻れると知っていましたか」
「……」
「知らなかった」
「なら」
「選びが」
「一つしかなかった」
「それでも」
伊之吉の声が震える。
「私は」
「家定として」
「七年生きた!」
「はい」
「今さら」
「伊之吉に戻れと?」
「言いません」
「では!」
「役としての命令を」
「今」
「使うかどうか」
「もう一度」
「そなたが決めてください」
◇
「決める?」
「はい」
「今」
「家定として」
「城へ入るか」
「伊之吉として」
「帰るか」
「その二つではありません」
新之介が言う。
伊之吉が見る。
「何」
「徳川家定という名を」
「今後どうするかも」
「今決めなくてよい」
「では」
「何を」
「政務代行の命令を」
「実行するかどうか」
「それだけ」
「はい」
伊之吉は。
門を見た。
その向こうに。
自分と同じ声を持つ。
徳川家定本人。
あるいは。
本人候補。
「もし」
「私が」
「命令を実行すると言ったら」
「止めますか」
「はい」
「なぜ」
「その命令は」
「三年前の状況を想定して」
「一人で作られた」
「今は」
「ここに」
「家定殿も」
「阿部殿も」
「水野様も」
「町側も」
「いる」
「前提が違います」
伊之吉は。
長く黙った。
「なら」
「命令が」
「古い?」
「はい」
「命令にも」
「前と後ろがあります」
「人にも」
伊之吉が。
小さく笑った。
「それ」
「榊原様の言葉です」
「どの」
「海の」
「……」
新之介が。
新之助を見る。
「広めましたね」
「すみません」
「今は」
「後で」
◇
「私は」
伊之吉が言った。
「政務代行を」
「しません」
門内。
家定が。
わずかに息を吐く。
「ただし」
「はい」
「徳川家定の名を」
「すぐには捨てません」
「分かりました」
「なぜと」
「聞かない?」
「聞きます」
「……」
「なぜ」
「七年」
「この名で」
「私を必要とする人がいた」
「誰」
「海の日本人」
「漂流民」
「日本へ戻れぬ者」
「私は」
「家定の名で」
「手紙を書いた」
「何を」
「帰国の口添え」
「米」
「薬」
「葬り」
「全部」
「私は」
「この名を使って」
「善いこともした」
「はい」
「なら」
「全部偽物だったと」
「言われたくない」
新之介が。
静かに頷いた。
「言いません」
「何」
「その善いことは」
「伊之吉殿が」
「家定の名を使って」
「した行いです」
「名へ戻しません」
「……」
「だから」
「今後」
「その名をどうするかも」
「急がなくてよい」
伊之吉の目が赤くなる。
「そうですか」
「はい」
◇
二人目。
海の「阿部伊勢守」。
四十ほど。
「今の名を」
「阿部伊勢守」
「生まれた名」
「源七」
「姓」
「ない」
「役を」
「今も続けたい?」
「続けたい」
門内の阿部本人が。
眉を上げる。
「なぜ」
源七は。
門の向こうへ向かって言う。
「私は」
「この名で」
「外国人と」
「十三年」
「話してきた」
「十三年?」
「はい」
「阿部伊勢守の役を受けたのは」
「五年前」
「それ以前は」
「通詞」
「では」
「なぜ阿部の名を」
「外国側が」
「老中の名なら」
「話を聞くから」
門内の阿部が。
低く。
「それは」
「分かる」
「分かるのですか」
「腹は立つ」
「だが」
「外国交渉で」
「肩書が力を持つことは」
「事実だ」
◇
「源七殿」
新之介が問う。
「阿部伊勢守として」
「何をした」
「漂流民を」
「返した」
「どこの」
「蝦夷」
「薩摩」
「土佐」
「人数」
「十二」
「幕府へ」
「報告は」
「一部」
「なぜ全部でない」
「返せば」
「罪人になる者がいた」
「だから」
「記録から消した?」
「はい」
「本人へ」
「聞いた?」
「聞いた」
「何を」
「帰りたいか」
「帰った後」
「罰を受ける可能性」
「それでも帰るか」
「本人が」
「はいと言った者だけ」
「返した」
新之介が。
少し黙る。
「阿部殿」
門内へ。
「聞こえましたか」
「ああ」
「どう思います」
「私なら」
「法に従う」
「つまり」
