上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第七十七章

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第七十七章 将軍を終わらせる者

「徳川家を残すために」

 徳川家定は言った。

「徳川将軍を、私の代で終わらせます」

 誰も、すぐには声を出さなかった。

 家慶甲。

 家慶乙。

 二人とも同じ顔で。

 同じように息子を見ている。

 だが。

 その表情だけは、僅かに違った。

 甲には怒り。

 乙には戸惑い。

 新之介はそれを見た。

 どちらが父らしいか。

 そんな考えが頭をよぎり。

 すぐ捨てる。

 父らしさを証にしてはいけない。

「家定」

 甲が低く言った。

「今の言葉」

「はい」

「誰に吹き込まれた」

 家定は少し笑った。

「それです」

「何が」

「父上は、私が自分で考えたとは」

「最初から思わない」

「国の形を変える話だ!」

「だからです」

「お前一人で考えることではない!」

 新之介が口を開いた。

「それも危ない言い方です」

 甲が振り返る。

「榊原!」

「家定殿が一人で決めてよいとは申しません」

「ですが」

「一人では考えるな、も違う」

「何が」

「考えることと」

「決めることは別です」

 家定が新之介を見た。

「やはり、そなたは面白い」

「嬉しくありません」

「皆、そう申すのだろう」

 新之介は黙った。

 玄斎がいれば喜んだだろう。

 ◇

「まず確認します」

 清太郎が筆を取る。

「五人の名簿を作らせたのは」

「私です」

「家定殿本人が?」

「そうです」

「誰へ命じた」

「久松主膳」

 全員の視線が久松へ向く。

 久松の顔が険しくなる。

「私は」

「命じられていない」

 家定は彼を見る。

「書状を出した」

「受け取っていない」

「では」

「途中で誰かが」

 新之介が止める。

「まだ決めない」

 家定が頷く。

「そうですね」

「書状の内容を」

 清太郎が問う。

 家定は答えた。

「次代の政を、一人へ預けない仕組みを考えよ」

「それだけ?」

「もう一つ」

「見捨役を一人から複数へ分けよ」

 久松が立ち上がる。

「私はそんな命を受けていない!」

「なら、今の五人案は」

 家定が紙を見る。

「私の案を」

「誰かが変えた」

「どこが」

 新之介が問う。

「私は」

 家定は空白のなくなった名簿を指した。

「この五人を選んでいない」

「何」

 水野が声を上げる。

「先ほど」

「名簿を作らせたと」

「仕組みの原案です」

「人選ではない」

「では署名は」

「私の名を使ったのでしょう」

「筆跡は」

「似せられる」

「声も」

「同じです」

 家定は自分の右腕を見る。

「傷まで」

 新之介が問う。

「その傷は」

「自分でつけました」

「なぜ」

 家定は少し黙る。

「壁の声に言われたからではない」

「本当に」

「はい」

「では」

「私は」

 家定は傷へ触れた。

「痛みを知らぬ者が」

「人を捨てる話をする資格がない」

「そう思った」

 新之介の顔が厳しくなる。

「だから自分を傷つけた」

「はい」

「それで捨てられる側が分かりましたか」

 家定が止まる。

「……全部は」

「全部どころか」

 新之介は言う。

「そなたは傷をつける時を選べた」

「深さも」

「場所も」

「終わりも」

「はい」

「捨てられる側は」

「選べない」

 家定の顔から、若さとは違う何かが落ちた。

「では」

「私がしたことは」

「無意味ですか」

「いいえ」

 家定が顔を上げる。

「何」

「自分が分かっていなかったと」

「今、分かる材料にはなった」

 長い沈黙。

「厳しいですね」

「よく言われます」

 ◇

 家慶乙が口を開いた。

「家定」

「はい」

「将軍を終わらせるとは、具体的に何をする」

 家定は二人の父を見る。

「今の騒ぎで証明されたでしょう」

「何が」

「将軍一人へ国の命を集めれば」

「その一人を偽るだけで国を偽れる」

「それは」

 甲が言う。

「影武者と偽声を禁じれば」

「また別の方法が出ます」

「では将軍をなくせば」

「偽りがなくなると?」

「いいえ」

「なら何のためだ」

「一人を偽るだけで」

「全部が動く仕組みを終わらせる」

 新之介が少し目を細める。

「将軍という人を終わらせたいのではなく」

「将軍一人の命で全部が動く形を」

「はい」

「では『将軍を終わらせる』という言い方は」

