第八十六章 代表という役
翌朝。
江戸城では。
誰を「徳川将軍」として米利堅側との会議へ出すか。
それだけで。
話がまとまらなくなっていた。
「家慶甲殿」
「当然だ」
阿部伊勢守。
「なぜ」
家定が問う。
「現在」
「将軍として最も長く政務を行ってきた者だからだ」
「本物と確定していなくても?」
「米利堅側は」
「本物でなくてもよいと言っている」
「なら」
家定は言った。
「本物らしさではなく」
「誰を、どの理由で出すかが問題ですね」
「そうなる」
「では」
「父上だから出す、では」
「足りない」
阿部が黙る。
家定の前。
家慶甲。
水野。
神谷。
榊兵庫。
清太郎。
志乃。
辰蔵。
そして。
新之介。
さらに。
昨夜まで名を決めなかった男も。
部屋の端へ座っている。
記録には。
――名、未定。
――役、なし。
――番号、なし。
――ここにいる。
それだけ。
「私は」
家慶甲が言った。
「出てもよい」
「理由を」
新之介が問う。
「徳川家慶として」
「米利堅側が将軍を求めている」
「それは」
「相手の呼び方です」
「何」
「日本側が」
「その呼び方に合わせる必要はない」
家慶甲が眉をひそめる。
「では何と名乗る」
「そこを今決めます」
「私が」
「家慶かどうかも?」
「それとは別に」
「今回の交渉で」
「どの立場を担うかです」
◇
「面倒な話になりましたね」
志乃が言う。
「昨日より?」
家定が問う。
「昨日は」
「将軍が一人ではない」
「今日は」
「将軍という役を」
「一人へ預けるかどうか」
「はい」
「違いますか」
「違いません」
◇
水野が机を叩く。
「一つ整理しよう」
「米利堅側が求めているのは」
「日本側の最終責任者だ」
「最終?」
新之介が問う。
「そこを」
「また聞くのか」
「はい」
「何を」
「どの範囲で」
「最終なのです」
「条約交渉」
「全部?」
「今すぐ条約など結べぬ」
「では」
「会談の開始」
「文書の受け取り」
「次回回答の約束」
「港での補給」
「その程度」
「なら」
新之介が言う。
「今回の代表へ」
「国の全部を預ける必要はない」
「当然だ」
「では」
「『徳川将軍』を出す必要も」
「ありません」
阿部が顔を上げる。
「しかし相手は」
「求めている」
「はい」
「だから」
「日本側では」
「今回の会談について」
「誰に代表権があるかを示す」
「その人が」
「将軍本人である必要はない」
家定が頷く。
「例えば」
「私?」
「候補です」
「なぜ」
「家慶甲殿から」
「一時全権を預ける案が出た」
「私は拒否した」
「はい」
「では」
「今回は」
「一人ではなく」
「複数へ預ける?」
「その方が」
「今の流れには合っています」
◇
家慶甲が腕を組む。
「しかし」
「外国は」
「複数の代表では困るのではないか」
「窓口は一人」
「決定は複数」
新之介が言う。
「何」
「話す人は一人でも」
「その人が」
「勝手に決められる範囲を」
「狭くする」
「例えば」
清太郎が筆を持つ。
「第一」
「文書の受領」
「第二」
「遭難船への水・食料補給について」
「原則協議することの確認」
「第三」
「次回会談の日程」
「第四」
「発砲停止の継続」
「それ以上」
「港を開くか」
「通商するか」
「人の海外渡航を認めるか」
「そこは」
「今回決めない」
水野が言う。
「軍事上のことも」
「恒久的には決めぬ」
「はい」
「それなら」
家定が言った。
「代表は」
「決められた範囲で」
「返事をするだけ」
「はい」
「でも」
「相手が」
「その場で追加の条件を出したら」
「持ち帰る」
「時間がないと言われたら」
「相手の期限だと記録する」
玄斎がいないのに。
阿部が頭を抱えた。
「本当に」
「そなたは」
「時間を敵に回すな」
「時間ではなく」
「急がせ方を疑っています」
「分かっている!」
◇
「では」
家慶甲が問う。
「窓口は誰にする」
全員が黙る。
家定。
阿部。
水野。
新之介。
家慶甲。
「私では」
家定が言った。
「若すぎますか」
阿部が即座に。
「それだけではない」
「何です」
「そなたは」
「次代を担う可能性が高い」
「だからこそ」
「最初の会談で」
