第八十章 最初の偽名
「松平左京」
捕らえられた男は言った。
「始帳に残る家斉公の署名は」
「そなた自身の筆だ」
川風が吹く。
消え残った三つの灯りが揺れる。
松平左京は肩の傷を押さえられたまま、男を見ていた。
「……何を申している」
「忘れたか」
「知らぬ」
「本当に?」
「私は」
左京の声が掠れる。
「公方様の御名を偽ったことなどない」
「では」
男が笑う。
「なぜ筆跡を否定できる」
左京が止まった。
「見てもいないのに」
「……」
「家斉公の署名ではない、と私が申しただけだ」
「そなたは」
「自分の筆ではない、と即座に言った」
新之介が捕らえられた男を見る。
「言っていません」
「何」
「左京殿は」
皆が新之介を見る。
「『公方様の御名を偽ったことなどない』と申した」
「自分の筆ではない、とはまだ」
男の笑みが少し消えた。
左京も新之介を見る。
「榊原」
「何です」
「今、私を庇ったのか」
「いいえ」
「では」
「言っていないことを」
「言ったことにしないだけです」
玄斎が鼻を鳴らした。
「この状況でよく聞いておるな」
「そこを間違えると」
新之介は捕らえられた男へ向き直る。
「また本当の言葉を並べた偽りになります」
◇
「では」
捕らえられた男が言う。
「始帳を持って来い」
「ここにはありません」
「知っている」
「なら」
「再起館に写しがある」
「誰かに取りに行かせろ」
「今すぐ?」
「ああ」
新之介は首を振る。
「急ぎません」
男が笑う。
「怖いのか」
「いいえ」
「では」
「帳面の前に」
「そなたを聞きます」
「何を」
「今の名」
「久松主膳」
「それは役名ですか」
「今はな」
「生まれた名」
「久松源之助」
目の前の久松も。
同じ名を名乗った。
「二人とも同じ名」
半九郎が呟く。
「兄弟なら」
「同じ名はおかしい」
玄十郎が言う。
「片方が後から受けた」
「どちら」
新之介が二人を見る。
「先に答えたい方」
本物とされてきた久松が言った。
「私だ」
「何を」
「久松源之助は」
「弟の名だ」
全員が彼を見る。
「では」
水野が問う。
「そなたの生まれた名は」
久松は長く黙った。
「久松右近」
捕らえられた男――源之助が笑った。
「ようやく返したか」
◇
「なぜ弟の名を」
新之介が問う。
「二十三年前」
「見捨役を継いだ時だ」
「松平左京殿から?」
「いや」
「では」
「見捨役の役を継ぐなら」
「家を捨てろと言われた」
「誰に」
久松右近は左京を見る。
「左京殿」
左京の顔が険しくなる。
「私は」
「そんなことは申しておらぬ」
「申した」
「いつ」
「北国の飢饉の後」
「妹を失った年」
「私はそなたへ」
「見捨役を継げとは言った」
「だが」
「弟の名を使えなど」
「言っていない」
「直接は」
「では」
「書状です」
新之介がすぐ問う。
「原本は」
「ない」
「なぜ」
「燃やせとあった」
「燃やした?」
「ああ」
「立会いは」
「ない」
「覚えている文を」
久松右近は目を閉じる。
「――見捨役となる者」
「――己の名を捨てよ」
「――血縁を捨て」
「――家を捨て」
「――世にすでに死した者の名を借りよ」
源之助が低く笑う。
「その時」
「私は死んだことにされた」
「実際は」
「生きていた」
「ああ」
「誰が死亡確認を」
「沢渡玄隆」
玄斎が杖を地面へ突いた。
「もう驚かぬ!」
少し間。
「……驚かぬぞ」
「先生」
「何だ」
「誰も驚いていません」
「それが余計腹立つ!」
◇
「右近殿」
新之介が言う。
「弟の名を使った理由は」
「見捨役になるため」
「ああ」
「本人の同意は」
右近が黙る。
「聞いた?」
「死んだと思っていた」
「なら」
「聞けなかった」
「……」
「その後」
「弟が生きていると知ったのは」
「いつ」
「十年前」
源之助の顔が僅かに動く。
「なぜ返さなかった」
「私はもう」
