第八十五章 記録を殺す者
江戸へ戻る舟は。
来た時より速かった。
だが。
新之介は。
一度も。
「急げ」
とは言わなかった。
水野が何度か船頭を見る。
そして。
何も言わない。
新之介が気づいた。
「水野様」
「何だ」
「今」
「急げと言いかけましたね」
「言っていない」
「顔が」
「顔で人を決めるな」
「それは失礼しました」
水野が苦笑する。
「もう」
「嫌というほど覚えた」
◇
舟の中。
サラ。
弥十郎。
ジョナサン。
四十七。
全員が江戸側へ戻ることになった。
ジョナサンだけは。
最後まで迷った。
「戻れば」
「捕らえられるかもしれない」
新之介が言う。
「はい」
「それでも行く」
「ああ」
「なぜ」
「私の代政案が」
「日本でどう読まれるか」
「自分で見たい」
「それだけ?」
「それだけではない」
「何を」
「三年前に」
「国外へ渡した記録」
「はい」
「どこまで流れたか」
「正確に話す」
「助かります」
「許すわけでは」
「ありません」
「先に言うと思った」
「よく分かってきましたね」
「嬉しくない」
弥十郎が笑った。
「それも移った」
◇
「サラ殿」
「何」
「記録を持ち出した者について」
「心当たりは」
「ある」
全員が彼女を見る。
「誰」
「名前は」
「ない」
四十七が眉をひそめる。
「私ではない」
「分かっている」
「では」
「昔」
「海の御影で」
「名を持たない者を」
「もう一人作った」
新之介の目が細くなる。
「作った?」
「はい」
「本人が望んだのではなく?」
「違う」
「誰が」
「私」
サラは逃げなかった。
「理由を」
「名がある者は」
「追われる」
「役がある者は」
「命令される」
「なら」
「名も役もない人間を」
「一人置けば」
「どこにも属さず」
「全体を見られると思った」
「その人へ」
「聞いた?」
「最初は」
「『名を捨ててもよいか』と」
「答えは」
「嫌だ、と」
新之介の表情が変わる。
「それでも」
「やった?」
「はい」
◇
「なぜ」
家定がいれば。
きっと同じように聞いただろう。
新之介が代わりに問う。
「その者は」
「海の御影の記録を」
「知りすぎていた」
「名が残れば」
「狙われる」
「本人を守るため」
「そう思った」
「今は」
「違うと思う」
「何が」
「守ることと」
「選べなくすることを」
「混ぜた」
新之介が頷く。
「その方の生まれた名は」
サラが答える前に。
四十七が口を開いた。
「私が知っている」
「誰」
「庄太」
「姓は」
「ない」
「出身」
「房総」
「年」
「私より少し上」
「今なら四十半ば」
「弁財丸では」
「乗っていない」
「では」
「十六人?」
「違う」
サラが首を振る。
「六十三人の外」
「何」
「最初から」
「帳面へ入れられなかった者」
◇
新之介の背筋が冷たくなる。
「六十三人に」
「入っていない?」
「はい」
「なぜ」
「数が合わなくなるから」
水野が顔をしかめた。
「何の数」
「弁財丸へ載せる」
「売り手側の約定」
「人数は六十三で固定されていた」
「では庄太殿は」
「どこから」
「船を出す前日」
「荷車の中から見つかった」
「逃げ込んでいた?」
「違う」
「連れてこられた」
「誰に」
「分からない」
「人買い側も」
「知らない?」
「少なくとも」
「現場の者は知らなかった」
「なら」
「六十四人目」
サラが。
ゆっくり頷いた。
「そうです」
◇
六十三。
四十七。
十六。
その数で。
物語は動いてきた。
だが。
最初から。
一人。
数の外にいた。
「なぜ」
新之介が問う。
「その方を」
「帳面に入れなかった」
「入れれば」
「売られる側の数が変わる」
「なら」
「救えば」
「それが」
「一番簡単だった」
サラが顔を伏せる。
「でも」
「私たちは」
「庄太を」
「使った」
「何に」
「六十三人が動く時」
「帳面にいない庄太なら」
「外へ出入りできた」
「見張りから見れば」