「すべてを背負わせたくない」
「守るため?」
「違う」
阿部は少し考え。
「将来へ残すためだ」
「同じに聞こえます」
志乃が言う。
「本人に聞かず」
「役所が先に」
「『この方は将来必要だから』と」
「決める」
「……」
阿部が言葉に詰まる。
家定が笑う。
「志乃殿」
「強いですね」
「普通です」
◇
「私へ聞いてください」
家定が言った。
「出たい?」
「はい」
「怖いです」
「それでも?」
「出たい」
「理由」
「自分がこれから」
「日本の政へ関わるなら」
「外国と向き合うことを」
「他人へだけやらせたくない」
「それは」
新之介が言う。
「一つの理由です」
「十分?」
「まだ」
家定が苦笑する。
「厳しいですね」
「では」
「もう一つ」
家定は。
名未定の男を見る。
「昨日」
「日本橋で」
「たくさんの人の話を聞いた」
「はい」
「でも」
「まだ聞いていない人がいる」
「誰」
「国の外へ出された人」
「国の外から戻ってきた人」
「そして」
名未定の男。
「最初から」
「数にも入らなかった人」
「それを」
「今日の場へ」
「持って行きたい」
新之介が頷く。
「では」
「家定殿は候補」
「候補か」
「はい」
◇
「私は」
家慶甲が言う。
「自分が出るべきだと思っている」
「理由」
「今まで」
「徳川家慶の名で」
「外国船対応も」
「海防も」
「政務も」
「命を出してきた」
「その責任がある」
「だから」
「今だけ降りるわけにはいかぬ」
新之介が問う。
「将軍だからではなく」
「自分が出した命令の責任として?」
「そうだ」
「それなら」
「理由として分けて記せます」
家慶甲が笑った。
「許可を得たようで」
「何も得ておらぬな」
「はい」
◇
「水野様は」
「私は」
「海防担当として必要だ」
「窓口ではなく?」
「違う」
「軍艦の話を」
「政治だけで決められては困る」
「では」
「参加」
「はい」
「阿部殿」
「外交」
「政務」
「幕府内調整」
「必要」
「自分で言うと」
「少し恥ずかしいな」
「記録します」
「そこは書くな!」
清太郎の筆が止まった。
「どちらを」
「恥ずかしい、の方だ!」
◇
「新之介」
家慶甲が言う。
「そなたは」
「私は」
「代表にはなりません」
「なぜ」
「米利堅側も」
「海の御影も」
「私を反対役として」
「使おうとしている」
「だから」
「その役から降ります」
「でも」
「会談へは」
「行きます」
「何として」
「参加者」
「役は」
「未定」
名未定の男が。
少し笑った。
「便利だな」
「何が」
「未定」
「そなたも使うか」
「一時的には」
◇
「では」
清太郎がまとめる。
「会談窓口候補」
「家定殿」
「家慶甲殿」
「二名」
「一人を選ぶ?」
家定が問う。
「必ずしも」
志乃が言う。
「二人で出ては」
「米利堅側が」
阿部が言う。
「将軍を一人求めている」
「なら」
「一人を将軍として」
「もう一人を」
「何に」
志乃は考える。
「立会人?」
家慶甲が笑う。
「息子の立会いで父が話すか」
「父かどうかも」
「確定していません」
家定が言った。
今度は家慶甲が笑う。
「そなた」
「強くなったな」
「誰の影響でしょう」
全員が新之介を見る。
「私を見ないでください」
◇
名未定の男が。
突然口を開いた。
「二人とも」
皆が振り返る。
「何です」
家定が問う。
「出ればよい」
「どういう意味」
「片方が」
「話す」
「片方が」
「その人が越えていないかを見る」
「誰が話す」
「その場で決めるな」
「では」
「今ここで」
「何を基準に」
男は。
少し考え。
「相手が」
「将軍を求めたから」
「将軍に最も近い者」
「では」
「また家慶甲殿?」
「違う」
男は家定を見る。
「次の将軍になるかもしれない人」
「なぜ」
「今の将軍の真偽を」
「外国へ見せる必要はない」
「現在の混乱を」
「隠す?」
「違う」
「話す必要がないことまで」
「全部話す必要はない」
新之介が少し目を細めた。
「なるほど」
「何」
「公開と」
「無制限に明かすことは」
「同じではない」
「はい」
「では」
「家定殿が窓口」
「家慶甲殿が立会い」
「ただし」
