上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第七十八章

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第七十八章 捨てられた者

再起館へ戻る舟の中で、新之介は一度も「急げ」と言わなかった。

 水を切る櫓の音。

 夜の川。

 遠くの火。

 江戸は、何も知らぬように動いている。

 米を運ぶ舟。

 夜回り。

 橋の上の人影。

 どこかで子どもの泣く声。

「榊原」

 水野が言った。

「遅くてよいのか」

「よくありません」

「では」

「だから、急がせる理由を見ます」

「言葉遊びではないぞ」

「分かっています」

 家定も舟に乗っている。

 甲乙二人の家慶は江戸城へ残した。

 阿部と神谷が立会い。

 沢渡玄隆。

 久松主膳。

 御影宗一を名乗る男。

 鷹見宗一郎。

 彼らも別々に監視させた。

 一人の命令で動かせないように。

「父上たちは」

 家定が言った。

「今頃、互いを疑っているでしょうね」

「よいのでは」

 水野が答える。

「水野殿」

「何です」

「父を疑うのは、よいことですか」

「主君を疑わぬ忠義は」

 新之介が言う。

「主君を人ではなくします」

 家定が新之介を見る。

「それは誰の言葉です」

「今となっては」

「誰のでもよいでしょう」

 ◇

 再起館の門前には。

 志乃。

 辰蔵。

 半九郎。

 玄十郎。

 玄斎。

 清太郎より一足先に戻っていた吉松。

 そして。

 三本の縄をかけられた若い男。

 三十ほど。

 顔は。

 真崎半九郎とよく似ている。

 だが完全ではない。

 右の眉が少し高い。

 口角。

 耳。

 近くで見れば違う。

「榊原殿」

 半九郎が言う。

「宗太郎殿は」

「中です」

 志乃が答える。

「傷は」

「腕だけ」

「熱が出ていますが、命には」

「孝庵殿が?」

「診ています」

「一人で?」

 志乃が呆れた顔をする。

「私と辰蔵さん、お園さんも一緒です」

「ありがとうございます」

「もう癖ですね」

「何が」

「一人かどうか聞くのが」

「悪い癖ではないでしょう」

「少し疲れます」

 辰蔵が横から言う。

「皆、同じことを申す」

 玄斎が杖を鳴らした。

「わしの台詞を取るな!」

 ◇

 若い男は、新之介を見ていた。

「そなたが」

「榊原新之介」

「そう名乗っています」

「本人か」

「今のところ」

「変な答えだ」

「最近はこれで通しています」

「私も真崎半九郎と名乗っていた」

「今は」

「松平宗一郎」

「それが本名?」

「違う」

「では」

「役名だ」

 半九郎が拳を握る。

「なら生まれた名を」

「知らない」

「また」

 玄斎が呻く。

「本当に知らぬ者が多いな」

 若い男が玄斎を見る。

「黒川玄斎」

「わしを知っておるか」

「知っている」

「どこで」

「声だけ」

「誰の声で」

「御影宗太郎」

 玄斎の顔が硬くなる。

「その名を」

「今は使うな」

「では」

「松平宗一郎殿?」

 玄斎は答えられない。

「先生」

 新之介が言う。

「本人が何と呼ばれたいか」

「聞くのですね」

 志乃が先に言った。

「はい」

 ◇

「斬った理由を」

 新之介が若い男へ問う。

「私を見捨役にするためだ」

「誰に命じられた」

「誰にも」

「自分で?」

「ああ」

「なぜ」

「松平宗一郎が」

「昔、見捨てられたからだ」

「だから斬った?」

「痛みを思い出させるため」

「本人へ聞いた?」

「何を」

「思い出したいか」

 若い男が黙る。

「傷をつければ」

「捨てられた側へ戻れると思った?」

「ああ」

「それは、そなたの考え」

「そうだ」

「誰かから教わった?」

「松平宗一郎本人だ」

 玄斎が一歩出る。

「何を教わった!」

「見捨役は」

「捨てられる痛みを忘れた時に腐る」

「それだけか」

「ああ」

「なら『斬れ』とは申しておらぬな」

「……」

「答えろ!」

「申していない」

「では」

 玄斎の杖が震える。

「そなたが勝手に」

「ああ」

「痛みを教えるために人を斬った?」

「ああ」

 玄斎の杖が上がる。

 新之介が止めた。

「先生」

「離せ!」

「斬られた方も」

「後で話を聞きたい」

「分かっておる!」

 玄斎は杖を下ろした。

 若い男が言う。

「殴らないのか」

「今はな」

「なぜ」

「話を聞いてから決める」