「荷運び」
「下働き」
「船頭の手伝い」
「誰でもよかった」
「それで」
「十六人を抜く連絡にも」
「使った」
「はい」
「御影宗太郎の文も」
「運んだ?」
「はい」
「新之介代替計画の」
「最初の記録も」
サラが答えない。
「運んだ?」
「はい」
◇
新之介は。
ゆっくり息を吐いた。
「庄太殿は」
「全部の始まりを」
「見ていた」
「一部を」
「それなのに」
「どの帳面にも」
「自分の名がない」
「はい」
「後で」
「入れようとは」
「した」
「誰が」
「弥十郎」
弥十郎が頷く。
「私は言った」
「六十四番として」
「残そうと」
「本人は」
「拒んだ」
「なぜ」
「『今さら数に入れるな』」
「そう言った」
「では」
新之介が言う。
「その後」
「名前を捨てることを」
「自分で選んだ?」
「違う」
サラが。
苦しそうに首を振った。
「その時は」
「庄太のままいたかった」
「でも」
「私が」
「消した」
「なぜ」
「記録にない人間なら」
「陸と海を」
「つなぐ役に使える」
「役?」
「結局」
新之介の声が冷たくなる。
「名を消して」
「役を与えた」
「はい」
◇
四十七が低く言う。
「庄太は」
「その日から」
「記録外」
「そう呼ばれた」
「本人は」
「嫌っていた」
「何と」
「『外にいるのは自由ではない』」
「『誰も責任を負ってくれないだけだ』」
新之介が目を閉じる。
名を消せば。
追えない。
同時に。
守れない。
責任も。
関係も。
誰が何をしたかも。
残らない。
「サラ殿」
「はい」
「記録を消せば」
「人は自由になると」
「思っていましたか」
「昔は」
「はい」
「今は」
「違う」
「何が」
「記録があることで」
「助かる人もいる」
「例えば」
「金次」
サラの声が揺れる。
「記録がなければ」
「彼が」
「何をされたかも」
「残らない」
「はい」
◇
江戸へ近づく。
再起館の方角。
煙はない。
火事ではないらしい。
「使者は」
水野が言う。
「帳面を持ち出したと申した」
「燃やしたとは」
「言っていない」
「はい」
「なら」
「庄太が」
「本当に記録を殺す気なら」
「どこへ」
サラが答える。
「水」
「なぜ」
「昔から」
「紙を消す時」
「海へ」
「御影でも?」
「海の御影では」
「沈める」
「陸は」
「火」
新之介が小名木川を見る。
自分の刀を捨てた川。
「また」
「川ですか」
玄斎がいれば。
嫌な顔をしただろう。
◇
再起館。
門は開いている。
志乃が待っていた。
「お帰りなさい」
「状況は」
「人は無事です」
「先にそれを?」
「あなたなら」
「聞くでしょう」
「ありがとうございます」
「帳面は」
「ありません」
「持ち出した者は」
「一人」
「顔は」
「何人か見ています」
「一致して」
「いません」
「何」
水野が眉をひそめる。
「同じ人を見たのに?」
「ある人は老人」
「ある人は若者」
「女だと言う人も」
「顔を隠していた?」
「はい」
「声は」
「三種類」
「まさか」
サラが呟く。
「庄太なら」
「あり得る」
「なぜ」
「名を持たない代わりに」
「何人もの役を」
「覚えさせられた」
「誰に」
「私たちに」
◇
「宗一郎殿は」
「寝ています」
志乃が言う。
「本当に?」
志乃の目が細くなる。
「疑いますか」
「確認したいだけです」
「三人で見ています」
「孝庵殿」
「お園さん」
「私」
「傷は」
「熱が高い」
「動けない?」
「普通なら」
「その言い方」
「嫌ですね」
「学びました」
◇
館内。
清太郎。
吉松。
辰蔵。
兵馬。
お園。
孝庵。
そして。
庄吉。
新八。
二人の新之介代替候補も。
まだ拘束中。
「榊原殿」
庄吉が言う。
「今度は」
「何が増えました」
「増えたのではありません」
玄斎がいないのに。
新之介は答える。
「最初からいた人が」
「見えてきただけです」
「その言い方」
「少し安心します」
「なぜ」