「強すぎます」

 家定が認めた。

 阿部が驚く。

「認めるのですか」

「今、話して分かりました」

「なら」

「言い直します」

 家定は清太郎を見る。

「記録を」

「はい」

「私は」

「徳川将軍家を直ちに廃する、と決めたのではない」

「将軍一人へ集中した政務を」

「私の代で分けたい」

 清太郎が筆を走らせる。

「後から変えたと批判されます」

 家定が言う。

「構いません」

「なぜ変えたかも書いてください」

 新之介がわずかに笑った。

「何です」

「少しだけ」

「何が」

「こちら側に来ましたね」

「そちら側とは」

「分からないことを」

「分からないまま残す側です」

 家定は苦笑した。

「人気がなさそうですね」

「かなり」

 ◇

「だが」

 久松が低く言った。

「政はそれでは動かぬ」

「何が」

 家定が聞く。

「最後は誰かが決める」

「五人でも」

「十人でも」

「意見が割れれば」

「最後の一人が要る」

「なぜ」

「二対二なら」

「五人にする」

「二対三なら」

「多数で」

 久松が笑う。

「三人が間違っていたら」

「では一人なら間違わないのですか」

「責任を集中できる」

「責任を集中して」

 家定は久松を見る。

「妹御は戻りましたか」

 久松の表情が固まった。

 御座所が静まる。

「……何を」

「北国の飢饉」

「そなたが決められず」

「妹御を失った」

「それを理由に」

「一人で決める制度を信じた」

「何が悪い」

「一人へ責任を集めても」

「亡くなった人は戻らない」

「では責任はいらぬか!」

「必要です」

「ただ」

 家定は自分の傷を見た。

「責任と決定権を」

「同じ場所へ全部積む必要はない」

 久松が黙った。

 新之介が家定を見る。

 これは誰かに教えられた言葉か。

 それとも彼自身の考えか。

 どちらでもよい。

 今この場で。

 何をするかが先だ。

 ◇

「五人の候補」

 水野が紙を指す。

「半九郎」

「新三郎」

「榊原」

「私」

「家定公」

「家定殿が選んでいないなら」

「誰が選んだ」

 家定が答える。

「一つ心当たりがあります」

「誰」

「私の学問相手です」

「名を」

「岩瀬忠震」

 阿部が眉を上げる。

「岩瀬?」

「知っている?」

「目付方で名は知っている」

「今どこに」

「登城しているはず」

「本人と最後に会ったのは」

 家定が考える。

「三日前」

「何を話した」

「将軍が二人になった時」

「どちらへ従うべきか」

「三日前に?」

 新之介が問う。

「はい」

 空気が変わる。

「まだ二人の家慶が表へ出る前?」

「そうです」

 家慶甲が立ち上がる。

「なぜ、そのような話を!」

「岩瀬から聞かれた」

「何と答えた」

「どちらにも従わない」

「何」

「命令の中身を見る」

 新之介の目が細くなる。

「その言葉」

「誰から」

「自分で考えたつもりです」

「つもり」

「今では、どこかで聞いたかもしれないと思っています」

「正直でよい」

 甲が怒る。

「よくない!」

「父上」

「まだどちらか分かりません」

 乙が噴き出した。

 甲が睨む。

「笑うな」

「息子に言われると堪えるな」

「そなたも父かもしれぬのだぞ」

「だから笑っている」

 ◇

「岩瀬忠震は」

 新之介が問う。

「見捨役の存在を」

「知っていました」

「なぜ」

「久松殿から」

 久松が驚く。

「私から?」

「二年前」

「私は話していない」

「では」

「久松殿の名で書状が」

「またか」

 玄斎がいれば、確実に叫んでいただろう。

「その書状は残っていますか」

「あります」

「どこ」

「私の居間」

「誰かに取られていなければ」

「一人で取りに行かない」

「分かっています」

 家定が先に答える。

 新之介が少し黙る。

「慣れましたね」

「嬉しくありません」

「皆」

「言わなくてよいです」

 ◇

 家定の居間へ向かう。

 家定。

 新之介。

 清太郎。

 水野。

 神谷。

 さらに大奥側から御年寄一人。

「女まで?」

 水野が問う。

「家定殿の居間へ出入りした者を知っています」

 名は藤尾。

 六十に近い。

「私は文字までは」

「顔と時間だけで十分です」

「十分ではなく」

「一つの材料です」

 藤尾が頷く。

「聞いております」

「誰から」

「志乃という女から」

「いつ会ったのです」

「先ほど廊下で」

 新之介が一瞬止まる。

 志乃は再起館にいたはず。

