第八十八章 戻る場所
一番船へ向かう小舟の中。
黒川玄斎は。
竹吉を。
何度も見た。
見て。
目を逸らし。
また見る。
「先生」
「何だ」
「そんなに見られると」
「顔に何か」
「ある」
「何が」
「十二年」
竹吉は。
少しだけ笑った。
「それは」
「顔には出ません」
「うるさい」
「はい」
新之介は。
二人のやり取りを聞きながら。
竹吉が口にした。
二十八人。
その言葉を考えていた。
日本へ戻すため。
勘定方。
通詞。
海防。
町奉行。
大名。
老中。
役を与えられた人々。
本人へ聞いたという。
だが。
断れば。
戻る道そのものを失うなら。
それは。
本当に選んだことになるのか。
「榊原殿」
竹吉が言う。
「何です」
「喜兵衛は」
「かなり怒っています」
「誰に」
「榊原新之介へ」
「私?」
「もう一人の方です」
「最近」
水野が呻く。
「その言い分けにも」
「慣れてきたな」
「嬉しくありません」
「分かっている」
◇
一番船。
甲板。
米利堅の船員。
日本人らしい者。
異国人と日本人の間に生まれたらしい者。
服も。
言葉も。
ばらばら。
その中。
一人の男が待っていた。
三十半ば。
日に焼け。
髷はない。
異国風の上着。
だが。
足元は。
草履。
「喜兵衛殿?」
新之介が問う。
「そう呼ばれています」
「今の名?」
「はい」
「生まれた名は」
「覚えています」
「使いたい?」
「今は」
「喜兵衛で」
「分かりました」
喜兵衛は。
新之介を。
上から下まで見た。
「あなたが」
「榊原新之介」
「そう名乗っています」
「腹が立つ」
「まだ何も」
「その言い方です」
「すみません」
「謝られると」
「もっと腹が立つ」
「では」
「謝りません」
喜兵衛は。
初めて少し笑った。
◇
「私に」
新之介が問う。
「何を聞かせたいのです」
「二十八人」
「はい」
「その人たちへ」
「もう一度聞いてほしい?」
「はい」
「なぜ」
「最初の聞き方が」
「間違っていたからです」
「誰が」
「もう一人の榊原新之介」
「どんな聞き方を」
喜兵衛は。
ゆっくり答えた。
「日本へ戻りたいか」
「はい」
「戻りたいと答えると」
「次に」
「日本で何ができるかと聞かれる」
「そして」
「役を与えられる?」
「はい」
「断れる?」
「断れると言われました」
「実際」
「私は断った」
「老中を」
「はい」
「それでも」
「帰れる?」
喜兵衛が黙る。
「帰れると」
「言われましたか」
「言われていません」
「では」
「何と」
「今のままでは」
「日本へ戻しても」
「居場所がない、と」
◇
「居場所?」
水野が問う。
「戸籍」
「藩籍」
「家」
「寺請」
「身元」
喜兵衛が指を折る。
「私には」
「何もない」
「生まれた村は」
「あります」
「戻れば」
「二十年以上前に」
「死んだことになっている」
「家族は」
「弟が」
「家を継いでいます」
「そこへ」
「帰れば」
「家督争いになる」
「私は望んでいない」
「でも」
「周りはそう見る」
「では」
「別人として?」
「それが」
「役です」
新之介の顔が。
僅かに強張る。
「老中という役なら」
「幕府が」
「帰還を認めざるを得ない」
「そう言われた?」
「はい」
「誰に」
「榊原新之介」
「もう一人の」
「はい」
◇
「つまり」
水野が言う。
「役は」
「日本へ戻るための」
「通行手形か」
「そうです」
「その者は」
新之介が問う。
「二十八人を」
「役へ押し込めたい?」
「私には」
「そう見えた」
「でも」
竹吉が口を開く。
「私は」
「少し違うと思う」
「何が」
喜兵衛が睨む。
「彼は」
「日本へ戻したかった」
「戻せば」
「幕府が」
「身元不明の者を」
「捕らえる可能性がある」
「だから」
「先に」
「幕府の中へ」
「居場所を作ろうとした」
「それが」
新之介が言う。
「勘定方」
「通詞」
「海防」
「老中」
「はい」
「本人のために?」
「そう思っていた」
「本人へ」
「その仕組み自体を」
「選ばせた?」
竹吉が黙った。
「そこです」
喜兵衛が言った。
◇
「私は」
喜兵衛が続ける。
「老中が嫌なのではありません」
「では」
「老中になることでしか」
「帰れない形が」
「嫌なのです」
新之介が頷く。
「分かります」
