上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第八十七章

目次

第八十七章 海の玄斎

「黒川玄斎」

 その名を読んだ後。

 新之介は。

 しばらく紙を折れなかった。

 十二年前。

 米利堅へ。

 榊原新之介を名乗る男が。

 黒川玄斎という日本人を。

 引き渡した。

 そして。

 その時。

 今ここにいる新之介も。

 今朝風丸にいる玄斎も。

 日本にいた。

「戻ります」

 新之介が言った。

「どこへ」

 水野が問う。

「先生のところへ」

「先に?」

「はい」

「米利堅側の記録を」

「その後です」

「人が先」

「はい」

 水野が小さく息を吐いた。

「もう言われる前に分かった」

「慣れましたね」

「嬉しくない」

 ◇

 朝風丸。

 新之介が甲板へ上がると。

 玄斎は。

 座っていた。

 船縁。

 杖。

 膝を伸ばし。

 不機嫌そうな顔。

「遅い」

「すみません」

「会談は」

「終わりました」

「戦は」

「今はありません」

「今は?」

「発砲停止を一日延長」

「それだけか」

「それだけでも」

「今日は十分です」

 玄斎が鼻を鳴らす。

「で」

「何を隠しておる」

 新之介が止まる。

「なぜ」

「そなた」

「悪い知らせを持って来た時だけ」

「右の眉が下がる」

「そんな癖が?」

「ある」

「代替の資料に」

「書かれていそうですね」

「今は笑えぬぞ」

「はい」

 新之介は。

 紙を差し出した。

「先生」

「何だ」

「十二年前」

「黒川玄斎という人が」

「米利堅へ渡っています」

 玄斎は。

 紙を見なかった。

「もう一度申せ」

「十二年前」

「榊原新之介を名乗る者が」

「黒川玄斎という日本人を」

「米利堅側へ引き渡した」

 玄斎の顔が。

 ゆっくり変わった。

「わしか」

「決めません」

「わしは」

「十二年前」

「江戸にいた」

「確認できますか」

「殴るぞ」

「先生だから聞いています」

「……できる」

「誰が」

「半九郎の親父」

「玄十郎殿?」

「ああ」

「宗一郎も」

「鷹見宗一郎?」

「ああ」

「三人で」

「甲州にいた」

「何のため」

「それは」

 玄斎が。

 一瞬。

 黙った。

「先生」

「後で申す」

「今」

「後で」

「怪しいですね」

「うるさい!」

 ◇

「では」

 新之介が隣へ座る。

「十二年前」

「先生の名を」

「誰かへ渡したことは」

「ない」

 即答。

「顔を似せた者」

「知らぬ」

「声」

「知らぬ」

「剣を」

 玄斎が止まる。

 新之介が見る。

「剣を?」

「一人」

「教えた」

「誰に」

「竹吉」

「姓は」

「ない」

「年」

「今なら」

「三十六か七」

「十二年前なら」

「二十四、五」

「はい」

「何者」

「浪人の子」

「いや」

 玄斎が首を振る。

「本人はそう申していた」

「確認は」

「していない」

「先生」

「分かっておる!」

 ◇

「竹吉殿へ」

「何を教えた」

「剣」

「どの剣」

「わしの剣だ」

「黒川流?」

「そんな大層な名はない」

「鷹見静山殿から」

「教わったもの?」

「ああ」

「なぜ竹吉殿に」

「死にそうだったからだ」

「誰が」

「わしが」

 新之介が玄斎を見る。

「十二年前?」

「十三年前」

「何が」

「熱病」

「三月寝た」

「その頃」

「わしは」

「自分が死ぬと思った」

「それで」

「竹吉へ」

「何を」

「剣を残せと」

「申した」

 新之介の目が細くなる。

「剣を」

「ああ」

「人を残せとは」

「申しておらぬ」

「でも」

 玄斎は。

 自分で気づいたらしい。

 顔をしかめた。

「……誰かが」

「広げた」

「可能性があります」

 ◇

「竹吉殿は」

「どんな人でした」

「真面目」

「真面目すぎる」

「先生とは逆ですね」

「斬るぞ」