「顔は」

「覚えています」

「以前に会ったことは」

「ありません」

「なら」

「志乃殿本人とは限りません」

 藤尾の顔が変わった。

「またですか」

「はい」

「城中、顔ばかり増える」

 水野が言う。

「こちらも慣れてきましたな」

 藤尾がため息をついた。

「嬉しくありません」

 新之介が言う。

「皆」

 水野と家定が同時に新之介を見る。

「やめます」

 ◇

 家定の居間。

 文箱。

 封は切られていない。

「家定殿」

「はい」

「最後に見た時」

「どこに」

「机の下」

「今は」

「同じ」

「位置も」

「少し左へ寄っています」

「誰か触った可能性」

「あります」

 六人で周囲を見る。

 清太郎が記す。

 文箱を開く。

 中。

 書状。

 差出人。

 ――久松主膳。

「私の印だ」

 久松をここへ連れてきた水野が言う。

「確認します」

 久松が遠くから見る。

「印は」

「似ている」

「本人のものか」

「分からぬ」

「文体は」

 新之介が読む。

 ――世継ぎ家定公へ。

 ――御家は一人にて保つものにあらず。

 久松の顔が変わる。

「私ではない」

「なぜ」

「私はそんなことを書かぬ」

「続き」

 ――将軍にもし二つの顔ある時。

 ――顔を選ばず、命を見よ。

 新之介が家定を見る。

「三日前の話と同じ」

「はい」

「さらに」

 ――見捨役にも、また見捨役を見分ける者を置くべし。

 久松が立ち上がる。

「知らん!」

「落ち着いて」

「私の名で」

「私の役を壊す文だぞ!」

「だからこそ」

 新之介が言う。

「そなたの名を使った意味がある」

「何」

「家定殿に」

「久松殿自身が見捨役を疑い始めたと思わせる」

 家定の顔が青くなる。

「私は」

「信じました」

「それで五人案を」

「考え始めた」

「はい」

 ◇

「つまり」

 水野が整理する。

「誰かが久松の名を使い」

「家定公に、見捨役を複数へ分ける考えを与えた」

「家定公自身も考えを広げた」

「そして」

「別の誰か、あるいは同じ者が」

「五人の候補を選び」

「痛みを与え」

「誰が最も早く一人を捨てるかを見る試験へ変えた」

「そう見えます」

 新之介が答える。

「だが目的が分からぬ」

「見捨役を壊したいのか」

「新しい見捨役を作りたいのか」

「両方かもしれません」

「何」

「古い一人制を壊す」

「その後」

「さらに強い制度を作る」

「善意で?」

「善意かもしれない」

 家定が呟く。

「そこが怖い」

 新之介が家定を見る。

「なぜ」

「私も」

「一人へ国を預けるのは危ないと思った」

「はい」

「だから五人ならよいと」

「思いかけた」

「はい」

「でも五人にしても」

「人を捨てる考えをそのまま残せば」

「何も変わらない」

「その通りです」

 家定は傷のある腕を握った。

「私は」

「また形だけを変えようとしたのですね」

「まだ変えていません」

「何」

「考えただけです」

「考えたことまで罪にしないでください」

 家定が少し笑った。

「そなたは」

「厳しいのか優しいのか分からない」

「よく言われません」

 ◇

 書状の最後。

 署名。

 久松主膳。

 だが。

 清太郎が紙を横から見る。

「榊原様」

「何です」

「紙が二重です」

 誰も触らず。

 灯りへ。

 裏から透かす。

 久松の署名の下。

 消された文字。

 ――御影宗伯。

 久松の表情が変わる。

「宗伯?」

「その下にも」

 さらに。

 小さい字。

 ――写。

「写し?」

「原本ではない」

「誰が写した」

 書状を少し傾ける。

 紙の端。

 細い印。

 円の中に一本の縦線。

 久松が息を呑む。

「見覚えが?」

「ある」

「何の印」

「松平左京だ」

 死んだ前任見捨役。

「個人印?」

「違う」

「では」

「見捨役が」

「自分の名を出せぬ文書へ使った印」

「なら」

 新之介が問う。

「松平左京本人が書いた?」

「そんなはずはない」

「死んだ時期は」

「二十三年前」

「遺体確認は」

 久松が黙る。

 水野が天井を見た。

「聞くまでもない顔だな」

「誰が見た」

「私と」

「沢渡」

 全員が沈黙した。

 新之介が言った。

「沢渡殿の死亡確認が絡んだ人」

「何人目ですかね」

 清太郎が小さく言う。

「後で数えます」

「数えなくてよい!」

 久松が怒鳴った。

 ◇

「松平左京は」

 新之介が問う。

「どんな人物でした」