「久松源之助として」
「役所も」
「家も」
「記録も」
「全部つながっていた」
「戻せば」
「見捨役の存在まで表へ出る」
「だから」
「黙った」
「弟殿には」
「会った?」
「一度」
「何と」
「帰ってくれ、と」
源之助の顔から笑みが消えた。
「違う」
「何が」
「そなたは」
「『生きていることを忘れろ』と言った」
右近が目を伏せる。
「……そうだった」
「兄上」
「今度は聞き違えるな」
清太郎が即座に書く。
「今のところ」
源之助が彼を見る。
「何を」
「今のところ、久松右近殿は」
「『帰ってくれと言った』と記憶していた」
「そなたは」
「『生きていることを忘れろと言われた』と記憶している」
「どちらか一つにしない?」
「はい」
「なぜ」
「二人の記憶が違うからです」
源之助が少し笑った。
「気に入らぬ」
「よく言われます」
「だが」
「何です」
「嫌いではない」
「それは珍しいです」
◇
「では」
新之介が松平左京へ。
「始帳の署名へ戻ります」
「うむ」
「家斉公の名を書いた覚えは」
「ない」
「似た筆跡を書く訓練は」
「……ある」
「誰の」
「上様」
「つまり家斉公」
「ああ」
「なぜ」
「非常時」
「将軍が病で命を出せぬ時」
「側近が文を整えることはあった」
「署名まで」
「本来はしない」
「本来は?」
「したことが」
「一度だけある」
一同が静まる。
「何の文です」
左京が川を見る。
「救小屋」
「四十年以上前」
「ああ」
「外へ三十二人を残した時?」
「……」
「申してください」
「そうだ」
◇
「では」
玄斎が怒鳴った。
「やはりそなたが書いたのではないか!」
「待ってください」
「何を待つ!」
「内容です」
新之介が左京へ。
「家斉公は」
「何を命じた」
「救小屋の混乱を収めよ」
「それだけ?」
「ああ」
「三十二人を外へ残せとは」
「命じていない」
「では誰が決めた」
左京は答えた。
「私だ」
家定が顔を上げる。
「なぜ」
「米が足りなかった」
「計算した」
「中に百二十余人」
「外に三十二」
「全員入れれば」
「翌朝まで持たぬと思った」
「確認は」
「勘定方が」
「一人?」
「二人」
「町人は」
「入れていない」
「寺は」
「入れていない」
「中にいた者の話は」
「聞いていない」
「外の人は」
左京が黙る。
「聞いていない」
新之介は静かに続ける。
「それで」
「外へ残すことを決めた」
「ああ」
「将軍の命として?」
「……ああ」
「家斉公の署名を書いた」
「そうだ」
「なぜ」
「私の命では」
「役人が従わなかった」
「なら」
「上様の名を借りた」
「それが」
新之介は言う。
「始帳の最初の偽名」
左京の目が揺れる。
「そうかもしれぬ」
「かもしれぬではない」
源之助が言った。
「そなたは」
「人を捨てる決断を」
「将軍の名で隠した」
左京が睨む。
「隠したのではない!」
「ならなぜ」
「自分の名で命じなかった!」
「従わせるためだ!」
「同じだ!」
◇
源之助が縄を引かれたまま一歩出る。
「見捨役は」
「そこから始まった」
「違う」
左京が言う。
「その名は後だ」
「名の話ではない!」
「人を捨て」
「その責を」
「大きな名へ預ける」
「そこからだ!」
新之介が止める。
「二人とも」
「何だ」
「始まりを決めない」
源之助が苛立つ。
「またか」
「はい」
「なぜ」
「一つの出来事だけを」
「始まりにすると」
「その前にあったものが消えます」
「では」
「救小屋以前にも」
「似た決断があったかもしれない」
玄十郎が頷く。
「確かに」
「だが」
「始帳に残る制度として」
「この救小屋が一つの節目」
「それなら記録できます」
清太郎が書く。
「――確認できる範囲で」
「――後の見捨役制度へつながる初期事例の一つ」
源之助が苦笑する。
「何とも煮え切らぬ」
「でも」
家定が言った。