「刀は」

「ある!」

「失礼しました」

「わしが」

 玄斎は続ける。

「右から振れと言えば」

「百回右から振る」

「なぜ右かを聞かぬ」

「それを怒った」

「何と」

「技を覚えるな」

「迷い方を覚えろ」

 新之介が少し笑った。

「先生らしいですね」

「褒めるな」

「なぜ」

「今」

「嫌な予感がする」

 ◇

「竹吉殿は」

「先生の歩き方も」

「真似た?」

「一時」

「何」

「稽古中」

「わしが膝を痛めた」

「その時」

「竹吉も」

「足を引き始めた」

「なぜ」

「わしの間合いを」

「覚えるためだと言った」

「止めた?」

「ああ」

「何と」

「わしの傷まで習うな」

「本人は」

「やめた」

「その後」

「知らない」

「なぜ」

「突然」

「いなくなった」

 新之介の表情が変わる。

「いつ」

「十二年前」

「米利堅へ渡った時期と」

「重なる」

「……ああ」

 ◇

「誰が連れて行った」

「知らぬ」

「最後に会ったのは」

「西徳寺」

「また」

「何だ」

「そこですね」

「わしも今思った」

「何をしていた」

「竹吉が」

「誰かと話していた」

「誰」

「顔は見ておらぬ」

「声」

「若い男」

「内容」

 玄斎は。

 遠い記憶を。

 拾う。

「『先生が死んだら』」

「『何を残す』」

「竹吉が」

「何と」

「『剣ではない』」

「『判断を残す』」

 新之介の背筋が冷える。

「相手は」

「何と」

「『判断は人にしか残せぬ』」

 玄斎が歯を食いしばる。

「わしは」

「そこまで聞いて」

「怒鳴った」

「何と」

「人は巻物ではない、と」

「相手は」

「逃げた」

「竹吉は」

「残った」

「何と」

「何も」

「その後」

「二日して消えた」

 ◇

「先生」

「何だ」

「なぜ今まで」

「話さなかった」

「何と関係あるか」

「分からなかった」

「でも」

「黒川玄斎の代替が」

「作られた可能性は」

「考えなかった?」

 玄斎が。

 しばらく黙る。

「考えた」

「なら」

「なぜ」

「怖かった」

 新之介は。

 何も言わなかった。

「わしも」

 玄斎が続ける。

「そなたたちと同じだ」

「何が」

「自分の言葉が」

「人を役にしたかもしれぬ」

「それを」

「確かめるのが」

「嫌だった」

 ◇

「十三年前」

 玄斎が。

 低く言う。

「熱で死にかけた」

「竹吉へ」

「剣を残せと言った」

「はい」

「だが」

「その前に」

「もう一つ」

「申した」

「何を」

「もし」

「わしが死んだ後」

「誰かが鷹見静山の剣を」

「必要としたら」

「そなたが黒川玄斎だと」

「名乗ってもよい」

 新之介の顔が変わる。

「先生」

「言うな」

「本人へ」

「竹吉へ直接?」

「ああ」

「本人は」

「何と」

「嫌だと言った」

「それでも」

「わしは」

「申した」

「『名など役にすぎぬ』と」

 玄斎が。

 自分の杖を握る。

「わしが」

「教えた」

「名は人ではない」

「なら」

「名を使えばよい、と」

「でも」

「先生」

「何だ」

「名は人ではないことと」

「人へ別の名を背負わせてよいことは」

「別です」

「分かっておる!」

 玄斎の声が。

 少し震えた。

「今は」

「分かっておる」

 ◇

「竹吉は」

「最後に何と」

「『先生の名を使えば』」

「『先生の失敗まで私のものになるのですか』」

 新之介が目を細める。

「先生は」

「何と」

「……」

「何と」

「『失敗まで背負ってこそ弟子だ』」

 玄斎は。

 顔を伏せた。

「馬鹿だった」

「はい」

「そこは否定せぬのか」

「本人が」

「嫌だと言っているのに」

「背負えと申したなら」

「はい」

「馬鹿です」

 玄斎が。

 新之介の肩を杖で軽く叩いた。

「傷人だぞ」

「先生が?」

「そなたがだ!」

 ◇

「米利堅側へ」

 水野が来る。

「返還照会を出せる」