「家慶甲殿が」
「父として上から命じない」
家慶甲が男を見る。
「厳しいな」
「私は」
男が答えた。
「名前のある人が」
「その名前だけで上に立つのが」
「嫌いだ」
「そうだったな」
◇
「家定殿」
新之介が問う。
「窓口を」
「受けますか」
「範囲を」
「清太郎殿」
「はい」
清太郎が読む。
「文書受領」
「補給協議」
「次回会談日程」
「発砲停止継続」
「以上」
「港の開放」
「通商」
「海外渡航」
「恒久軍事協定」
「これらは」
「持ち帰る」
「期限」
「本日会談終了まで」
「その後」
「窓口権限を返す」
「誰へ」
「仮交渉会議」
「構成は」
「今日改めて確認」
「分かりました」
家定が頷いた。
「受けます」
「反対は」
新之介が周囲を見る。
阿部。
「なし」
水野。
「なし」
家慶甲。
少し間を置き。
「なし」
志乃。
「一つ」
「何です」
「会談後」
「町へ説明する人を決めてください」
家定が止まる。
「なぜ」
「外国と何を話したか」
「また噂だけが先に走ります」
「はい」
「その説明も」
「窓口の役?」
「別にした方が」
「よいと思います」
新之介が頷く。
「分けましょう」
「誰に」
志乃が答える。
「まだ決めません」
新之介が笑った。
「慣れましたね」
「嬉しくありません」
◇
正午前。
江戸湾。
前日と同じ。
中立の舟。
ただし今日は。
座る位置を変えた。
中央。
徳川家定。
その少し後ろ。
家慶甲。
横。
水野。
阿部。
新之介。
清太郎。
さらに。
町側として。
日本橋の米問屋。
昨日の大工。
二人。
米問屋は。
船酔いで顔が青い。
「何で俺が」
「町側の声」
「もっと丈夫な奴いなかったのか」
「断ってもよかったのですよ」
「ここまで来て言うな」
大工が笑う。
「俺は面白いけどな」
「船沈んだらどうすんだ」
「泳ぐ」
「俺は泳げねえ!」
◇
海の御影側。
サラ。
四十七。
二人。
四十七は。
最初。
「役を持たない」
「だから代表ではない」
と言った。
家定が答えた。
「代表でなくても」
「参加できます」
「何として」
「四十七殿として」
「番号だぞ」
「本人が選んだ呼び名なら」
「今はそれで」
四十七は黙った。
そして来た。
◇
名未定の男は。
来なかった。
朝。
最後まで。
「分からない」
と。
それだけ言った。
新之介は。
無理に連れてこなかった。
だが。
清太郎が。
彼の紙を。
本人の許可を得て。
持ってきた。
――名、未定。
――役、なし。
――番号、なし。
――ここにいる。
「本人は」
米利堅側へ見せてよいと?」
「はい」
「なぜ」
清太郎が答えた。
「自分は来ない」
「でも」
「来ない人もいると」
「伝えたいと」
家定が頷く。
「それも」
「声ですね」
◇
米利堅側の舟。
士官。
通訳。
ジョナサン。
宗八。
そして。
別の男。
年齢五十ほど。
異国服。
日本語が分かるらしい。
「この方は」
サラが言う。
「米利堅側の正式な交渉補佐」
「名は」
新之介が問う。
男は。
たどたどしい日本語。
「ウィリアム・ハリス」
「生まれた名も?」
男が少し笑う。
通詞が訳す。
「そうだ、と」
「失礼しました」
◇
会談。
最初。
米利堅側が問う。
「徳川将軍は」
家定が答えた。
「本日」
「この会談について」
「日本側の窓口を務める徳川家定です」
通訳。
相手が。
少しざわめく。
「将軍ではない?」
「はい」
「では」
「誰が最終決定者」
家定は。
昨日までなら。
答えに詰まったかもしれない。
今は。
「今回」
「一人の最終決定者は置いていません」
米利堅側の顔が変わる。
「それでは交渉できない」
通訳。
家定は。
すぐに言った。
「できる範囲を」
「先に決めています」
清太郎が文書を差し出す。
日本語。
通詞が。
異国語へ。
「文書受領」
「補給協議」
「次回日程」
「発砲停止」
「ここまでは」
「私が窓口として」
「合意できます」
「それ以上は」
「持ち帰ります」
相手側。
不満。
「返答期限」
「何日」
家定が新之介を見そうになり。
止める。
自分で答える。
「内容ごとに」
「受領後に示します」
「今決めない?」
「はい」
相手が首を振る。