「後で違うものが見つかっても」
「書き直せる」
「そうです」
◇
「三十二人」
新之介が左京へ問う。
「全員亡くなったのですか」
「分からぬ」
「記録では」
「二十一人死亡」
「残り十一」
「行方不明」
「なぜ」
「夜中」
「囲いを壊して逃げた者がいた」
「追った?」
「追わせなかった」
「なぜ」
「もう」
左京が苦く笑う。
「これ以上命じるのが怖かった」
「その十一人の中に」
源之助が言う。
「私たちの母がいた」
久松右近が顔を上げる。
「何」
「母?」
「兄上は知らなかっただろう」
「私たちの母は」
「救小屋の外へ残された」
右近の顔色が変わる。
「嘘だ」
「なぜ」
「母は」
「病で死んだと」
「父から」
「父もそう聞かされた」
「誰に」
源之助は左京を見る。
「この男だ」
左京が固まった。
「名前は」
新之介が問う。
「母上の」
「お里」
「家は」
「深川」
「当時」
「腹に子がいた」
右近の目が見開く。
「弟?」
「私だ」
◇
川音だけ。
久松右近は弟を見る。
「では」
「お前は」
「救小屋の外で」
「母と」
「ああ」
「生まれたのは」
「半年後」
「母は生きていた」
「少なくとも」
「私を産むまでは」
「父は」
「知らなかった?」
「知らない」
「私は後に」
「別の家へ預けられた」
「誰が」
「松平左京」
右近が左京へ向く。
「なぜ!」
「私は」
左京が声を震わせる。
「お里が生きていると知ったのは」
「三年後だ」
「では」
「その時、源之助を」
「見た」
「なぜ父へ返さなかった!」
「お里が望まなかった」
「本人から聞いた?」
「ああ」
「何と」
「『あの家には戻さない』」
「理由は」
左京が右近を見る。
「そなたたちの父」
「久松平蔵が」
「見捨役の考えへ近い仕事をしていた」
「何」
「救小屋で」
「中へ入れる者を」
「選ぶ役人の一人だった」
兄弟二人の顔が変わる。
「父が」
「母を」
「外へ?」
「本人は」
「お里が外にいると知らなかったと言った」
「確認は」
「できていない」
新之介が呟く。
「また」
「家の中へ」
「制度が入り込んでいる」
◇
「源之助殿」
新之介が問う。
「そなたはいつ知った」
「十年前」
「誰から」
「松平左京」
右近が左京を見る。
「なぜ弟には話し」
「私には」
「源之助が」
左京が答える。
「私へ問いに来た」
「何と」
「なぜ自分は」
「久松家へ戻されなかったのか」
「それで全部を」
「話した」
「兄上には」
「話せなかった」
「なぜ」
「見捨役だったから」
右近が笑った。
乾いた笑い。
「まただ」
「何が」
「危険だから」
「役だから」
「国のためだから」
「本人へ言わない」
「私も」
右近は自分の胸を叩く。
「同じことをした」
「弟が生きていると知って」
「見捨役を守るため黙った」
源之助が兄を見る。
「だから」
「私は今日」
「ここへ来た」
「兄を殺すため?」
「最初は」
「そうだった」
全員の手がわずかに動く。
「今は」
「分からない」
「なぜ」
「捕まったからではない」
「では」
源之助は左京を見る。
「始帳の署名を」
「本人へ言わせたかった」
「兄にも」
「自分の名が」
「どうして奪われたか聞かせたかった」
「それで銃を」
「撃った?」
「私は撃っていない」
◇
半九郎が顔を上げる。
「では」
「左京殿を撃ったのは」
「川へ飛び込んだもう一人」
「誰」
「名は知らぬ」
「役名は」
「家斉」
全員が黙る。
玄斎がゆっくり言った。
「……ついに」
「何です先生」
「死人だけでなく」
「先の将軍まで増え始めた」
「家斉本人ではありません」
「分かっておる!」
◇
「家斉という役」
新之介が問う。
「何のため」
「始帳を守るため」
源之助が答える。
「誰が作った」
「松平左京」
左京が即座に首を振る。
「知らぬ!」
「では」
「そなたの名で」
「二十年前に作られた」