「本当に?」
「少しは」
「あなたも」
「役へ戻れと言われたら」
「嫌ですか」
「かなり」
「なら」
喜兵衛は。
少し息を吐いた。
「話が早い」
◇
「二十八人は」
「どこに」
「この船と」
「三番船」
「四番船」
「分かれています」
「全員」
「日本へ戻りたい?」
「違います」
「何人」
「戻りたいと」
「最後に確認できたのは」
「十七」
「残り十一」
「戻りたくない?」
「六人」
「未定」
「五人」
「役を受けた人は」
「二十二」
「戻りたくないのに」
「役を受けた人も?」
「います」
「なぜ」
「日本へ戻るためではなく」
「向こうで」
「日本人として扱われるため」
「どういう」
喜兵衛は。
一人の女を手招きした。
二十代後半。
異国服。
髪は後ろへまとめている。
「名を」
新之介が問う。
「今は」
「梅」
「生まれた名は」
「千代」
サラが。
少し反応する。
「鷹見千代とは」
「関係ありません」
梅は即座に言った。
新之介は。
思わず苦笑する。
「先に言われました」
「皆」
「その顔をするので」
◇
「梅殿は」
「何の役を」
「奥女中」
水野が顔をしかめる。
「なぜ」
「女だから?」
「それも」
「本人が望んだ?」
「最初は」
「いいえ」
「では」
「何をしたかった」
「薬師」
「医者?」
「向こうで」
「薬草と」
「傷の手当てを」
「学びました」
「なら」
「なぜ奥女中」
「城へ入れば」
「薬にも関われると」
「言われた」
「誰に」
「榊原様」
「もう一人の」
「はい」
「断った?」
「一度」
「すると」
「何と」
「『女が医者として戻れば』」
「『幕府は受け入れないかもしれない』」
「『奥へ入ってから』」
「『中で変えればよい』と」
志乃がいれば。
何と言うか。
新之介には分かった。
「梅殿」
「はい」
「それを」
「どう思いました」
「半分」
「何が」
「確かに」
「外から医者だと名乗るより」
「奥女中の方が」
「城へは入れる」
「でも」
「入った後」
「本当に」
「医者として認められるかは」
「誰も約束していない」
「はい」
「つまり」
「また」
梅は。
苦く笑った。
「入ってから考えろ、です」
◇
新之介は。
小名木川の救小屋を思い出した。
左京へ。
名も知らぬ女が言った。
――中へ入れてから考えろ。
あの時は。
命を救うための言葉だった。
今は。
役へ入れてから考えろ。
同じ言葉でも。
前と後ろが違う。
「声には」
竹吉が呟く。
「前と後ろがある」
新之介が見る。
「先生から?」
「違います」
「では」
「向こうの榊原殿が」
「よく言います」
玄斎が。
不機嫌になる。
「そなたの言葉は」
「海外まで増えたな」
「嬉しくありません」
◇
「二十八人全員へ」
新之介が言う。
「聞きたい」
「今?」
喜兵衛が問う。
「できる人から」
「一人ずつ?」
「最初は」
「時間が」
水野が言いかけ。
自分で止まる。
「……いや」
「言ってください」
「外国艦隊は」
「いつまでも待たぬ」
「はい」
「だが」
「帰国者二十八人を」
「一日で決める必要もない」
「はい」
「では」
「今」
「何だけ決める」
新之介は。
少し考える。
「役を受けるかどうかと」
「日本へ戻るかどうかを」
「分けます」
喜兵衛の目が動く。
「どうやって」
「まず」
「役を受けなくても」
「帰国を相談できる道を」
「日本側へ作る」
「幕府が認める?」
「そこを」
「家定殿」
「阿部殿」
「町側」
「寺」
「港」
「複数で」
「見分する」
「本人の元の家へ」
「必ず戻すのではなく?」
「はい」
「新しい名を」
「選ぶ?」
「それも」
「本人が望むなら」
「元の名を」
「戻す?」
「それも」
「本人が望むなら」
「何も決めない?」
名未定の男が。
新之介の頭に浮かぶ。
「それも」
喜兵衛が。
長く息を吐いた。
「それが」
「最初に欲しかった」
◇
「でも」
竹吉が言う。
「日本側が」
「『役なしで戻ってよい』と」
「認めなければ」
「そうです」
「だから」
「その仕組みを先に」
「作る?」
「少なくとも」
「仮の帰還方法を」
「誰が」
「また」
水野が言う。
「仮交渉会議か」
「外国だけでなく?」
「今のところ」
「複数が集まって」
「一時的に決められる場所が」