「漂流の事情を」
「見分した上で」
「帰国を扱う」
「源七殿は」
「法を避けた」
「はい」
「でも」
「人は戻った」
「はい」
「どちらが正しい」
阿部は。
すぐ答えなかった。
「分からぬ」
新之介が少し笑う。
「珍しい」
「うるさい」
◇
源七が言う。
「私は」
「阿部伊勢守の役を」
「続けたい」
「日本で?」
「外国との交渉に」
「なぜ」
「私の方が」
「今の阿部殿より」
「外国を知っている」
門内。
ざわめき。
阿部本人の顔が。
険しくなる。
「それは」
「聞き捨てならぬな」
「事実です」
「会ったこともないのに」
「米利堅」
「露西亜」
「英吉利」
「蘭」
「私は」
「それぞれの港で」
「話した」
「阿部殿は」
「書物と報告で」
「知っているだけ」
阿部が黙る。
「源七殿」
新之介が言う。
「そなたの経験が」
「阿部殿より多いことと」
「阿部伊勢守の役を」
「そなたが使うことは」
「別です」
「なぜ」
「経験を」
「自分の名で出せるから」
「私の名では」
「外国が」
「聞かない」
「それを」
「変える方が先です」
「時間が」
「また」
源七が。
口を閉じた。
◇
「なら」
「私は」
「何と名乗れば」
「源七殿」
「それでは」
「誰も聞かない」
「今日」
「ここでは聞いています」
「城の中だけでは」
「続かない」
「なら」
新之介は。
門内の阿部を見る。
「阿部殿」
「何だ」
「源七殿を」
「外交見分へ」
「入れますか」
「私が決めるのか」
「いいえ」
「では」
「提案です」
阿部は。
長く考えた。
「入れる」
門内がざわめく。
「ただし」
「阿部伊勢守としてではない」
「源七として?」
「本人が」
「その名を使うなら」
「何をする」
「海外事情を」
「証言する」
「決定権は」
「別に見分」
源七が。
門の外で。
笑った。
「それなら」
「阿部伊勢守を」
「降りてもよい」
「今すぐ?」
「……」
「また」
新之介が言う。
「急がなくてよい」
「はい」
◇
三人目。
海の「堀田新三郎」。
若い。
二十七、八。
右足を。
少し引いている。
以前。
江戸城の古い廊下で見つかった。
別の新三郎と。
同じ癖。
「今の名」
「堀田新三郎」
「生まれた名」
「平助」
「右足」
「昔の傷?」
平助が。
少し笑う。
「違います」
「では」
「役のために」
「作った?」
「はい」
門内。
神谷が。
顔を歪めた。
「誰が」
「自分で」
「何」
◇
「最初」
平助が言う。
「私は」
「堀田新三郎の歩き方を」
「うまく真似られなかった」
「それで」
「足を傷つけた」
「誰に言われた」
「誰にも」
「なぜ」
「役を失えば」
「日本へ戻れないと思った」
新之介が。
言葉を失う。
「新之助殿」
振り返る。
海の新之助が。
顔を覆っていた。
「私が」
「そう思わせた」
「直接」
「足を傷つけろと」
「言ってはいない」
「でも」
「役を完成できなければ」
「帰国候補から外す、と」
「言った」
「本当?」
「はい」
平助が答える。
◇
「それは」
玄斎が杖を強く握る。
「選びではない」
「分かっています」
新之助が言う。
「今は」
「では」
「平助殿」
新之介が問う。
「新三郎の役を」
「続けたい?」
平助は。
すぐに答えた。
「嫌です」
全員が止まる。
「なら」
「なぜ今」
「新三郎として」
「城へ」
「三年前の命令が」
「あったから」
「命令を」
「守るため?」
「違う」
「では」
「最後に」
平助の声が震える。
「一度だけ」
「役を」
「役として」
「やり切れば」
「その後」
「平助へ戻れると思った」
新之介の顔が。
ゆっくり変わる。
「誰に」
「そう言われた」
「誰にも」
「自分で?」
「はい」
「なぜ」
「途中で降りたら」
「逃げたと思うから」
「誰が」
「私が」
◇
新之介は。
小名木川で。
刀を持った自分を思い出す。
持たないことで逃げるのか。
持っていて斬らないのか。
同じ問い。
だが。
人が違えば。
答えも違う。
「平助殿」
「はい」