「また書状?」
「ああ」
「見た?」
「原本を」
「どこで」
「五年前」
「沢渡の工房」
水野が呻く。
「結局そこへ戻る」
「沢渡自身が作った?」
「分からぬ」
「なら」
「今のところ」
「左京の名で」
「家斉役を作る命令が存在した」
「目的は」
「始帳の命令を」
「後からでも『将軍の意思だった』と補強するため」
家定の顔が強張る。
「死んだ将軍の影武者」
「ああ」
「生きている将軍を守るためではなく」
「昔の命令を守るため?」
「そうだ」
新之介は低く言った。
「人の代替ではなく」
「責任の代替」
◇
清太郎の筆が止まる。
「どういう意味です」
「家慶殿の影武者は」
「本人がいない時に役を続ける」
「でも家斉役は違う」
「死んだ後」
「過去の命令を」
「『本人の意思だった』と語らせるため」
「死人へ」
「責任を戻す?」
「はい」
「死人は否定できない」
家定の顔が青くなる。
「一番」
「都合のよい代替ですね」
「そうです」
「死者の口を使う」
「生きている者が」
「責任から逃げるために」
左京が顔を覆った。
「私が」
「最初に」
「家斉公の名を使ったから」
「だから」
新之介は言う。
「後の者も」
「同じ方法を正しいと思った可能性があります」
「私が始めた」
「そこまで決めません」
「榊原!」
「責任を軽くするためではありません」
新之介は左京を正面から見る。
「そなたが四十年以上前」
「家斉公の名で」
「自分の決断を命じた」
「その行いは」
「そなたのものです」
左京が目を逸らす。
「後の者が」
「それを真似たことまで」
「全部そなたへ載せない」
「なぜ」
「それをすれば」
「後の者が逃げられる」
左京の目から。
また涙が落ちた。
「……そうか」
◇
その時。
川向こう。
水音。
海防掛の一人が叫ぶ。
「人です!」
全員が振り向く。
「生きている!」
「引き上げろ!」
数人が走る。
やがて。
濡れた男が運ばれてくる。
四十ほど。
脇腹に傷。
息はある。
「武器を離せ!」
水野が言う。
短筒が遠ざけられる。
「名を」
新之介がしゃがむ。
男が目を開ける。
「徳川家斉」
「役ではなく」
「……」
「今の名」
「家斉」
「生まれた名」
男が笑った。
「それを聞くと思った」
「答えられますか」
「ああ」
「名は」
一呼吸。
「松平左京」
玄斎が。
とうとう声を失った。
左京本人も。
「そなたも」
新之介が問う。
「左京?」
「生まれた時から」
「ああ」
「姓も?」
「松平」
「父は」
男が。
目の前の老人を見る。
「そこにいる」
誰も動けない。
「父上」
老人の左京が。
震える。
「……宗一郎」
男が笑う。
「その名は兄上だ」
「私は」
「次男」
「何」
「そなたの息子は」
「一人ではなかった」
◇
久松右近。
源之助。
松平宗一郎。
そして。
もう一人。
「なぜ」
老人が問う。
「なぜ私は」
「知らない」
「母上が」
男は咳き込む。
「隠した」
「誰から」
「そなたから」
「……」
「見捨役になった父親に」
「二人目の子まで」
「捨てられたくなかった」
左京の身体が震える。
「母は」
「生きて」
「二十年前まで」
「なぜ」
「会わせなかった」
「そなたが」
男の声が低くなる。
「一度も探さなかったからだ」
左京は何も言えない。
「宗一郎が死んだと思った後」
「そなたは」
「見捨役へ逃げた」
「息子を失った自分を」
「国のためへ変えた」
「母は」
「それを見て」
「私を隠した」
家定が目を伏せる。
「また」
「守るために」
「本人へ言わなかった」
新之介が頷く。
「はい」
「善意でも」
「繰り返す」
「はい」
◇
「そなたを家斉役へ」
新之介が問う。
「誰が」
「兄」
「松平宗一郎?」
「ああ」
「再起館で御影宗太郎と名乗っていた方」
「そうだ」
「なぜ」
「父の罪を」
「父自身へ見せるため」
「家斉の姿で?」