「そこにある」
「役を」
「広げすぎるなよ」
「はい」
「期限」
「必要ですね」
「対象」
「今回確認された帰国希望者」
「二十八人全部では」
「希望者」
「はい」
「本人確認」
「一人ずつ」
「元の家へ通知」
「本人が望む場合のみ」
「犯罪歴」
「別に」
「帰国そのものと」
「罪の見分を」
「混ぜない」
喜兵衛が新之介を見る。
「本当に」
「戻ることと」
「裁かれることを」
「分ける?」
「全部は」
「難しいでしょう」
「でも」
「少なくとも」
「帰りたいから役を背負え」
「にはしない」
◇
「だったら」
梅が言った。
「私は」
「奥女中を」
「断ります」
「今?」
「はい」
「戻るかは」
「戻りたい」
「何として」
「梅として」
「医者では」
「まだ」
「日本で」
「医者と名乗れるか」
「分からない」
「では」
「梅として」
「薬の知識を持つ者」
「それでよい」
新之介が頷く。
清太郎がいれば。
きっと。
――梅。
――帰国希望。
――奥女中役を辞退。
――医療技術あり。
――資格・身分の扱い未定。
そう書くだろう。
◇
「私も」
別の男が出る。
五十ほど。
「名は」
「今は甚兵衛」
「役は」
「勘定方」
「受けた?」
「受けた」
「続けたい?」
「続けたい」
喜兵衛が振り向く。
「なぜ」
「私は」
「向こうで」
「商いを二十年やった」
「数字も」
「為替も」
「船荷も」
「知っている」
「なら」
新之介が問う。
「勘定方という仕事を」
「自分で選ぶ?」
「ああ」
「その役がなくても」
「日本へ戻れるとしても?」
甚兵衛は。
少し考え。
「ああ」
「なら」
「役を受けることと」
「帰国は」
「別にできます」
「俺は」
「役を選ぶ」
「はい」
◇
もう一人。
若い男。
「私は」
「海防役を」
「断る」
「理由」
「海が嫌いです」
水野が驚く。
「船に乗っているのに?」
「だからです」
「二十年」
「船しかなかった」
「日本へ戻ったら」
「土を耕したい」
「できるか」
「分かりません」
「土地が」
「ない」
「なら」
「農家へ養子?」
「それも」
「誰かに決められたくない」
新之介が頷く。
「名は」
「弥平」
「その名で」
「はい」
「では」
「弥平殿」
「帰国希望」
「海防役辞退」
「戻った後」
「農を希望」
「ただし」
「行き先未定」
「それで」
弥平が。
少し笑う。
「それでいい」
◇
二十八人。
全員を。
その場では。
聞けなかった。
だが。
十人。
話せた。
帰国希望。
七。
帰国しない。
一。
未定。
二。
役を続けたい。
三。
辞退。
五。
考えたい。
二。
数字は。
きれいに合わない。
一人で。
二つの答えを持つ者がいるからだ。
「これ」
水野が言う。
「帳面にしにくいな」
「人ですから」
喜兵衛が答えた。
「そういうものか」
「水野様も」
「海防を続けたいかと」
「江戸に住みたいかは」
「別でしょう」
「確かに」
◇
その時。
一番船の船室から。
誰かが出てきた。
ざわめき。
新之介は。
すぐ分かった。
顔。
自分に似ている。
庄吉。
新八。
金次。
彼らとは。
また少し違う。
年齢。
新之介より。
少し上に見える。
髪には。
僅かな白。
歩き方。
似ている。
だが。
完全には真似ていない。
男は。
新之介の前へ来た。
「初めまして」
「はい」
「榊原新之介です」
水野が。
天を仰ぐ。
「やはり」
玄斎が。
杖を鳴らす。
「もう」
「数えるな!」
男は笑った。
「黒川先生」
「先生と呼ぶな!」
「資料で」
「十三年」
「先生でした」
「なお悪い!」
◇
新之介は。
男を見る。
「今の名を」
「榊原新之介」
「生まれた名」
「捨てていません」
「では」
「何です」
男は。
少しだけ。
表情を変えた。
「新之助」
新之介が止まる。
「漢字は」
「之助」
「私とは」
「介が違う」
「はい」
「元々?」
「はい」
玄斎が呟く。
「そこから選んだのか」
「選ばれた?」
新之介が問う。
「最初は」
「名前が似ていたから」
「誰に」
男は。
サラを見る。
サラが顔を伏せた。
「私です」
「何歳」
「二十六」
「代替計画が」
「始まった頃?」
「少し後」
「私は」
男――新之助が言う。
「海外へ出されました」