「私たちも」
「突然現れた偽物ではなく」
「十五年生きていた人間だと」
「聞こえる」
新之介が庄吉を見る。
「その通りです」
◇
「帳面を持ち出した者について」
庄吉が言う。
「一つ」
「知っています」
「何を」
「十五年前」
「私へ」
「新之介の字を教えた人」
「誰」
「名は知らない」
「役名は」
「記録外」
サラの顔が変わる。
「庄太」
「その名で」
「呼ばれているのを」
「一度だけ聞いた」
「誰が呼んだ」
「サラ殿」
全員が彼女を見る。
「いつ」
「私は」
サラが思い出す。
「呼んだ覚えが」
「あります」
「どこで」
「西徳寺」
「何と」
「『庄太、待って』」
「それだけ」
「はい」
「本人は」
「振り返った?」
「いいえ」
「なぜ」
「後で」
「『その名を呼ぶな』と」
「怒られた」
「それでも」
「私は」
サラは口を閉じる。
「何です」
「次の日から」
「記録外と呼んだ」
「本人が望んだから?」
「いいえ」
「自分が」
「怒られるのが嫌だった」
◇
志乃が低く言う。
「名前を消したのではなく」
「あなたが」
「呼ばなくなった」
「はい」
「違いますね」
「何が」
「本人が名前を捨てたのと」
「周りが呼ばなくなったのは」
「全く違う」
「はい」
サラは。
小さく。
はっきり答えた。
◇
「庄太殿の目的」
新之介が問う。
「何だと思います」
庄吉。
新八。
サラ。
弥十郎。
四十七。
ジョナサン。
皆。
少しずつ違う答えを出した。
「帳面を消す」
「役を消す」
「御影を終わらせる」
「自分を残す」
「逆だ」
四十七が言う。
「自分を」
「完全に消したい」
「なぜ」
「昔」
「一度言った」
「何と」
「『帳面がある限り』」
「『私は帳面の外という役にされる』」
新之介の目が動く。
「記録外という役から」
「逃げるため」
「記録そのものを消す?」
「ああ」
「それで」
「自由になると」
「思っている?」
「たぶん」
「決めない」
新之介が言う。
「本人へ聞きます」
◇
「持ち出された帳面」
清太郎が列挙する。
「始帳」
「根帳」
「続帳」
「十六人見分帳」
「ほかは」
「第四冊の写し一部」
「捨帳は」
「小名木川から戻したものを」
「別の場所で保管中」
「誰が」
「三系統」
「よい」
「元帳は」
「十六人の元帳?」
「地下の石室」
「まだ」
「つまり」
新之介が言う。
「全部ではない」
「はい」
「なら」
「記録を完全に消す目的なら」
「まだ動く」
「どこへ」
水野が問う。
志乃が答える。
「最初に」
「御記録所では」
「ないでしょうか」
「なぜ」
「写しがある」
「そうです」
「でも」
清太郎が首を振る。
「御記録所は」
「警固が増えている」
「誰の名で」
全員が止まる。
清太郎の顔が変わる。
「……家慶公」
「また」
水野が呻く。
「どの家慶か」
「分かりません」
「なら」
「警固そのものが」
「庄太殿に使われる可能性」
「あります」
◇
御記録所へ。
新之介。
水野。
志乃。
清太郎。
四十七。
サラ。
「なぜ私まで」
サラが問う。
「庄太殿を」
「一番多く使った人の一人だから」
サラの顔が強張る。
「責めるため?」
「話を聞くため」
「本人が」
「会いたくないと言ったら」
「近づかない」
「では」
「なぜ連れていく」
「いるかどうかを」
「庄太殿が知った上で」
「選べるようにする」
サラは黙って頷いた。
◇
御記録所。
門前。
兵。
「止まれ!」
「誰の命で」
新之介が問う。
「徳川家慶公!」
「本人から」
「書状!」
「いつ」
「半刻前!」
「誰が運んだ」
「御小姓!」
「名は」
「堀田新三郎!」
新之介たちは。
顔を見合わせる。
「本人を知っている?」
「知っている!」
「どの新三郎」
兵が困る。
「どの?」
「右足を引く?」
「いや」
「よく喋る?」
「……ほとんど喋らなかった」
「では」
「本人と断定しない」
「しかし!」