「父が最初に使った名前だからだ」
「だが」
「役はいつの間にか」
「始帳を守る側へ」
「変わった」
「なぜ」
男は苦く笑った。
「役は」
「長く続けると」
「目的より自分を守り始める」
根帳にあった言葉。
――役そのものが主となる。
「兄は」
「途中でやめようとした」
「私は」
「やめなかった」
「なぜ」
「父を許せなかった」
老人の左京が目を閉じる。
「だから」
男は続ける。
「家斉役を残した」
「家斉公の名が」
「父の罪を」
「いつまでも証すと思った」
「でも」
新之介が言う。
「その結果」
「本当の家斉公へ」
「責任を載せ続けた」
「……ああ」
「父上を罰するために」
「関係のない死者の名を」
「使った」
「……ああ」
◇
「名を」
左京老人が息子へ言う。
「今」
「何と呼べば」
男は川を見る。
「ない」
「松平左京は」
「父と同じだから嫌だ」
「家斉は」
「もう返す」
「宗一郎は」
「兄のものではないが」
「使いたくない」
「なら」
新之介が言う。
「今は決めなくても」
男が少し笑った。
「それで困らぬか」
「記録は少し困ります」
「では」
「仮に」
「次郎」
「なぜ」
「次男だから」
「安易ですね」
「今はそれでいい」
「分かりました」
清太郎が書く。
――仮名、次郎。
――旧役名、徳川家斉。
――生まれ名、松平左京と本人申告。
――父とされる松平左京本人候補、目の前にあり。
「本人候補?」
老人が苦笑する。
「まだか」
「まだです」
「もう好きにしろ」
◇
次郎の傷を見ながら。
水野が問う。
「誰が撃てと」
「誰にも」
「左京殿を撃ったのは」
「私だ」
「なぜ」
「父が」
「最後に自分を正しい人間として終わらせようとしたから」
新之介が目を細める。
「殺せば止められると?」
「ああ」
「それも」
「見捨役と同じです」
次郎の目が揺れる。
「一人を捨てれば」
「仕組みが止まると思った」
「……」
「父上を憎んで」
「父上と同じ方法を使った」
次郎が笑う。
痛そうに。
「兄にも同じことを言われた」
「何と」
「『父を殺せば、父の役がお前へ移る』」
老人の左京が泣いている。
「宗一郎は」
「それで」
「御影へ逃げた」
「逃げた?」
「ああ」
「見捨役の息子ではなく」
「御影宗太郎になることで」
「父から離れたつもりだった」
「でも」
「そこでまた」
「人へ名を与える側になった」
新之介は夜空を見る。
逃げた場所で。
別の同じことをする。
人は。
自分が嫌った仕組みを。
別の名で作る。
「なら」
家定が言う。
「役をなくせばよいのですか」
「それだけでは」
新之介が答える。
「足りません」
「では」
「役をなくしても」
「人が同じ考えを持っていれば」
「別の名で戻ります」
「何を変える」
「決め方」
「記録の仕方」
「責任の置き方」
「そして」
「何です」
「自分が正しいと思った時ほど」
「誰を見ていないかを聞く」
◇
松平左京老人が。
ゆっくり立とうとした。
「寝ていてください」
「いや」
「傷が」
「申したい」
「何を」
老人は。
川沿いの崩れた土台へ向いた。
四十年以上前。
救小屋があった場所。
「ここで」
「私は三十二人を外へ残した」
「はい」
「家斉公の名を使った」
「はい」
「そして」
「翌朝」
「死者を数えた」
「二十一」
「ああ」
「その時」
「私は」
老人の声が震える。
「一人ずつ名を聞かなかった」
新之介は黙る。
「二十一人」
「ではなく」
「二十一」
「数字だけを書いた」
「だから」
「後で始帳を作った時」
「そこにも数字を使った」
「百人」
「十人」
「大事」
「小事」
「……」
「私は最初から」
左京は地面へ膝をつく。
「人を数にした」
「だから」
新之介が言う。
「これから」
「戻せるところから」
「戻します」
「四十年以上前だ」
「はい」
「名前など」
「残っておらぬかもしれぬ」