 久松はしばらく答えない。

「迷わない男だった?」

「違う」

「では」

「誰より迷う男だった」

 新之介の目が動いた。

「見捨役なのに」

「ああ」

「毎回」

「何を捨てるか決めた後」

「必ず自分で現場へ行った」

「なぜ」

「捨てたものを見るため」

「人なら」

「家族にも会った」

「何と」

「謝った」

「それで許されると?」

「本人も思っていなかった」

「ではなぜ」

「忘れないためだ」

 久松の声が低くなる。

「私へ申した」

「何と」

「『見捨役が一番恐れるべきは』」

「『間違うことではない』」

「『捨てた者を数字で覚え始めることだ』」

 新之介は始帳を思い出した。

 米。

 数字。

 名。

 腹。

「なら」

「松平左京は」

「今の久松殿とは」

「違う」

 久松の顔が歪んだ。

「私も最初は」

「現場へ行った」

「いつから行かなくなった」

 久松が答えられない。

「妹御を失ってから?」

「……逆だ」

「何」

「妹を失う前は」

「私は机上で決めていた」

「その後」

「現場へ行くようになった」

「では」

「いつ」

「十年前」

「何が」

「一人の男を捨てた」

「名を」

 久松は唇を噛む。

「榊兵庫」

 新之介の顔が変わった。

「兵庫殿を?」

「死んでいません」

「捨てるとは」

「罪を被せた」

「何の」

「密貿易」

「本当は」

「幕府側が命じていた」

「誰が」

「私だ」

 ◇

「十年前」

 久松が続ける。

「異国の武器と海図を調べるため」

「兵庫へ密かに動かせた」

「露見した」

「誰かを処分しなければ」

「御城内まで責任が来る」

「それで」

「兵庫一人へ」

「罪を寄せた」

「本人の了承は」

「……あった」

 新之介が即座に問う。

「どんな聞き方を」

 久松が止まる。

「『そなたが被れば、家中は助かる』」

「それだけ?」

「『断れば、関係者全員を調べる』」

 家定が目を伏せた。

「それは選びではない」

「……ああ」

「今なら分かる」

 新之介が問う。

「その後、兵庫殿へ会った?」

「一度も」

「なぜ」

 久松は拳を握った。

「会えなかった」

「怖くて?」

「……ああ」

 玄十郎と同じ。

 罪を背負った者が。

 相手の顔から逃げる。

「そこから」

 久松は続ける。

「私は現場へ行かなくなった」

「逆では」

 新之介が言う。

「現場を見れば」

「決められなくなるから」

「そうだ」

「だから」

「迷わない自分を作った」

「沢渡が」

「迷いは病だと」

「都合がよかった」

 沢渡の言葉を。

 久松が自分の逃げ道にした。

 ◇

「松平左京が生きている可能性」

 水野が問う。

「あるか」

「分からぬ」

「生きていれば年は」

「八十を超える」

「宗伯より若い?」

「少し」

「居場所の心当たり」

 久松が考える。

「一つだけ」

「どこ」

「再起館」

 新之介の顔が変わった。

「なぜ」

「再起館ができる前」

「そこは旧米蔵だった」

「始帳の地下路がある」

「ああ」

「左京は」

「始帳を最初に隠した者の一人だ」

「なら」

「宗太郎が斬られた場所」

「同じです」

 家定が言う。

「今」

「半九郎殿たちが向かっている」

 新之介が立つ。

「使いを」

「待て」

 久松が言った。

「まだある」

「何です」

「もし左京が生きているなら」

「何を」

「真崎半九郎を」

「見捨役にする理由がある」

「何です」

 久松は答えた。

「左京は」

「玄十郎を嫌っていた」

「なぜ」

「十六人を救ったからではない」

「半九郎の名を使ったから?」

「それもある」

「では」

「自分と同じだったからだ」

「何が」

「左京も」

 久松は苦しそうに言った。

「自分の息子を」

「一度」

「捨てた」

 御座所が静まり返る。

「息子の名は」

 新之介が問う。

 久松が答える。

「松平宗一郎」

 鷹見宗一郎。

 御影宗一。

 似た名が多い。

 だが。

 今度は。

「本人は」

「死んだと聞いた」

「誰が確認」

 久松が目を閉じる。

「沢渡だ」

 水野が呻いた。

「もう驚かぬぞ」

 ◇

「松平宗一郎は」

 新之介が問う。

「何をされた」

「十二歳の時」

「見捨役の判断で」

「ある村を捨てた」

「その村に?」

「いた」

「なぜ」

「左京自身が」

「見捨役は自分の身内も例外にしないと」

「証明するため」

 家定の顔が歪んだ。

「それは」

「責任ではない」