水野が前へ。
「水野隼人正だ」
「水野様!」
「御記録所警固の確認を」
「私が引き受ける」
「家慶公の命が」
「その家慶公を」
「今見分中だ」
兵が青ざめる。
「では」
「命令無効?」
「まだ決めぬ!」
「ではどうしろと!」
新之介が言った。
「門を開ける前に」
「中の人が無事か確認を」
「誰が」
「そなた一人ではなく」
「今いる警固から二人」
「こちらから二人」
「まず中へ」
「そこで異常がなければ」
「次を」
兵は。
水野を見る。
水野が頷く。
「やれ」
◇
中。
異常。
あった。
「榊原殿!」
先に入った兵が戻る。
「人が倒れています!」
「何人」
「三人!」
「命は」
「あります!」
「人が先!」
新之介たちが走る。
御記録所の奥。
三人。
書役。
傷は浅い。
頭を打たれた者。
腕を縛られた者。
「誰に」
「分かりません」
「顔は」
「堀田新三郎」
「声は」
「女」
水野が止まる。
「何」
「女の声で」
「新三郎の顔?」
「はい」
「何と」
「『帳面を殺す』」
「それだけ?」
「『人を殺さない』」
新之介の目が細くなる。
「だから」
「浅手?」
「おそらく」
◇
書庫。
荒らされている。
だが。
燃えていない。
紙が。
一つずつ。
床へ並べられていた。
「何を」
清太郎が屈む。
「分類されています」
「どういう」
「人名」
「役名」
「命令」
「死亡」
「不明」
「五つ」
四十七が呟く。
「庄太らしい」
「なぜ」
「昔から」
「混ざっているのが嫌いだった」
「何を」
「『人の名と役の名を同じ欄に書くな』」
「そう言っていた」
新之介が床を見る。
人名。
役名。
命令。
死亡。
不明。
バラバラだったものを。
分けている。
「記録を」
志乃が言う。
「殺すのではなく」
「分けている?」
「まだ分かりません」
新之介が奥を見る。
そこに。
一枚。
大きな紙。
墨。
――記録を殺す。
その下。
――人の名を役から外す。
さらに。
――死者の名を命令から外す。
――不明を罪から外す。
清太郎の手が止まる。
「これは」
「私たちが」
「やろうとしていたことに」
「似ています」
「似ています」
新之介が答える。
「でも」
「一人でやっている」
「はい」
◇
奥。
足音。
誰かいる。
「庄太殿」
新之介が呼ぶ。
返事なし。
「記録外殿とは」
「呼びません」
静か。
「今の名を」
「聞きたい」
闇。
やがて。
女の声。
「名はいらない」
全員が身構える。
次。
老人の声。
「名を持てば」
「また役になる」
さらに。
若い男の声。
「だから」
「私は」
暗がりから。
一人。
出てきた。
顔。
半分。
布。
年齢が分かりにくい。
髪。
白い部分。
姿勢は。
老人にも。
若者にも見える。
「庄太殿?」
新之介が問う。
「その名を」
「使うな」
「では」
「何と」
「何も」
「呼ばない?」
「それでよい」
新之介は少し考える。
「分かりました」
「では」
「話す時」
「そなた」
「でよいですか」
「構わない」
◇
サラが。
一歩出る。
「庄太」
男の顔が変わる。
新之介が手を上げる。
「サラ殿」
「……」
「本人が」
「その名を使うなと」
「はい」
サラは止まった。
「すまない」
男が笑う。
「その言葉」
「十五年前に」
「聞きたかった」
「はい」
「今さら」
「はい」
「だが」
「聞く」
サラの目から涙が落ちる。
◇
「帳面は」
新之介が問う。
「どこです」
「ある」
「ここ?」
「一部」
「始帳」
「根帳」
「続帳」
「十六人見分帳」
「全部?」
「分けた」
「なぜ」
「殺すため」
「燃やす?」
「違う」
「沈める?」
「違う」
「では」
「記録としての力を」
「殺す」
「どういう意味」
男は床の紙を指した。
「帳面は」
「一冊になると」
「物語を作る」
「本当の言葉を並べても」
「本当の話になるとは限らない」
新之介の目が動く。
「誰から」
「お前だ」