「役を最後までやらなくても」
「逃げたことには」
「ならないと思います」
「なぜ」
「役を受けた時」
「戻るための条件だった」
「自由に選んだ役ではない」
「でも」
「七年」
「新三郎として」
「生きた」
「はい」
「その時間は」
「消しません」
「なら」
「やめても」
「七年は残る」
「はい」
「善いことも」
「悪いことも」
「平助殿が」
「新三郎の名で」
「した行いとして」
「残す」
平助は。
右足を見る。
「この足も?」
「はい」
「消えない?」
「消えません」
「……」
平助は。
長く。
長く黙った。
「では」
「私は」
「新三郎を」
「降ります」
門内の神谷が。
深く息を吐いた。
◇
「ただし」
平助が言う。
「何です」
「私は」
「城へ入れますか」
「平助として?」
「はい」
「何のため」
「本物の」
「堀田新三郎殿に」
「会いたい」
「何を」
「謝る」
「だけ?」
「違う」
「私が」
「新三郎として」
「出した文」
「受けた文」
「全部」
「分けたい」
「誰と」
「本人」
「記録役」
「使者」
「影響を受けた人」
新之介が。
少し笑う。
「学びましたね」
「海の新之介様から」
新之介が。
また新之助を見る。
「本当に」
「広めましたね」
「はい」
◇
三人。
政務代行。
しない。
伊之吉。
家定役。
継続は未定。
源七。
阿部役。
降りる方向。
外交経験を自分の名で使う。
平助。
新三郎役。
降りる。
本来の新三郎へ会う。
「門を」
家定が言った。
「開けますか」
阿部が問う。
「誰の命で」
「今の三人は」
「政務を奪いに来た者ではない」
「では」
「客?」
「それも違う」
「帰国者」
志乃が言った。
いつの間にか。
門内へ来ていた。
「まず」
「帰ってきた人」
「それで」
「よいのでは」
家定が頷く。
「門を開けます」
「誰の権限」
新之介が問う。
家定が止まる。
「またですか」
「はい」
「今」
「江戸城大手門の開閉は」
「城側警固の権限」
神谷が答える。
「では」
「神谷殿」
「私は開けてよいと思う」
「反対」
阿部。
「理由」
「三人の素性」
「まだ完全には確認できぬ」
「では」
「門外で見分を続ける?」
「それでは」
家定が言う。
「帰ってきた人を」
「いつまでも門外へ」
「置く」
「安全のためだ」
「昔」
「救小屋の外へ」
「人を残した話と」
「同じになりませんか」
阿部の顔が変わる。
◇
「違う」
阿部が言う。
「何が」
「今は」
「人を死なせるためではない」
「危険を防ぐため」
「でも」
「外へ置かれる側から」
「見れば」
「『中の安全のため』」
「それだけです」
新之介が。
ゆっくり口を開く。
「なら」
「中と外の間を」
「作りましょう」
「何」
「門を全部開けない」
「でも」
「外へ置いたままにもしない」
「どこ」
神谷が考える。
「桝形」
「大手門の内」
「第二門の外」
「そこなら」
「城内中枢へは」
「入らない」
「屋根も」
「水も」
「人も置ける」
「では」
「そこへ」
「誰の命で」
「城門警固」
「神谷殿」
「阿部殿」
「家定殿」
「三者で」
「期間」
「本日の見分終了まで」
「よし」
◇
門が。
少しずつ開く。
三人。
伊之吉。
源七。
平助。
その後ろ。
新之助。
竹吉。
玄斎。
新之介。
水野。
彼らも入る。
だが。
家慶甲が。
門の内側で。
一歩前へ出た。
「新之介」
「はい」
「一つ」
「何です」
「この三人を」
「帰国者として」
「城へ入れる」
「はい」
「では」
「これまで外国へ出た者を」
「今後も」
「同じように入れるのか」
「今日」
「そこまで決めません」
「分かっている」
「では」
「何を」
「今日の扱いが」
「前例になる」
「はい」
「それを」
「どうする」
新之介は。
少し考え。
「前例にしないことを」
「記録します」
阿部が眉をひそめる。
「何」
「今回は」
「三人の事情」
「目前の危機」
「複数立会い」
「それで」
「一時的に入れる」
「今後の帰国者制度は」