「何です」

「見世物です」

 久松は頷いた。

「左京本人も後にそう申した」

「息子は」

「死んだと」

「思われた」

「また」

 清太郎が呟く。

「生きていた可能性が」

「ある」

「もし」

 新之介が言う。

「その息子が生きていたなら」

「今、六十ほど」

「はい」

「名を変えていれば」

 久松が新之介を見る。

「誰にでもなれる」

 その時。

 廊下を駆ける音。

「榊原殿!」

「再起館から第二報!」

「何が!」

「宗太郎殿を斬った」

「真崎半九郎を名乗る男が!」

 一呼吸。

「自分の本名を申しました!」

「名は!」

 新之介が叫ぶ。

 使者は紙を見る。

「松平宗一郎!」

 御座所の空気が。

 完全に止まった。

 久松は立つことすらできない。

「生きていた」

 家定が呟く。

 だが使者は首を振った。

「違います!」

「何が」

「男は三十ほどです!」

「六十ではない?」

「はい!」

 新之介が目を閉じる。

「では」

「また名前を継いだ」

 久松が言う。

「松平宗一郎という名まで」

「役になった?」

「おそらく」

「決めない」

 新之介は即座に言う。

「本人へ聞きます」

 ◇

「まだ伝言があります!」

 使者が続ける。

「その男から榊原殿へ!」

「何と」

「『私を作ったのは松平左京ではない』」

「では誰」

「『松平宗一郎本人だ』」

 新之介の目が鋭くなる。

「生きている?」

「伝言は続きます!」

「『本物の松平宗一郎は』」

 使者が一度息を吸う。

「『今、再起館にいる』」

「誰として」

「そこが」

「申せ!」

「御影宗太郎殿です!」

 誰も動かなかった。

 御影宗伯の息子。

 最初の鷹見静山。

 黒川玄斎の師の一人。

 宗一の父。

 そう語ってきた老人。

 御影宗太郎。

 その男が。

 松平左京の息子。

 捨てられた少年。

 松平宗一郎だという。

 久松が首を振る。

「あり得ぬ」

「年齢は」

「合う」

「だが御影宗伯の息子だと」

「誰が確かめた」

 新之介が問う。

 久松は答えられない。

 家慶甲が低く言う。

「宗伯本人が」

「父だと認めた?」

「……聞いていない」

 玄斎なら。

 間違いなく怒鳴る。

 新之介は静かに言った。

「また」

「関係まで名だけで信じていた」

 ◇

 使者が最後の紙を出した。

「御影宗太郎殿本人からも」

「意識がある?」

「はい!」

「何と」

 清太郎が受け取る。

 短い。

 震えた筆。

 ――玄斎へ。

 ――すまぬ。

 ――私は御影宗伯の実子ではない。

 新之介は息を吐いた。

 さらに。

 ――御影宗太郎という名は。

 ――私が十七の時に受け取った。

 ――その前の名を。

 ――今日まで捨てたつもりでいた。

 玄斎は今ここにいない。

 だが。

 この紙を読めば。

 きっと杖を振り上げる。

 最後の行。

 ――生まれた名。

 ――松平宗一郎。

 家定が呟いた。

「では」

「捨てられた子どもが」

「御影になった」

 新之介は首を振る。

「それだけではありません」

「何」

「捨てられた側にいた人が」

「人を記録し」

「名を渡し」

「役を作る側へ行った」

「そして今」

 清太郎が言う。

「その人を」

「同じ名を持つ若者が斬った」

「はい」

 世代。

 役。

 復讐。

 継承。

 誰かが。

 同じ傷を。

 次へ渡している。

 新之介は立ち上がった。

「再起館へ戻ります」

「松平宗一郎を見分るため?」

 家定が問う。

「違います」

「では」

「なぜ」

「捨てられた者が」

「なぜ次の誰かを捨てる側へ回ったのか」

 新之介は答えた。

「そこを聞きます」

 そして。

 再起館から来た使者が。

 もう一言だけ。

 震えながら付け加えた。

「榊原殿」

「まだあるのですか」

「はい」

「宗太郎殿――」

「いえ」

「松平宗一郎殿が」

「最後に申しました」

「何と」

 使者は新之介を見る。

「『榊原新之介を急がせるな』」

「『急がせれば』」

「『あの男も見捨役になる』」

 新之介は何も答えなかった。

 急げば。

 早く決めれば。

 迷いを捨てれば。

 自分もまた。

 久松と同じ場所へ立つ。

 だから。

 今こそ。

 急ぐべき時ほど。

 急がせる者を。

 見なければならなかった。

(第七十八章へ続く)

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