「何を」

「黒川玄斎を名乗った人物の」

「記録」

「生死」

「現在地」

 玄斎が即座に言う。

「やれ」

「先生」

「何だ」

「本人に」

「戻りたいかも」

「聞きます」

 玄斎が黙る。

「もし生きていて」

「黒川玄斎として」

「向こうで生きたいなら」

「どうします」

「……」

「名を返せと」

「言いますか」

 玄斎は。

 長く。

 江戸湾を見た。

「言えぬ」

「なぜ」

「わしが」

「一度」

「使ってよいと言った」

「でも」

「本人は嫌がった」

「ああ」

「後から誰かに」

「強制された可能性も」

「ある」

「はい」

「なら」

 玄斎は。

 唇を噛んだ。

「まず聞く」

「それで」

「よいと思います」

「褒めるな」

「褒めていません」

 ◇

 米利堅側へ。

 照会。

 返事は。

 意外に早かった。

 黒川玄斎。

 十二年前。

 日本人。

 年齢二十五ほど。

 榊原新之介と名乗る男から。

「護衛剣士」として。

 米利堅船へ預けられた。

「預けられた?」

 玄斎が言う。

「売られたのでは」

「記録上は」

 水野が読む。

「雇用契約」

「本人の署名あり」

「署名は」

「黒川玄斎」

「……」

「その後」

「三年」

「船員の護衛」

「通訳補助」

「剣術指南」

「さらに」

「米利堅本土へ」

 玄斎が。

 指を強く握る。

「生きているのか」

「九年前までは」

「その後」

「記録が別の役所へ」

「今照会中」

 ◇

「本人の手紙が」

 水野が続ける。

「一通」

「残っている」

「誰宛」

「日本」

「黒川玄斎」

 玄斎の顔が変わる。

「わしへ?」

「おそらく」

「なぜ届かなかった」

「米利堅側から」

「長崎へ渡した記録はある」

「その後」

「不明」

 新之介が言う。

「見せてもらえますか」

「写しなら」

「本人の手紙だ」

 玄斎が言う。

「先に」

「わしが読む」

「はい」

 ◇

 紙。

 異国の紙。

 日本語。

 字は。

 乱れていない。

 若い。

 だが。

 どこか。

 玄斎の筆に似ていた。

「わしの字を」

「教えました?」

 新之介が問う。

「……少し」

「先生」

「後で怒れ!」

 玄斎は読む。

 ――先生。

 ――私は今。

 ――黒川玄斎と呼ばれています。

 手が止まる。

 ――先生が使ってよいと言った名です。

 ――だから。

 ――最初は。

 ――守ろうと思いました。

 玄斎の喉が鳴る。

 ――歩き方。

 ――声。

 ――剣。

 ――怒り方。

 ――酒の飲み方まで。

 新之介が。

 思わず玄斎を見る。

「酒まで?」

「黙れ」

 ――ただ。

 ――膝だけは。

 ――壊していません。

 玄斎が。

 思わず笑った。

「馬鹿者」

「よかったですね」

「何が」

「膝人は一人」

「後で斬る」

 ◇

 手紙は続く。

 ――三月ほど。

 ――私は。

 ――黒川玄斎になることを。

 ――面白いと思いました。

 玄斎の笑みが消える。

 ――皆が。

 ――私を先生と呼びます。

 ――私の言葉を聞きます。

 ――竹吉だった時には。

 ――誰も聞かなかった。

 新之介の顔が変わる。

 ――だから。

 ――怖くなりました。

 ――黒川玄斎でいる方が。

 ――竹吉でいるより。

 ――楽だったからです。

 長い。

 沈黙。

 ――先生。

 ――名は。

 ――人ではない。

 ――そう教わりました。

 ――でも。

 ――大きな名は。

 ――人を大きく見せます。

 ――その力を。

 ――私は捨てられませんでした。

 玄斎の手が。

 震えている。

 ◇

 ――そして。

 ――一人。

 ――斬りました。

 新之介が息を止める。

 ――私を。

 ――黒川玄斎だと信じた男が。

 ――敵を殺せと申しました。

 ――私は。

 ――先生ならどうするかを考えました。

 ――考えたつもりでした。