 半九郎が横で言った。

「最近、それが流行っています」

「嬉しくない」

 新之介と玄斎が同時に言った。

 ◇

「そなたを育てた松平宗一郎とは」

 新之介が問う。

「再起館で宗太郎を名乗っていた方?」

「そうだ」

「何歳から」

「七つ」

「どこで」

「深川」

「親は」

「知らない」

「その方を父と」

「呼んでいた」

「本人は」

「呼ぶなと言った」

「なぜ」

「父になれば」

「私を自分のものだと思ってしまうから」

 新之介の目が動いた。

「それは」

「本人の言葉?」

「ああ」

「ほかには」

「名を信じるな」

「役を信じるな」

「行いを見ろ」

 玄斎が呟く。

「やはり」

「宗太郎だった男だ」

「先生」

「何だ」

「名前を戻さないでください」

「分かっておる!」

 ◇

「七歳の子どもへ」

 家定が問う。

「何を教えたのです」

 若い男が家定を見る。

「そなたは誰だ」

「徳川家定」

「本人?」

「今のところ」

 新之介が家定を見る。

「使いますね」

「便利です」

「嬉しくありません」

「皆」

「今はよいです」

 若い男が家定へ答える。

「私は」

「人を捨てる役があると教えられた」

「見捨役」

「ああ」

「その役をなくすために」

「捨てられた者が」

「見捨役になるべきだと」

「なぜ」

「痛みを知っているから」

 家定の顔が曇る。

「それは」

「一理あるように聞こえる」

「だから危ないのです」

 新之介が言った。

「誰かを捨てられた経験が」

「その人を正しい決断者にするとは限らない」

「でも」

 若い男が言う。

「捨てる痛みを知らない者より」

「ましだ」

「かもしれません」

「なら」

「しかし」

 新之介は続ける。

「痛みを知る者が」

「次の誰かへ同じ痛みを与えないとは限らない」

 若い男は。

 自分が斬った人物のいる館を見る。

「……私か」

「はい」

 ◇

 半九郎が若い男の前へ座った。

「なぜ私の顔を」

「作られた」

「誰に」

「沢渡」

「何歳から」

「十二」

「声は」

「そなたの家へ入った者から」

「弥吉?」

「ほかにも」

「何人」

「四人」

 玄十郎の顔が変わる。

「四人も」

「そなたの家へ」

「入り込んでいた」

 若い男が答える。

「料理人」

「馬丁」

「庭師」

「下男」

「名は」

「知らない」

「なぜ」

「役で呼ばれていた」

 玄十郎は目を閉じる。

「私は」

「家の中まで」

「何も見ていなかった」

「父上」

 半九郎が言う。

「今は後悔を先にしないでください」

「……」

「まず聞きます」

 玄十郎は息子を見る。

「そうだな」

 ◇

「私を真似たのは」

 半九郎が続ける。

「何のため」

「最初は」

「お前が死んだ時」

「名を残すため」

「後は」

「見捨役にするため」

「いつから」

「五年前」

「誰が決めた」

「育ての父」

「松平宗一郎?」

「ああ」

「なぜ本物ではなく」

「私を?」

 若い男は半九郎を見る。

「お前は」

「父を恨み切れなかった」

 半九郎の顔が変わる。

「何」

「父に使われ」

「命を狙われ」

「それでも父を尊敬した」

「だから?」

「見捨役には向かない」

「なぜ」

「捨てる時に」

「相手の事情を考えるから」

 玄斎が笑った。

「それは」

「向かなくてよいのではないか」

 若い男が玄斎を見る。

「国が遅れる」

「またそれか」

 ◇

「そなたは違う?」

 新之介が問う。

「私は」

「捨てられた者を恨んだ」

「誰を」

「親」

「知らないのに」

「捨てられたと教えられた」

「誰に」

「育ての父」

「本当に親は捨てた?」

 若い男が止まる。

「……」

「確認した?」

「していない」

「では」

「親が死んでいた可能性」

「売られた可能性」

「探していた可能性」

「全部あります」

「……」

「そなたは」

 新之介が静かに言う。

「『自分は捨てられた』という話を」

「他人から与えられた」

「それを十五年以上」

「自分の人生の芯にした」

 若い男の顔から、初めて確信が消えた。

「父は」

「嘘を?」

「決めない」

「では」

「確かめる」

「どうやって」

「本人に聞く」

「松平宗一郎へ」

「ああ」

「今、生きている」

 若い男の唇が震えた。

「私は」

「斬った」

「腕です」

「殺してはいない」

「だが」

「会えます」

「……」

「怖いですか」

「……ああ」

「なら」