水野が小声で言う。
「怒っている」
「見れば分かります」
◇
ウィリアムが英語で長く話す。
通詞。
「米利堅側は」
「日本の代表が毎回変わることを」
「懸念している」
家定が答える。
「同じ人が」
「ずっと権限を持つことを」
「日本側は」
「今、懸念しています」
通詞が少し困る。
「そのまま」
「はい」
訳される。
ウィリアムが。
新之介たちを見る。
「では」
「誰を信じればよい」
家定が答える。
「人ではなく」
一瞬。
新之介を見る。
だが。
続けた。
「決め方と」
「記録を」
新之介の目が僅かに動く。
「誰が何を決められるか」
「いつまでか」
「それを」
「文書で示します」
ウィリアムが言う。
「文書は偽造できる」
日本側。
全員が。
一瞬。
黙った。
水野が。
思わず新之介を見る。
「何です」
「いや」
「外国も」
「同じことを申すなと」
「言わないでください」
◇
家定が答える。
「できます」
「では」
「複数で確認します」
「印」
「人」
「時刻」
「写し」
「誰が受けたか」
「後から照合できるように」
「完璧ではない」
「そこまで言う?」
阿部が小声。
「はい」
「相手に弱みを」
「弱みでは」
新之介が小さく答える。
「限界です」
◇
米利堅側から。
正式文書。
港。
補給。
漂流民。
通商。
海外渡航。
複数の項目。
家定は。
その場で。
開こうとした。
新之介が手を出さない。
清太郎も。
米問屋も。
大工も。
見ている。
家定は。
一度手を止めた。
「受領確認を」
「誰と」
清太郎。
阿部。
サラ。
米利堅側通訳。
四者で。
封。
枚数。
日付。
差出。
受領。
「そこまで」
ウィリアムが呆れたように言う。
家定が答える。
「今」
「日本では」
「そこまで必要です」
◇
文書を開く。
第一。
補給。
水。
食料。
遭難者救助。
ここは。
比較的。
話が早かった。
米問屋が。
突然口を挟む。
「待ってくれ」
全員が見る。
「何だ」
家定が問う。
「水や食い物を」
「外国船に出す」
「それ自体は」
「いい」
「でも」
「どこの蔵から出す」
水野が答える。
「幕府蔵」
「足りなかったら」
「商人から」
「値は」
「……」
「そこを決めずに」
「補給すると約束したら」
「町の米が上がるぞ」
米利堅側は。
何を話しているのか分からず待っている。
家定の顔が変わる。
「確かに」
「だから」
米問屋は言う。
「補給するなら」
「量」
「買い上げ値」
「町の米へ影響が出た時」
「どうするか」
「そこまで」
「先に見てくれ」
新之介が。
少し笑った。
「昨日」
「日本橋で聞いてよかったですね」
米問屋が青い顔で怒る。
「だからって」
「船に乗せるな!」
◇
大工も。
口を出した。
「港を開くなら」
「何だ」
「倉庫」
「道」
「人足」
「宿」
「全部要る」
「それを」
「誰の土地でやる」
「町のためって言って」
「家を取るなよ」
家定は。
ゆっくり頷く。
「では」
「港を開く話は」
「今ここで決めない」
「当たり前だ」
「でも」
「決める時」
「現地の者を入れる」
「それを」
「文に残してください」
清太郎が書く。
米利堅側は。
長く待たされている。
ウィリアムが苛立つ。
「何を」
通訳。
「国内の影響を」
「確認しています」
「今?」
「今です」
家定が答えた。
「ここで決めれば」
「後から」
「約束を守れないかもしれない」
ウィリアムが。
少し考える。
そして。
今度は。
怒らなかった。
◇
「海外渡航」
次。
サラの顔が強張る。
米利堅側。
「日本人が」
「自由に海外へ渡れるよう」
「求める」
家定が問う。
「今すぐ?」
「原則として」
サラが。
日本側を見る。
「私は」
「賛成です」
水野が言う。
「私は」
「今は反対」
「理由」
「人が流出する」
「技術」
「情報」
「国防」
サラが即座。
「閉じ込める理由に」
「国防を使う?」
「使うこともある」
「本人の人生は」
「国より下?」
「そう言っていない!」
新之介が手を上げる。
「二人とも」
「何」
「今日」
「決めますか」
サラが黙る。
水野も。
「決めないなら」
「何を今日決める」