 ――そして。

 ――斬りました。

 玄斎が。

 紙を下げる。

「先生」

「読む」

「はい」

 ――後で分かりました。

 ――斬った男は。

 ――敵ではありませんでした。

 ――逃げようとしていただけでした。

 ――私は。

 ――黒川玄斎という名で。

 ――人を殺しました。

 玄斎が目を閉じる。

 ◇

 ――先生。

 ――この責任は。

 ――誰のものですか。

 新之介の胸が。

 詰まる。

 ――私ですか。

 ――先生ですか。

 ――私を黒川玄斎にした者ですか。

 ――命じた者ですか。

 ――皆ですか。

 ――誰でもないのですか。

 そして。

 次。

 ――私は今。

 ――一つだけ分かります。

 ――斬ったのは。

 ――私です。

 玄斎の目から。

 一滴。

 涙が落ちた。

 ――黒川玄斎という名が。

 ――刀を振ったのではない。

 ――竹吉という名も。

 ――刀を振ったのではない。

 ――あの時。

 ――私が振りました。

 新之介は。

 何も言わなかった。

 ◇

 最後。

 ――だから。

 ――私は。

 ――黒川玄斎をやめません。

 玄斎が顔を上げる。

「何」

 ――逃げたと思われるから。

 ――竹吉へ戻って。

 ――黒川玄斎が殺したと言えば。

 ――竹吉は。

 ――罪から逃げられる。

 ――それが嫌です。

 玄斎の手が。

 さらに震える。

 ――でも。

 ――先生の代わりとして。

 ――黒川玄斎を名乗るのも。

 ――やめます。

 ――私は。

 ――私が斬った責任を。

 ――この名で負うために。

 ――黒川玄斎と名乗ります。

 玄斎は。

 紙を。

 胸へ当てた。

 ◇

「先生」

 新之介が。

 静かに問う。

「どうします」

「何を」

「その方を」

「偽物と呼びますか」

「呼べぬ」

「では」

「本物?」

「それも違う」

「なら」

 玄斎は。

 長く考えた。

「竹吉だ」

「本人は」

「黒川玄斎と名乗っています」

「……」

「先生」

「分かっておる」

 玄斎は。

 悔しそうに。

 言い直した。

「わしではない」

「黒川玄斎」

「それでよい」

 新之介が頷く。

「はい」

「腹が立つ」

「何が」

「同じ名を」

「他人が使うのは」

「やはり嫌だ」

「それも」

「記録します?」

「するな!」

 ◇

 だが。

 手紙には。

 さらに裏があった。

 水野が気づく。

「ここ」

「別の日付」

 九年前。

 先ほどの文より。

 三年後。

 ――先生。

 ――私は。

 ――黒川玄斎を。

 ――今日でやめます。

 玄斎が。

 声を失う。

「何だと」

 新之介が読む。

 ――三年。

 ――責任を負うために。

 ――この名を使いました。

 ――だが。

 ――今日。

 ――斬った男の弟に会いました。

 ――弟は。

 ――私を黒川玄斎として。

 ――憎んでいました。

 ――私は。

 ――その時初めて。

 ――責任を負うために使った名が。

 ――別の黒川玄斎まで。

 ――罪へ巻き込んでいると。

 ――気づきました。

 玄斎本人の顔が。

 変わった。

 ◇

 ――だから。

 ――私は。

 ――これから。

 ――竹吉と名乗ります。

 新之介が。

 小さく息を吐く。

 ――ただし。

 ――黒川玄斎として。

 ――私が斬った事実は。

 ――消しません。

 ――竹吉。

 ――当時、黒川玄斎の名を使用。

 ――その期間に。

 ――一人を斬殺。

 ――そう残します。

 清太郎が。

 遠く御記録所で。

 同じことを書いているような気がした。

 誰が。

 いつ。

 何をしたか。

 名より。

 行為へ。

 ◇

「先生」

「何だ」

「竹吉殿は」

「私たちより」

「早かったですね」

「何が」

「責任を」

「名から分けること」

 玄斎は。

 苦笑した。

「弟子に」

「追い越されたか」

「少し」

「少しか!」