 新之介は言った。

「怖いまま会ってください」

 ◇

 館内。

 御影宗太郎を名乗っていた老人。

 今。

 自ら松平宗一郎と書いた男は。

 布団へ横たわっていた。

 右腕には包帯。

 熱がある。

 孝庵。

 志乃。

 お園。

 三人がそばにいる。

「人が多いな」

 老人が言う。

「本人確認も兼ねています」

 志乃が答えた。

「そなたまで」

「感染しました」

 新之介が言う。

「嬉しくありません」

「それも移ったか」

 ◇

 玄斎が老人の枕元へ座る。

「先生」

 老人が目を開ける。

「その呼び方を」

「何だ」

「やめるか」

 玄斎はしばらく考えた。

「今はやめぬ」

「なぜ」

「わしに剣を教えたのは」

「そなたの行いだからだ」

 老人の目が揺れる。

「名が違っても?」

「ああ」

「では」

 玄斎は杖を置いた。

「松平宗一郎でも」

「御影宗太郎でも」

「鷹見静山でも」

「わしの先生だった時のそなたを」

「先生と呼ぶ」

 老人は目を閉じた。

「……ありがたい」

「ただし」

「何だ」

「嘘をついた分は後で殴る」

「傷人を?」

「わしも膝人だ」

 志乃が呆れた顔をした。

「どちらも寝てください」

 ◇

 若い男が部屋へ入る。

 老人の目が開く。

 二人は。

 長い間。

 何も言わなかった。

「宗一郎」

 老人が先に呼ぶ。

「その名で呼ぶな」

 若い男が答える。

「では」

「名はない」

「……そうか」

「お前がそうした」

「そうだ」

「私は」

 若い男の声が震える。

「お前に斬られるために育てられたのか」

 老人の顔が変わる。

「誰が」

「見捨役は」

「捨てられる痛みを知る者がなるべきだと」

「申しただろう」

「申した」

「だから」

「お前を斬った」

 老人が目を閉じる。

「そこまで行ったか」

「何」

「私が間違えた」

「また簡単に」

 新之介が口を挟む。

「榊原」

「何です」

「今は」

「本人たちの話です」

「分かりました」

 新之介は黙る。

 志乃が小さく笑った。

「黙れるのですね」

「一応」

 ◇

「私は」

 老人が若い男へ言う。

「見捨役を終わらせたかった」

「知っている」

「捨てられた者が」

「捨てる側の痛みを知れば」

「簡単に人を切れなくなると思った」

「だから私を」

「育てた」

「見捨役候補として?」

「……ああ」

「私は」

「人か」

 老人の顔が歪む。

「何」

「私はお前にとって」

「人だったか」

 部屋が静まる。

「子でもない」

「弟子でもない」

「名もない」

「ただ」

「捨てられた経験を持つ見捨役候補」

「そうでは」

「では何だ!」

 若い男が叫ぶ。

「七歳の私を拾い」

「名を消し」

「半九郎の顔をつけ」

「痛みを覚えろと教え」

「国を決める者になれと!」

「それを人を育てたと申すのか!」

 老人は何も言えない。

「申せ!」

「……違う」

「何が」

「私は」

 老人の声が震える。

「そなたを役に育てた」

「人としてではなく」

「ああ」

 ◇

 玄十郎が目を伏せる。

 半九郎が父を見る。

「父上」

「何だ」

「似ていますね」

「……ああ」

「自分の正しさのために」

「子どもを使った」

「私は」

「言い訳しませんね」

 玄十郎は息を吐く。

「ああ」

 ◇

「なぜ」

 若い男が問う。

「私の親を探さなかった」

 老人が答えない。

「榊原に言われた」

「私は捨てられたのではないかもしれないと」

「なぜ確かめなかった」

「……」

「知っていたのか」

「少し」

「何を」

 老人は。

 長く。

 長く黙った。

 やがて。

「そなたの母は」

「生きていた」

 若い男の身体が止まった。

「何」

「七歳の時?」

「ああ」

「どこに」

「江戸に」

「探していた?」

「……ああ」

「なぜ!」

 若い男の声が裏返る。

「なぜ会わせなかった!」

 老人の目から涙が流れた。

「見捨役にするには」

「身寄りがない方が」

「都合がよかった」

 誰も息をしない。

 玄斎の手が杖へ。

 だが。

 今度は上げなかった。

 若い男が後退する。

「私は」

「捨てられていなかった」

「……」

「お前が」

「捨てられたことにした」

「そうだ」

「どこが!」

 若い男が叫ぶ。

「どこが痛みを知る者だ!」

「お前は!」

「自分が父に捨てられたから!」

「私まで捨てられた子にした!」

 老人は。