「私?」
「十五年前」
「弥吉から聞いた」
「……」
「お前の言葉は」
「何度も」
「勝手に使われた」
「私も今」
「使った」
「それを」
「記録します」
「好きにしろ」
◇
「始帳は」
「何が問題」
「数字が」
「人を食う」
「根帳は」
「弱みが」
「人を役へ変える」
「続帳は」
「未来の罪が」
「今の人を裁く」
「十六人見分帳は」
「救いと利用が」
「一冊で同じ話になっている」
「だから」
「頁を分けた」
「人名」
「役名」
「命令」
「結果」
「不明」
「それぞれ」
「別に」
清太郎が興奮したように言う。
「なら」
「照合できなくなる」
「逆だ」
男が答える。
「後から」
「必要な時だけ」
「結ぶ」
「誰が」
「本人を含めて」
「本人が死んでいれば」
「複数」
「関係者」
「反対者」
「実行した者」
「被害を受けた者」
新之介は。
少し驚いた。
「そなた」
「井戸端見分を」
「見た?」
「見ていた」
「どこで」
「全部」
「全部?」
「全部という言葉は危ない」
男が言った。
サラが思わず笑った。
「榊原が」
「増えた」
新之介が嫌な顔。
「増やさないでください」
◇
「なら」
水野が問う。
「なぜ盗んだ」
「持ち出さず」
「皆でやれば」
「誰が許す」
「許可が」
「必要?」
「役所は」
「帳面を手放さない」
「だから」
「一人で?」
「ああ」
「それが」
新之介は言う。
「問題です」
「分かっている」
「なら」
「なぜ」
「時間がない」
全員が。
少し黙った。
新之介は男を見る。
「誰に」
「急がされた」
「誰にも」
「では」
「何が」
「外国船」
「将軍が複数」
「御影が複数」
「見捨役」
「代政案」
「今」
「帳面が残れば」
「誰かが」
「必ず一つの本当の話を作る」
「だから」
「先に壊す」
「はい」
「時間がない者ほど」
男が。
新之介の言葉を先に言った。
「他人の命を使う」
「知っている」
「なら」
「そなたは」
「他人の記録を使った」
男が止まる。
「本人へ聞かず」
「その人の過去を」
「分解した」
「……」
「正しいかもしれません」
「でも」
「正しいから」
「聞かなくてよいにはならない」
長い沈黙。
◇
「私は」
男が言った。
「聞けば」
「止められると思った」
「誰に」
「宗太郎」
「左京」
「久松」
「家慶」
「阿部」
「皆」
「自分の記録を」
「手放さない」
「だから」
「奪った」
「それは」
志乃が言った。
「昔のサラさんと同じですね」
サラが顔を上げる。
「本人が断ると思ったから」
「先にやった」
男がサラを見る。
「……同じにするな」
「全部は同じではありません」
新之介が言う。
「でも」
「その部分は似ています」
男の拳が震える。
◇
「そなたは」
新之介が静かに問う。
「名前を」
「本当に」
「持ちたくない?」
男の目が鋭くなる。
「何度聞く」
「初めてです」
「何」
「十五年前」
「周りが呼ばなくなった」
「それと」
「今そなた自身が」
「名前を持ちたくないかは」
「別です」
男は。
何も言わない。
「庄太と呼ばれたい?」
「……」
「別の名?」
「……」
「名なし?」
「……」
「今決めなくてよい」
男が。
初めて。
新之介から目を逸らした。
「ずるいな」
「何が」
「選べと言われ続けて」
「選ばないと」
「言えるとは」
「はい」
「そんな道が」
「あると思わなかった」
◇
新之介は。
床へ座った。
刀を外す。
自分の横へ置く。
「何を」
水野が問う。
「話します」
「今?」
「はい」
「帳面が」
「人が先です」
男が。
わずかに笑った。
「またそれか」
「はい」
「飽きた」
「皆、同じことを」
「それも飽きた」
◇
「そなたが」
新之介は言う。
「六十四人目だった」
「その呼び方も嫌いだ」
「では使いません」
「……」
「帳面に載らなかった」
「はい」
「だから」
「誰にも数えられなかった」
「はい」