家定が言う。
「漂流民」
「外国へ流された日本人が」
「帰りたい場合」
「帰れる道を」
「先に」
サラの顔が動く。
「出る自由より」
「戻る道?」
「はい」
「なぜ」
「すでに」
「困っている人がいる可能性が高い」
新之介が頷く。
「よいと思います」
「なら」
「本人が帰りたいか」
「確認する」
「無理に送らない」
「はい」
「帰国後」
「罪人として扱う?」
家定が止まる。
「そこは」
「別に見分」
「漂流だけで」
「罪としない?」
阿部が顔をしかめる。
「法を」
「変える必要が」
「あるかもしれない」
「では」
「今日」
「約束できない」
「はい」
サラは。
少し悔しそうに。
だが。
頷いた。
◇
会談は。
進んだのか。
進まなかったのか。
誰にも。
はっきり言えなかった。
ただ。
一つだけ。
発砲停止は。
さらに一日。
延びた。
水と食料の補給も。
量を限定し。
幕府蔵。
民間調達。
価格。
後で確認する条件付きで。
暫定合意。
次回会談。
三日後。
その間。
日本側は。
港。
通商。
渡航。
代表方法。
それぞれ。
別に見分する。
「遅い」
ウィリアムが最後に言った。
家定が答える。
「はい」
「だが」
ウィリアムは。
少し笑った。
「昨日より」
「何をしているかは」
「分かる」
家定も。
笑った。
「それなら」
「少し進みました」
◇
舟を離れる前。
米利堅側が。
一つ。
追加を出した。
「日本側へ」
「返還したい人物がいる」
サラが顔を上げる。
「誰」
ウィリアムが。
四番船を見る。
通訳。
「日本人」
「名は」
少し。
難しそうに読む。
「サカキバラ・シンノスケ」
全員が。
新之介を見る。
「……私?」
水野が立ち上がる。
「またか!」
阿部が額を押さえる。
「今度は海外か」
サラの顔から血の気が引く。
「そんな」
「私は知らない」
「ジョナサンは?」
「知らないはず」
新之介が問う。
「その人は」
「いつから」
ウィリアム側。
記録を確認。
「十二年前」
「米利堅に」
「いる」
「十二年?」
つまり。
庄吉。
新八。
金次。
三人の代替候補とは。
別。
「年齢」
「四十前後」
「日本語」
「話す」
「顔は」
「本人に」
ウィリアムが。
新之介を見る。
「よく似ている」
玄斎がいれば。
何と叫ぶか。
新之介には。
もう想像できた。
「本人は」
「戻りたいと?」
通訳が答える。
「それが」
「分からない」
「なぜ」
「男は」
「日本へ返してほしいと」
「何度も求めた」
「だが」
「三日前」
「急に」
「帰らないと言い始めた」
「理由」
「日本に」
「本物の榊原新之介がいると」
「聞いたから」
新之介の顔が。
僅かに強張った。
「何と」
「言っています」
ウィリアムが。
紙を渡す。
日本語。
震えた筆。
――榊原新之介へ。
――私は。
――そなたになりたくて。
――十二年。
――海の外で生きた。
次。
――だが。
――戻れば。
――私は偽物になる。
――残れば。
――私はここで。
――榊原新之介のままでいられる。
新之介の胸が。
重くなる。
最後。
――だから。
――私は戻らない。
――ただし。
――一つだけ。
――そなたへ返したいものがある。
「何を」
家定が問う。
紙の下。
――十二年前。
――私が。
――榊原新之介の名で。
――一人の日本人を。
――米利堅側へ引き渡した。
水野の顔が険しくなる。
「誰を」
新之介が。
次の行を読む。
手が止まった。
――名。
――黒川玄斎。
誰も。
すぐに。
言葉を出せなかった。
朝風丸。
遠く。
そこにいる。
黒川玄斎本人。
膝を痛め。
杖をつき。
新之介の師として。
今朝も怒鳴っていた男。
だが。
十二年前。
米利堅へ。
別の「黒川玄斎」が。
榊原新之介の名によって。
引き渡された。
新之介は。
ゆっくり。
朝風丸を見る。
「先生」
家定が呟く。
「また」
「増えるのですか」
新之介は首を振った。
「違います」
「では」
「今度も」
静かに。
「最初から」
「もう一人いたのです」
(第八十七章へ続く)

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