 ただ。

「すまない」

 と答えた。

 若い男が笑う。

 涙を流しながら。

「その言葉で」

「母は戻るか」

「戻らぬ」

「私の十五年は」

「戻らぬ」

「なら」

「謝るな!」

 ◇

 新之介は何も言わなかった。

 これを。

 「赦せ」とまとめてはいけない。

 親子ではない。

 弟子でもない。

 拾った者と。

 拾われた者。

 そして。

 役へ作られた者。

 本人たちの間にある。

「母の名は」

 若い男が問う。

 老人は答えた。

「お久」

「今は」

「……」

「生きているか」

「分からぬ」

「最後に」

「五年前」

「どこで」

「深川」

「何を」

「そなたを探していた」

 若い男の膝が崩れた。

 床へ座る。

「五年前まで」

「ああ」

「私は」

「半九郎の顔で」

「江戸にいた」

「ああ」

「近くに」

「いたのかもしれない」

「……」

「なぜ!」

 再び叫ぶ。

 老人は答えられない。

 ◇

「探します」

 新之介が初めて言った。

 若い男が振り返る。

「何を」

「お久殿を」

「なぜ」

「会いたいですか」

 若い男が黙る。

「分からない」

「では」

「探すだけ」

「見つかっても」

「会うかはそなたが決める」

「……」

「もう」

 新之介は老人を見る。

「他人が決めない」

 ◇

「私を捕えるのだろう」

 若い男が言う。

「宗一郎殿を斬った」

「はい」

「罪はある」

「あります」

「なら」

「拘束します」

「ただし」

「何」

「真崎半九郎としてではない」

 若い男が顔を上げる。

「では」

「今の名を」

「名はない」

「なら」

「仮に」

「何と」

 新之介は考えた。

「無名では記録が混乱します」

「役名も嫌でしょう」

「……ああ」

「自分で一つ選びませんか」

「今?」

「今でなくても」

「……」

 若い男は。

 しばらく窓の外を見た。

 庭。

 夜。

 灯り。

「久」

「何」

「母の名から」

「一字だけ」

「久」

「姓は」

「いらない」

「分かりました」

 清太郎が記す。

 ――久。

 ――生年不詳。

 ――旧称、真崎半九郎。

 ――旧称、松平宗一郎。

 ――本人の選択により、現時点では「久」。

「現時点?」

 久が問う。

「後で変えてよい」

「そんなものか」

「名前は」

 新之介が言う。

「人より後ろを歩くくらいでよいでしょう」

 ◇

 玄斎が松平宗一郎の枕元へ戻る。

「先生」

「何だ」

「今度は」

 老人が自嘲する。

「殴るか」

「後でな」

「なぜ」

「熱がある」

「……」

「治ってからだ」

「優しいのか」

「違う」

「痛い方がよい」

 志乃が言う。

「黒川様」

「何だ」

「それでは治療の意味がありません」

「医者は孝庵だ」

「患者はあなたです」

「わしではない!」

「膝人でしょう」

 玄斎が黙った。

 新之介が笑う。

「皆、同じことを」

「榊原様」

「はい」

「今は黙ってください」

「はい」

 ◇

「榊原」

 松平宗一郎が言った。

「何です」

「久を」

「見捨役にする話は」

「私一人の考えではない」

 久が顔を上げる。

「誰が」

「松平左京」

「父?」

「ああ」

「生きている?」

 老人が答える。

「分からぬ」

「また」

 玄斎が呻く。

「だが」

「何です」

「十年前」

「父の名で文が来た」

「内容は」

「『捨てられた者だけでは足りぬ』」

「『捨てた者も候補へ入れよ』」

 新之介の顔が変わる。

「捨てた者?」

「ああ」

「だから」

「新しい五人名簿に」

「久松が?」

「それだけではない」

「誰」

 老人は一人ずつ見る。

「真崎玄十郎」

「半九郎の名を使った」

「私」

「久を役へ入れた」

「久松」

「多くを見捨てた」

「そして」

 新之介。

「そなた」

 新之介が眉をひそめる。

「私?」

「そなたも」

「捨てた」

「誰を」

 老人は答えた。

「自分自身を」

 部屋が静まる。

「刀を捨て」

「家を危険へ晒し」

「自分が死ねば済む場面で」

「何度も前へ出た」

「それは」

「人を捨てないために自分を捨てる」

「同じ病だ」

 新之介はすぐに否定しなかった。

「つまり」

 家定が言う。

「見捨役を変えるため」

「捨てられた者」

「捨てた者」

「自分を捨てる者」

「全部を集めようとした」

「そうだ」

「誰が」

「松平左京」

 新之介が問う。