「それを」
「自由だと」
「言われた?」
「何度も」
「実際は」
「誰も」
「私が消えても」
「人数が減ったと」
「気づかない」
男の声が。
初めて。
普通の声になった。
若くも。
老いてもいない。
「それが」
「記録外だ」
「はい」
「私は」
「六十三人を」
「何度も見た」
「四十七人が船へ」
「十六人が別路へ」
「皆」
「数えられていた」
「私は」
「どちらにもいない」
「助けられた数にも」
「売られた数にも」
「入らない」
「だから」
「十六人を助けた話を聞くたび」
「思った」
「私は?」
サラが。
顔を覆った。
「……」
「四十七人の苦しみを聞くたび」
「思った」
「私は?」
四十七が目を伏せる。
「誰も」
「私を捨てたとは」
「記録できない」
「最初から」
「持っていなかったから」
◇
「だから」
新之介が問う。
「帳面を殺したい?」
「そうだ」
「帳面がある限り」
「六十三人の話になる」
「私は」
「後から足された」
「例外になる」
「なら」
「六十三という数を」
「壊したい」
「はい」
「でも」
「六十三人が」
「いたことまで」
「消える」
「……」
「四十七人が」
「船へ乗ったこと」
「十六人が」
「別路へ行ったこと」
「そなたが」
「その外にいたこと」
「全部」
「別々に残せます」
「どうやって」
清太郎が。
ゆっくり口を開いた。
「六十三人の帳面に」
「そなたを足すのではなく」
「六十三人を数えた帳面の外に」
「実際にはもう一人いた」
「と」
「別に」
「その理由も」
「分からないことも」
「残す」
男が清太郎を見る。
「それで」
「私は」
「六十四番になる」
「しません」
「なぜ」
「番号ではなく」
「一人として」
「でも名がない」
「名なしでも」
「本人希望で未定」
「と書けます」
男が。
長く。
長く黙った。
◇
「未定」
小さな声。
「はい」
「空白ではなく?」
「はい」
「違うのか」
「違います」
志乃が答えた。
「空白は」
「誰も書かなかったように見えます」
「未定は」
「本人が」
「今は決めないと」
「選んだことが残ります」
男の顔が。
少し崩れた。
「そんな」
「書き方が」
「あったのか」
◇
サラが一歩出る。
「私が」
「何」
「庄太という名を」
「消した」
「はい」
「返す権利は」
「私にはない」
「はい」
「でも」
「今」
「言いたい」
男は黙る。
「庄太」
新之介がサラを見る。
サラは首を振る。
「違う」
「名としてではない」
「では」
「十五年前」
「その名で呼んだ人が」
「いたことを」
「私は」
「覚えている」
男の目に涙が浮かぶ。
「それだけ」
「はい」
「今のあなたへ」
「その名を押しつけない」
男は。
顔を背けた。
「……遅い」
「はい」
「遅すぎる」
「はい」
「でも」
「今」
「言いました」
「はい」
◇
水野が。
静かに息を吐く。
「榊原」
「何です」
「帳面は」
「今は聞きません」
「本当に?」
「人が先です」
「分かった」
少しだけ。
「……慣れた」
◇
やがて。
男が言った。
「帳面は」
全員が見る。
「始帳は」
「ここ」
書庫の床下。
「根帳は」
「西の蔵」
「続帳は」
「御記録所の屋根裏」
「十六人見分帳は」
「持っている」
「今?」
「はい」
「どこに」
男が自分の胸へ手を入れる。
薄い冊子。
「触らないで」
清太郎が即座。
男が。
初めて声を出して笑った。
「それ」
「気に入った」
「ありがとうございます」
「本人へ」
「返す?」
新之介が問う。
「誰が本人」
「十六人」
「一冊を十六人へ?」
「一人ずつ」
「自分の頁を」
「どうするか聞く」
「残す」
「隠す」
「元の名を伏せる」
「別の名を書く」
「全部」
「本人へ」
「死んでいる者は」
「関係者を入れる」
「誰もいなければ」
「不明で残す」
男の目が。
ゆっくり新之介へ戻る。
「それなら」
「帳面は」
「死なない」