「別に見分する」
「つまり」
「同じような人が来ても」
「自動では通さない」
「はい」
「でも」
「自動で拒まない」
「はい」
家慶甲が頷いた。
「それなら」
「よい」
◇
桝形。
石垣。
空。
城の中。
城の外。
その間。
三人は。
そこへ座った。
志乃が。
水を出す。
「どうぞ」
伊之吉が。
驚く。
「私に?」
「はい」
「家定として?」
「今は」
志乃が笑う。
「喉の渇いた人として」
伊之吉の目が。
赤くなった。
「……」
「飲んでください」
「はい」
源七も。
平助も。
水を飲む。
ただの水。
だが。
それは。
役名で与えられたものではなかった。
◇
「榊原殿」
平助が言う。
「何です」
「これが」
「戻るということですか」
「分かりません」
「また」
「でも」
「少なくとも」
「役を果たした褒美として」
「入れたのではありません」
「はい」
「人として」
「入った」
「はい」
平助は。
自分の右足を。
ゆっくり伸ばした。
「なら」
「この足を」
「もう」
「新三郎の足とは」
「呼ばなくてよい?」
新之介が答える。
「そなたの足です」
平助は。
顔を伏せた。
◇
その時。
城奥から。
使者。
「家定公!」
「何だ」
「大奥より!」
「御台所様が!」
皆が立つ。
「どうした」
「先ほどまで」
「静養しておられましたが!」
「何が」
「面会を求めています!」
「誰に」
使者が。
三人を見る。
そして。
「海より来た」
「徳川家定殿に」
本来の家定の顔が。
強張る。
「私ではなく」
「伊之吉殿に?」
「はい!」
「理由は」
「御台所様は」
一呼吸。
「『私も』」
「『本物の家族を』」
「『誰かに決められたくない』と!」
伊之吉が。
水の椀を落とした。
「御台所様が」
「私に」
新之介の目が。
ゆっくり細くなる。
大奥。
お藤。
集められた声。
家慶。
家定。
父。
子。
血。
役。
誰が家族か。
それすら。
制度が決めてきた。
「伊之吉殿」
家定本人が。
門の内側から。
初めて。
自分と同じ声の男へ。
直接言った。
「私と」
「一緒に」
「会いませんか」
伊之吉が。
家定を見る。
「二人で?」
「はい」
「どちらが」
「本物の息子か」
「見分するため?」
家定は。
少し考え。
首を振った。
「いいえ」
「では」
「御台所様が」
「私たちを」
「どう見ていたか」
「聞くためです」
伊之吉の目が揺れる。
「もし」
「私を」
「偽物と」
「言われたら」
家定は答えた。
「それも」
「聞きます」
「怖くない?」
「怖いです」
「私も」
「では」
「迷いながら」
「行きましょう」
伊之吉が。
初めて。
徳川家定と。
同じように笑った。
だが。
新之介は。
その笑いを。
同じとは思わなかった。
同じ声。
同じ役。
似た顔。
それでも。
二人は。
二人だった。
その時。
もう一人の使者が。
桝形へ駆け込んだ。
「榊原殿!」
「何が」
「米利堅船より!」
「急報!」
「誰から」
「サラ・ミラー殿!」
「内容!」
紙。
短い。
――二十八人のうち。
――残る十八人へ。
――改めて意思を聞いた。
――その結果。
新之介が読む。
――帰国希望。
――十一人。
――帰国しない。
――四人。
――未定。
――三人。
その下。
――ただし。
――一人。
――日本へ戻りたいとも。
――残りたいとも言わない者あり。
「何と」
水野が問う。
新之介は。
最後の行を見る。
――その者は申す。
――「私には」
――「戻る日本がない」
家定が。
顔を上げる。
「名前は」
新之介が読む。
――生まれ名。
――榊兵庫。
空気が。
止まった。
新之介の。
父と同じ名。
そして。
今。
江戸に戻っているはずの。
榊兵庫。
「また」
水野が。
低く呻く。
だが。
新之介は。
首を振った。
「いいえ」
「今度も」
「増えたのではありません」
「では」
新之介は。
紙を握った。
「戻る場所を」
「ずっと」
「別の人に使われていた人が」
「いたのです」
(第九十章へ続く)

コメント