「本人なら」

「本人なら」

 老人は目を閉じる。

「ただ」

「最後の文には」

「こうあった」

「何と」

「『五人を集めた後』」

「『六人目を置け』」

「六人目?」

「何のため」

「決めない者」

 新之介の目が動いた。

「見捨てる案を出さない者?」

「違う」

「では」

「五人の決断を」

「最後まで疑う者」

 清太郎の筆が止まる。

「誰です」

「六人目」

 老人は新之介を見る。

「名は」

「まだ決まっていなかった」

「条件は」

「一つ」

「何です」

「何度急がされても」

「一人を選ばなかった者」

 玄斎が新之介を見る。

「……そなたではないか」

「決めないでください」

「条件が」

「条件と本人は別です」

 松平宗一郎がかすかに笑った。

「だから」

「私が伝言した」

「榊原新之介を急がせるな、と」

「急がせれば」

 新之介が言う。

「私も見捨役になる」

「ああ」

「六人目ではなく?」

「人は追い詰められると」

「疑う者から」

「決める者へ変わる」

 新之介は黙った。

 ◇

 その時。

 再起館の門外から。

 馬の音。

 一騎。

 続いて二騎。

「急使!」

「江戸城より!」

 兵馬が走り込む。

「榊原様!」

「何が」

「家慶公が!」

「どちらの」

「分かりません!」

「よい!」

 玄斎が怒鳴る。

「それを褒めるな!」

「続けて!」

「二人の家慶公のうち!」

「一人が御座所から消えました!」

「誰と」

「久松主膳!」

「沢渡は」

「残っています!」

「阿部殿は」

「追っています!」

「書き置きが!」

 清太郎が受け取る。

「読みます」

 ――五人は揃った。

 ――六人目も決まった。

 新之介の顔が険しくなる。

「誰が書いた」

「署名があります」

「誰」

 清太郎が読む。

「――松平左京」

 玄斎が杖を握る。

「生きているのか」

「決めない」

 新之介が言う。

「続きがあります」

「読んでください」

 ――最後の見分は。

 ――江戸城では行わぬ。

 ――再起館でも行わぬ。

 ――始帳が生まれる前。

 ――最初に人を捨てた場所へ来い。

 水野が問う。

「どこだ」

 清太郎が最後の一行を見る。

「――小名木川、旧御救小屋跡」

 玄十郎の顔が変わった。

「知っているのですか」

「ああ」

「何があった場所」

 玄十郎は答えた。

「四十年以上前」

「飢饉の時」

「救小屋へ入り切らなかった人間を」

「役人が」

「外へ残した」

「何人」

「記録では三十二」

「実際は」

「分からぬ」

「誰が決めた」

 玄十郎は。

 松平宗一郎を見る。

 老人も。

 ゆっくり目を開いた。

「松平左京」

 玄十郎が答える。

「見捨役になる前の」

「最初の決断だ」

 久が呟く。

「そこから」

「始まった?」

 新之介は首を振った。

「それも」

「現地で確かめます」

 そして。

 清太郎が紙の裏へ気づいた。

「榊原様」

「何です」

「まだ一行」

 薄い墨。

 ――六人目には、刀を持たせよ。

 全員が新之介を見る。

「私?」

 玄斎が言う。

「そなたしかおらぬだろう」

「なぜ刀を」

 水野が問う。

 松平宗一郎の顔から血の気が引いた。

「まずい」

「何が」

「左京は」

「最後に六人目へ」

「一人を斬らせるつもりだ」

「疑う者が」

「最後に斬れば」

「何が」

「見捨役そのものが」

 老人は震える声で言った。

「正しかったと証明できる」

 新之介は立ち上がった。

「なら」

「何だ」

「刀は持ちません」

 玄斎が即座に言う。

「いや」

「先生?」

「持て」

「なぜ」

「刀があるから斬るのではない」

「持っていて」

「斬らぬこともできる」

 新之介は玄斎を見る。

 小名木川。

 捨てた刀。

 まだ川底にあるかもしれない。

 玄斎は続けた。

「そなたが刀を捨てた時」

「必要がないから捨てた」

「今度は」

「持っていても」

「使わぬかどうか」

「そなた自身が決めろ」

 新之介は答えなかった。

 夜の小名木川。

 最初に誰かが誰かを捨てた場所。

 そこで。

 五人と。

 六人目を。

 誰かが待っている。

 そして今度の問いは。

 誰を斬るかではない。

 刀を持ったまま。

 人を捨てずにいられるか。

 その見分だった。

(第七十九章へ続く)

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