「はい」
「でも」
「役としての力は」
「弱くなる」
「はい」
「それが」
「よいと思います」
◇
「始帳は」
「どうする」
「同じです」
「根帳」
「同じ」
「続帳」
「同じ」
「全部」
「人ごとに?」
「全部を」
「ばらばらにするとは」
「決めません」
「誰が」
「まず」
「関係者」
「影響を受ける側」
「記録した側」
「反対した側」
「実行した側」
「そして」
「普通の人」
「なぜ」
「帳面を」
「役人だけのものに」
「戻さないため」
男が笑う。
「時間がかかる」
「はい」
「外国船がいる」
「はい」
「将軍も」
「まだ一人ではない」
「はい」
「それでも」
「やる?」
「はい」
◇
「では」
男は。
十六人見分帳を。
床へ置いた。
「返す」
「誰に」
新之介は聞く。
「そなたに」
「受けません」
男が眉をひそめる。
「なぜ」
「私一人へ」
「預けない」
「では」
新之介は周囲を見る。
「サラ殿」
「はい」
「清太郎殿」
「はい」
「志乃殿」
「はい」
「四十七殿」
「ああ」
「水野様」
「私も?」
「幕府側」
「そして」
「そなた」
男が止まる。
「私?」
「はい」
「なぜ」
「持ち出した人だから」
「罪人だぞ」
水野が言う。
「はい」
「だから外す?」
「いいえ」
「持ち出した理由を」
「一番知っている」
「ただし」
「鍵を」
「一人では持たせない」
「帳面も」
「一人では開かない」
「また」
男が呟く。
「井戸端か」
「似ています」
「嫌いではない」
◇
清太郎が。
仮の記録を書く。
――十六人見分帳。
――再確保。
――持ち出した者、現時点で名未定。
――本人は「記録外」の役名を拒否。
――旧名「庄太」と呼ばれていた事実について、複数証言あり。
――本人、現在その名を使用する意思について未決定。
男が。
紙を見つめる。
「私が」
「未定と」
「書いてある」
「はい」
「空白ではない」
「はい」
男の目から。
静かに。
涙が落ちた。
「……これなら」
「何です」
「少し」
「外にいない」
◇
その時。
御記録所の外。
鐘。
四度。
救いの合図。
「何が!」
水野が立つ。
兵が走る。
「江戸城より!」
「家定公から急ぎ!」
「内容!」
「仮交渉会議!」
「米利堅側より!」
「正式回答を求められています!」
「期限は」
「明日正午!」
水野が顔をしかめる。
「また期限か」
「さらに!」
「何です」
「家慶甲殿が!」
「どうしました」
「『家定の仮交渉会議を認める』と!」
「本人から?」
「阿部殿!」
「神谷殿!」
「家慶甲殿!」
「三者立会いで!」
新之介が頷く。
「それなら」
「一つの材料」
◇
「まだあります!」
使者が続ける。
「家慶乙――」
「いえ!」
「名未定の藤吉殿から!」
「何と」
「自分が家慶乙として出した全命令を!」
「一時停止扱いにせよ、と!」
「誰と」
「本人」
「青山新六郎殿」
「榊兵庫殿」
「三者で!」
水野が驚く。
「榊兵庫が戻った?」
「はい!」
「さらに」
「何」
「本人が」
「真崎玄十郎の名を使った時期についても」
「話すと!」
新之介が息を吐く。
「半九郎殿は」
「向かっています!」
「一人で?」
「玄十郎殿本人候補と!」
「……父が二人並ぶのか」
水野が呟く。
「今は」
「その呼び方を」
「やめておく」
「ありがとうございます」
◇
使者は。
最後の紙を差し出す。
「家定公から」
「榊原殿へ」
新之介が読む。
――明日正午まで。
――米利堅側へ返す答えを作る。
――ただし。
――開国するか否かを。
――一日で決めるつもりはない。
新之介が少し笑う。
続き。
――まず。
――何を今日決められるか。
――何を今日決めてはならないか。
――分けたい。
さらに。
――日本橋の声。
――海の御影の声。
――城の声。
――藩の声。
――港の声。
――できる限り持って来てほしい。
最後。
――そして。