「なぜ」
「日本に」
「榊原新之介が二人いるより」
「海外に一人いた方が」
「使えると言われた」
「誰に」
「サラ殿」
◇
新之介は。
サラを見る。
「本当です」
「何に使った」
「海外から」
「新之介の名で」
「文を出す」
「誰へ」
「海の御影」
「長崎」
「異国側」
「なぜ」
「日本の新之介が」
「知らない場所へ」
「考え方を広げるため」
「また」
サラが目を閉じる。
「はい」
「本人の考えを」
「本人の知らない場所へ」
「別の人間で」
「はい」
「新之助殿は」
新之介が男へ問う。
「望んだ?」
「最初は」
「嫌でした」
「その後」
「楽になった」
「なぜ」
「新之助では」
「誰も私の話を聞かなかった」
「榊原新之介になると」
「聞いた」
竹吉と。
同じ。
大きな名。
人を。
大きく見せる。
「それで」
新之助は続けた。
「私は」
「利用された」
「でも」
「私も」
「名を利用した」
「はい」
「十二年」
「榊原新之介として」
「何を」
「日本人を」
「集めた」
「二十八人」
「はい」
「本人へ役を」
「聞いた?」
「聞きました」
「でも」
「喜兵衛殿は」
「聞き方が間違っていたと」
「知っています」
喜兵衛が男を見る。
「知っていたのか」
「ああ」
「なら」
「なぜ」
「戻す方法が」
「他になかった」
「それを」
喜兵衛が怒鳴る。
「お前が決めた!」
「そうだ!」
◇
二人。
睨み合う。
「私は」
新之助が声を上げる。
「十二年!」
「日本へ帰れない者を」
「見てきた!」
「漂流しただけで」
「罪人になる!」
「名前がない!」
「家がない!」
「寺がない!」
「帰れば」
「捕らえられる!」
「だから!」
「幕府の中へ」
「先に席を作った!」
「悪いか!」
喜兵衛が答える。
「悪い!」
「では」
「お前はどう戻る!」
「分からん!」
「それでは」
「戻れない!」
「戻れなくても!」
喜兵衛が。
新之助の胸ぐらを掴む。
「他人になるよりましだ!」
新之介が。
間へ入る。
「離してください」
「榊原!」
「どっちだ!」
「今は」
「両方」
「何」
「新之助殿のしたことには」
「意味がある」
「喜兵衛殿の怒りにも」
「意味がある」
「また」
喜兵衛が歯を食いしばる。
「両方か」
「はい」
◇
「新之助殿」
「何です」
「帰れる道を」
「作った」
「はい」
「でも」
「その道を」
「役という」
「細い一本にした」
「……」
「それしか」
「見えなかった?」
「はい」
「本当に」
「他を探した?」
「探した!」
「誰と」
新之助が止まる。
「……私が」
「一人で?」
「はい」
「そこで」
新之介は言った。
「私たちと同じです」
新之助が。
目を閉じた。
◇
「国を救う」
「人を戻す」
「名を守る」
「正しい目的ほど」
「一人で考えると」
「その人の見える道だけが」
「正解になります」
「では」
新之助が問う。
「そなたなら」
「十二年前」
「どうした」
「分かりません」
「逃げるな!」
「本当に」
「分かりません」
「なら」
「私を責めるな!」
「責めるところは」
「責めます」
「何」
「喜兵衛殿たちへ」
「役を受けなくても」
「戻る道を」
「一緒に作るかと」
「聞かなかった」
「……」
「帰国できる方法を」
「本人たちと」
「考えなかった」
「時間が」
「十二年ありました」
新之助が。
完全に黙った。
◇
「ただ」
新之介は続ける。
「そなたが」
「二十八人を」
「日本人として」
「捨てなかったこと」
「それは」
「消しません」
新之助が顔を上げる。
「何」
「善いことまで」
「私の名へ」
「戻さない」
「……」
「二十八人を探し」
「食わせ」
「居場所を作り」
「帰国を考えた」
「それは」
「新之助殿の行いです」
「榊原新之介の」
「名前の力を借りても」
「したのは」
「そなたです」
新之助の目が。
赤くなる。
「では」
「私に」
「何が残る」
「これから」
「決めればよい」
「新之助へ」
「戻れと?」
「いいえ」
「では」
「榊原新之介を」
「名乗る?」
「それも」
「そなたが」
「ただし」
「はい」
「私の代わりだとは」
「言わないでください」
新之助が。
少し笑った。
「そこだけは」
「はっきり言う」
「かなり」
◇
「私は」