「それでも」
「探す」
「なぜ」
「二十一という数から」
「一人ずつへ戻すためです」
◇
「それが」
左京が問う。
「私の償いになるか」
「分かりません」
「……」
「償いになるために」
「やるのではないでしょう」
「では」
「その人たちが」
「いたと確かめるためです」
「そなたが救われるかどうかは」
「別です」
左京は。
長く。
長く泣いた。
◇
夜明けが近い。
川の東が。
わずかに白くなる。
六つの灯りは。
もう二つしか残っていなかった。
新之介は手の刀を見る。
拾われた自分の刀。
人ではなく。
縄を斬った刀。
「榊原」
玄斎が言う。
「どうする」
「何を」
「刀」
新之介は鞘へ戻す。
「持ちます」
「そうか」
「ただし」
「何だ」
「私の刀だから」
「私だけで使い方を決めてよいとは」
「思わない?」
「そこまで申しておらぬ」
「では」
「自分で決めます」
玄斎が笑った。
「ようやく言ったな」
「はい」
「何に使う」
新之介は古い救小屋の柱跡を見る。
「まず」
「何だ」
「ここを掘ります」
「刀で?」
「まさか」
「では」
「人を呼びます」
「何のため」
「左京殿」
新之介は老人へ向く。
「二十一人を埋めた場所は」
左京が顔を上げる。
「……裏手」
「分かる?」
「おおよそ」
「なら」
「探します」
◇
だが。
その時。
小名木川の下流から。
一艘の舟。
白い布。
急ぎ。
「榊原殿!」
青山新六郎。
「何が!」
「江戸城より!」
「家慶公が!」
「どの家慶!」
「今度は分かります!」
玄斎が驚く。
「珍しい!」
「再起館にいた甲の方!」
「甲殿が?」
「江戸城へ戻り!」
「御座所で!」
青山は息を切らす。
「将軍職を退くと!」
家定が立ち上がる。
「父上が?」
「ただし!」
「まだあるのですね」
「はい!」
「甲殿は」
青山が家定を見る。
「『自分が本物かどうか確定するまで』」
「『徳川家慶としての命令を停止する』と!」
新之介の目が動く。
「乙殿は」
「行方不明!」
「新吉殿は」
「ここ」
「はい!」
「では」
「将軍の命令が」
水野が呟く。
「実質止まる」
「阿部殿は」
「政務をどう」
「そこです!」
青山が紙を出す。
「甲殿から家定公へ!」
「読みます!」
家定が受け取る。
父の筆跡に見える。
だが。
それもまだ証ではない。
文。
――家定。
――私を父と思うなら。
――私の命へ従うな。
家定の顔が変わる。
――私が家慶であるかを。
――そなた自身で決めるな。
――私が将軍であるかも。
――私一人に決めさせるな。
そして。
最後。
――政を止めぬため。
――将軍に代わる仮の決定方法を。
――民を含めて作れ。
家定が息を呑む。
「民を」
「父上が?」
「筆跡確認は」
新之介が言う。
「後でします」
「はい」
「でも」
家定は紙を握る。
「もし父上本人の言葉なら」
「何です」
「変わった」
「決めない」
「……」
「ただ」
「そう書いた人がいる」
「はい」
「なら」
新之介は明るくなり始めた江戸を見る。
「次は」
「城の中だけでは」
「決められません」
家定が問う。
「誰を呼びます」
新之介は答えた。
「町へ行きます」
「日本橋」
「深川」
「蔵前」
「品川」
「捨帳に」
「捨てる候補として書かれた町へ」
「そして」
「何を聞く」
「幕府をどうするか」
「ではありません」
「では」
新之介は。
古い救小屋跡を見た。
「政に」
「どうやって人を入れるかです」
左京が小さく笑う。
「民に聞けば」
「声が百にも千にもなるぞ」
「はい」
「まとまらぬ」
「はい」
「なら」
新之介は答えた。
「民に一つの声はない」
「最初から」
「そこを間違えないところから始めます」
(第八十一章へ続く)

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