――一番聞きたいのは。
――記録に載らなかった者の声。
男の顔が変わった。
新之介は。
紙を彼へ見せる。
「そなたです」
「私?」
「はい」
「なぜ」
「家定殿は」
「そなたを」
「知らないはず」
「だからでしょう」
「何が」
「知らない人が」
「まだいると」
「分かり始めた」
男は。
長く紙を見た。
「私は」
「政など」
「分からない」
「大丈夫です」
「なぜ」
「皆」
「全部は分かっていません」
「何を話せば」
「自分のこと」
「それだけ?」
「はい」
「六十三人の外に」
「いたこと」
「名前を呼ばれなくなったこと」
「帳面を消したくなったこと」
「それが」
「政に関係する?」
志乃が答えた。
「します」
「なぜ」
「政が」
「数に入れる人を決めるからです」
男は。
志乃を見る。
そして。
小さく。
頷いた。
◇
「行きますか」
新之介が問う。
「……分からない」
「では」
「明日まで」
「考えて」
「間に合わなければ」
「行かない」
「はい」
「それで」
「よい?」
「そなたが決めることです」
「また」
「はい」
「だが」
男が。
ほんの少し笑った。
「今度は」
「嫌ではない」
◇
夕刻。
御記録所。
床には。
五つに分けられた紙。
人名。
役名。
命令。
死亡。
不明。
清太郎が。
六つ目の札を置いた。
「何です」
新之介が問う。
――未定。
「不明と」
「違う?」
「違います」
「どう」
「不明は」
「分からない」
「未定は」
「まだ決めない」
新之介が。
少し笑った。
「よいですね」
男も。
その札を見る。
「私の」
「場所か」
「今は」
清太郎が答える。
「はい」
「なら」
男は。
未定の札を。
少しだけ。
自分の方へ寄せた。
◇
その夜。
江戸城から。
もう一つ。
使いが来た。
「榊原殿!」
「何が」
「米利堅側より!」
「明日の会議に!」
「追加の参加者を」
「要求!」
「誰」
使者が紙を見る。
「徳川将軍!」
水野が顔をしかめる。
「またそこへ戻るか」
「ただし!」
「何です」
「米利堅側は!」
「『本物でなくてもよい』と!」
全員が黙った。
「何」
新之介が問う。
「続けて」
「『日本側が』」
「『誰を代表として出すか』」
「『その決め方を見たい』と!」
家定が。
海で言われた問い。
誰が将軍か。
ではない。
誰を。
どう代表にするか。
水野が低く言う。
「これは」
「罠かもしれん」
「はい」
「試している」
「はい」
「どうする」
新之介は。
即答しなかった。
「明日」
「皆で」
「決めます」
水野が笑う。
「遅いな」
「はい」
「だが」
「何です」
「今回は」
「それでよい気がする」
◇
その時。
名未定の男が。
初めて。
自分から新之介を呼んだ。
「榊原」
「はい」
「もし」
「明日」
「私が行くなら」
「はい」
「一つ」
「頼みがある」
「何です」
「六十四人目と」
「呼ぶな」
「呼びません」
「記録外とも」
「呼ばない」
「はい」
「庄太も」
「今は」
「呼ぶな」
「はい」
「では」
「何と」
男は少し考えた。
長く。
長く。
そして。
「まだ」
「決めない」
「分かりました」
「だが」
男は続けた。
「一つだけ」
「何です」
「『ここにいる』と」
「書いてくれ」
清太郎が。
新しい紙を出す。
筆。
墨。
そして。
ゆっくり。
書いた。
――名、未定。
――役、なし。
――番号、なし。
――ただし。
――ここにいる。
男は。
その文字を。
何度も。
何度も見た。
やがて。
静かに言った。
「これなら」
「明日」
「行けるかもしれない」
新之介は。
何も足さなかった。
名がなくても。
役がなくても。
数に入らなくても。
人は。
そこにいる。
その一行から。
次の政が。
始まるのかもしれなかった。
(第八十六章へ続く)

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