「かなり」

「そなた」

「今日」

「本当に斬るぞ」

 ◇

 その時。

 米利堅側から。

 新しい返答。

「九年前以降の」

「竹吉殿の記録」

 水野が読む。

「見つかった」

 玄斎が立とうとして。

 膝を押さえる。

「座っていてください」

「うるさい!」

「生きているのか!」

 水野が紙を見る。

「六年前」

「西海岸」

「剣術指南」

「その後」

「三年前」

「東部へ」

「そして」

 一度。

 止まった。

「何だ」

「現在」

「何だ!」

 水野が。

 新之介を見る。

「この艦隊に」

「いる」

 玄斎が。

 完全に止まった。

「どの船」

「一番船」

「来ている?」

「ああ」

「名は」

「竹吉」

「黒川玄斎ではなく?」

「竹吉」

 ◇

「会いますか」

 新之介が問う。

 玄斎が。

 答えない。

「先生」

「怖い」

 小さい声。

「はい」

「わしは」

「竹吉へ」

「黒川玄斎になれと」

「言った」

「はい」

「本人が嫌だと」

「申したのに」

「はい」

「それで」

「そいつは」

「人を斬った」

「はい」

「わしのせいか」

 新之介は。

 すぐには答えなかった。

「全部ではありません」

「では」

「先生が」

「その名を使ってよいと」

「押したこと」

「本人が嫌がったのに」

「役を背負わせたこと」

「そこは」

「先生の行いです」

「竹吉殿が斬ったことは」

「竹吉殿の行い」

「命じた者の行いも」

「別にある」

「分ける?」

「はい」

「それで」

「楽になるか」

「分かりません」

「……そうだろうな」

 ◇

「会う」

 玄斎が言った。

「よいのですか」

「よくない」

「でも」

「会う」

「なぜ」

「十三年前」

「わしは」

「竹吉が嫌だと言ったのに」

「聞かなかった」

「今度は」

 玄斎は。

 一番船を見る。

「聞く」

「何を」

「わしに」

「何を言いたいか」

 ◇

 一番船から。

 小舟。

 一艘。

 乗っている男。

 四十に届かぬ。

 髪。

 少し白い。

 身体は。

 痩せている。

 腰に刀はない。

 右手。

 古い傷。

 船が朝風丸へ近づく。

 玄斎は。

 立った。

 膝が痛む。

 それでも立つ。

 新之介は。

 支えなかった。

 今は。

 本人が。

 立とうとしている。

 小舟が。

 朝風丸へ。

 男が。

 縄梯子を上がる。

 甲板。

 十二年。

 いや。

 十三年ぶり。

 男は。

 玄斎を見る。

「先生」

 玄斎の顔が。

 崩れた。

「竹吉」

「はい」

「その名で」

「よいのか」

 竹吉が。

 少しだけ笑った。

「今は」

「はい」

「そうか」

「先生は」

「何と呼ばれたいです」

 玄斎が。

 目を見開く。

 新之介は。

 思わず顔を逸らした。

「黒川玄斎だ!」

「分かりました」

「そこは迷わぬ!」

「先生らしい」

 ◇

 長い。

 沈黙。

 玄斎が。

 先に頭を下げた。

 深く。

 誰も。

 止めなかった。

「竹吉」

「はい」

「すまなかった」

 竹吉は。

 すぐに答えない。

「先生」

「何だ」

「私は」

「その言葉を」

「十二年」

「待った気もします」

「……」

「でも」

「今聞いたら」

「思ったほど」

「嬉しくない」

 玄斎が顔を上げる。

「そうか」

「はい」

「なら」

「どうすれば」

「分かりません」

「そうか」

「はい」

 二人。

 少しだけ。

 笑った。

 ◇

「私も」

 竹吉が言う。

「謝ることがあります」

「わしに?」

「はい」

「何を」

「黒川玄斎の名で」

「人を斬った」

「手紙で読んだ」

「はい」

「あれは」

「わしへ謝る話ではない」

 竹吉が止まる。

「何」

「斬られた本人」

「家族」

「そしてそなた」

「その間の話だ」

「わしの名を使ったことは」

「別だ」