新之助が言う。
「日本へ戻りません」
「なぜ」
「ここに」
「家族がいます」
「家族?」
「妻」
「子ども二人」
「日本人?」
「妻は」
「米利堅人」
「子どもは」
「どちらでもある」
「では」
「戻らない」
「はい」
「でも」
「二十八人は」
「戻したい?」
「違う」
新之助は。
喜兵衛を見る。
「戻りたい者を」
「戻したい」
「ようやく」
喜兵衛が言った。
「そう言ったな」
「遅い」
「はい」
「遅すぎる」
「はい」
「でも」
喜兵衛は。
手を離した。
「今は」
「聞いた」
◇
「一つ」
新之助が。
新之介へ言う。
「何です」
「私が」
「日本へ戻らないのは」
「偽物になるのが怖いからでは」
「今はありません」
「では」
「子どもたちに」
「私は」
「榊原新之介だと」
「言ってきた」
「はい」
「今日から」
「何と」
「話せばよい」
新之介は。
すぐには答えない。
「事実を」
「どれ」
「新之助という名で」
「日本に生まれた」
「榊原新之介の役を」
「受けた」
「その名で」
「十二年生きた」
「その間に」
「したことがある」
「妻と出会った」
「子どもが生まれた」
「それを」
「全部」
「どれか一つを」
「本物にしなくても」
「よいのでは」
新之助が。
長く。
長く黙った。
「子どもに」
「理解できますか」
「分かりません」
「また」
「でも」
「そなたが」
「一人の父であることは」
「変わらないでしょう」
◇
その時。
船員が。
急いで甲板へ。
米利堅語。
竹吉が聞く。
顔が変わる。
「何が」
水野が問う。
「三番船から」
「信号」
「内容」
「二十八人のうち」
「三人が」
「勝手に小舟を出した」
「どこへ」
「江戸」
新之助の顔色が変わる。
「誰だ!」
「役名で」
「何」
「一人は」
「堀田新三郎」
水野が呻く。
「また!」
「二人目」
「阿部伊勢守」
本物の阿部は。
仮交渉会議側。
「三人目」
竹吉が。
一度止まる。
「徳川家定」
新之介の顔が。
ゆっくり硬くなる。
「本人たちの」
「生まれた名は」
「分からない?」
「記録では」
新之助が答える。
「三人とも」
「帰国役として」
「その名を受けた」
「本人たちは」
「役なしでも戻れると」
「まだ知らない?」
「はい」
「では」
新之介は。
江戸の方を見る。
「急ぎます」
水野が頷く。
「今度は」
「なぜ急ぐ」
「三人が」
「日本へ上陸した瞬間」
「役名で捕らえられるか」
「役名で権力を与えられる」
「その前に」
「本人として」
「選べる道があると」
「伝えるためです」
「人が先?」
「はい」
◇
だが。
もう一つ。
信号。
竹吉が読む。
「待ってください」
「何」
「三人は」
「江戸へ向かっていない」
「では」
「品川?」
「違います」
「どこ」
竹吉の顔から。
血の気が引く。
「江戸城」
「直接?」
「はい」
「なぜ」
新之助が。
震える声で言った。
「帰国役の」
「最初の命令です」
「誰から」
新之介が問う。
新之助は。
答えたくないように。
目を閉じた。
「私です」
「いつ」
「三年前」
「内容」
「もし」
「日本の幕府が」
「将軍を決められなくなった時」
「何を」
「帰国した三人で」
「政務を」
「一時代行せよ」
水野が刀へ手をかける。
「国の代替」
新之介が。
静かに言った。
「ジョナサン殿だけでは」
「なかった」
「はい」
新之助の声が。
掠れる。
「私も」
「作りました」
「本人たちへ」
「その命令を」
「実行したいか」
「今」
「聞いた?」
新之助は。
答えられない。
新之介は。
江戸城を見る。
家定。
阿部。
新三郎。
今。
同じ名を持つ者が。
海から。
もう三人。
戻ろうとしている。
だが。
今度の問題は。
どちらが本物かではない。
三人が。
自分として戻る前に。
与えられた役の命令を。
実行しようとしていることだった。
「戻る場所を」
新之介が言った。
「間違えさせましたね」
新之助の顔が歪む。
「……はい」
「なら」
「今度は」
新之介は。
小舟へ向かった。
「役ではなく」
「人が戻れる場所を」
「先に作ります」
(第八十九章へ続く)

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