 竹吉が。

 静かに頷く。

「先生も」

「変わりましたね」

「嫌か」

「いえ」

「少し」

「遅いです」

 玄斎が。

 苦笑した。

「皆」

「同じことを申す」

 新之介が吹き出した。

「何だ」

「先生」

「そこは」

「今まで傷人が言う言葉です」

「黙れ!」

 ◇

「竹吉殿」

 新之介が問う。

「はい」

「もう一人の榊原新之介について」

「知っていますか」

 竹吉の顔が。

 一瞬。

 変わる。

「十二年前」

「私を」

「米利堅船へ渡した男ですね」

「はい」

「今も」

「向こうにいます」

「会った?」

「三日前」

「何を」

 竹吉は。

 新之介を見る。

「帰りたくないと」

「はい」

「理由」

「日本へ戻れば」

「自分は偽物になる」

「そう書いていました」

「もう一つ」

「何です」

「彼は」

「榊原新之介として」

「向こうで」

「十二年」

「ただ生きていたのではありません」

「何をした」

「日本人を」

「集めた」

 水野の顔が変わる。

「何のため」

「幕府が」

「崩れた時」

「戻すため」

「代政案?」

「それより前」

 新之介の表情が変わる。

「何人」

「確認できるだけで」

 竹吉は答えた。

「二十八人」

「全員」

「日本人?」

「日本生まれ」

「あるいは」

「日本人を親に持つ者」

「役を」

「与えた?」

「はい」

「どんな」

「勘定方」

「通詞」

「海防」

「町奉行」

「大名」

「老中」

 水野が呻く。

「外国で」

「幕府を作ったのか」

「本人は」

「違うと言っています」

「何と」

「『戻る場所』を」

「作ったと」

 ◇

 新之介は。

 紙の最後を思い出す。

 ――私は戻らない。

 だが。

 彼は。

 自分が戻るのではなく。

 別の者たちを。

 戻そうとしている。

「本人へ」

 新之介が問う。

「聞いた?」

「何を」

「二十八人へ」

「その役を」

「背負いたいか」

 竹吉が。

 黙った。

「私は」

「全部は知りません」

「では」

「その新之介殿は」

「聞いたと言っている?」

「はい」

「全員」

「はい」

「それなら」

 新之介は少し考える。

「前よりは違う」

「ただし」

「何です」

「選択肢が」

「本当にあったか」

「見なければならない」

「どういう」

「役を受ければ」

「日本へ戻れる」

「断れば」

「外国へ残るしかない」

「そういう形なら」

「自由な選びとは」

「言い切れません」

 竹吉が頷く。

「だから」

「私は」

「こちらへ来た」

「何」

「二十八人のうち」

「一人」

「役を断った男がいる」

「今の名は」

「喜兵衛」

「何の役を」

「老中」

「断った理由」

 竹吉の顔が。

 少し暗くなる。

「日本へ戻りたい」

「でも」

「誰かになるためには」

「戻りたくない」

 新之介は。

 ゆっくり息を吐く。

「その方は」

「どこです」

「一番船」

「会いたいですか」

「はい」

「その前に」

 竹吉が言った。

「榊原殿」

「何です」

「喜兵衛は」

「一つ」

「条件を出しています」

「何を」

「自分だけ」

「役を捨てて帰るのは」

「嫌だと」

「では」

「二十八人全員に」

「もう一度」

「聞いてほしい」

「何を」

 竹吉は。

 一字ずつ。

 言った。

「日本へ」

「戻りたいのか」

「それとも」

「日本で」

「誰かになりたいのか」

 新之介は。

 遠く。

 江戸城を見る。

 戻る場所。

 間違えるな。

 役へ。

 名へ。

 国へ。

 戻るのではない。

 人が。

 自分として。

 戻れる場所。

 それがなければ。

 どれだけ国を開いても。

 帰る道は。

 また一つの役へ。

 繋がるだけだった。

(第八十八章へ続く)

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